改訂疎外論再考ノート
 

追論 疎外論とネオ・ヒューマニズム 

やすい ゆたか
Copyright (C) 2009 Yutaka Yasui. All rights reserved.

          目次
   
   前編 何故いま疎外論か
   後編 疎外論の再構築
   追論 疎外論とネオ・ヒューマニズム(新稿)
   付編 『資本論』と疎外論(未完)

                         はじめに 疎外論の復権

 競争をしかけて学力あげよとて学区広げて教育荒廃               


佐々木:ところでやすいさん、『季報唯物論研究』で疎外論特集を田畑稔さんとご一緒に編集されるそうですね。その一環として八月末に信貴山の合宿でシンポジウムを行われるそうですね。

やすい:ええ、なかなか議論が煮詰まらないので困っています。

佐々木:やすいさんは「ネオヒューマニズムと疎外論」という形で、21世紀の思想であるネオヒューマニズムと疎外論をどう結びつけるのですか。

やすい:現在それを思索中なのですが、なにしろ試験採点中で困っています。今年は千人分の答案に眼を通さなければならないので大変です。この書き込みもできないぐらいです。

佐々木:『人間論の大冒険』というファンタジーを「倫理学入門」で教材にされたので、物珍しがられて集まってきたらしいですね。

やすい:そういう学生もいますね。でも中身は難しい人間論の議論で閉口している諸君もいるようですが。人数が多すぎて、去年のように各講義の終了前十分間でコメントを書かせそれを点検して毎時間返却するというようなこまめなコミュニけーションができないので、どれだけ教育的効果があったか覚束ない面はありますね。

佐々木:それも疎外論的にみれば、これまでの倫理学の通史的な授業では、たんなる知識の整理で終わってしまい、生きたそれぞれの生き方や捉え方にならなかったのが、ファンタジーで登場人物の抱え込んだ問題として突きつけられていると、ある意味では、倫理が自分の生き方への問いかけとして捉えやすくなりますね。これは今までは知識として疎外されていたのが、ファンタジー化で主体に取り戻そうという疎外の克服の試みでもあるわけでしょう。

やすい:それでたくさん受講生がくると今度はコミュニケーションが取れなくなって、かえって疎外されてしまうということです。

佐々木:そういうようにごく身近のいろんな問題が疎外論で扱えるわけで、今更「疎外論の復権」という必要もなく、疎外論は既に復権しているのではないですか。

やすい:それはある意味正しい分析ですね。労働市場を流動化させ、非正規雇用を増やして利潤を上げようとするために、『蟹工船』がベストセラーになるほど「労働の疎外」が深刻化しています。また環境問題も深刻度を深めていますが、これもいわば人間が産業活動や生活活動を無秩序かつ杜撰に行っているからで、自分の首を絞めている自己疎外として捉える人が多いようです。

佐々木:教育で学力低下が問題になって、学力テストの結果を公表して競争をさかんにすれば学力が向上するという安直な考えでやりますと、学力テスト用学習になってしまって、かえって知識詰め込みで役に立たない学力ばかりついて、本当の学力がつかないという疎外が起こります。学校格差をつけすぎたり、能力別編成でかえって学力を低下させてきたというのが現実ですね、教育でも自己疎外論が有効なのです。

やすい:ええ、ただ問題は、疎外だと指摘して終わりでは疎外論にならないわけで、疎外に陥る構造を解明して、どうれば疎外にならないか、その改良の余地はどこまであり、限界はどうかを解明することです。

生産物からの疎外とネオヒューマニズム

  人間を生産物まで広げても疎外の議論は霧散せざるや            

佐々木:その上にやすいさんの場合は「ネオヒューマニズム」の視点からの疎外論の解明ですね。「ネオヒューマニズム」では人間が作り出した生産物も人間に含めるということですから、人間の作り出した生産物が人間のものにならずに、人間を圧迫するという疎外論にはならないのではないかという疑問が、ネオヒューマニズムに詳しくない人からは生じると思いますが、その点はどうでしょう。

やすい:いや、それは誤解がありますね。生産物からの疎外は、作り出した人から作られた物が自立して、作った人を圧迫してくる場合に言われるわけです。つまり、作られた物が作った人に属さなくても、作られた物が人間に含まれるといえる場合もあるわけですから、ネオヒューマニズムが自己疎外を論じてもおかしくないのです。 

佐々木:生産物が作った人の物にならなくても、他の人の物になっても人間に含まれるということですか。 

やすい:いや、生産物が人間に含まれるということを、誰か人格的主体に所有されることだと捉える必要はありません。人間に含まれるということと、人間に所有されるということはまた別問題です。

佐々木:それなら結局、労働者が自分が作り出した生産物から疎外されるわけですから、ネオヒューマニズム的に生産物を人間に含めて捉える事に何か積極的な意味があるのですか。 

やすい:それはありますね。生産物が原理的に非人間的な事物で、生産主体が主体的な人格でしかないという図式にとらわれていますと、原理的に生産物を自己自身として捉え返すことができません。それに対して、生産物を自己の非有機的身体として捉え返せるならば、他者的な疎外された関係は非本来的な関係だということができるでしょうから、疎外からの回復が見通せるわけです。

佐々木:疎外論を唱えたマルクスが「非有機的身体」という言葉を遣ったわけでしょう。やすいさんはマルクスは現代ヒューマニズムの元祖だと見ておられて、生産物を人間に含めるのをフェティシズム(物神崇拝)として拒否していると大上段からマルクス批判をされているのではなかったのですか。 

、 機械は価値を生むことができるか

 労働の塊こそが価値ならば人ならぬ物価値生むべきや          

やすい:ええ、『資本論』のマルクスは、フェティシズム論を方法論にして価格が価値(抽象的人間労働のガレルテ)から乖離する「労働からの疎外」を展開したわけです。つまり価値関係はあくまで労働の関係なのに、物と物の関係に置き換えられて現れるというフェティシズムによって隠蔽されてしまっているという議論を展開したのです。その際に、人間は労働者でしかなく機械や原材料や製品ではないだろう。しかし市場経済では貨幣の魔法にかけられて、あたかも生産物が価値であり、生産過程では生産手段も価値を生んでいるかに捉えられる、だから労働価値が隠蔽されて、ブルジョワ経済学者は、土地の地代、資本の利潤が正当化され、搾取の原理が見えなくなってしまっているとしたわけです。 

佐々木:つまりマルクスは価値を生むのは労働者の労働だけで 、生産手段ではないことを強調するために、生産手段も価値を生んでいるように見える現象を説明するのに、生産手段は人間ではないから価値を生んでいるように見えるのは倒錯なんだと説明したというわけですね。 

やすい:具体的には「価値移転論」と「特別剰余価値の生産」を論じる際に、その論理が使われます。まず「価値移転論」というのは、労働者は一時間の労働で一時間分の価値を生産物に与えるわけですが、その際に機械や原材料に含まれていた価値も生産物に移転させるというわけです。普通なら、機械は機械として稼動して、減価償却分だけの価値を生産物に与え、原材料も自分の価値分だけ使用されることで対象化したと見なされるところですが、そのように説明しますと、機械や原材料も労働して、価値を生んだことになってしまうので、あえて労働者の労働が機械や原材料の価値を移転したことにしたわけです。 

佐々木:つまりマルクスは価値は人間労働の凝固だから、機械や原材料が価値を生んだとしたら、機械や原材料も人間労働をしたことになり、人間としてみとめたことになってしまう、それは人間と事物を混同するとんでもない倒錯だということですね。しかし、機械や原材料には主体的な意識がないわけですから、労働したといえるでしょうか。 

