改訂疎外論再考ノート

付編.『資本論』と疎外論
やすい ゆたか
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          目次
   
   前編 何故いま疎外論か
   後編 疎外論の再構築
   追論 疎外論とネオ・ヒューマニズム(新稿)
   付編 『資本論』と疎外論(未完)


      一、『資本論』における疎外論の役割          

 後期マルクスとも呼ばれる経済学批判期に「疎外」概念はほとんど使われなくなり、キーワードとしての重要性が無くなったという疎外論払拭説は、『資本論』に対する決定的な誤解に基づいている。もちろん『資本論』自身は資本制生産様式の法則的な認識を目指すものであって、労働者の疎外状態を告発することを目的としたものではない。したがっ て生々しい労働日をめぐる闘争を論じた箇所でも、「疎外」という用語を使わずに済ませている。では一体どのような意味で使用されたのか。

 経済学批判期には計49回使用されている。『グルントリッセ』11回、『メア・ヴェルト』25回、『ダス・キャピタル』13回である。その内訳は次のとおりである。Gは『グルントリッセ』、Mは『メア・ヴェルト』、Kは『ダス・キャピタル』を示す。

 (1)労働から疎外された客観的実在(としての資本)     G1、M10、K2   13

 (2)同一性(統一性)の破壊・分裂・対立としての疎外   G1、M6、K5   12

 (3)本質からの乖離としての疎外                       G2、M4、K2   計8回

 (4)疎外としての対象化                               G2、M1、K1   計4回

 (5)生産物からの疎外                                 G2、M1、K1   計4回

 (6)労働における疎外(疎外された労働)               G0、M1、K2   計3回

 (7)自己の本質or社会的関連の物象化としての疎外       G1、M2、K0    計3

 (8)人間間相互の疎外                                 G2、M0、K0    計2

 (1)(2)(3)(4)は物神性の原因で、この用法が経済学批判期における疎外論の特色となっている。これはマルクスが疎外論を脱却して物象化論・物神性論に移ったのではなく、物象化論・物神性論が疎外論の新展開であることを示している。(5)(6)(7)(8)は『経済学・哲学手稿』の四つの疎外と同じ用法で、疎外論の新展開が若きマルクスとの思想的断絶を意味しないことを示している。


                 二、商品の物神性論と疎外論

  物神性については既に『経済学・哲学手稿』「第三手稿」の「私有財産と労働」および 「貨幣」で論じられている。商品物神性論の原型としては「私有財産と労働」の物神性論に注目すべきである。マルクスはそこでアダム・スミスを国民経済学の偶像破壊者ルターとして評価している。それは重金主義者や重商主義者が富を物財として理解していたのに 対して、富の主体的本質を労働として捉え人間に還元したからである。つまり富の大きさは物の効用によってでなく、物に蓄積された労働量によって決まる。富は蓄積された労働量に他ならないから、物の属性ではないと考えたのである。ところが富は人間の労働を主 体的本質にするにも係わらず、あたかも外的な事物の属性であるかに疎外された姿で現れ ている。スミスはそれが実は人間労働である事を示して、人間の許に取り戻したのだ。

 だがマルクスはスミスはかえって人間の否定を徹底したと指摘している。スミスは、富の本質を人間労働である事を示すことで、人間が疎外された労働の蓄積として、人間性を否定して、非人間的な人間の外にある事物として立ち現れざるを得ないことを示したからである。スミスはそれを前提に当然のごとく、その上に労働価値説に基づく経済学を構築 したのである。マルクスは、それが人間の疎外された労働の対象化された姿であり、否定され克服されるべき現実として認識されなければならないことを指摘したのである。

