グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版1− 

グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版2−

グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版3−

グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版4−

グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版5−

目次

 

投稿者:やすいゆたか  投稿日: 626()182332

(立ち上げ挨拶) 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 626()185644

「グローバル憲法草案をつくる会掲示板」を立ち上げました。グローバルな統合の時代に入りつつある現在、世界統合の理念とルールを明確にしていく必要があります。それが「グローバル憲法」ですが、これは国連での議論にまかせていたのでは、いつまでかかるか分かりませんし、国民国家相互の利害が絡んで我々グローバル市民の納得のいくものはできないでしょう。グローバル憲法はあくまでも我々グローバル市民の衆知を集め、審議をつくして作り上げられるべきものです。
 最初から誰かが草案を作ってしまって、それを叩き台にするのではなく、各自が自由に自分の関心の有るところで自由に意見を述べ、それに対して自由に批判しあう中で、次第に草案を作り上げていく形をとるべきでしょう。この議論は当然グローバルな規模で展開されるべきですので、英語版や中国語版も必要です。ボランティアで翻訳を担当してくださる方の参加も期待します。


2とりあえずおもいつき(てきとー)です  投稿者:rinri  投稿日: 626()192101

どーもrinriです。(はじめまして、ではない)昨日のお話は、「実現プロセスよりも理念重視」「これから民主的にアイディアを募る」と理解しました。
ぼくの姿勢としては……。個人的には、完全「個人主義」から「国際法」を演繹する方向で構想しておりますが、あまりにも迂遠ですので、この場では、「それ系」は抜きにして、「お手軽な」感じで述べてみたいと思います。
グローバル・デモクラシー? もちろん、グローバル化 同様、押し付けと感じる 諸国もあるでしょうが。
(民主的共和制直接民主制契約(選択)民主制……?)
まず、基本中の基本ですが、最終形として「世界政府」のような共同体の統一場が、射程に入っているか否かです。それによって、描かれるイメージが大きく変わります。
世界政府>政府>地域政府という階層構造の問題が生じます。世界政府は、現在ならEUで置き換えればよいでしょう。このとき地域政府の独立度は、……地方自治体<州<地域政府……として、むろん、位置づけられるわけです。
次に、諸国家「統一」の、もしくは国家間「共通」の結束原理として、「権威」と「権力(決定)」をどうするのか。
「理性」と「議論」で代替しきれないなら、宗教(神秘)とある種の独断(独裁)的要素を、ある国に認めるのかどうか。
(これは御専門でいらっしゃるので)デモクラシーとセオクラシーの相克というようなことにもなってくるのだと思います。(または……国際法としては言及しない、とか……)
国家がアソシエーションに少なくとも「属さず」、「還元(分解)されない」場合には、国家は二重の意味(権威と権力)で、特「権」的でなければならないわけです。これを「主権」という表現にして、
向けられる対象で分けると、国家(政府)の「外交的主権」と「内政的主権」になるかもしれません。
もっとも、世界政府が有る場合、世界政府に着目するならば、当然そこには内政的な特権しかありませんが……。権威と権力には、共有される物語……社会通念に昇華された支持、それと制度(法・憲法)が対応するのかもしれません。〔……世界憲法(憲章)として視る?〕
しかし、世界で共有できるのは、特定の物語のイメージではなく、極度に分かり易い論理でしょう。しかも分かり易い論理が「互酬」をもとに組み立てられると紛争が絶えないかもしれません(今がそうです)。これは、核となる倫理の問題です。それから……、おっしゃるような、軍事・貿易(直接経済)、環境・人権……といった「トピック」の列挙ですが、前二者と後二者は別の系として分ける、……つまり、「それぞれで親密なグループ」として捉える……ほうがよいのでは、と思います。
もちろん、経済と環境は密接ですし、今後は、環境を意識することが即ち、「生産(直接経済)」にもなるわけです。ただ、やはり、旧来の枠組みである、軍事・企業・開発といった「富と行き過ぎ」の側、環境・人権といった「倫理による抑え」の側に分けたほうが分かりよいでしょう……
特権……上位政府に委譲されうる、課税・徴兵、司法・立法、通貨発行。
(1人で走っても意味がないので、このあたりでやめます)

