改訂疎外論再考ノート

後編 疎外論の再構築

やすい ゆたか
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          目次
   
   前編 何故いま疎外論か
   後編 疎外論の再構築
   追論 疎外論とネオ・ヒューマニズム(新稿)
   付編 『資本論』と疎外論(未完)


              一私有財産の止揚            

  先に述べたようにマルクスは私有財産一般の止揚として共産主義を構想していた。従って新しい共同体では私有財産が存在しないのである。マルクス主義者の中でもマルクスが止揚しようとしたのは生産手段の私有のみで生活手段の私有までも止揚しようとしたわけではないと解釈する者もいる。しかしそれでは私有財産を蓄積する者と負債を抱え込む者が出て貧富の差が生じ、やがては階級の復活に向かうことになる。また生活手段が私有ならその取得は労働に応じてということに成らざるを得ないから、これは社会主義の原理であって、共産主義の原理ではない。

 それにマルクスは『哲学の貧困』や『経済学批判要綱』で、新しい共同体で労働貨幣を発行することに反対している。労働時間を表す証書を労働後受け取って、同じ労働時間の生産物と引き換える制度だが、それでは同じ労働時間を怠けたものが得をするからである。つまり労働の質や密度を考慮に入れないとどれだけの労働時間か測定できないのである。 

 マルクスにとっては労働時間表と交換に手に入れた生産物は交換物として私有財産になるから、社会は私的所有者の関係になってしまう。そんな社会は市民社会であって共同体ではないのだ。しかしそれでは私有財産なしに将来の共同社会が果たして成立するのだろうか。

 未開社会に原始的な共産社会が存在することをアメリカ・インディアンについてのモルガンの報告が伝えている。文化人類学者の中には未開社会ほど私有観念が堅固だと報告する者もいるが、マルクスに言わせればそれは本源的な所有である。つまり自分の身体の一部のように見なしている、住居や衣服それに狩猟用具等々との関係である。融即の論理に支配された未開共同社会では、生産物や獲物を身内としか分け合うことはできない。 

 それは頑固な私有だからではなく、逆にそれを手離して他人と交換し合うことができないからなのだ。つまりまだ固有であって私有ではないのだ。だから私有は、生産者が生産物を自己の非有機的な身体の一部ではなく、自己の他者として外化し、対象化してそれを自己に疎ましい他者と認定して、言い換えれば疎外して放棄することを含んでいる。

 この時一方的に放棄ばかりしていれば、死滅せざるを得ないので、同時に他者が放棄した生産物を自己の支配の許におくのだ。これが交換である。この交換を通して生産物は相互の効用を抽象され、価値存在として認定される。

 そして人間労働も価値を生み出した点で同等だと見なされる。私有はしたがって放棄し他者化し得ることを含んでいるのであって、未開社会の堅固な所有は私有ではないのである。

 ところがマルクスは、『資本論』で資本主義的所有が止揚されて、社会的所有になると「個人的所有」が再建されるとしているから、将来の共同体でも私有は認められているのではないか、少なくとも生活手段に関しては私有は認められているのではないかという解釈がある。しかしこの文脈でマルクスはdas individuelle Eigentumを原義的に「不可分離な所有」の意味で使っており、資本主義生産によって生産手段と直接生産者が「不可分離な所有」の関係を切断され、互いに疎遠な他者として外的に資本の力で結合されていたのが、資本主義が止揚されて共同所有になると、疎外が克服され、再び生産手段と直接生産者の「不可分離な所有」の関係が再建されると主張したのである。(拙稿「『das individuelle Eigentum』の翻訳問題」『立命館文学』第三七三・三七四号参照)


                  二、私有財産の止揚の可能性

  私有財産を止揚した共同体経済は、構成員の需要を賄うだけの生産を共同で計画的に行い、それを無駄なく分配すればよい。これは閉鎖的な自給自足の村落でなら、ある程度可能である。この体制を民族規模地球規模で行うとするとその調整がかなり難しい。そこでミニ共同体がより大きい地域共同体の成員になり、地域共同体が地方共同体の成員になりして協同組合的国家を構成することも考えられる。 

 マルクスは具体的な自由人の連合のスケッチを描くことを、無責任に未来を制約することとして嫌った。その為にかえってロシア革命後の「社会主義」建設は、とんでもない方向に行ってしまったし、いかなる反革命も革命の名のもとに可能になった。

 マルクスが未来社会のスケッチを描かなかったのは、私有財産の止揚が大変な困難を伴うと考えたからではない。むしろ逆である。革命権力が安定するまでは大変な困難を伴うことは承知していたが、いったん新しい共同体が軌道に乗れば、彼は私有財産という疎外から解放された人間は、類的な共同精神に溢れ、労働による自己実現を第一の欲求にする人間に生まれ変わると信じていたのだ。

 唯物史観を説き、ヘーゲルの弁証法的な考え方を現実分析に適用したリアリストのマルクスが、そんな甘ちゃんの筈はないと怒るなかれ。矛盾が徐々に募っていって盛り上がり、究極で爆発して革命が起こるような、「量から質への転化」の図式では、革命によって全てが解決するような気分に囚われるものである。

 彼にすれば共同社会ができて皆が仲良く、力を出し合って生産し、分け合える世界にいるのに、私的利害に固執し、姑息に振る舞うような人間は、社会的に適応できなくなる。皆が身内のような関係にある共同社会では、皆のために役立ち、働くことがなによりの生きがいになると考えたのだ。

 まさか新しい共同体では、私有財産に疎外された意識を代表してアダム・スミスが説いたような、労働を自己犠牲と考えて、できるだけ他人より楽をして、他人より沢山の快楽と利益を手にしようと最大限の努力をするようなあさましいホモ・エコノミストは存在しなくなると考えたのである。

 だが現実には楽観的な性善説は通用しない。私利私欲の為なら人間は過労死してでも働くが、社会のため皆のために喜んで働くというようには、なかなか人間革命は進まないのである。その為には非常に強力な強制力が働かなければならないのだ。市場経済なら怠ければ富は一切手に入らないで死ぬしかないが、共同体では全員の生活を無条件に保障してくれるからである。少しでも怠けた方が得をすると受け止められるのである。そこで一足飛びに共産主義を実現するのは無理だから、労働時間に応じて富を分配する社会主義が歴史段階として必要になる。