 そこでは労働生産物は富ではない、富は疎外された労働の蓄積だという認識がある。労働生産物を富として捉えるのが物神崇拝なのである。『資本論』で商品の物神性を説く論理もこれに発展させたものである。富を価値と置き換えればよい。ただし物事をデュアル(二重)に捉える点が新展開になっている。商品は使用価値(効用)と価値の二重性で捉 えられる。それぞれを作り出す労働もデュアルに、使用価値を生む具体的有用労働と価値に凝固する抽象的人間労働に分けて捉えられる。マルクスは使用価値と労働生産物を混同して捉えているから、労働生産物を作るのは具体的有用労働である。そして労働生産物に は価値がない。何故なら抽象的人間労働は価値に凝固するだけで、労働生産物を作るので はないからだ。ところが商品論においては労働生産物が価値を持つ商品として扱われる。これがマルクスのいう商品の物神性なのである。

 では何故、抽象的人間労働が凝固した価値が労働生産物の属性であるかのように見なされ、商品として労働生産物が扱われるのか。それは価値が抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)であるからだ。ガレルテは有機物が熱でどろどろになった状態およびそれが冷えてそのまま固まった状態である。膠だからそれは生きた労働の熱で溶かされて、労働生産物 に膠着するのである。これは抽象的人間労働なので具体性がなく透明で見えない。だから価値は労働それ自体の固まりではなく、労働生産物の属性であるかに思われるのである。

 マルクスは商品経済の関係においては事物と価値、事物と労働の抽象的区別が止揚されていることを冷静に認識できていないのである。富の主体的本質が労働であるということは、労働の成果が生産物として評価されることを意味している。ただし価値は労働がただ時間的に労働量として捉えられるものだから、事物の具体的効用とは係わらない。あくま で事物の市場における抽象的な社会的支配力即ち交換力として捉えられるのである。労働のままあるいは労働の固まりのままでは価値ではない、それは物の属性とならなければ対象的に捉えられないのだ。そこには労働と事物の抽象的区別の止揚が価値であることが現れているのだ。

 マルクスは事物が抽象的人間労働の凝固として価値だと認めることは断じてできなかっ た。それは人間の現存が事物であるというに等しく、人間を事物と見なすとんでもない倒錯だと考えたからである。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの超越神論では、神と人や物は絶対的に断絶しており、神を人や物で表現する偶像崇拝は最大の涜神として排斥 されている。人と物も同様の断絶関係で捉えると、人を物として捉えたり、物を人間関係を示す物として捉えたり、物に社会的力を認める等はとんでもない、人と物の混同、擬人化的倒錯とみなされがちである。マルクスの思想はこうした超越神論の文化的背景を押さ えて理解しなければならないのだ。これは宗教的確信に属するので論証抜きで人と物の抽象的区別に固執している。だから両者の区別の止揚として価値を見るのは、無条件に物神崇拝と見なされるのである。

 物神性論も疎外論の一種である。それは抽象的人間労働のガレルテであり、人間の現存である筈の価値が物の属性として人間にあらざる物の姿で誤って捉えられるからである。かくしてマルクスは『資本論』で、人にあらざる事物が価値であるかに展開することによって、本来の人間労働としての価値から乖離し、さまざまな形態の資本としていかに倒錯 劇を繰り広げるかを開示するのである。だから『資本論』全体が疎外論的体系になっているのだ。
 
                三、事物と価値の二元性

   マルクスによると、価値は抽象的人間労働のガレルテである。この「ガレルテ」という 表現は一見比喩のように思われ、抽象的人間労働の固まりとしての価値が生産物に膠着して、生産物を商品にしているというのも比喩的に了解すべきで、本気でマルクスの主張と見なすのは大人気ないという批判も寄せられている。しかし価値と事物を二元的に捉え、 ガレルテとしての価値が生産物に膠着していることを前提に『資本論』が展開されていることが、『資本論』をじっくり読めば分かるのである。

 価値形態論のところで、使用価値が価値の表現形態であり、「外皮」であるという表現がある。これは価値は見えないガレルテだから使用価値が外皮のように見えるというわけだ。これに似ているのが「蛹化」という表現である。金・銀等の金属貨幣の場合、金属が外からは見えるだけでこれが価値だという外見になる。しかしマルクスは金属自体は価値 ではない。価値は金属繭の中の蛹に成っている抽象的人間労働のガレルテなのである。