グローバル政府について 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 627()002930

この掲示板は、決して世話人である「やすいゆたか」が質問を受け、それに答弁をすために設置したのではありません。ですから、この掲示板をごらんの皆さんが自由に討議に介入していただいて結構です。ただしいかなる自由な討論といえども、そこにはおのずと限界があります。暴力的な破壊を煽動する論調や人権を蹂躙する言論を野放しにするわけにはいけませんので、世話人の管理責任として、掲載を取り消す場合もありますのでご了解ください。
 rinriさんの問題提起につきましても、皆さんで自由に論じてください。「グローバル・デモクラシー」がグローバル憲法の精神であり、グローバル政府の政治原理です。グローバル・デモクラシーの内容につきましても、各自イメージが違うでしょう。当然全人類的福祉を優先するということになりますが、それは単純に人口の多い国民国家の利害を優先するということではありません。あくまでも何が全人類的な福祉にかなっているかについての全人類の総意(普遍的な意志)を形成するということなのです。ここからもグローバル政府意思決定については特別の工夫が必要だということが分かります。
 グローバル政府は、果たして近代国民国家の同様の代議政治の形態をとるべきなのか、執行機関や元首を設ける必要があるのか、またグローバル政府は主要な国際機関の不断の調整過程として存在すればよいのかについても、大いに議論されるべきです。また既成の国際機関というのは結局は近代国民国家の利害調整と協力機関でしかありません。これらを真にグローバル市民に開かれたものに改革していく方途も探る必要があります。
 私の見解では、近代国民国家の限界は露呈しており、さまざまな重要問題は、グローバルな政府が存在して、その政府がグローバル・デモクラシーの立場にたってとると思われる調整にしたがって国際協力が為される限りで解決されるのです。その意味からも「グローバル憲法」が存在する必要があるのです。大変抽象的な議論になってしまいましたが、東アジアの経済危機、集団的安全保障体制と「日本国憲法第九条」の関連、地球環境問題、TT革命と知価暴落問題等等、教科書問題も含めて、「グローバル憲法」が政策立案の基礎となるのです。
 私も今日のところはこの辺で発言を切り上げておきます。


4グローバル憲法は海外派兵につながらないか? 投稿者:川口圭二  投稿日: 627()223508

二十一世紀がグローバルな政治的経済的統合が進展していくであろうことは、長期的には見れば確かでしょう。そしてグローバルな安全保障の問題でも、それぞれの国民国家はその経済的な力に照応する応分の負担を求められるでしょうし、ただお金だけ負担して、軍隊を派遣しないでも何時までもすむはずはありません。「グローバル憲法」を批准すれば、自衛隊の海外派兵は避けられなくなってしまうでしょう。「グローバル憲法」ができてしまえば、当然グローバル・スタンダードが幅を効かして、日本の特別の事情考慮した「憲法第九条」などは、たちまち変えられてしまいます。

5国民国家は軍備全廃すべきである。 投稿者:鈴木淑郎  投稿日: 628()201331

「グローバル憲法」は世界政府を前提にしているのですから、軍備は世界政府の警察軍だけにして、各国の軍備は全廃すべきです。とは言いましても、一足飛びにはいかないでしょう。でもまず「グローバル憲法草案」にはその旨明記すべきです。その上で、その方向に向けて各国が世界の安全保障にどのような役割を果たすべきか議論するのです。その場合、せっかく軍備を既になくしている国に派兵を求めるようなことは有り得ないでしょう。軍備を率先してなくしている国の安全保障は国連などで保障すべきです。そうすれば「憲法第九条」を持ちながら世界有数の軍事予算を組むこともないわけです。その経費は平和目的や国際友好、途上国援助などに使えばいいのです。
 ただし世界政府の警察軍にグローバル市民の立場から、個人的に非武装国の国民が参加するのは差し支えないと思います。現状では日本の安全保障は日米同盟に頼っている形であり、世界有数の軍備を備えています。にもかかわらず「憲法第九条」を口実に、集団安全保障上の義務を果たさないのは、身勝手過ぎると国際的に判断されても、説得力の有る反論はできないでしょう。

(無題) 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 629()200403

「グローバル憲法」もこれまでの宣言や憲法の精神を踏まえたものでないと、全人類的な合意を形成することはできません、世界の恒久平和を実現させるためには、「集団的安全保障」の考え方を踏まえておく必要があります。この考え方は、まず全ての国々が参加する条約機構を作ることです。その条約には、互いの領土尊重(相互不可侵)、内政不干渉を約束した上で、もしこの約束を踏みにじる国があれば、他の全ての国々が一緒になって共同制裁を加えることになっています。
共同制裁を加えるのは、すべての条約機構参加国の義務なのです。この考え方はすでに国際的な合意があるものなのてです。
 当然軍事力での共同制裁参加義務が、原則的には、どの国にもあるわけです。とはいえ軍事力をもたない国は常備軍を全廃するという集団的安全保障の目標を率先して達成しているのですから、軍事面での共同制裁義務は免除されて当然です。日本のように非武装国のような憲法を持ちながら強大な軍事力を持っている国は論外ですが。グローバル憲法によって非武装国に対する集団的安全保障の保障を行えば、日本は強大な軍事力を保持する名分を失ってしまいます。「憲法第九条」を
守り、それを各国に普及するためにも、「グローバル憲法」を作る必要があるのです。
 「グローバル憲法」による安全保障がなければ、「憲法第九条」を文字通り実施するのは不安だということで、解釈改憲されているわけですから、その意味からも「グローバル憲法」は改憲派も反対できないはずです。もちろん理想論に過ぎないという批判はあるでしょうが、いつまでも各国が強大な軍事力を競い合う情況を続けるのは大変危険です。オウム真理教のようなカルトでさえ、最終兵器を貯蔵できる時代ですから、小国家に世界の死命を制せられることにもなりかねないのです。一日も早く軍事力のグローバルな管理体制を構築し、完全軍縮への道すじをつける必要が有るといえます。そういうグローバルな視点を提供し、問題提起するためにも、「グローバル憲法草案」を我々が作る意義があると思います。