 社会主義では商品経済が残存してしまう。労働時間が質と量で計測されて労賃が支払われると、労賃によって生産物が購入されることになるので、当然生産物は商品である。労働力も労賃を代価にした商品になるから、現実には、労働力の再生産費が労賃になる。そうすると労賃によってできるだけ多くの消費財を手に入れようとするから、労働者はますます私利私欲の為のホモ・エコノミストになり、共産主義への移行は困難になる。

 私有財産を無くす為には労賃を引き下げていかなければならない。つまり消費財の価格を引き下げていくか、配給制や無料に切り換えていくことである。もちろんそれがなかなかできないから共産主義になるのは困難なのである。需要・供給の均衡が取れないから難しいのではない。需要の調査や在庫管理がしっかり行き届けば、それに見合った生産体制を取るのは決して不可能ではない。問題はあくまで勤労意欲にある。

 「一人が皆の為に、皆が一人の為に」をスローガンに、自分個人や家族の為でなく、果たして労賃という評価制度無しに自己の類的本質の実現として第一の欲求として働けるだろうか。その為には労働疎外が起こる原因を除去していく事が大切である。

 上意下達の官僚主義的な職場では勤労意欲は起こらない。自由で民主的で集団的に知恵を出し合って、互いに学び合いながら、職場の運営を行う事だ。職業や職場の選択が本人の意思をできるだけ尊重して決定されること。能力を高めたり、より希望に近い職業に移るための学習環境が整備されていること。 

 労働時間が長すぎないで、リフレッシュできる余暇やスポーツの為の環境があること。目的意識や問題意識を育てる為の市民運動やボランティア運動に参加して、地球市民としての自覚を養える事。一つ一つ疎外を軽減する工夫を皆で挙げて、その解決に共同で取り組める体制を作る必要がある。 

 しかし人間は血の繋がった家族の為なら身を粉にして働くのも厭わないが、社会の為なら自発的には働けないという見解も有力だ。実際、家族が私有と消費の単位であり、家族生活によって働きがいや生きがいが与えられているのだから、家族が無くならない限り、共産主義は実現不可能という説には説得力がある。しかしこれも共同体が家族的になり、仲間意識が強くなるに従って、家族中心の価値観は薄れていく事も考えられる。
 
                三、 自己疎外の主体

 労働の自己疎外の主体は、もちろん労働者である。労働者は労働を通して労働生産物を生み出すが、労働生産物は労働者にとっては疎遠なものとして、労働者から独立した力として敵対的に労働者に立ち向かってくる。労働者は労働を一つの対象の内に固定し、物的な定在にする。これが生産物に労働を対象化するということである。

 だから家屋は大工の労働の対象化であり、豆腐は豆腐屋の労働の対象化である。ところがこれが商品関係では労働は商品として対象化され、生産者から独立して他人に売り渡される。資本制生産では労働は資本として、つまり自分を敵対的に支配する外的な力として対象化されることになる。

 本来主体の自己実現活動として労働の成果は自己自身の力を示す筈である。大工は家屋に自分が大工であることを実現し、豆腐屋は豆腐に自分が豆腐屋であることを実現するように。ところが労働の生産物が商品や資本になると、それは自分にとって他者として対立してくるので、疎外を感じるというわけである。

 ところで商品生産者が労働で商品を生産したり、可変資本としての労働力が資本を生み出しても、対象に自己を実現していることには変わりがない。だからマルクスの疎外論では、主体が商品生産者であったり、労働力商品であったりすること自体、本来の姿ではなく疎外された姿なのである。

 しかし実際に資本主義社会にあっては、人間は商品生産者や労働力商品としてのみ存在資格を得られるのだから、その意味では商品生産者や労働力商品であるのが第一義的に重要になる。むしろ商品生産者や労働力商品として認められなければ、社会からドロップ・アウトして疎外された存在に成らざるを得ない。そして労働の成果が商品になり、資本になるから、自己を商品生産者や労働力商品として再生産できるのである。

 一八四四年の『経済学・哲学手稿』の疎外論では疎外されていない本来の人間が先ずあって、それが特定の社会関係の中では疎外された労働を通して、自分の本来の姿を疎外して、非本来的な姿で存在せざるを得ないことになる。

 それが翌年1845年春執筆されたとされている『フォイエルバッハ・テーゼ六』で「フォイエルバッハは、宗教的な在り方(ヴェーゼン=本質)を人間的な在り方(本質)へ解消する。しかし人間的な在り方(人間の本質)は個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総和(アンサンブル)である。」と宣言されている。だから、具体的な社会諸関係から抽象して人間の類的本質を理念的に概念把握しておいて、その理念との擦れを本来的な自己の喪失と説くような、イデア論的な発想は退けられたのではないかという解釈がある。この「哲学的良心の清算」によって疎外論自体が退けられたという解釈も生じているのだ。

 それでは『経済学批判要綱(グルントリッセ)』『剰余価値学説史(メアヴェルト)』『資本論(ダス・キャピタル)』の経済学批判期になって疎外論が復活するのは何故だろう。それはおそらく物事をデュアルに(二重性で)捉える経済学の方法と関連があると思われる。

 『資本論』では、商品も使用価値と交換価値の二重性から説き起こす。労働力商品も使用価値を形成する具体的有用労働の主体という面と価値を形成する抽象的人間労働の主体という面で二重的存在である。具体的有用労働の対象化として具体的な生産物を作り出すが、それが商品関係を投映して、抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)である価値として受け止められるために、商品として流通し、他者化してしまう。この面が労働者の生産物からの疎外、労働からの疎外として現れる。

 逆に抽象的人間労働それ自体の固まりである、抽象的人間労働のガレルテとしての価値は、生産物である使用価値(マルクスは生産物と使用価値を混同している。『転換』参照)に膠着して生産物自体の属性と倒錯視されると、価値関係が労働量間の関係ではなくて生産物の物的関係に置き換えられるのである。それで労働時間量と価値量が乖離し、商品価値の本質が隠蔽されてしまう「労働からの疎外」が生じることになる。これが商品所持者および資本家およびブルジョワ経済学者の疎外された意識である。
 