 第三巻で生産価格を取り上げると「骨化」が問題になる。資本も価値の発展形態として抽象的人間労働の疎外された姿なのだが、それが有機分としての労働の集積であるということは殆ど窺えないのだ。ほとんどは機械や原材料あるいは有価証券や紙幣として無機的な要 素から構成されているように見える。これを殆どがカルシウム分で生体である蛋白質が少ない骨に譬えて「骨化」と表現したのだ。資本も本当は労働の凝固なのだが、労働量とは乖離してしまって事物のように思われるのである。これらも全て抽象的人間労働の疎外さ れた対象化の結果なのである。

 ガレルテが比喩ではないと分かる決定的な箇所は「価値移転論」である。マルクスは生産手段の価値は、具体的有用労働によって生産物に移転させられると説いた。機械や原材料・燃料等の生産手段を生産物に変化させるのは、具体的有用労働である。その際に生産手段の価値は生産物に移転させられるというのである。この論理は生産手段とその価値を 二元的に別物と考えた上で、生産手段に価値が膠着していたのが、具体的有用労働の火で炙られるとガレルテとしての価値が融解し、両者が一旦離れた上で、今度は出来上がった生産物に移転してまた膠着したのである。そう解釈しないと、どうして価値が移転するのか説明がつかないのだ。

 『資本論』の物象化論も労働の社会関係が生産物の関係に「投映」「刻印」されること を意味する。生産物が労働の社会関係を「受け取る」のである。つまり労働の関係と生産物の関係は二元的に捉えられた上で、「投映」「刻印」「受け取り」によって人間関係が物的関係に倒錯的に置き換えられているという図式である。このような人間関係が物的関係と見誤られざるを得ないことは、マルクスにとっては人間疎外に他ならないのである。

 ただし『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓社刊)で大上段から批判しておいたように、価値は事物と労働の抽象的区別の止揚であり、まさしく物となった人間の定在である。元来、経済関係は労働関係を物と物の関係として扱う関係である。マルクスは超越神論的に人と物の抽象的区別に固執して、その区別の止揚の上に社会関係が成り立つことを認めらない限界を持っていた。マルクスは、価値と事物の抽象的区別に固執せざるを得なかったので、事物が価値関係を示す現象をガレルテが膠着するように捉えざるを得なかったのである。ところがこれこそまさしく超越神論から偶像崇拝を弁護する論理である「憑もの信仰」に陥っているのである。

 したがって商品の物神性論は、価値の根拠を投下された労働量に求めずに、その効用で 価値が決まるように倒錯することを批判するのに止めるべきである。実際、効用と価値の混同が様々な経済学的な誤解を生むのであり、それを批判する論理として物神性論を展開し直す必要がある。しかしそうするとだいぶ地味で分かり易くなり過ぎて、物神性論の解読の面白味には欠けることになるかもしれない。
 
                四、労働過程論のからくり

 マルクスは『資本論』で価値を抽象的人間労働のガレルテと規定したが、それはいわば 吟味不要な公理のようなもので、この前提がなければ物神性的倒錯に陥り、労働価値説が貫徹できないと考えていたのだ。労働が物になったのが価値だと捉えれば、価値は社会的事物の他の社会的事物に対する支配力としてひとまず定義できる。そしてその大きさが、交換関係では法則的には事物に投下され蓄積された労働量に決まるのである。

 マルクスは人間の身体的な労働力のみを労働主体と見なしている。従って労働力商品として働く労働者のみが労働し、全ての価値を生産することになる。マルクスはこれを「労働過程論」で労働の三項図式によって説明している。労働主体と労働手段と労働対象の三項からなる図式で、労働力主体は労働者の労働力であり、労働手段は土地や機械などの労 働用具である。これを使って労働対象である原材料・燃料に目的意識的に働きかけ、予め想定していた労働生産物に労働対象を変革するのである。このように整理しておくと、労働手段や労働対象が労働し、価値を産出したと考える主張を前もって幼稚な倒錯として封じ込めることができるからくりになっていたのだ。