7全世界に発信し、全世界から受信する権利 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 630()210208

「グローバル憲法」は21世紀版の「世界人権宣言」としての内容を持つべきです。21世紀に相応しいし人権として「全世界に情報を発信し、全世界から情報を受信する権利」があげられます。既にインターネットを通してこの権利は現実のものとなりつつあります。ただしこの権利を行使するためにはバイリンガルな語学能力が必要になります。それは個人の努力によって勝ち得ていかなければならないとともに、自動翻訳機械の発達によって実現されていくでしょう。この権利は全世界にメッセージを伝えるだけでなく、グローバルな情報の共有によって、グローバルな協同の機会を創出することになります。その意味で「グローバル憲法草案」つくりの運動も少しでも早く、英語や中国語版を実現させる必要があります。
 「世界のどこででも働き、事業を展開する権利」なども重要ですね。外国人労働力の急激な増加は社会不安を生む恐れがありますので、この権利をあまり性急に各国民国家に要求すると、排外主義者たちの運動を活発化させることになりかねません。それでもこの権利を先ず確認し、それが可能になるように、年次目標を定めて、施策を推し進めるように各政府に圧力をかけるべきです。

8もうひとつ。 投稿者:rinri  投稿日: 7 1()103805

とくに質問というわけではないです……。その意味を噛み締めているところ……。  全世界に発信し、全世界から受信する権利世界のどこででも働き、事業を展開する権利全世界との"交(受・発)信権"はありがたい。「ドコでも労働」権もありがたい。ぼくも、流動(放浪)労働や、のんびり的(動線迂回の)日常を考えていました。(これ、ゼンゼン関係ないです)
ただ……。少なくとも、両方とも……権利を行使できるのは、語学に堪能な人か、(未来の)高度な携帯翻訳機(/ソフト)を買える人、ということですよね。いや……その前にネットに接続しないと。……いわゆるデジタルディバイド……。そしてバイリンガルな語学能力ですか。つらいなぁ、痛いなぁ。生まれてこのかた勉強サボってきて、ごめんなさい。義務をともなう……と。(義務自己教育……)
いやいや、義務じゃなくて……権利を行使したい人だけが努力するという任意……なんですよね?倫理……道徳……努力目標?しかし、ほんとうに【権利】なら、どこかの夢の国のように、翻訳ソフト(ブラウザつき?)を配布(=支給)してほしいなぁ。そんなわけにはいかないですよね。あつかましいかなぁ。フリーターじゃ買えなかったりして。だから、【フリーターはダメ】なんだ……(任意低所得者……)つぶやき……ひとりごと……「以上」。【闘い】は、まだ始まったばかり……(ぼくばかり投稿してすみません←↑↓↓)

9掲示板の内容は万人が理解できる表現で 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 7 1()100356

rinriさんへ、この掲示板は全ての人々が「グローバル憲法草案」作成に参加するための議論の場です。ですから誰もが理解できる表現に噛み砕いてから投稿し直してください。かりに私がrinriさんの投稿に対して、理解できる範囲で応答したとしても、大部分の人々を無視して議論を進めていることになります。それでは全人類を包括すべき「グローバル憲法草案」づくりの「討論の大衆性の保障」という暗黙のルールに反することになってしまいます。
10
了解 投稿者:rinri  投稿日: 7 1()104121

了解しました。申しわけありません。お手数ですが、できましたら、その1とその2の削除をお願いいたします。

11rinriさんへ 削除しました。投稿者:やすいゆたか  投稿日: 7 1()153711ご要望により削除しました。権利の行使には、それなりの権利の行使を可能にする条件が必要であり、市民社会や国民国家やグローバル社会が提供してくれる場合や、かなりの個人的努力を伴って始めて享受できる場合があります。ところで自動翻訳ソフトは「エキサイト」という検索エンジンで無料です。性能はまだまだですが、日進月歩でしょうし、こういうもの(知的情報や音楽情報)はどんどん無料でいいものが提供されていくようになるでしょう。 