                四、関係としての主体

 マルクスが社会的諸関係の総和として現実的な諸個人を捉え、これを主体に置いたとすると、主体は社会的諸関係に還元されてしまうのではないかという疑問が生じる。つまり常識的には、各個人の人格主体を想定して、人格主体の活動として労働や社会的実践を解釈してきたが、人格主体なるものが実体としてそれ自体で存在しているわけではなく、人格は社会的諸関係の結節として、便宜的、機能的にのみ主体として置かれているだけではないかという解釈が生じる。関係は実体ではなく、従って主体でも有り得ないからという理由で、主体の自己疎外論が葬られるのである。これは廣松シューレの論法である。

 主体の実体性を否定する議論に反発して、主体=ライオンが客体=縞馬を追い掛けて倒す場面を持ち出して、主体・客体関係の自明性を擁護するのは有効だろうか。実は、それは第三者の観察者の意識にとって自明に写るに過ぎないのである。ライオンは縞馬を見ても、空腹でない限り、何の関心も示さない。つまり普段は縞馬はライオンにとって単なる背景であって、絵画的には地に過ぎないのだ。ところが空腹になると縞馬は獲物として絵画的には絵として登場する。そうすると筋肉が緊張して激しく運動し、縞馬が大きくなっていって牙に捕らえられることになる。この過程で縞馬は地の場合も、絵の場合もライオン自身の生理状態を構成しており、ライオンの外部の客体としてはライオン自身には意識されていない。ライオンの意識は、対他的な主体・客体(=対象)関係を自己の生理に止揚してしまうのである。

 それにしてもライオンという主体が縞馬という客体的対象を捕まえたという事実には、カメレオンが蝶を捕らえるのと同様に、もっとはっきりさせれば、食虫植物が虫を捕らえて食べてしまうのや磁石が砂鉄を吸い寄せるのと同様に、意識内容の如何に係わらず変わりがないのだ。ライオンと縞馬という互いに身体間に距離を置いた対立物が、食物連鎖の関係の中で相互に働きかけあっているのである。

 縞馬はライオンの視角の中に入って食欲を刺激し、自分を食べるように働きかけてしまう。もちろん縞馬自身意識的にそうするわけではない。縞馬・ライオン関係にあっては自ら獲物を演じざるを得ないのである。意識的には自己保存本能に従ってライオンという危険な生理状態を脱出すべく、筋肉が緊張して運動しているが、何頭かは餌食になってしまうのだ。

 磁石が砂鉄を吸い寄せる事態は、砂鉄が磁石を吸い寄せているとも言い換えられるのだから、吸引という事態の以前に、吸引力を持った磁石や砂鉄が先ずあって吸引現象が起こるのではない。すべての事物は事態の契機として捉えられるのである。しかしこれを根拠に事物の実体性や主体性を幻想視するのは、いき過ぎである。むしろ事物にとっては何らかの事態の契機となることによって、対立物に働き掛け、対立物を規定し、その事によって逆に対立物から規定し返されて存立できるからである。そして事態もその契機として事物が相互に措定し合うことによって始めて成り立つのである。

 たしかに事物はそれ自体総体的な関係である。水は酸素と水素の関係の一種だし、身体は細胞間、器官間の関係である。また機械は部品相互の総体的な関係である。それでも関係であることは少しもそれが主体であることの妨げにならない。 

 水は物理的、化学的に様々な働きをして、万物を創造し、育成し、破壊し、流転させる。身体は自己保存の為に異物を体内に取り込んで同化し、異化し、その事を通して生態系を保存する。機械は、予定された原材料、燃料を投入されれば、予めプログラムされた過程でそれを加工したり、化学変化させたりして上で、特定の予定された品質の製品を、繰り返し作り出すのである。

 存在の第一義性を事物か事態(あるいは関係)の二者択一にしてしまうから、実体や主体概念が排却されてしまうことになる。事態はそれを対立物の闘争と統一としてしか把握できないのであって、それは対立物が事態の契機としてしか在りえないように、事物の事態に対する第一義性は、事態の事物に対する第一義性と互角に張り合っているのである。だから事態を第一義的に捉えて、事態関数の項を倒錯的に実体化して捉えたのが事物であるという見方は、事物を第一義的に捉えて、事態を倒錯とすると同様に不当なのである。
 

           五、「事物の主体性」と「事物の疎外」

 ところで事物という諸関係の統合が倒錯でないとすると、各事物はある一定の環境条件の中では自己の同一性を保持し、各対象に特有の関係を維持し続けようとする。つまり各対象はその事物によって本質的な関係規定を与えられると同時に、その事によってその事物の本質を措定し返しているのだ。

 では各事物はいかなる場合に主体性を持っており、またいかなる場合に疎外に陥ると言えるのか。「主体性」というような実存主義的なカテゴリーは、人間以外の動植物や無生物には適用できないと思われているが、事物一般が主体だということになれば、事物一般が広義の主体性を持たないのも筋が通らない。それで広義には「主体性」は、あらゆる事物が自己の本質を維持しようと対象的な諸事物に働き掛ける傾向性を意味していると解釈してみよう。

 そうすれば一般的な事物の「疎外」も規定できる。「疎外」とは、各事物がそれぞれの本質を維持しようと対象的な諸事物に働き掛けても、諸対象が主体の事物にうまく反応しないので、「孵化しない卵」や「読まれない本」のように主体が自己の本質を充分発現する事ができなかったり、「水をやらない花瓶の薔薇」や「変質しつつある古米」のように規定を維持しにくくなって、不安定に陥っている状態と定義してよいのではなかろうか。

 「事物の主体性」および「事物の疎外」は自然保護や地球環境全体の保全という観点からは、大変有効な視点に成り得るかもしれない。ヘドロの海、酸性雨で枯れた森、森林伐採による砂漠化、オゾン層破壊、奇跡の水と大気の惑星地球の状態を考えるとき、それぞれの事物の主体性がスポイルされ、深刻な「事物の疎外」に陥っている現実が浮き彫りになるのだ。

 疎外論の復権に当たって、それを
21世紀の疎外論にするには、エコロジー的観点を導入し、単なる身体的個人の人間疎外論から「事物の疎外」を含むグローバルな疎外論へと発展させる必要があると思われる。