やすい:それ以前に価値が労働者の労働量に比例するというのは、労働市場が自由で労働者が自由に移動できることを前提に考えています。同様に生産手段も減価償却分だけ生産物に価値を対象化できなければ困りますね、個々の事例は変動あるにしても法則的には機械も減価償却分だけの価値を生むことは前提です。 

佐々木:問題は機械が労働という主体的な行為をできるかということではないのですか。それがマルクスの言いたいところでしょう。機械はいくら便利に出来ていても労働者が動かしている生産手段に過ぎない、機械は動かされているのであって、働いているのではないということでしょう。 

やすい:ただ機械制大工業になりますと、工程が細分化されて単純作業の繰り返しになります。個々の労働現場での作業は極めて機械的になります。スイッチさえ入れれば機械が行える作業と大差ないわけですね。むしろ機械の方が難しい複雑な工程をこなしたりするのです。

 機械に置き換えるかどうかはただコスト的に安くつくかどうかでしか判断されないのです。何をどのように作るのかということを個々の労働者が主体的に意識していなくても、命じれた作業をこなしていればそれで労働になっているわけです。

 それに対して機械には原材料にどのように作用して、どのような製品にするかの工程が仕組まれています。その意味で機械は大変意識的な存在だといえるわけです。それで機械制大工場では生産の主役は機械に取って代わられ、労働者は機械の補助役でしかなくなっているわけです。

佐々木:それでマルクスは労働は機械でなくて人間がしているのだと敢えて言いたいわけでしょう。 

やすい:ええ、そうですね。特別剰余価値の生産というのは、生産性が飛躍的に向上する新鋭機械を導入した場合に、安く大量に製品が作れるようになるので、今までと労働者の労働の複雑度や強度は変わらないのに、これまでの何倍も剰余価値を生産できたとします。するとその価値はだれが生み出したかという問題なのです。 

佐々木:もちろんその新鋭機械の働きなので新鋭機械が特別剰余価値を生み出したとみなされそうですが、マルクスはそれでは我慢できないのでしょう。 

やすい:ええ、価値は労働者の労働が生み出すというのが定義的にあるのです。そうでないと機械が人間労働をしたことになる、それは倒錯だということですね。機械が人間でないという定義に固執すればそうならざるをえないわけです。だからマルクスは新鋭機械の導入によって同じ複雑度・強度のままで数倍、数十倍に強められた労働者の労働が特別剰余価値を生産したという議論をしているわけです。 

佐々木:それでやすいさんは、機械も含めて人間労働をしているというように解釈しようということですね。 

やすい:ええ、その通りです。生産というのは人間の営みだけれど、そこにかかわっているのは、身体的な労働者だけではなくて巨大な企業の機構があり、生産設備があり、原材料がつぎ込まれているわけです。そういうスケールで人間を捉え返さなければならないわけで、そこから価値が生産物に含まれるメカニズムも解明すべきなのです。そうしますと人間は、個々の労働者だけではなく企業や生産機構、生産手段も含めて捉え返されることになります。 

佐々木:そういうアプローチだと労働者が資本家に搾取されているという資本の本質的な認識がぼけてしまいませんか。 

やすい:そこに焦点を合わせるあまりに、生産や流通や消費や自然の循環の中で、労働者が搾取され窮乏化しているという現実の認識がかえってゆがんで捉えられてしまっていると思います。ですから労働者が一方的に窮乏化し、資本主義が遠からず破綻するというようにしか捉えられなかった。資本主義のダイナミックな発展の可能性を展開することができなかったわけです。

 

三、 若きマルクスのネオヒューマニズム

 花を見て我は花なり大地こそ我が身なりけり若きマルクス

佐々木:『資本論』のマルクスは人と物の区別に固執したわけですが、『経済学・哲学手稿』のマルクスは逆に自然を人間の非有機的身体と捉えていますね。これは自然も人間に含めるネオヒューマニズムですか、むしろ人間を自然存在として、自然の一部として捉える自然主義(ナチュラリズム)ではないのですか。

やすい:「貫徹されたヒューマニズムは貫徹されたナチュラリズムであり、貫徹されたナチュラリズムは貫徹されたヒューマニズムである」というのが若きマルクスの立場です。これはフォイエルバッハの感性の立場に立って、身体と自然の感性的な関わりを人間として捉えているわけですね。 フォイエルバッハは「人間とは、人間が食べるところのものである」と言ったそうです。つまりパンや野菜や肉が、小麦畑や菜園や牧場が人間だということです。ですから人間の身体はそれ自身自然ですし、自然は人間の感性としては 人間の非有機的身体だということです。 

佐々木:それならやすいさんの言うネオヒューマニズムそのものではないですか。ということは、ネオヒューマニズムは何も新しい思潮じゃないということですか。 

やすい:なかなか手厳しい指摘ですね。現代ヒューマニズムが人と物の抽象的な区別に固執して、物の支配からの脱却を掲げ、抽象的な主体性の回復を叫んで空振りばかりしているので、人と物の区別を止揚し、物も含めて人間と捉え返すネオヒューマニズムを対置したわけです。その意味では、20世紀の現代ヒューマニズムの閉塞を打破しようとする21世紀の思潮ではあるのですが、自然やコスモスも含めて人間を捉え返すという発想自体は古代から、神話の世界から存在しましたし、いろんな哲学の中にもそういう発想は含まれているわけです。 

佐々木:カント哲学も理性の認識できる範囲を意識現象に限ることによって、感覚を素材に現象界を構成したわけです。つまり自然界やコスモスは人間の意識に他ならないという意味で「思惟と存在の同一」の哲学が展開されたわけですね。特にフィヒテ以降は「物自体」という二元論の尻尾を切ってしまって、事物は人間の思惟だということがより明確になったわけです。これもある意味では自然も含めて人間を捉えるネオヒューマニズムですね。 

やすい:ええ、そうですね。でもかなり誤解が生じたのじゃないでしょうか。つまりデカルト的な反映論の認識論で主観の意識に客観の事物を解消する議論のように受け止められてしまった。あるいはこれはヘーゲルにも責任がある かもしれませんが、理性に感覚を止揚する議論でしかないように受け止められてしまったわけです。元々はドイツ観念論は対象的事物を感覚から高度な思考を含めた意識によって構成する わけですね、だからそのことによって世界を人間の意識に獲得する議論であったわけです。 

佐々木:つまりこうですか、デカルトは自己を頭の中の意識活動として捉えて、それが客観的な事物世界と一致するかどうかを問題にしました。それなら世界つまり自然と意識つまり人間は二元的に対立しているわけです。ところがドイツ観念論は、身体の外にある世界を身体の生理的感覚や思惟活動によって構成し直しました。それによって身体の外の事物は身体の感性機能によって構成された意識であるわけです。ヘーゲル的に表現すれば他在にあって自己の許にあるということでしょう。結局事物は人間の意識に他ならないということで、世界を精神の自己展開として展開できたということですね。 

やすい:ええ、ドイツ観念論でいう思惟というのは決して頭の中に納まっているのではなくて、身体の外部に出て行って、事物として感覚を統合するわけです。つまり木だとか空だとか星とかが意識で構成されている事物なわけですね。存在と思惟が同一ということはそういうことです。ですから事物は人間の感覚から高度な思考までの統合として身体の外部に存在しているわけです。対象的な事物とされてきたものは身体の外に焦点をむすんで、統合されている意識のことだということですね。つまり唯物論者が事物と呼んでいるものが思惟であるわけです。 