12投稿者:rinri  投稿日: 7 2()221539

どーもッス。さーすが……、「権利の行使」にともなう諸条件、というところにつなげてきましたねー(すぐには気づきませんでしたよ)!そーです。みなさんが下のほうで問題にされてた「常備軍」もですねー、これですよねー。
軍拡再生産ですか……。冷戦が終わってもやっちゃってますねー。つまりですね、世界精神は、初期設定で、ずんずんゆきますね。(オートマトンですかぁ。)制御がきかなくなりますね。大きな軍隊が何をもたらすか……ですかー。シミュレーションですねー。
(A standing army is itself a cause of war.なんじゃこれ?)
あとは、抽象論を馬鹿にしてる人たちに、どんな「絵」を見せるか……ですね。えーと、権「威」のほうね……。身体性のね、絵ですけどー。皇室とか王室とか、わかりやすいやつね。
勇壮な絵がオールナイト上映されてるときに、瞼を閉じて、どんな「夢」、見るんでしょうかー。
なーんも考えてない万民主義、万ざーい(煽ってないっすヨ)。
これ怖いけど、突っ走る万民、怖いっすよー。群集、雑踏、踏みつぶされますよ。ゲートが開かれた議論はね。万民(主義)、犯ざーい?
どう制御するんすか……諸条件でー。ここでクイズです。この世で、いちばん怖い権利はなーんだ?(。……え答。すで権主民国)
衆愚じゃないですよ。シュールです、無意識が真実の。
敵さん(誰?)、万民つかってきますよー、傀儡国民。制御というよりも逆制御、衆愚制御に逆衆愚制御ですかねー。難しいですかー。(ぼくも、けっこー頭わるいっすよー)
いゃー、いまみたいな民主主義ごりごりっすよ。
選挙あんでしょ。地域政府で予備選挙して、よッ大統領、みたいな……。なんせ民主的共和制的世界政府ですよー、大統領は権「威」も兼ねますよー。世界の顔ですよ、顔。……身体性、でてきましたねー。わかりやすい人、怖いっすよー。わかりにくい人、マジっすよー。俳優だって、大統領になると押しますよー。
(プッシュはもっと押しますけど……←ここ、へんしゅーで削除!)
こんどは世界政府ですからねー、どんなパワーなんですかねー。
権利の行使ですかー。諸条件ですかー。
ミクロからマクロですかー。けっきょく権利・義務カンケイですかー。??
こんどはね、まちがいのない……ね、原理的に、ですね、多角的に、
ですね……、でも人数いても、いるほうがね、なぜかー、
一面的になんだよね、これが。なーんでか?いやー、真理だねぇー。
(すべっちゃってたらごめんなさい。けっこう頭、ワルいっす……)

 

13(無題) 投稿者:鈴木淑郎  投稿日: 7 6()194113

rinriさんの懸念はいちいちもっともな気もします。ですから世界政府を性急に作らなくても、世界政府があって、それがグローバル・デモクラシーに基づいて打ち出すであろう政策に沿うような形で、国際組織や各国民政府が自らの政策を調整するようになればよいわけです。そのためにも『グローバル憲法草案』で全人類が共有すべき「集団安全保障の理念」「宇宙船地球号の理念」「グローバル・デモクラシーの宣言」「グローバル市民の人権宣言」「グローバルな経済調整のルール」などを明確にしておいて、それに基づいて考えるようになることが望まれるわけです。

 

14プロローグ。 投稿者:rinri  投稿日: 7 9()231633

鈴木さんが整理された方向で、『共有すべき「憲章全体の理念」「グローバル警察による武力的安全保障」「デモクラシー」「人権」「全体の経済調整のルール」「その他の理念」の明確化』を進めることに特に異論はありません。また「国軍」全廃については……「国家の枠を外して警察に個人参加するような全地域的貢献」か、「国家間の調整として、先に軍備を放棄した国の集団安全保障離脱を、理念の実現への功績として積極的に位置(意義)づける」か併用か、は別として……賛成できます。
ところで、各理念の「明確化」に先だち、理念の枚挙……原理的に網羅できなくとも、憲章で取り扱うべきいかなる問題が存在するのか……「その他の理念」にまつわる周辺領域に具体的な点検を巡らせたいと思います。近代を超える少数派志向……純粋「個人」主義の問題はともかくとして、憲章という「免疫」が最終的に「抗原」とする「社会」悪が何なのか、社会構造に対して一段ふみこんだ議論が必要だと考えます。今まで、政治・史・法・人権の範疇で充分に扱われてこなかった、しかも常に背後に横たわり、表層の解決を阻んできた見えざる絡繰り、いわば社会の仕組みからくる「人の苦しみの全て」について、国家をあふれ出、世界を身体として、有機的に作用する「つながり」を見てゆきたいわけです。
そのためにもこれから、つたない「一続きの」「試論」を……要するに、まだ咀嚼は充分ではありませんが……展開させていただきたく思います。完成度……個々の詰めよりも連関を見ていただきたいのと、つまり、試論ですから一石を投じる意味として御理解いただきたく思います。分載するか、や、降べきの順に並べるかどうか、は、まだ決めてはおりません。
(不活発化に対し、……掲示板の議論を低迷させた当方ですから……、また裏目に出たらごめんなさい)