 疎外は「疎ましさ」という感情を核にしているから「事物の疎外」は比喩に過ぎないとか、「事物の疎外」を説くのは擬人的倒錯だとかの批判が予想される。だが事物には、自覚的な意識は無くても、それぞれ本質的な傾向性があり、それを最大限に実現しようとする能動的作用がある。それが対象や環境条件次第で、本質を発現させられる程度にかなりの格差が生じている。この擦れをその事物の心になって感情的に捉えたのが「事物の疎外」である。

 たしかに薔薇はその年の気象や栄養状態次第で見事に咲いたり、貧相に咲いたりしても、薔薇自身に心が無いのだから、それを疎外とは感じない。しかし艶やかに咲き匂う薔薇を見て、心燃ゆる思いにかられたり、貧相な薔薇に意気消沈したりする人の心は薔薇が人に対象化した薔薇の心なのである。これが本居宣長の『あしわけおぶね』『紫文要領』の「もののあはれ」論で展開されている、「物の心になる」ということである。

 薔薇が見事か貧相かは薔薇自身のことではあるが、見事とか貧相とかの評価は薔薇を鑑賞する側の評価である。この評価抜きに薔薇の見事さは成り立たない。薔薇は薔薇らしく美しく咲き誇ってこそ、薔薇としての存在価値がある。だから人間の評価抜きで薔薇の本質発現もないのだ。 

 菜の花は蝶たちの仲立ちで交配が行われ、種を保存できるので、蝶たちを魅惑する匂いや色や蜜をサービスしている。そしてそのサービスの内容が花の本質を構成している。だから花に対する人や蝶の評価や反応が、花自身の再生産の不可欠な契機となっていて、そこに人の心や蝶の感覚を巻き込んではじめて花足り得るのである。

 つまり本質というのは対象的なものであり、関係規定でしかあり得ない。けっしてその事物に関係抜きに先ず備わっているというような、形而上学的な本質ではあり得ない。その意味で「人の心」や「蝶の感覚」を捕捉して、自己の本質を発現する薔薇や菜の花は心や感覚を自己の補完物にしていると言える。 

 元々感情や感覚は身体が勝手に作り出せるものではない。対象の刺激が身体内に引き起こした事態あるいは刻印した信号である。だから情感や感覚は対象の述語になれるのである。その意味で「人の心」は「物の心」に他ならない。 

 人は自分たちの心の内容を私有観念に囚われて、排他的に独占しようとする。それで「物の心」を理解しがたいのである。
 
              六、社会的事物の主体性と疎外    

 人間の社会関係を構成している事物を社会的事物と定義することにする。最も広い意味では天文学的に捉えられている星雲宇宙も、科学体系を構成し、世界観的にも文明論的にも人間社会に少なからず影響を与えているのだから、社会的事物に含めてもよい。

 ここで重要なのはいかなる事物が社会的事物に含まれるかではなくて、人間社会の構成物として捉えられた限りでの事物の存在性格である。そこで狭義には社会的事物は、その本質が人間社会の関係に依存している事物を指すと定義することになる。 

 例えば石油、天然ガス、石炭、炭、薪、水素ガスなどは「燃料」として社会的事物を構成している。自然的事物としてはあまり共通性がなくても、社会的事物としては共名を持つ同一事物のカテゴリーに含まれるのだ。

 唯名論(ノミナリズム)によれば、人間が付けた名前は存在を正しく名付けているとは言えない。正しい名付けは正しい認識に基づいている筈だが、人間の有限な認識能力ではとても真理を把握できない。人間の生活上の便宜に基づいて名付けを行うことで分類しているに過ぎないのだ。神のみが存在に対応した正しい名付けができるのである。しかしこの議論は社会的事物に関しては全く的外れな議論である。

 例えば共名が机(デスク)である社会的事物が存在する。机は一応脚付の台でその上に書物を置いたり、文具を置いて読書や事務を行うよう製作された物と定義してよい。ところが類似品に卓(テーブル)がある。卓も脚付台でその上に食器や飲食物を置いて食事をしたり、お茶を飲んだりする。また手や肘をかけて寛ぐのにも使用される。卓を机の代用に使用しても差し支えないし、逆に机を卓の代用にする場合もある。机が無いので果物を入れていた木箱を机の代用にしたり、段ボール箱が机としての役目をすることすらある。

 そこで机は単に効用を意味するだけで、便宜的な名前に過ぎない。存在としては脚付台や木箱、段ボール箱があるだけだというノミナリズムが幅を効かすことになる。

 しかし脚・台・段ボール・箱等もまた効用に過ぎないから、存在としては木質や段ボール加工紙等に還元されてしまう。しかし素材(マテリー)は社会的事物の本質を構成しない。机は木製であるかスチール製であるか、プラスチック製かはたまた大理石でできていようが、机として効用に合わせて作られて通用していれば机なのである。 

 社会的事物としての机の存在は、社会に机と呼ばれる事物の定義に叶う事物が存在し、一定の社会的役割を実際に担えているかどうかでしか実証され得ないのだ。広義の机、手製の机、代用品としての机、家具工場で作られた製品としての机(狭義の机)等で、それぞれに含まれる事物は違ってくる。その社会的役割も当然異なるのである。いずれにしてもそういう机が過去あるいは現在に存在することは確かである。

 使用価値を本質にする事物は、その本質において人間の効用に依存していることになるので、人間から独立した存在とは言えない。これは事物の定義に反しているのではないかという誤解がある。 

 だが効用を本質にしたら、事物ではなくなることは全くないのだ。社会的事物は人間との関係にその存立自体が依存している事物だから、使用価値を本質にしても少しも事物の定義に抵触しないのである。

 ノミナリズム的誤解の原因は、事物と物質(マテリー)の混同にある。唯物論者の一部はマテリアリスムス(唯物論)を質料主義(マテリアリスムス)と受け止めているので、こうした混同に陥っている。しかし質料主義の立場は結局「根源的物質」や「質料そのもの」というカオスを存在の基底に置くことになる。その結果、ニーチェ的な非合理主義に道を拓くか、存在自体を弁証法的に捉えない、主観主義的な実践的唯物論に陥るのだ。