佐々木:ではフォイエルバッハや若きマルクスは、ドイツ観念論をどのように乗り越えて、彼らなりのネオヒューマニズムを構築できたのですか。 

やすい:彼らはヘーゲルを理性主義として批判して、感性を理性に還元するヘーゲルの自己疎外論を叩いたわけです。ヘーゲルにおいては確かに感性は理性によって止揚されています。そして自然は精神に、歴史は絶対精神に止揚されています。しかしだからといって、具体的自然は精神の中に雲散霧消するわけではないし、絶対精神の中で、世界史が幻と成るわけではないのです。

佐々木:ところが絶対精神を主体においてその疎外と還帰として哲学体系ができあがってしまうと、感性的なもの、具体的なものは、理性的なもの、抽象的なものに回収されてしまうように受け止められたのですね。あたかも絶対精神である神のためにすべてが支配され、そのための存在でしかないように見えますね。

やすい:そうなるとまだ二元論的に延長的実体として自然を認めていたデカルトのほうがましで、ヘーゲルこそ観念論の極致だということになります。絶対精神こそ実は人間が人間同士で共同したり、自然との感性的な対象関係の中で生産したり、消費したり、共生したり、循環したりする類的本質の疎外に他ならないので、そういう感性的な人間の類的本質こそ尊ばれるべきだということですね。

佐々木:ということは、フォイエルバッハ、マルクスのヘーゲル解釈は、ドイツ観念論の積極的意義を捉えきれないで、理性主義的な面ばかりにとらわれすぎているということになりますね。でもそのことによって自然を人間の感性として捉え返す人間的自然の立場、つまり人間の非有機的身体としての自然の立場を確立できたわけで、ネオヒューマニズムがより鮮明なったといえますね。ところでマルクスはフォイエルバッハのどういうところが不十分だと感じていたのですか。

やすい:絶対精神を人間の類的本質の自己疎外として捉え返したところは共鳴したわけですが、あるいは理性に対する感性の立場を強調したのはいいのですが、宗教に対する批判が、現実社会への批判に行かなかったところが物足りなく感じたわけです。人間の類的本質といえば第一に労働ですが、労働している労働者こそが、自分が生産した生産物から疎外されているわけですね。だから「疎外された労働」こそ問題にされなければならない。それでマルクスは国民経済学の指し示している現実から出発して、労働の疎外を取り上げたわけです。

佐々木:理性から感性へと立場を降ろすことで、受苦的な現実が見えてきて、実践的になるように思われるのですが、マルクスから見れば、フォイエルバッハは神学的な議論に拘って、実際の労働者の受苦を解決しようとはしない。それならあれこれと見方を変えて、解釈ばかりしてきた哲学の限界の中にある。あるいは物事を客観的に冷静に科学してきた既成の唯物論と同じだという批判ですね。

やすい:1845年の『フォイエルバッハ・テーゼ』では、そういう批判を打ち出していますね。

これまであったあらゆる唯物論、それにはフォイエルバッハのものも含まれます。その主要な欠点は、対象(事物)や現実や感性が客体あるいは直観という形式のもとでしか捉えられていなかったことです。つまり感性的人間的活動、すなわち実践として、主体的には捉えられていないということです。」

佐々木:ただし、1884年の『経済学・哲学手稿』と1845年の『フォイエルバッハ・テーゼ』の間には、疎外論から唯物史観へ関心が移っていて、そこに大きな思想的転換があったという解釈もあり、いわゆる「切断問題」といわれて大論争になっているようですが。

やすい:後期の経済学批判の時期に「疎外」概念が復活していまして、その内容を検討しますと、やはり1884年の『経済学・哲学手稿』の疎外論を継承していることは明白ですので、問題関心の領域が疎外論から唯物史観へ関心が移ったために「疎外」という用語を使用しなかっただけで、経済学的な現実を批判するとなるとやはり「疎外」用語を使っているということなのです。

佐々木:ネオヒューマニズムとの関連でみますと、対象(事物)や現実や感性を実践として主体的に捉えるということは、対象や現実を自己自身として捉え返しているわけですから、これこそネオヒューマニズムだと言えますね。

やすい:ええ、その通りです。それにどうして対象を実践として主体的に捉え返せないかという理由を考えますと、対象が疎遠なものとして主体に対峙しているからでしょう。

、 事物も含めて人間だということへの疑問

 飼い猫が飼い主に似るままあれど猫を人とはいわざるものを

佐々木:なるほど『フォイエルバッハ・テーゼ』だって、疎外論が前提になっているとも解釈できるということですね。ただ主体の実践として対象を捉え返すということと、事物も含めて人間だということが同じ意味になるというのは、ネオヒューマニズム的な独特の解釈のような気もしますが。

やすい:対象(Gegenstand)というのは主体に対して立っているということなので、辞書でも「事物」という訳が最初に来ています。人間は、身体の外に見える様々な事物や現実を自分自身の状況や自分の姿として捉えずに、自分とは別物であるかのように捉えています。でも自分の身体だけが自分ではなくて、自分の置かれている状況や自分が使っている物や、関わっている人や事物が自分を構成しているという場合が多々あるわけですね。それらを自分自身として捉えなければ真に主体的に生きることはできないのです。

佐々木:なるほど、でもそれはなかなか難しいですね。たとえば教師にとって生徒は自分とは他人ですが、教師として関わっている限り、生徒が授業中に熱心に学習しているか、おしゃべりしたり、トランプしたり、紙飛行機を飛ばしているかは教師自身の教育実践の問題だということですね。

やすい:全く難しい問題です。もちろん教師と生徒、親と子だって一応別人格ですから、相手の問題を自己自身の問題として全て背負い込むなんてできません、当然、冷静に、客観的に他者として了解して、突き放す必要もあるわけですね。

 でもそういう他人事で済ますわけには行かないというのも、教育や家庭の問題としてあるわけですよね。まあこれは環境問題における人間自然関係でもいえることでしょう。我々は地球環境を自己自身として捉えろといわれても、いちいちかまってられないわけですが、これだけ環境危機が深刻化してきますと、やはり自分の身体だけが自分で自然は自分ではないというわけにはいきません。地球環境全体の意識としての自覚が求められるわけです。

佐々木:そうはいいましても、飼い猫は飼い主に似ることはありましても、飼い猫は猫であって、人ではありませんし、ラーメン屋さんが作ったラーメンはラーメンであって、ラーメン屋ではないだろうと普通思いますよね。それをいっしょくたにするのは納得いかないという人は多いようですね。

やすい:それはもっともな疑問です。学生が素朴に寄せる疑問はそれが一番多いですね。生物学的な区別で言えば、人と猫は哺乳類の中の異なる種です。その意味で猫が人にならないというのは当然です。ラーメン屋さんは人の職業であって、ラーメンは麺料理の一種ですね。だからラーメンがラーメン屋であることはありません。

佐々木:マルクスの人間の非有機的身体としての自然についてですが、たとえば衣食住や道具類、装飾品、交通機関、建物、道路、田畑、森林、河川、海洋などもマルクスに言わせれば人間の身体に含まれますね。非有機的ということは手足のように器官として身体に含まれているわけではないけれど、人間の生命活動にとって切り離されないという意味で人間の身体だということですね。これらも人間を身体に限定していれば、身体の外に身体ではないものとしてあるのだから、身体ではありえないことになりますね。