15「試論」掲載について 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 710()084830

rinriさんの「試論」掲載うけつけます。ただし文量が長い場合は、yasyut@geocities.co.jpに
eメールで送付してください。「やすいゆたかのHOMEPAGE」に特設します。


16『十七条憲法』の改作 投稿者:吉田文也  投稿日: 8 9()100304

『十七条憲法』の改作の試み
「一に曰く、和を以って貴しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず。また隣里に違う。しかれども、上和ぎ、下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん」これをグローバル憲法に相応しく改作してみよう。
「平和と友好、協調の精神を大切にし、相互の信頼関係を損なわないように努めよう。人間だれしも自分の属する集団の利害や党派の狭い見解に囚われて、物事の普遍的な道理が分らなくなりがちである。それで人類共通の利益を損ない、それぞれの地域の公共性に背くことになってしまう。しかしながらまず人類愛や隣人愛を大切にし、自分だけでなく相手の身にもなって、皆が幸福になれるように情報と智慧を出し合って話し合えば、自ずと物事の道理に叶った皆が納得できる共通の認識と解決策が生まれるものである。そうすればいかなる困難な問題も全人類的協同によって解決できないことはない。」

17『十七条憲法』の改作の試み2 投稿者:吉田文也  投稿日: 810()103736

『十七条憲法』の改作の試み2
「二に曰く、篤く三宝を敬え、三宝とは、仏と法と僧なり。すなわち四生の終帰(よりどころ)、
万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人はなはだ悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉れるを
直(ただ)さん。」
この条文は仏教の国教化宣言のようなものですから、そのままではグローバル憲法には相応しくありません。それではグローバ統合の時代における普遍的な統一原理はあるのでしょうか。それは「大いなる生命の共生と循環」の思想であり、政治思想としては「グローバルデモクラシー」です。
「互いに信教の自由を尊重すると共に、大いなる生命の共生と循環の原理やグローバル・デモクラシーの精神を学び、その実現のために尽してきた人々を敬愛しよう。またその実現を可能にする制度や文化を尊重しよう。またその原理を体現しようと励んでいる人々を大切にしよう。大いなる生命の共生と循環の原理やグローバル・デモクラシーの精神は、未曾有のサバイバルの危機に直面している人類が到達した最後のよりどころである。この全人類的普遍妥当的原理によらなければ、国家や企業や宗教団体や諸個人などの集団的あるいは私的利害の対立が深刻となって、結局は世界の平和や地球環境が大崩壊することになりかねない。」
 以上の条文もやはり一つの信教を押し付ける原理主義であり、グローバルな規模での環境ファシズムになるのでしょうか。反論を期待します。

 

18『十七条憲法』の改作の試み3 投稿者:吉田文也  投稿日: 812()231710

『十七条憲法』の改作の試み3
「三に曰く、詔を承りてかならず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載す。四時順い行いて、万気通うことを得。地、天を覆わんとするときは、壊るることを致さん。ここをもって、君言(のたも)うときは臣承る。上行うときは下靡く。ゆえに詔を承りてはかならず謹め。謹まずば、おのずから敗れん。」これは明らかに天子の命令に役人は服従して、実行しようというもので、民主主義の体制にはそぐいません。しかし民主主義でも皆で決定した約束や法律は皆で守るというのが基本的な原理です。グローバル憲法ではグローバル政府の議会や国際機関で合意された条約を誠実に各国政府と人民が遵守しなければなららいという原理になります。
「グローバル政府の議会(各国民国家の代表で構成された上院と、人口に比例した地域代表で構成された下院の二院制)や各国際機関で合意された条約を、各国政府および人民は誠実に遵守する義務を負う。もしグローバル政府の決定を各国政府や人民がそれぞれの都合で踏みにじると、地球全体の安全保障、経済秩序、地球環境などが崩壊の危機に直面することになる。したがってグローバル市民の自覚において、グローバル憲法ならびにそれに基づくグローバルな法秩序を守る義務を全世界の人民は負っている。」



19高橋準二さんを悼む 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 916()113222

大阪音楽大学の高橋準二氏が亡くなられました。九月十四日午後二時でした。彼は『グローバル憲法草案』作りには大きな関心を持っておられました。病状が回復されれば当然、この活動の中心的な論客になられていた筈です。彼の死はその意味でまことに残念なことです。彼の遺志を継いで、この活動を、ますます盛んにしていきたいと思いますので、掲示板への投稿よろしくお願いいたします。