 書物、ノート、新聞、チラシ、画用紙、便箋、ティッシュペーパー、トイレットペーパー等々紙でできた製品はたくさん有る。紙製品のコップや衣服まである。それらを同じ事物だと考えるのはマテリー的には正しいだろう。だとしても、実際に代用できない場合も多いのだから、同じ社会的事物だと捉えるのはあまり重要ではないのだ。異なる社会的事物として生産され、使用されていて、そのことで人間社会を構成しているという事実に注目すべきである。 

 そしてそれぞれの本質が実現されず「読まれない書物・新聞」「書き込まれないノート・画用紙・便箋」「山積みのティッシュペーパー・トイレットペーパー」のままだと事物の疎外である。父の死後、形見分けで五十年振りにチャップリンが愛用したような燕尾服がほとんど新品のまま姿を現したが、とても型が古くて今頃使いものにならないから捨ててしまった。事物の疎外である。

 大量生産・大量消費の現代では、新しい機能を付けた新製品を売り出して、まだ充分耐用年数の残っている耐久消費財を中古市場や古鉄市場に吐き出させる。こうして経済の停滞を防止しているのである。その結果、資源の枯渇が進み、環境の破壊が進行する。これは生産物からの疎外であるが同時に自然や人間環境の疎外でもある。

 社会的事物の主体性など認めないという人が多いだろう。そういう人は、例えば書物を読むという行為の主体は人であって、書物ではないと断言する。字を書いているのは鉛筆ではなくて、人であるに決まっているという。そして服を着るのは人であって、服ではないぞと怒り出す。あくまで意志をもって主体的に行動しているのは人であって物ではない、と行為における身体の側の能動性に固執して、激昂するのだ。

 しかしそもそも身体に生じる意識や意志はどのように形成されているのか?書物が読むように働き掛け、服が着るように働き掛けているから、読んだり、着たりするのである。社会的諸事物が人に様々に働き掛けて、その人の欲望や意志を形成しているのである。もし社会的事物が人に欲望や意志を生み出すことに成功しなければ、その種類の社会的事物は再生産されなくなるので、減少していく事になる。だから現にある社会的事物が社会的に同じ量だけ再生産され、需要されているとすれば、消費者の欲望と意志の形成に社会的事物が成功していることを意味している。 

 ところが人は自分の意識を全く自分のものと考えており、あたかも自分自身で生み出しているつもりでいるだ。私有観念に囚われずに意識形成を反省すれば、人の意識は同時に物の意識であり、身体側の主体性だけでなく事物側の主体性も認められるのではないだろうか。
 

       七、貨幣存在と疎外

 社会的事物は商品交換を通して貨幣で価値評価される。そして貨幣はすべての商品と交換可能な商品として流通している。したがって商品所持者は先ず自己の保有する商品を貨幣に換えて置けば、任意の種類の商品を入手できることになる。 

 逆に言えば貨幣は持っていなくても、市場に任意の商品を提供することで貨幣を入手でき、その貨幣で任意の商品を入手できることになる。かくして多種類の商品が取り引きされる市場が成立する。それに伴い、社会的分業が発展することになり、それぞれが自分の個性を最大限に発達させる条件が生じるのだ。

 しかし分業は諸個人を一つの職業に固定して、各人の能力を極端に一面的なものにしてしまう。人間性の全面的な発展はただ類としてのみ、社会全体で実現する。各人は貨幣によって媒介されて、衣食住や教養娯楽に必要な物資を手に入れることが出来る。したがって貨幣は人間の全面性の疎外された姿であり、貨幣と引換えに自己の全面性の可能性を放棄しているのである。こうして人間は貨幣によって手に入れた全面的な富を消費する形でしか自己の全面性を享受できない存在になる。

 本当は貨幣は人間自身の特殊性と全面性が、特定の商品に効用と価値という形で対象化されたものである。ある特定の商品が全ての商品と交換可能だということは、実は各個人の作った商品がすべての種類の商品と交換の可能性を持っているからに他ならない。つまり全ての商品も潜在的に貨幣性として全面的な交換可能性を持っているのだ。

 ところが全ての商品が全面的な交換可能性を実現しては困るのだ。自己の所持する商品が全ての商品と交換できるということは、逆に全ての他の商品からの交換請求に応じなければならなくなってしまう。そうすると本当に手に入れたい商品との交換になかなか行き着かないことになる。そこでこの全面的な交換可能性を唯一の商品に外化・譲渡(エントオイセルンク)するのである。

 各商品はある特定の商品を貨幣とすることによって、全面的な交換可能性を失ったように見える。しかし今度は貨幣を媒介にして、二回の交換で任意の商品に辿り着くことができ、結局全面的な交換可能性を実現できるのである。こうして貨幣は私有によってばらばらになった諸個人を社会的分業に再編し、市民社会の中での協働聨関を構築する。

 だがそれはもはや共同体的なものではなく、貨幣を通して互いの提供する商品を支配し合う関係である。この貨幣の疎外のアンビバラントな性格に注目しなければならない。

 マルクスの貨幣の疎外に対処する姿勢は、共同体による貨幣経済の止揚にあった。そうすれば人々は仲間の為に必要な物を作り、仲間から必要なものを供給される。貨幣を介すればどれだけ沢山の商品を手に入れられるかが唯一最大の目的になり、労働はその為の商品を作る犠牲として受け止められる。そして労働においてどれだけ自己の類的本質能力を発揮できるかは目的ではなくなってしまう。

 逆に他人の労働の成果を支配する為の手段として強制された労働になってしまう。つまり貨幣の支配の下では自分の労働生産物は自分の物とはならず、他者化してそれを生み出した労働者にかえって敵対的に対立するようになるのだ。だから『経済学・哲学手稿』の「四つの疎外」は貨幣経済の続くかぎりなくなりはしないのだ。

 ところがマルクスは資本主義的生産様式を転覆させて新しい共同体をつくれば、貨幣経済は止揚されると考えたが、実際には貨幣が止揚されるのは、貨幣の支配によって成立した社会的分業関係がより発展できるような代替システムが出来ない限り、とても無理である。 

 そこでたとえ資本主義が市場社会主義に変わっても、当分は四つの疎外は続くから、それをどのように緩和すべきか対症療法的な措置をとってゆくしかないのだ。それを市場経済は止むを得ないということになったので、そこから生じる疎外は問題にすべきでないという態度では、共同的関係を発展させることはできない。