やすい:そうなんです。マルクスが言うとそうかと思う人がいて、私が言うとそんな馬鹿なという反応をする人が多いですね。でも逆に、マルクスが人間の身体に含めているものも、人間に属しているだけで人間ではないという人がいます。パンは人間の食物だけれど人間ではない。だから非有機的身体でも人間ではないのだというわけですね。そりゃあその通りですが、それは人間という言葉の意味が違っているわけです。人間的自然、人間の非有機的身体に属していれば人間を構成しているという意味で、人間的存在であり、人間に含まれると考えてもいいわけです。

佐々木:パースが「人間とは記号であり、記号は事物の知的性質である」といったそうですが、そういう、「タオルが身体についた水分をふき取る布であるという意味で人間だ」というような言い方はあまり理解されないようですね。それは要するに、人間とは、自己意識や感情を持つ生命体だという固定観念がいかに強固かということです。

やすい:だからそういう意味では人間ではないということを認めないわけではありません。しかし身体だけで人間は完結していないでしょう、衣服や洗面具なども含めて人間が始めて理解できるわけで、それらの総体を人間と名づけることも必要なわけです。

佐々木:ですからその場合の人間は、人格とか意識主体という意味での人間ではなくて、人間存在を構成している事物の存在性格ですね。この材木が机であるとか、布がカーテンであるとか、という形で人間存在を構成しているので、人間という事物のカテゴリーに分類しようということですね。
 

やすい:ええ、その上でタオルであったものを雑巾にしてしまうと、タオルとしては本来の姿を否定されたことになり、事物の疎外だということですね。

佐々木:貝と貝殻という例は分りやすいですね。貝殻は貝の身体ではないけれど、貝殻を含めて初めて貝として認知されるということでしょう。貝の中身より貝殻の方が貝の特色がよく現れているわけですね。ですからどの範囲まで人間に含めるかは、問われている問題によって違ってくるというのが、ネオヒューマニズムの立場ですね。
 

                  五、 人間的自然の疎外論

 白米がうまいからとて食いすぎりゃ脚気になってお陀仏するぞ

やすい:ヘーゲルの労働外化論では、労働によって人間は事物になると捉えられています。作られた事物つまり生産物は、元々本質づけられています。サルトル流にいえば「ペーパーナイフの比喩」ですね。ペーパーナイフとして作られたのだから、ペーパーナイフなのだということです。だからヘーゲルはこのペーパーナイフが人間だというわけですね。

佐々木:それは自由な主体としては、自分をペーパーナイフに限定するのは、とんでもない疎外ですね。だから自分はペーパーナイフでしかないものではないと、ペーパーナイフを自己の他者にして、つまり外化=譲渡(エントオイセルンク)するわけですね。そしてさまざまな物と取替えることによって、自由な主体であることを証明しようとする。

やすい:それはさておき、ともかくヘーゲルでは生産物は人間の事物化であり、事物として社会関係が取り結ばれるということです。ドイツ観念論では「存在と思惟は同一」ですから、事物になっているから思惟でなくなるということはありません。人間の思惟も感覚から高度な思考までも含んだものであり、それで事物を構成しているわけです。ですから事物も人間の思惟の自己展開に含まれているわけで、ネオヒューマニズムなのです。だからこそ、発展的な思惟にとっては、特定の事物に固定されることには耐えられないので、それを他者に譲渡することになるわけです。

佐々木:そういう発展的な労働主体にとっては、生産は自己実現であると共に、自己限定であり、疎外として乗り越えるべき現実です。本来の自己を理想的なものとして捉えていますと、思い通りならないもの、本質が十分に実現できていないものは、疎外されたものとして捨てられる、廃棄されることになりますね。疎外論を批判する人々は、疎外論を本来的な有るべき姿のもの以外は、排斥する論理だとして、ポルポト派の論理だと非難していますね。

やすい:疎外論は、決してイデオロギー闘争の論理ではありません。 主体が生み出した生産物や提供したサービスや、組織、機構、そして作り出した観念や理論などが、主体の意図とは離れて、自立的に発展して、それによって主体が抑圧されたり、圧迫や被害を受ける事態を疎外と名づけているわけです。決して自分たちの正しいと信じる理論に従わない人たちを、間違っているとして抹殺するような疎外概念の使い方をした疎外論者はいないわけです。ポルポト派が疎外論を唱えていたというようなことは一切ありません。

佐々木:おそらく廣松渉が、疎外論は疎外されない世界や、疎外されない労働、疎外されない人間がゾレン(当為)、つまり有るべき姿としてあって、そこからずれている疎外された世界、疎外された労働、疎外された人間を批判して、疎外されない状態に戻そうとする論理だと特徴づけたのを継承しているつもりなのでしょう。

やすい:人間の類的本質や事物の本質はあるわけでして、それがなんらかの障害によって十分発揮できない疎外された状態になることはよくあります。そういう場合に、疎外状態と闘って、疎外から人間性や事物の本来の姿を取り戻そうとすることは大切なことです。ポルポト派は農本主義的共同体だけの国家を作ろうとした為に、都市住民や知識人の抹殺を図ったわけで、都市住民や知識人が疎外されていたとして抹殺したわけではありません。

 ちなみにマルクスが唱えたのは、革命によって労働者階級だけの共同体を形成しようとしたわけですが、そのことによって資本家階級も搾取して生きているというゆがんだ人間性の疎外状態から救い出そうとしたのですから、ヒューマニズム的な疎外論です。資本家階級を皆殺しにするなんて事は考えていません。

佐々木:おそらく「フォイエルバッハ・テーゼ」の「アンサンブル規定」からきているのでしょう。人間の本質は個人に内在するのではなくて、社会的諸関係の総和(アンサンブル)だということで、労働とか思惟とかを本質として、その本質に相応しいかどうかを人間の基準と考えるのはマルクスの発想ではないということでしょうね。あるべき本質的な人間という捉え方を克服して、現実的に社会的諸関係から人間を捉えるべきだというのが、廣松シューレの疎外論批判だったように思います。

やすい:確かにマルクスは次のように言っています。「フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消します。しかし、人間的本質は個々の個人に内住する抽象物ではないのです。現実には、それは社会的な諸関係の総和(アンサンブル)なのです。」しかし本質は、言語にしても、思考にしても、労働にしても関係規定でして、個人に内住する抽象的規定でありません。決して人間は言語や労働や思考という本質などもっていないというようなことを言っているのではな いのです。ただ現実的には、本質は社会的諸関係の総和から、歴史的社会的に諸個人が置かれている立場に即して論じられるべきだと言っている訳です。

佐々木:ということは喉が荒れて言語が使えなくなったり、手が怪我をして働けなくなったり、老化してぼけてきたりしたら、本質的能力の喪失で、疎外状態だということですか。

やすい:身体的人間としてはそういう疾病も疎外状態ですね。ただ人間的自然の疎外がマルクスが取り上げた疎外です。つまり人間が作り出した生産物や社会機構、人間が手を加えた自然環境が人間にとって疎遠になって、人間を圧迫したり、サバイバル危機が発生しているというのが人間の自己疎外なのです。

佐々木:「生産物から疎外」のように生産物が労働者の手から離れて、労働者に敵対してくるという場合、生産物自体は正常な状態でも、それが資本家の支配下にあったりすることで、敵対してくるわけですが、環境の場合は自然が破壊されることで疎外が生じるわけですね。

やすい:乗用車は快適な乗り物として発展しましたが、それが普及しすぎて道路を埋めるようになると、渋滞して、交通地獄を惹き起こします。また道路が整備されると自然が分断さりれ破壊されます。道路が整備されて便利になると、自動車が増えて、大気汚染、温暖化、オゾン層破壊などが拡大します。自分で自分の首を絞めているという意味で自己疎外ですね。