 

20世界(に。死闘の宣言と心構え) 投稿者:rinri  投稿日: 924()003430

 訃報(案内)は届けていただきましたが、高橋準二さんには一度も、お目にかかっていないと思います。哲学学校への出席率は一、二を争う(講義と分けてかんがえれば二、三次会へは一番でありましょう)当方ですから、最近も見えておられたなら存じあげていたのでしょうが、ご病気だったのでしたら……
 先日、二次会の席で、その件が話題にのぼり、お会いしてみたかった、というひともいらっしゃったと思いますが、興味ぶかかったのは、哲学学校で「唯一」客席に座られるかただった、という御話です。これはつまり、自ら「講師・司会に推されやすい肩書き」をもっておられながら「一般市民と対等である」という意識が「明瞭」で在られた、ということなのでしょう。
 哲学学校には、よい意味で「学者離れ」したかたが「多く」おられます。それでも「業界体質」を抜き去るのは容易ではないと思われますので……
(惜しいひとほど、花のごとくに「儚く」散り逝かれるものなのでしょうか)
 つぎの、ややおおがかりな「触法精神障害者問題」の集会でも、自由討論を圧迫するパネラーの多さが問題にされています。高橋さんへの客席に座られていたという、ある会員のかたの「印象」・「追憶」は、「重い」評価だったというわけです。
(諸般の文脈から、御冥福という「表現」は、ここでは控えさせていただきます)
 当方は、遺志を継ぐ、というような立場ではありませんが、恐らくは、故人の「大きな関心」と一脈つうずる「ある思い」で、「世界」全ての「一筋の」諸問題と取り組んでゆきたいとかんがえています。
 さて、久しぶりに、こちらの掲示板に戻ってまいりました。(結果的に「放置」してしまっていましたが、「さいごは」世界に戻るというのが……)
 掲示板に限らず、論争では、ひとを傷つけてばかりいる当方ですけれども「論争での」傷は、当方の意図がわかれば癒えるもの、であってほしいと冀うばかりです。
 むずかしいとはいえ、論争に私情は禁物です。論争相手への「思い遣り」も、結論の内側には反映させないほうがよいと思われます。(まわりに敵をつくってしまいますが、会うことのない世界のひと、そして己亡きあとの「世代」にも、遺志をも超えて「内容」をどれだけ伝えられるか、という厳しさを思えば……)
 それに、議論というものは皆でかんがえるものではあっても、けっきょくは、ひとりでかんがえなければならないものでしょう。皆によびかけても、場合によっては、(じっさいには、)ひとりで「動く」しかないのかもしれません。「多少」覚悟の要る分野に思えます。
 それでも、そうやって世界のひとと「最小限」共有「できる」「原理」を「掘り起こして」ゆきたい……
 高橋さんの御人柄とは対照的だとしても、様々な「たくさんの」ひとびとの、ある「ひとつの願い」として。

21世界市民の倫理 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 925()000814

世界市民の倫理は、当然こちらで議論すべきでしょう。三郎さんのいう「共同体の外部」という言葉には、抵抗を感じます。なぜなら共同体と世界とが頭から対立させられているからです。本来、世界にとって最もよいことが、日本にとっても最もよい筈です。ところが現実にはそうでないのは、日本が間違って自己の利害を認識し、方向を誤っているからです。イスラム共同体についてもイスラム原理主義者が、今日のイスラム共同体のあるべき姿を間違って認識しているのです。
 イスラムは、神の意志への絶対帰依を説くものですが、その神の意志は全人類の統合と自然との循環と共生のグローバルな世界を作ることに有ります。そのための宗教的な和解と協調こそ求めているのです。その見地からユダヤ人とも対話すべきです。外部に立てと言っても感情的に反発されるだけで、真に内部に立つことが同時にそれを超越することにつながるのかもしれません。

22宗教的不寛容にたいする寛容 投稿者:やすいゆたか  投稿日: 925()185922

宗教の中には他宗教に対する排他的主張が大なり小なりみられます。排他的な宗教が勢いを増してきますと、他宗教に対する排斥が政治的・経済的・社会的なさまざまな形で強くなりますので、社会の対立・分裂が激しくなり、社会の安定や平和の脅威となり、信教の自由が著しくおびやかされることになります。そこで宗教的不寛容の要素の強い宗教や宗派が、社会全体の自由と平和のために宗教活動が制限されたり、禁止されたりするのです。グローバル憲法を制定するにあたっても、
この問題はよほど慎重に取り扱う必要があります。イスラム原理主義やキリスト教原理主義の活動が人権や平和と抵触する場合に、その活動を制限したり、取り締まる必要がありますし、オウム真理教のようにテロ集団化した場合には断固として壊滅させる必要があります。どのような規定にすればよいか、どなたかよい案を提示してください。