 実際価値形成に果たす生産手段の役割や、利潤配分の正当性をめぐって古典派経済学や 俗流経済学でさまざまな議論があり、『資本論』はこれらに対抗し、労働力のみが価値を生むという立場を確立して、その上に剰余価値説を打ち立てようとしていたのである。最大の難点は労働価値説が前提する価値と価格の一致が説得力が無かったことである。そこで価値形成に機械の役割を認める必要はないかなどが当然問題になる。マルクスはそれを労働価値説の蹂躪と考え、剰余価値説が破綻する恐れを感じて、機械が価値を生産することは有り得ないことを労働過程論の三項図式で示したのである。しかしこれはいわばトートロジーであって、少しも論証にはなっていない。

 経済関係を含め、全ての社会関係を現実的諸個人の関係と見なすマルクスにあっては、機械が価値を生むというのは擬人化的倒錯に過ぎない。機械が価値を生むとすれば価値は事物の働きの成果になってしまい、人間的概念でなくなる。もしそれによって経済関係が成り立つのなら経済関係は現実的諸個人の関係ではなくなってしまう。機械はあくまで労働の手段に過ぎないのだから、たとえどんなに価値生産に大きな役割を果たしても、あくまで労働力が労働する為の手段としての役割に過ぎないというのである。

 しかし現実には産業革命は、生産に於ける主役の座を人力から機械に譲り渡したのである。生産現場では予め出来上がる生産物に関する情報は、機械の中にインプットされており、目的意識を持っているのはその意味では個々の労働者でなくて機械システムである。そして具体的な生産はほとんど機械が自動的にこなしていき、労働力はそれを補助し、正 常に機械が生産できるように機械を管理しているに過ぎない。にもかかわらず労働力だけが価値を産出するという議論は一面的ではないかと思われる。

 マン・マシンシステム全体が生産の主体とすれば、価値産出の主体を労働力に限定する必要はない。社会的事物の中に労働力も包摂して、社会的諸事物の相互関係として経済関係を捉え返せば、各事物社会的支配力として定義される価値は、それぞれの事物を再生産するに必要な社会的諸事物の量に当たる。つまり各商品の価値はその再生産に必要な労働 量である。この労働量の中には単に労働力商品の労働量だけでなく、その商品の生産に際して各生産手段が対象化した価値の総量も含まれているのだ。だから労働力だけが価値生産の主体ではないというのはむしろ当然のことなのである。

 ところがマルクスは、これを価値移転論で言いくるめようとする。不変資本である生産手段に含まれている価値は、確かに生産物の中に入る。だが生産物は自分で働くわけではないから、自分に含まれている価値を生産的消費によって生産物に対象化することはできない。つまり自分で自分を生産物に変えるのではなく、労働主体である労働力に変えてもらうのである。その際に自分に含まれていた価値も生産物に移転してもらうということになる。この移転させるのはあくまで労働力の具体的有用労働の役割であるというわけだ。しかし先述したように労働力の具体的有用労働だけが特に目的意識的でもなければ、主体的でもないのだ。生産手段のそれぞれが互いの相互作用によって生産物を作り出し、各自の価値減耗分だけの価値を生産物に対象化しているのである。

 定義的に労働力だけが主体であるから,価値を生むのも労働力だけで,生産手段の分も価値移転論で言いくるめておけば、それで計算上は合うことになる。しかしどうしても合わないのが、例外的に飛び抜けた生産力のある機械やシステムを使用することによる「特別剰余価値」の生産である。