佐々木:それが人間的自然の疎外とかネオヒューマニズムの疎外という視点からはどうなるのですか。

やすい:元々は人間的自然ですから、人間の手の延長としての非有機的身体のはずです。ところが現実には、人間の身体を傷つけたり、健康を害したり、破滅においやる脅威になりつつあるわけです。人間の他者として、人間に敵対し、人間を滅ぼそうとさえしているわけですね。これは本来の人間環境や人間の生産物であることからの疎外であるわけです。水源としての川が汚染されると、毒の川になってしまいます。

佐々木:そうしますと、人間的自然を人間環境として捉えますと、環境を構成している自然的事物や社会的事物が、変質して環境に悪影響を与えたり、本来の人間環境としての役割をスポイルされたりするのが、人間的自然の疎外であり、ネオヒューマニズムでは特にそういう疎外に注目しているわけですね。

やすい:ネオヒューマニズムは、人間の範囲を広げているわけですから、諸個人が自分たちで生み出したものによって疎外される事態だけでなく、広い意味での人間である人間的自然を構成している諸事物に即して、それらが本質的なの機能を果たせなくなったり、マイナス作用を発揮してしまう事態も、事物の疎外として問題にします。

 例えば白米は、美味しいお米としてつくられたのですが、つい白米ばかり食べてしまって脚気でたくさん死ぬという事態を惹き起こしましたね。それは事物の疎外です。もっともビタミンの知識が分って、野菜や豚肉などの副食に気をつければよいことがわかりましたが。 私は最近玄米食に変えました。玄米の方が美味しいと感じるようになりましたね。

佐々木:元々有害な覚せい剤や麻薬なども事物の疎外なのですか。

やすい:そういうものも微量なら薬品として使用しているわけですが、常用して依存症状に陥らせて、人格や心身を破壊する毒物になっているわけでしょう。大部分は最初から麻薬としてつくっているので、元々いいものが疎外されて悪いものになるという事物の疎外ではないですね。もちろんそういうものを営利の為に作っている人々は、人格的疎外に陥っているわけですが。

 

、 何故ネオヒューマニズムか

 何故に車も核もひっくるめ人と論じて惑わせしむや

佐々木:『資本論』のマルクスを含め、現代ヒューマニズムは、人間が物とされ、商品として取り扱われることを非人間化だと批判していますね。ところがやすいさんは物や商品を含めて人間なので、物や商品として扱われるのは必ずしも物化とはいえないということですか。

やすい:現代ヒューマニズムでは、人間と物を対極に置きます。人間は人格存在だから、物にはなりえないし、商品とは成りえないわけです。つまり人間が物となること、商品になることは人間の 本性の喪失であり、疎外であるということです。労働力の商品化や労働を通して商品に価値を付与して、人間の労働関係を商品の価値関係にか置き換えるのも人間を物に頽落させることになってしまいます。

佐々木:やすいさんのネオヒューマニズムでは、むしろ人間は機械であり、生産物であり、商品なのだから、そこに人間性の喪失としての疎外はないことになりますね。

やすい:でも、疎外というのは、生産物が労働者に疎遠になって敵対してきたりすれば生産物の疎外ですから、商品生産や商品関係にはどうしてもそういう面はあるので、物や商品を人間に含めたからと言って疎外論が適用できなくなるわけではないのです。

佐々木:そうしたら疎外論としては現代ヒューマニズムとネオヒューマニズムの違いが明確にならないのではないですか。

やすい:現代ヒューマニズムでは、物や商品は人間ではないのに人間関係を取り結ぶという倒錯に陥って、そのことによって人間関係は物の関係、商品の関係になってしまう。人間が物にとって代わられて、物に支配されてしまうというのが疎外です。それで価値は本来は労働の関係なのに、商品自身の属性であるかになってしまって、労働時間から乖離した生産価格が価値に取って代わられる。これが経済学の「労働からの疎外」です。

佐々木:要するに資本家と労働者だけでなく、生産物や生産手段などの経済的な諸関係も包括して人間として捉える経済学をやすいさんはネオヒューマニズムの経済学として構想されておられるわけで、そこから見るとマルクスは生産手段や生産物を人間としないという観点に拘ったために余計な議論が入って、価値論としてもずれてしまっているということでしょう。

 ただ、物も含めて人間というのなら、疎外論においては、疎外される主体とか、自己疎外の主体とかがメインの問題だと思いますが、物も含めた場合人格的主体が成り立つのかという疑問が素朴に起こりますね。

やすい:その疑問はもっともですね。事物でも人間的自然を構成している環境的自然や社会的諸事物には、それぞれに本質的な諸性質や諸機能がありまして、その本質が顕現できない状況におかれている事物は疎外されているといえます。そしてそのような事物が自己の働きによってかえって本質喪失や機能不全に陥っている場合に自己疎外と言えます。乗用車などは利便性が高い為にかえって、交通渋滞を惹き起こしてしまうのも自己疎外ですね。

佐々木:核兵器で国防をしようとすると、かえって標的になって危険だとか言う場合も自己疎外ですか。

やすい:核兵器というのはせっかく広島・長崎で威力が実証されたのに、その数万倍も強力なものをつくっても、その能力を発揮できないのですから、核兵器に即して考えますと、事物の疎外に陥っているわけです。

佐々木:もっともそれで我々は助かっているのですね。キューバ危機のときに第三次世界大戦になっていたら、我々は生存していませんよ。

やすい:核兵器についてはいろいろ議論されてきたわけですね。戦うのはあくまで人間だから兵器が悪いわけではないとして、戦争勢力が持つ核兵器は平和を脅かすけれど、平和勢力が持つ核兵器は平和を守っているのだという議論です。

 しかし、核兵器が出現すれば、それを独占することによって覇権をにぎろうとするわけで、超大国は核独占体制をとり、核拡散を防止しようとします。それに対抗して、覇権国から脅威を受けている中小国も核を保有することで、独立や主権を守り、周辺国への覇権をにぎろうとします。結局核技術の発達して、核兵器が低廉化、小型化しますと、超大国の覇権が崩れ、全般的な危機に陥る危険性があります。

佐々木:つまり核兵器は人類の文明を崩壊させ、人類のサバイバル危機をもたらす最終兵器であるというのが本性ですから、製造・保有・使用を悪として、国際条約で全面的に廃棄すべきだということでしょう。ネオヒューマニズムでいうと核兵器は人間が敵対する国家や勢力を皆殺しにしてでも勝ち残りたいという意志の事物化されたもので、国家としての人間の非有機的身体ですね。

やすい:ええ、そういう意味で人間を構成しているわけです。でもいったん出来上がりますと巨大な原子力産業や軍事産業を伴っていますから、巨大な利権を伴っていますので、そう簡単には廃棄できません。でも既に核保有のメリットは あまりなくなってきています。かえって核拡散や核に変わる最終兵器によって、覇権国の優位が消滅しつつあるので、核全面禁止に動き出さざるをえなくなってきているわけです。核兵器は人類の存続への否定の意志です。そうであることによって、逆に核兵器は自己の廃絶に向かわせる意志でもある矛盾した存在です。

佐々木:それは核兵器の意志というより、核兵器に関する諸個人の意志とか国家の意志ではないのですか。

やすい:ええ、そうともいえますね、意志といえば個人的な人格に固有のもので、事物には意志がないというのが、大前提みたいにあったと思いますが、その個人というのは身体に限定されるでしょうか、身体からだけ意志が出て来るのではないのです。