23原則の原則。 投稿者:rinri  投稿日: 925()204745

 「よい案」ではないのですが、「原則論」のみ云わせていただきます。
 「人権や平和と抵触する」ということですから、まず、「人権と平和」が何であるのか、そして、その理由は何か、ということを明確にする必要があるでしょう。少なくともグローバル憲法は、「定義」が「明確」でないと、日本国憲法のようになってしまいます。そして、「人権と平和」が「基準と根拠」なのですから、規定事項も「人権と平和」を軸に、できればそれだけで純粋に展開すべきでしょう。宗教に直接ふれることは、危険でしかありません。そのためには当然、特定の宗教的起源をもたない「人権」と「平和」の理念を構築しておかねばなりません。そういう「体系」に沿って、それに見あった刑罰と、警察(機構)を構想すればよいでしょう。信者のかたたちを刺激しないためにも、宗教と宗教以外の犯罪を区別しないことが肝要です。
 刑罰へのプロセスは、もちろん、「報復・制裁」「軍隊・武装集団」という発想から距離をおいた「警察」が、一元的に処理するほうがよいでしょう。
 こういった規定事項は、「現状の世界のひと」の心情にあわせるよりも、むしろ冷徹に「論理的」であるほうが望ましいでしょう。論理には、全世界のひとびとをいちおう「承服は」させるだけの力があると思います。宗教にも筋道があるので、信者のかたも一定の理解を示してくれると思うのです。(それが、ほんとうの論理であるならば)
 「この論理」は公平・公正であるばかりでなく、「動揺や後付け」の無い堅固なものでなければなりません。そうでなければ「政治利用や政治利用の疑い」を招くからです。それには、「原則」を曇りのないものにしておくことが必要でしょう。はじめから完璧にはつくれないならば、大小の原則の優先順位を決め、最大原則だけは、変えないようにして調整すべきです。またそれをはじめから謳うべきでしょう。
 最大原則は、万人に納得できる必要最小限の内容とし、できれば「単一」の原理で矛盾なく演繹できるような「純度」をもっていることが望まれます。
 なお、「科学的」であっても、それが「西洋由来」のものならば、各方面から「一種の宗教」とみなされますから、慎重さが要求されます。ましてや、これまでの、厳密でない「人文科学」の流れを持ち込んで構想することは、「論理の普遍性」を極限まで確保するには相応しくなく、万人の「合意」実現からは「遠い」でしょう。
 いままでに実現しなかった「未来の」「世界の」憲法に挑むのですから、それなりの、全く新しい発想を用意できなくてはなりません。

(では、「宗教を制約するような憲法」をいかにして「合意」にもちこむのか、という点にかんしては、別の方法論をもっているのですが、抽象的な表現を含むこともあり、提出を見あわせているところです)

24(無題) 投稿者:三郎  投稿日: 930()180539

 イタリアのベルルスコーニ首相は、
『オブザーバー』(イギリスの週刊新聞)によると
「西側にとっての基本的問題は、テロリズムでもなければ、イスラム原理主義でさえでもなく、
対立する、劣等な文明としてのイスラムである」と発言したようです。
Italian Prime Minister, Silvio Berlusconi, has reasserted
the view that the underlying problem for the West is not terrorism or even Islamic fundamentalism,
but Islam as a rival and inferior civilization.

http://www.observer.co.uk/comment/story/0,6903,560764,00.html

25G憲法に人道的介入条項を 投稿者:三郎  投稿日:10 4()223902  21世紀にはいって、人類は、いよいよ「グローバル社会」の形成に向かいつつある。
約60億の人類が約190の「主権国家」に分かれて住まい、他国や国際機関からの介入を「内政干渉」として退ける状態から脱却しなければならない。
 たしかに「内政不干渉」(つまり主権)原理も、大国の小国に対する貪欲な帝国主義的干渉を排除するために機能するなど、積極面もある。しかし、この原理を「悪人」(ミロセヴィッチやオマル)による圧政をそのまま許すために使わせるわけにはいかない。
 世界は、ウエストファリア体制(近代主権諸国家間関係)の転形(トランスフォーメイション)に向かいつつある。人びとは、「世界市民」としての意識を持ちつつある。世界のどこであろが、残虐非道な、非人間的な支配を終わらせるために、国際共同体(インタナショナル・コミュニティ)は、真摯な協力をおこなう必要がある。そのための「人道的援助」だけでなく、「人道的(軍事)介入」が不可欠だと思う。
 そのための新しい機能的国際機構が必要だが、まだそれは存在しない。しかし、その設立を待っているわけにもいかない。同時テロ事件という不幸な事件を契機に、アフガンの非人道的状態が世界中に知られるようになったことを踏まえて、対アフガン人道的介入も考えても良いはずだ。