 だから市場社会主義が実現している社会こそ疎外論が必要である。そうでないと市場は必要だという前提で、市場に最適な経済体制を早急に作ろうとすれば、社会主義的要素をミニマムにし、資本主義的要素を最大限に導入した方が良いことになりかねないからだ。

 市場は現在のところ必要で価値法則が充分に作用するように、運営されなければならないが、それは四つの疎外などさまざまな弊害を伴うから、共同体の原理を有効に作用させて疎外を緩和し、将来的には、共同体原理をマキシム化する方向を示しておかなければならないからである。
 
               八、貨幣の疎外と倫理

 貨幣の支配の下で市場経済が展開している限り、価値貯蔵機能を持つ貨幣を蓄財することが、社会的な力を強くすることになる。そこで人々はできるだけ貨幣を稼ごうとし、貧富の差が生じることになる。市場経済の下では何らかの目的を達成する為には、貨幣の力を借りなければならないから、蓄財そのものを一概に非難すべきではない。 

 しかし貨幣の万能に惹かれて、魂を貨幣の悪魔に売渡し、蓄財それ自体が自己目的化し、その為にはあらゆる手段を講じ、他人を騙したり、あくどい収奪や搾取を行ったりするようになれば、社会的に害悪となる。

 むしろ貨幣が作り出す市場を通して社会的分業が形成され、そこに相互依存の経済関係が成り立っているのだから、そこでの自己の社会的役割を見直し、自覚して、自己の役割を発展させ、市場の弊害を除去する共同の努力を行うようにすべきである。その際、貨幣は交換する商品の効用ではなく、価値にだけ関心があるのだから、労働の具体性にはどうしても無関心になりがちである。別に金になりさえすれば何を作るか、どんなサービスをするのかはどうでもよいことになる。そこで具体的な自己の社会における役割を自覚するのが難しいのである。

 また貨幣の支配は事物の良さや効用を経済的な価値に還元する傾向を生じる。美術品の良さはその値段とは全く比例しない。しかし高く売買された絵画は、どうしても美術的価値が高いと見られてしまう。金さえ有れば、どんなことでもできる世の中だから、値段が高いものが良いものだというように誤解されるのも尤もである。

 こうして値段を意味する「価値」が物事の良さや効用一般を代表する言葉になった。その上、真善美やかけがえのなさそれに崇高性などおよそ値が付けられないものも、かえって真の「価値」があるとされた。これは経済的価値でないものこそ、本当に良いものだといわんとしてのことだが、貨幣の支配によって良さを「価値」で代用してしまったのである。かくしてなんらの共通性がみられないものが「価値」カテゴリーに統合されたのである。いかに精神が深く貨幣に侵食されているか分かる。

 物の値打ちが交換価値で計られるのは、経済的判断としては止むを得ないが、効用・真・善・美の判断、崇高さやかけがえなさの判断は、それに影響されてはならない。人間の値打ちも同じで、ややもすれば労働力の価値や、財産、社会的支配力で、人間そのものが評価されてしまいがちである。人格の尊厳における平等を基礎にすべての個性が最大限に尊重されるべきである。

 この人格の平等と貨幣がもたらす経済的不平等は深く関連しているので、人格の平等だけを維持して、貨幣による不平等を除去するのは並み大抵ではない。自由・平等・博愛は自由主義経済の原理であり、競争と競争による格差と表裏一体である。資本主義的な搾取の自由は労働力売買の自由であり、対等な雇用契約の結果である。そこでリベラル・デモクラシーの社会を維持しようとすれば、資本主義的搾取ぐらいは必要悪と考えて我慢すべきだという主張になる。

 自由な経済活動を認め、それを活発にするためには、事業を大いに発展させ、巨万の富を得ることが可能にしておかなければ、経済は停滞し、国際的な競争に負けてしまう。もし私的な企業活動を禁止し、それを国家的事業で行うとなると、権力が国家に集中しすぎて、上意下達の官僚主義になってしまうだろう。それこそ自由や平等は圧殺されてしまうのだ。

 実際ロシア革命の辿った経過を見ればあながち否定はできない。でも一党独裁体制の下での国有企業体制は、労働者の所有管理する社会主義とは程遠いものであったことは確認しておかなければならない。

 貨幣のもたらす市場経済の積極的役割を一旦認めてしまえば、それがもたらす弊害もすべて許容すべきだというのは乱暴な議論だ。市場経済の上に活動すべき事業の経営形態についても、弊害の大きい形態については禁止したり、弊害を軽減する為に法的に規制をするのは、かえって市場経済を維持発展させる適切な措置であるとも言えよう。 

 資本主義的搾取が不当だと考える世論が大きければ、資本主義的企業形態を禁止するのも貨幣の疎外を軽減する措置の一つである。ただしそれに取って代わる新たな企業形態が経済合理性の上で、資本主義的企業よりも優れたものでなければ、経済の停滞、国際競争での敗北に繋がり、結局は資本主義の復活を招くことになる。 

 現在の世界では資本主義的企業形態が最も市場に適合しており、当分の間は資本主義経済を継続せざるを得ない。したがって資本主義的疎外も甘受せざるを得ないが、もちろん手を拱いて見ていれば良いのではなくて、普段にそれを軽減する努力や工夫を試みるべきである。そうでないと疎外が原因で働く気概を喪失してしまうからである。

 また疎外論の立場は、疎外の直中で疎外を克服した生き方を追求するものである。それはカント的に言うならば「手段の王国」にあって常に「目的の王国」に生きるようにすることだ。実際には市民社会では貨幣が支配しているから、市民たちは利己心に従って行動し、互いを手段にし合っている。しかし同時に社会的分業の中で相互に補完し合い、依存し合って生きているのであって、互いの人格の尊厳を認め合い、互いを目的にし合って生きることも必要である。 

 そうでなければ貧富の差が激しくなったり、戦争や災害や様々な苦役や悲惨が起こっても、全くの自己関心に閉じ籠もったままで、放置するようになり、やがて激しい抗争や悲惨に巻き込まれるになる。だから私的利害を追求せざるを得ない社会にいる以上、私的利害を追求してもよいが、同時にそれが公共の福祉にいかに係わっているかに常に責任と関心を持ち、公共的自覚を持って行うべきなのだ。
 