 覚醒剤を手にしたら意識は変わるといいますね。もちろん私ならこりゃあ大変だとすぐに警察に届けるでしょうが、中にはちょっと試してみたいと思って、嵌ってしまう人もいます。太らないし、ハイになって次々非凡な発想が浮かんできて、原稿なんか飛ぶように書けるそうですよ。まだ若い知人でものすごく多作な人がいますが、どうもその秘密は覚醒剤にありということらしいです、本人に聞いた話ですよ。本当か嘘か分りませんが。

佐々木:「社会的諸関係のアンサンブル」としてマルクスは人間を捉え返したわけですが、覚醒剤や核兵器だって人間の意識を形成するわけですね。その場合に核兵器についての意識を、やすいさんは敢えて核兵器の意識だといわれるわけですね、核兵器についての個人の意識を。

やすい:もちろんそれが意識である限り、個人が意識するわけですが、それが「社会的諸関係のアンサンブル」として捉えられている場合は、その身体は単なる有機的な身体だけでなく、社会的な身体、非有機的身体も含むわけです。身体から意識が生じるわけですが、その場合の身体は非有機的身体、人間的自然のことですから、核兵器の意識だというわけです。

佐々木:核兵器についての意識だということは納得ですが、核兵器の意識といわれると戸惑いますね。

やすい:ドイツ観念論的にいえば、意識は意識された存在であり、存在と思惟は同一なわけでしょう。事物について意識しているときには、その事物が意識を生み出しているわけです。

佐々木:だから、意識しているのは私であって、意識されている対象ではないでしょうという話ですよ。

やすい:ええ、そのことを言っているわけです。意識している私を意識されている対象と別個の存在としてあると思い込みがちですね。意識している以上、意識している我の存在は絶対確実だとデカルトは考えたわけです。その意識内容は、私の意識する活動が生み出した私の意識だというわけです。花を見ている意識は頭の中にあるというように捉えています。これをひっくり返したのが「事物は感覚の連鎖」だとしたバークリーであり、構成説を唱えたカントですね。

佐々木:感覚が意識内容を構成している限り、それは主観の働きだから、主観の意識であり、対象の意識とは言えないのではないですか。

やすい:先に主観があって、それが対象に出会って対象を写し取るという図式でだけ捉えてはいけません。あくまで経験があって、その反省から主観・客観が成り立つという面もあります。主観が対象を意識すると言うことは、対象が主観に働きかけて意識を構成させるというようにも捉えるべきなのです。つまり対象が主観の意識を生んでいるわけですから、対象の意識なのです。「ものののあはれ」「もののこころ」と本居宣長は言いますね。

佐々木:ということは核兵器は私に人類的危機を意識させ、核廃絶とか、軍備全廃の叫びを起させますが、核兵器は平和を願っているということになりますね。

やすい:それは弁証法的な捉え方ですね。 核兵器にはいろんな意志があります。大量の敵を絶滅させてやろうという意志もあれば、核攻撃をかけようとしている敵に、そんなことをすれば共倒れだという脅かしをかけようとする核抑止の意志も持っているわけです。戦争への意志と平和への意志を併せ持っている矛盾した存在です。それを持っているのが善玉ならよい核兵器みたいに言うのは間違いです。

佐々木:やすいさんが核兵器の意志という場合は、核兵器を持っている人や国家の意志と一体ですよね。核兵器という事物自体が感覚から高度な思考まで含めた思惟によって構成されている意識であるというように人間の意識に還元されているのですから、当然、核兵器をめぐる様々な意識をともなうわけで、その中にいろんな意志も含むということでしょう。そうなるとやはり核兵器と人間の区別がなくなって、疎外論にならないと言うように批判されるのではないでしょうか。

やすい:それは人間が核兵器という非人間的な兵器を作り出して、核兵器によってサバイバル危機を招いているから自己疎外だという論理ですね。もちろんそういう議論を否定するのではないのです。現代ヒューマニズム的な人と機械の対置、人と物の対置も有効だと認めたうえで、そこに止まって抽象的に、非人間的な機械や物質文明、核兵器などをなくしてしまえではすまないのじゃないかということです。

佐々木:つまり乗用車が普及して自然破壊、温暖化などの深刻な環境危機を惹き起こしている、じゃあ乗用車なんかなくしてしまえとはいかない。我々人間の生活が乗用車あっての生活になっていて、乗用車が人間の心臓みたいになっているから、心臓を切除するわけにはいかないんだということですね。つまり乗用車を含めた人間という現実を踏まえて、どう環境危機に立ち向かうか考えなければならない。

やすい:元々乗用車みたいなものはなかったのですから、乗用車がなくなってもサバイバルできないとは限りません。でも現実には乗用車を含めて人間生活が成り立っているのですから、その現実を踏まえて改革していかなければ前に進みません。

 核兵器なんか最悪ですから、すぐになくせばいいのですが、解体技術とか廃棄技術とか、査察技術の問題が立ちはだかって米ソが和解したにも関わらず、簡単には核軍縮がすすまなかったわけです。それにイスラム過激派の国際テロの脅威もあって、核抑止力が再評価されて、核軍縮に消極的な空気になってしまったということもありますね。つまり核保有というのが現実の勢力関係を作っていて、その枠をなかなか放棄できないということです。

佐々木:核が国家の身体になっているということでしょう。だから身を削るような苦しみを伴わないと核軍縮は出来ないかもしれない。そういう核兵器を国家の身体として作り出した疎外を解明する場合に、ネオヒューマニズムは、核兵器や機械を単純に人間ではないとする現代ヒューマニズムより説得力があるのではないかとおっしゃりたいのですか。

やすい:全くその通りです。そういう視点も持たなくてはいけないといいたいですね。現代ヒューマニズムでは、主体が作り出した物が、主体に対して疎遠に抑圧的にふるまうのを疎外としました。その場合作り出した機械や製品や人工環境は人間にとって他者とみなされ、 人間の他者である物に人が支配されているという形で受け止められたわけです。人間関係である組織や社会機構も、諸個人からコントロールが利かなくなったので、物化、物象化されて、物に支配されているという感覚になったわけですね。そういう疎外に対して、個人が主体性を回復して対抗しようというのが実存主義ですから、絶望的な闘いにならざるを得ないわけです。

佐々木:でも、ネオヒューマニズムも物を人間に含めれば、疎外が解決するわけではないわけで、そういう解釈の変更で何とかなると考えたらかえって、解釈次第で何とかなるみたいにいうエセ哲学者になってしまうのではないでしょうか。

やすい:全くその通りですね。その意味では、「肝心なことは解釈することではなく、変革することである」という金言は忘れてはいけません。 その上でやはり、対象も含めて人間と捉えること、マルクスの言い方では、実践として捉え返すことは必要です。 また社会的諸事物や環境的自然も含めて人間を捉え返すことで、経済循環や自然との共生と循環を人間のあり方として捉え返すことができます。

佐々木:たしかに個人の人格やその主体性にだけ、焦点を合わせて人間を捉えていますと、疎外の問題も、各個人の狭い関心に絞られてしまって、経済現象や文明衝突や環境問題などで具体的に疎外が問題になっているのに、それに対応できないかもしれませんね。その意味で問題ごとに人間概念を柔軟に組替え、身体的個人的な疎外だけでなく、事物に即した疎外も人間疎外に包摂しようというネオヒューマニズムの疎外論も検討に値するかもしれませんね。