 これは明らかに飛び抜けた生産性を持つ機械やシステムが、 特別剰余価値を生み出したと受け止めて当然のところを、マルクスは、飛び抜けた生産性を持つ機械やシステムによって「強められた労働」が特別剰余価値を生んだと強弁するのである。つまり労働するのはあくまで労働力だけだというのは定義だから、これは動かせない。だから特別剰余価値も労働者の労働力が生み出したに違いない。ただ労働力の労働 の強度や複雑度は同じ生産条件では同じであっても,生産条件に格差があれば労働力の労働の価値生産力にも大きく影響するのだ。

 このように論じれば、最新鋭の機械導入でたとえ労働力の複雑性は変化がなくても、特別剰余価値は、その機械ではなく、機械によって強められた労働力が生み出したことになる。この議論も機械が価値を生むと考えることが、事物を人間として捉える擬人化的倒錯に当たると思い込んでいるからに他ならない。機械も目的意識をインプットされていて、 それに従って対象を加工するのだから、その意味で労働しているのである。
 
           五、剰余価値論の再構築

 剰余価値論も疎外論に含まれる。労働した成果が労働者のものとはならず、剰余価値となって資本家に搾取されるというのだから、生産物の疎外の理論的表現と考えてよい。ところで剰余価値説では「資本・賃労働」関係の帰結として剰余価値が生み出されるから、当然労働は賃金労働者のみが行い、剰余価値も可変資本に当たる労働力だけが生み出す筈 である。ところが機械等の生産手段も価値を生むということになると、剰余価値説自体が崩壊するのではないかと危惧されるだろう。

 労働力が可変資本であり、その他の生産手段が不変資本であるのは何故か?それは労働力の場合、自己の価値である労働力の再生産費以上に価値を産出するからである。ところがその他の生産手段は再生産費以上に価値を産出すれば、市場でその分高く売れることになる。再生産費以下しか産出できなければ、それを使うと損失なので、価格となる再生産 費を引き下げざるを得ない。結局市場では法則的に生産手段は価値通りに売られるのである。だから生産手段が不変資本なのは法則的に不変資本だということで、実際には生産手段の価値以上に価値を産出する機械もあるし、その逆の場合もあり得るのだ。特別剰余価 値を生む機械などは大量の剰余価値を生む可変資本の役割を、その機械が普及するまでの 間は果たすことになる。だから剰余価値は労働者の労働からの搾取からのみ成り立っているという議論は厳密ではないのだ。

 生産手段の価値生産や不変資本の一時的可変資本化を認めると、資本家の弁護をしているように労働運動家から反撥されるかもしれないが、資本家が価値を生むという議論ではなくて、資本家が独り占めしている生産手段が価値を生むと指摘しているだけだから、資本家の独り占めを弁護しない限り、資本家の弁護にはならない筈である。労働者は生産手 段と共に相互に働きかけ合って価値を生産しているのだから、生産手段にもそれ相応の働きを認めて当然なのだ。生産手段や生産物も含めて人間社会を構成する主体的要素である「人間体」として認知すれば、すっきりと理解できる筈である。

 剰余価値の生産は、二つの必要から来る。一つは有閑階級による搾取である。生産者階級は自分たちの生活に必要な物資だけではなく、有閑階級の生活に必要な分まで生産しなければならない。だからその分を控除されて勤労所得を受け取ることになる。有閑階級へは財産所得の形で、利子・配当・地代・家賃等の形で配分される。もう一つの必要は拡大 再生産の為である。これは内部留保の形で企業内に蓄積される。このような剰余価値を生む為に労働時間の延長、労働強化等絶対的な剰余価値の生産が行われるが、あまり労働者をこき使うと生産性が低下したり、労働意欲が喪失してかえって不能率になる。また労働者の抵抗や労働市場との関係でこれには限界がある。

 そこで生活手段に当たる消費物資の生産の生産性を向上させて、労働力の再生産費を切下げる。つまり労働力の価値を引き下げ、労働コストを低く抑えて相対的に剰余価値を大きくするのである。その方法としてマルクスは協業の発達、機械の改良等を挙げている。そして先述した「特別剰余価値」の生産が問題になる。(未完)

 



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