        九、商品生産と疎外

 疎外論が行き詰まった最大の原因は、商品生産の普遍性が次第に「社会主義」経済の停滞と共に説得力を持ち、私有財産によってもたらされた疎外を止揚するというマルクス疎外論が、全く非現実的だと見なされるに到ったことにある。私有財産を止揚して共同体経済にすることが不可能だとしたら、商品生産や私有財産を人間の疎外された姿として批判し、疎外を克服しようとする発想そのものを却下した方が良いと思われたのである。

 マルクスの場合、商品生産や私有財産制度は歴史的形成物であるから、その矛盾が激しくなれば、歴史的に止揚されることになると考えていた。疎外もそれに伴って解消する筈だったのだ。マルクス疎外論の前提にはゾレン(当為・あるべき姿)からザイン(現実)を間違ったものとして否定する構えがある。類的共同的本質が人間のゾレンであり、これが私有財産・商品生産によって疎外させられている。しかしそれは人間の本来の姿に相応しくないから、人間はやがて耐えられなくなって、新しい共同体・自由人の連合を形成して、類的共同的本質を取り戻すのであるという図式だ。 

 ザインをゾレンから批判できるのは、実はザインがゾレンの疎外された姿であるからである。敵対的な社会の基底には社会的分業や交わり形成されており、ただ疎外された形態を脱ぎ捨てれば、ゾレンが表面化するのである。 

 マルクスは、経営まで労働者を雇用してやらせることができる株式会社を、最も社会化の進んだ企業形態として捉え、資本家無用を実証するものと評価していた。無論、株式会社は資本が最大限利潤を追求することによって進化した企業形態であり、資本主義的疎外の面でも官僚主義的管理が徹底して極端化する恐れがある。

 とはいえ株式の大衆化を通して、巨大な資本を元手に労働力や機械力を集積して巨大な規模で生産を行うようになる。それ故、資本主義的商品生産に携わっていても、単に賃金の為にだけ働くのではなく、自己の労働の社会的役割や責任を見据えて、誇りを持って働くことが大切である。

 しかし現実には過労死の危険に直面させられたり、様々な厳しい労働条件や生活環境の悪化に悩まされている労働者にとっては、それでもなお社会的分業を積極的に担おうとする気概を持続できるだろうか? 

 そのような疎外状況の深刻化に対しては労働者が連帯して生活と権利を守り、労働条件の改善の為に共同で努力し、労働運動を発展させる必要がある。労働運動を通して、自らの社会的分業を担う直接生産者としての自覚と使命が成長するのである。 

 ゾレンが形而上学的に頭の中で勝手にでっち上げられた理想でしかなければ、その理想からザイン(現実)を批判しても、それは批判の為の批判、ひとりよがりの批判に過ぎない。マルクス・エンゲルスが『ドイチェ・イデオロギー』でヘーゲル左派を批判したのもこの視点からである。 

 ザインを疎外されたゾレンと見なすのは、商品生産の場合、それは商品生産が価値を本質とする商品を生産していると同時に、使用価値(効用)を生産しているからでもある。単に効用生産の分業体系であれば、疎外が生じないのに、それを価値生産として行わなければならないことによって疎外が生じるのである。

 商品生産を伴わない共同体的分業は部族内あるいはフラトリア(母氏族)内に限定されたものであった。それが血縁を越えて無制限に広がるには商品交換が必要で、それと共に人間固有の疎外が発生したのである。商品生産の発展が文明の発生や発展を支えてきたのだから、商品生産に伴う疎外を止揚しようとして、原始帰りをするわけにもいかない。商品生産を克服した方が生産性の向上が計れるような、疎外のない生産様式に辿り着くまでは、商品生産は継続せざるを得ないのである。
 

 商品関係によって覆われている社会的分業の共同性や、生産者と生産物、生産者と消費者の有機的な繋がりに注目して、疎外の中で疎外を克服するような生き方を追求すべきなのである。 

 首飾りと筵の交換を例に取ろう。交換発生以前には首飾りを作るのは筵を手に入れる為ではなかった。あくまでもその首飾りが自分自身か自分の身内(フラトリア内の全構成員に対して身内意識がある。)の首を勇壮に飾る為である。自分が作った首飾りが身内の首を引き立てることに成功すれば、彼は相手の満足に自己実現を感じ満足する。

 そして首飾りによって自分と首飾りを送られた相手が一つの身体的に結合するのを感じるのである。何故なら首飾りは自分の生命発現として、自分自身の非有機的身体である。つまり細胞や器官的には繋がっていないけれども、自分自身の定在として首飾りは在るのだ。それが相手の首に在る限り、二人は一つの身内なのだ。 

 そして全く駆け引き無しに、相手は筵を送ってくれるのだ。この送り合いは互いに無償の奉仕なのだから。筵は尻に温かく優しい。それは相手の私への思いやりであり、厚意である。まるで肌を温め合っているような一体感を感じて満足する。その満足が相手を無上に喜ばせるのだ。そして互いに相手の満足をもっと得て、自分ももっと満足しようと労働に精を出すのである。

 ところが商品交換だとそうはいかない。首飾りを作るのは筵を手に入れる為の手段に過ぎない。彼は首飾りが相手の首を勇壮に飾ることそれ自体が目的ではなくて、そのことで相手がそれと引換えに筵をくれる事が目的なのである。だから彼の喜びは筵の暖かさの感触のみであり、首飾りの装飾性にはない。彼は筵に化ける首飾りを作っているのであり、筵よりはむしろ首飾りを作っているつもりなのだ。 

 したがって彼は首飾り作りに自分の生命発現、自己実現の喜びを感じることはできない。むしろ首飾りという自己実現行為によって自己喪失を感じるのである。つまり筵を手に入れる為に払わなければならない犠牲として首飾り作りを捉えているのである。だから出来るだけ少ない時間に、出来るだけ沢山の筵と引き換えられる首飾りを作ろうと努力する事になる。その意味で交換による疎外の中でこそ、単なる厚意や誠意、愛情による工夫だけにまかせていてはとても出てこない経済合理性が成立したのだ。