  七、組織や国家も人間か

 人として国や企業もありしなら疎外の苦しみまとはざりしか

やすい:そろそろ議論を切り上げないといけないのですが、まだ組織や国家を人間に含める議論を展開できていません。

佐々木:ホッブズは『リヴァイアサン』で国家を『旧約聖書』の地上最大の怪獣リヴァイアサンと捉えました。怪獣と言いますと中生代の恐竜を連想しますが、ホッブズは国家を巨大な人工機械人間として捉えていたわけです。つまり国家も生きた一人の人間であると捉えたのです。その国家を構成しているのが人民ですが、一人一人の人民は欲望で動く機械人間だということです。ですから国家は諸個人を部品にする巨大な機械システムでもあるわけですね。

やすい:それと同様の論理で企業や組合や自治体や教会や政党なども生きた人間として捉えられることになります。つまり個々の個人が人間であるだけでなく、組織体も生きた人間であるわけです。

佐々木:国家や企業も人間だという場合、ただ人間が集まって組織を作っているから人間だというわけですか。

やすい:いやそうではなくて、意思決定機関があって、組織の自己保存を図って活動しているから人間だということですね。 つまりホッブズの人間定義が、意志決定中枢を持ち自己保存を図る存在ということなのでしょう。それを適用すれば個々の身体的個人だけでなく、国家も主権者という意志決定機関があり、国家全体を身体にして、自己保存を図っているので人間なのだということです。

佐々木:ホッブズの「国家は人工機械人間」だという表現は本気なのか比喩なのかが問題で、比ゆに決まっていると受け止められてきたようですが。

やすい:いや、比喩ではないですね。もしそれが比喩なら、国家を構成しているのは無数の人民なのですが、その一人一人の個人の身体は自動機械だとされているわけです。欲望で動く自動機械ですから、私は欲望機械と呼んでいますが、この欲望機械論も比喩だということになりますが、これは比喩とはいえません。だってそれはデカルトの動物機械論から由来しているわけですから。

佐々木:つまり動物の身体は精巧な自動機械だというのがデカルトの動物機械論でしょう。ところが人間だけが言葉を自由に操ることができる、自動機械がどんなに発達しても機械が自由に話せるようになるとは考えられないから、きっと神が予め別誂えの人間用の魂を作って動物機械に置き入れたに違いないというのが、デカルトの心身二元論ですね。

やすい:ホッブズはベーコンの秘書だったので、実験観察の結果確かめられたものだけを根拠にしなければ成らないと考えていたわけですね。デカルトが考えるような魂の置き入れにつきましては、実験や観察が一切できないわけですから、そういう延長を持たない魂なるものを認めるわけにはいかなかったのです。

佐々木:そこで薄れ行くメモリィであるイマジネーションが無数にあって、これらが動き回って心の内容になっていると考えたわけですね。そして音声のイマジネーションが他のイマジネーションの記号となることによって言語が発生したとしたわけです。つまり心の内容をイマジネーションという微粒子で説明したわけですね。

やすい:そのように身体機械の機能として魂を説明したわけですから、デカルトの動物機械論を人間にまで適用しているわけです。これは比喩ではないので、欲望機械が部品として構成している巨大な人工機械人間である国家も比喩ではありえないはずです。というか、比喩なら比喩だと断るはずですね。比喩だと決め付けているのは現代人の勝手な解釈なのです。それにホッブズの国家が生きた人間であるという説は国家法人説に、国家も生き物だという説は国家有機体説になって継承されています。

佐々木:そういえばカントは、国家を人格的存在として捉える立場に立っていますね。国家も個人同様、人格であるべきで、他の国家をたんなる手段としてしか見ないで他国の利権を貪り、他国を侵略するような国家を批判しています。つまり他国を人格として尊重し、信頼しあうべきだとしているわけです。 それで国際平和機構を創設して、常備軍を撤廃し、恒久平和を目指すべきだと説いています。

やすい:「かのように」という論理がありまして、国家をあたかも人間であるかのように、組織を人格を持つかのようにみなしているという解釈もありますが、それはそう解釈している人の人間定義が、人間を生物種として捉えている生物学的定義に拘っているからに過ぎません。

佐々木:とはいいましても、人間には死があり、有限性を自覚するから、働いたり、勉強したり、恋をしたり、結婚したりするわけで、死がなければ人間としての生もないのではないでしょうか。

やすい:個人の死と企業や国家の死とはかなり違いますが、不死の企業や国家もありません。存続し続ける為にはそれなりの必死の努力が必要です。企業や国家も有限性を自覚するがゆえに、今日の栄華を求めるということはあるのではないでしょうか。

佐々木:なるほどでは国家や企業も人間なら、どういう形で疎外や自己疎外が生じるのですか。普通は国家や企業によって国民や構成員が疎外されるわけですが、国家や企業自身も疎外されるのでしょうか。

やすい:それは国家や企業が自らの営みで、自己自身をスポイルするような場合は明らかに自己疎外ですね。日本の近代の歩みは、欧米列強によってアジア各国が植民地化されていくのをみて、富国強兵によって国家の主権を確立し、欧米列強にならって東アジアに覇権を確立しようとしたわけです。そのことによって日本は列強の仲間入りをするまでに発展したのですが、東アジア人民の粘り強い抵抗に遭い、米英とも戦わざるを得なくなり、未曾有の戦争の惨禍を招いて敗戦しました。それは自分で自分の首を絞めるような自己疎外であったわけです。

佐々木:資本主義企業は、利潤をあげるために賃金を切り詰めようとします。しかし資本主義が発達して、労働者の割合が大きくなりますと、彼らは低賃金に抑えられているために国民全体の購買力が低下してしまいます。当然企業の売り上げも頭打ちになります。これも資本主義企業が自己の本性によって利潤を追求するあまり、売り上げが伸びずに、業績が悪化するという企業の自己疎外に陥っているわけですね。

やすい:組織体がある目的や本質をもって発足し、当初はその目的を実現し、本質的な働きをしていたけれど、やがて組織体がさまざまな事情で変質して、本来の目的に添わなくなり、本質的機能を果たせなくなってしまう場合もあります。そういう場合も本質を喪失しているという意味で疎外に陥っているわけです。

佐々木:例えば病院が地域住民の健康を守り、医療を提供するために設立されたにもかかわらず、採算を優先して、薬漬けにしてかえってその副作用で健康を害したり、不必要な手術をして寿命を縮めたりすると、そういう病院は疎外に陥っているわけですね。

やすい:イリイチという思想家が、「歯を磨いたら虫歯になる。病院に行ったら、病気になる。学校に通ったら馬鹿になる」と言ったそうですが、なかなか鋭い文明批評です。最近日本では学力低下が深刻化していますが、小学生の時に解けた分数の計算問題が中学生になってから解けなくなったり、中学校の時にはできていた英語の問題が高校生になって間違えたりすることがあり、「学校に通ったら馬鹿になる」をまさしく地で行っていることがあるのです。これではもはや学校は教育機関ではなくなっているという、学校の疎外が深刻化しているわけですね。

佐々木:しかしそういうことは、別に学校や病院や企業などの組織体が人間であるというネオヒューマニズム的人間論に立たなくても言える事ではないのですか。

やすい:人間というと主体をイメージする場合が多いのです。組織体が主体として登場することは、組織体が人間でなければ倒錯として捉えられがちです。国家や企業も組織体である限り、構成員である国民や社員のために存在すべきで、国家や企業自体が国民や社員を犠牲にして発展や生き残りを図るのは本末転倒みたいに言われます。あるいは国家は階級支配の道具や機関であるとされたり、存在するのは国民や国土や統治機関であって、国家自体は幻想だという幻想国家論すらあります。そういう性格が特定の視角からは窺えるのは否定できませんが、逆に国家が抗いがたい強制力で、日々の生活を規制し、生命の犠牲すら要求するものであることは厳然たる事実ですね。