 彼の首飾り作りと相手の筵作りの差異は捨象され、同じ抽象的な人間労働としてどれだけの手間暇を要したかだけで、どちらが得か損かを考えて駆け引きするのである。つまり両者の関係は相互支配である。彼は首飾り作りを筵を作る人に対する従属的奉仕と捉えており、相手の筵作りを首飾りによって支配しているつもりなのである。首飾りや筵は互いに支配し合う為のくびきに過ぎない。それは両者を一体の身内として融合させるのではなく、反対に外的に全くの他者(よそもの)として対立的に束縛し合うのである。
 
           十、「商品生産の疎外」克服の論理

  しかし実際、敵意を持っている者同士が相手を信用して商品交換ができるだろうか?商品交換は平和的友好的な関係であって、互恵の精神の上に成り立っているのではないかという反論も想定できる。別に商品として生産しても、やはり消費者に満足を与えることが生産者の喜びになり得るのだ。それ程極端に商品生産の疎外を捉えるのは不自然だという批判も想定できる。 

 だが融即の世界から物と物の対峙する交換の世界への転回、ホモ・エコノミクスを交換主体、労働主体として始めて成り立つ価値法則の支配は、商品交換に内在する論理から由来したものである。純粋に交換の論理を抽出すれば、他者は全く手段化して捉えられることに成らざるを得ない。

 とはいえ、効用を生産するには社会的分業に組み込まれなければならないし、たとえ交換に媒介されての事であっても、相互依存関係を疎外の基底に見出すことは可能である。一方で互いに経済合理性に徹する価値の論理を踏まえながらも、社会的な共同、公共の福祉を反省することができるのである。 

 そして商品生産の疎外からくる抽象化された味気ない労働を少しでもやり甲斐のあるものにするためには、共同体的な論理を反省して、消費者の喜びを喜びにする生産者であろうと努力するのである。

 倫理的な努力は、現実の商品経済的効果が無ければ継続できない。もしこうした共同精神に基づく労働が、労働意欲を高め、仕事に打ち込む中で生産性の向上をもたらし、より多くの価値獲得に成るのでなければ、お人好しの無駄な努力として一時的に終わってしまうのだ。 

 文明の疎外を問題にし、生産性の向上を目指すことに反省を迫るポスト・モダンの思潮は、大工業を解体し、小規模で自然の循環の許容範囲の生産力に戻すことを主張している。しかしポスト・モダンの考え通りにしてしまうと、競争力が落ちるので、みるみる他国と技術格差が大きくなり、経済的・政治的・軍事的に他国の脅威に晒されることになる。要するに生産性において商品経済を凌駕できる生産システムに到達するまでは、商品経済を継続しなければならず、商品経済の内部にあってこそ、商品経済の疎外を克服する様々な工夫を積み重ねる事ができるのである。

 交換発生以前は、融即の論理が貫徹していたのだ。フラトリアや部族等の共同体は一つの身内として共同の身体を成していた。人々はその器官や細胞として存在していたのである。身体と土地や自然環境、道具と生産物は共同身体を構成する要素を成していた。互いに不可分離な関係にあったのである。 

 ところが交換によって他者間の取り引きになると、融即は崩れ、人々は互いに他者として疎遠に対峙するようになり、生産物が商品となって生産者と切断された。そして生産物どうしも互いに疎遠な外的な事物として対峙し合うようになった。かくして有機的な全体的自然は、ばらばらで疎遠な事物の集合として捉えられるようになったのだ。 

 こうして人と人、人と道具、人と生産物、生産物と生産物、物と物の疎外関係が成立した。これが世界を事物の集合として認識し、主観・客観認識図式に基づいて、事物とその属性の関係を主語・述語によって表現する正式な言語の成立を促したのである。人はそれまで動物的な融即の論理にあったのだが、そこから脱却して正式に人間的段階になり、文明を開く基ができたのである。 

 ということは商品的疎外は人間が人間固有の論理に到達してからずっと続いているのである。だからこれを脱却するのは人間が次の段階に行くぐらいの飛躍を伴っているのである。だから商品的疎外の克服は無理で、マルクスの目指した新しい共同体は単なる夢想に過ぎないと考えるか、人間が疎外克服の努力を諦めないで積み重ねていけば、いずれはヘラクレスのような力が身について、疎外を克服して自由人の連合を形成できるかもしれないと考えるかが問題である。 

 ただ言えることは、ホモ・エコノミクスに徹してもそう簡単に貨幣を獲得できるわけではないし、そのことで疎外がますます深刻に成るばかりである。労働そのものに自己実現の喜びを見出し、市場で結ばれた人々と連帯しようとする姿勢を持つことが、疎外を軽減し、しかも価値獲得にも成り得るかもしれない。そのような解放的で現実的な思想に疎外論を発展させれば、新たな共同体が疎外された社会の中で着実に精神的優位を取り戻すことができるかもしれない。 

 そこで思い出されるのは「共産主義は未来ではなくて、共産主義を目指す現在の運動である。」というマルクスの言葉である。これはバイブルの「神の国は心の中にある。」という言葉と似ている。たしかに未来に理想社会が実現して、現在が理想実現の過程であるとすれば、歴史の進歩に貢献するために努力するのはやり甲斐のあることである。 

 ところが現在は歴史の曲がり角であり、社会主義、共産主義への発展方向は大きく挫折してしまっている。おそらく新しい共同体の形成は、数百年単位、下手をすると千年単位で数える程手間取るかもしれない。 

 元々未来は現在における可能性に過ぎず、過去は現在の記憶に過ぎない。常に今あるのは現在のみである。現在において何らかの意味で納得できる生き方、解放された生き方ができていなければ、その延長線上の未来も決して解放されないだろう。現在の疎外の直中での解放をこそ目指さなければならないのである。 

 家族・友人・職場・町内からでもよい人間関係を改善し、社会を明るく、自然を美しくするような協同の営みを積み重ねることが大切なのだ。それが今日的には「協同主義(コミニュズム)」なのである。

 疎外論は現在の矛盾に満ちた、人間が人間らしく生きられない疎外された現実を告発し、それをひっくりかえして人間的社会を実現する疎外革命論として受け止められてきた。それせいで現実の壁が思いの外堅固で、とても克服できないし、避けられないものと悟ってしまうと、疎外論自体を却下せざるを得なくなったのである。だから疎外論を再構築するにあたっては、疎外の現実の中で、いかに疎外と闘いつつ、疎外された姿のままで人間性を実現できるかという姿勢を確立しなければならない。

 



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