佐々木:国家を一個の有機的全体であり、しかも意志を持つ主体である人間と認めてしまいますと、全体主義的国家観になってしまうのではないかと危惧されますね。

やすい:実際、ホッブズの狙いは主権の絶対性の強調にありましたからね。ただし、国家が個々の国民とは別に意志と巨大な機構を持って存在することは前提にして、対処せざるを得ないわけで、簡単に個々の国民の都合で改廃できませんし、個々の国民と国家の利害調整も簡単にはいきません。国民としては自己の利害との乖離や対立が大きくなった、国民から疎外された国家を改革しなければならないのです。その場合に、国家が一人の人間としていろんな心身ともに病状を抱えていることが多いのです。

佐々木:戦後は殆ど国家間の戦争がなくなったのに、膨大な軍事支出を続けていますね。それに公共事業主導の経済成長のために官僚機構が肥大化し、関連の特殊法人へのばらまきで財政の無駄遣いが膨らんで、重税国家になった割には、福祉国家は夢のまた夢になってしまっていますね。これは政治が官僚主導で行われたからで、政治家が主導すればこんなことにはならなかったといいますが、二世、三世のぼんくら政治家では国家の舵取りはなかなかうまくいかないでしょう。

やすい:ええ、一口に無駄遣いというけれど、公共事業でも箱物でも、いろんな特殊法人でも、国家の身体化して、それで暮らしが立っている人がゾロゾロいたりしますから、改革するにも、そこで権益を失ったり、暮らしが立たなくなる人にどう手当てするのか、行政的な調整が難しくて、なかなか動けないでいるうちにうやむやになったりするわけですね。相手は国家という生きた人間だから、それを切開手術するとなると大変だということです。最大の無駄は自衛隊だと思うけれど、それを災害救助隊や国土建設隊、グローバルな環境保全隊などに再編するとなると、かなりのパニックになるでしょう。それを覚悟の上で命がけで大改革をしなければならないわけです。その意味からも国家を手ごわい生きた人間だと了解しておく必要があるのではないでしょうか。

佐々木:企業などは創業者一族の支配する企業も多くて、企業自身が独立した1個の人格を持つ主体だとは実感できない人も多いかもしれません。でも最近は法人資本主義といって、企業を所有し支配しているのは、株主でも取締役でもなくて、企業自身であるといわれるようになっています。

やすい:たしかにペーパーカンパニーというのもありますからね。全く実体のない企業だって、書類上はあって、法的には人格があるかのように装っている場合もありますから、騙されないようにしなければなりません。でも中にはトヨタを筆頭にして中小の国家規模を上回るような経済規模を持つ企業があります。

佐々木:企業もそこまで大企業化しますと不死身になりますね。だって本当につぶれてしまったら、国民経済に計り知れないダメージになりますから、GMという世界最大規模の自動車メーカーが破綻しましたが、アメリカ政府が公的資金を投入して一時的に国有化してまで再建にあたっています。

やすい:市場経済の原則から言えば、経営破たんすればつぶれないと公正とはいえません。そういう企業を遺していけば、経済全体が不効率になり、国際競争力にも影響しますね。でもやはり規模が大きすぎると、政府の責任で国際競争力のある企業に再建するしかなくなります。その意味では、企業の独立性もあやしげなところがあって、本当は国家と大企業は究極では一体ということも言えるかもしれませんね。極論すれば、本音は国家資本主義、国有という意味で俗に いう「社会主義」みたいなところもありますね。もちろん労働者に実質的権限を一切認めていないので本物の社会主義ではありませんが。

佐々木:組織体が人間だという議論に戻しますが、組織を立ち上げた段階で既に人間だといえますか、個々のメンバーの思惑や、それに基づく勝手な行動に左右されなくなって、組織体が自分の意志を確立して構成員をそれに基づいて規制できるようにならないと、組織が生きた人間とまでは言えないような気がしますね。

やすい:組織を運営するというのは確かに難しいですね。創業者や発起人の人柄やつながりに依存していて、中心的人物が抜けると続かなくなるような組織は、独立した人格を持った人間とはとても言えないでしょうね。研究会でも中心メンバーとのつながりだけで持っている場合が多くて、そういう場合は、まだまだ組織体は自立した生命体とまではいえませんね。組織体が確固とした人間として生きていけるようになるには、中心メンバーも含めて、組織体の存続、発展に必要かどうか組織自身が判断して、配置できるような主体性を発揮できるようになる必要がありますね。

佐々木:そこで組織体に構成員が疎外されるという意味での旧来の「組織による疎外」ではなくて、組織体自身の疎外ですが、一つは組織体の変質によって実質を失うこと、病気になる病院とか、馬鹿になる学校ですね。くつろげない家庭なども疎外でしょうね。あるいは快適すぎる刑務所も問題かもしれません。

やすい:グラムシは組織体フェティシズムを論じていますが、大学という看板がかかっていて、大学卒業資格がもらえたら大学なのかということです。大学教育が行われて初めて大学なのですが、経済学部で経済数学を教えるのに方程式が解けなければ無理なので、ニューヨーク市立大学では先ず中学一年生にならった方程式の学習からやり直すわけです。それだけ低学力の学生が多かったのです。その話を高校生の頃知りまして、アメリカの教育は荒廃しているなと思ったのですが、最近の日本の大学では、四則計算から教え直すようなことを試みている大学もあるようですね。もちろん大学でそれを教えてもいいのですが、なかなか大学教育以前のことに追われて、大学教育が十分でなくなっているようですね。

佐々木:学力だけで成績をつけるととても合格点をやれないので、出席や提出物で加点する人も多いでしょう。開始のベルがなる直前に入って、出席入力してベルが鳴り終わったらぞろぞろ出て行く学生もいますね。卒業免状だけもらうために進学してくる学生も多いようですね。でもそういう組織体フェティシズムに陥った組織体でも、生きた主体として機能している限り、簡単には解体できないということでしょう。組織体を人間だと認めてしまうとそれこそ人権を主張することになりやっかいなことになってしまうでしょう。

やすい:ええ、組織体も人間だとしますと、生きている以上、多くの産業や企業やそこで働く人々と関連していて、支え合っていますので、名実一致しないからと言って簡単には解体できません。疎外を指摘し、批判すればそれで問題解決ではないわけで、名実が一致する方向に変革させなければならないのです。

佐々木:実際組織体もさまざまな形で、自己保存、存続の権利を主張しますし、法的人格を盾に行政からの保護や権益を獲得しようとしますね。個人の基本的人権の他に、組織体の権利についてもはっきりさせなければならないでしょうね。

やすい:だって我々は個人としては実際は無力で、法的な保護もたいして受けられませんし、税負担も過重です。でも組織体をうまく使っていけば、負担軽減になる場合も多々あります。これからはNPOなどを作ったり、ワーカーズコレクティブで起業したりすることも生活防衛につながるわけです。組織体の生存権や活動権などの基本的権利を確立することも重要です。

佐々木:それだけに組織体が本来の趣旨から変質して疎外に陥った場合に、どのように行政や法律が規制するか、疎外に伴って公共の福祉に反するようになった場合に、その取締りや強制的な処分をどうするかも考えておくべきです。

やすい:そういう時に、組織体を単なる媒体や道具ぐらいに考えて、処理されがちですが、それを生きた人間だという視点で捉え返した場合どういう議論になるのかということですね。ネオヒューマニズムでは、組織体も人間だという捉え方をして、いろんな組織体を積極的に作ってその可能性を試していくことを課題として提起しているわけです。
 

 



  Index