 

26正義は戦争のもと 投稿者:rinri  投稿日:10 5()085245

「まったく同感です。アフガン介入につきましては、粛々と、かつまた、大胆に、すすめてまいる所存です」(首相)


27主権国家の権利について 投稿者:やすいゆたか  投稿日:10 5()104643

主権国家の権利について、人権侵害の事実があれば他国が人道目的のために軍事的に介入してもよいかという問題は、極めて重大な問題です。もちろん近代においては国家主権が重大な重みを持っていましたから、原則的には不可です。つまり相手が人権無視の独裁国家だという理由での侵略は認められません。しかし人権の国際化が叫ばれ、ルーズベルト大統領の「四つの自由」がアメリカ合衆国の第二次大戦への参戦の大義名分になって以来、人権問題こそアメリカの戦争を正当化する最大の理由になってきたのです。
 もちろん事は程度問題で、カンボジアでポルポト派による大虐殺を止めたベトナム軍の侵略は、やむをえなかったと思われます。では今回の場合はどうでしょう。アルカイダなどの国際テロ集団の活動を保護しているタリバーン政権に対して軍事制裁を加えてもよいかどうかという問題です。
 近代国家間の関係とすれば、被害を受けた国家はさらなる被害を予防するために、報復攻撃を加えることは当然の権利です。ではどうして我々はアメリカの報復爆撃に反対しているのでしょう。
それはそれこそ国際テロ集団の思う壺だからです。アメリカに過剰な報復をさせることによって、
大量の一般イスラム教徒が犠牲になり、それがイスラム世界の危機と認識されて、反米、反西欧のジハドにイスラム教諸国を引きずり込もうとしているのです。それに乗ってしまう形での軍事制裁は避けるべきです。
 グローバル憲法体制では、国家主権は制限されています。グローバルな警察機構・集団安全保障体制の下での国連軍が介入して、犯人を逮捕するためにアフガンに入り、これを妨害する勢力の抵抗を退けます、その条項を明記するのには賛成です。ただし現状ではその体制ができていないので、国家間で決着をつけると反米感情を刺激し、宗教的独善を加速させますから、緊急国連軍を編成してことをおこすべきです。
 
28
完全と最善個人と国家 投稿者:rinri  投稿日:10 5()214124

計量的であることが、近代です。
 つねに、犠牲をかんがえなくてはなりません。それが人権の立場です。
 ひとは取り替えがききません。誰かを救うために誰かを犠牲にしてはならないのです。犠牲が多い、少ないという計算はなりたちません。
 憲法に則って、なおも犠牲をだすのであれば、それは憲法ではありません。憲法は完全であってこそ、自然法なのです。
 最善というのは、犠牲の容認です。最善として決定した瞬間、誰かの犠牲が運命づけられます。
 救われたひとには最善でも、犠牲になったひとには最悪です。そういう決定は認められません。
 憲法で決定される犠牲が問題なのです。犯罪は犠牲をだします。犯罪は憲法の外です。憲法に則った決定は、ひとりも犠牲をだしません。
 事故は、防ぎえた犠牲でなければならず、確実に生ずる犠牲、必然的に生じた犠牲は、事故ではなく犯罪によるものです。
 犠牲の決定は犯罪です。そして、それそのものが憲法の条文です。そういう枠組みをもたずに、判断してはいけません。
 現在かんがえうる最善であるということは、いうべきではないのです。それが警察機構ではないなら、完全に否定することです。
完全でないから、止めるのです。それがすべてです。
 あえていま、なにもいう必要はないのです。
全体的であることが、近代です。
 国家主権は、個人主権を侵すことができません。国家よりも個人のほうがつねに大きいのです。国家は、個人のために機能する体系ですから、そこに実体はありません。国家と個人を切り離し、個人を守ることです。国家を守るのは本末転倒です。
歴史的であることが、近代です。
 脱近代とは、過去と歴史との二重の遮断です。改善のプロセスを積みあげて、無限に真理に近づいてゆくのは近代です。
 近代では、真理は乗り越えられるものですから、相対的です。ある時代には国家主権が当然で、また、ある時代には個人主権が当然というなら、憲法は、可変的であって定まるところがありません。
 世界に認めさせる憲法は、はじめから完全を目指すべきです。それには現在の力学と決別しなければなりません。人権に反するすべてを否定したうえで、すべてを置き換えるということです。
 歴史的であるということは、段階の容認です。段階の容認は、歴史速度の操作の容認です。滞留してもよく、実現を先送りさせうるのです。
 脱近代では、完成し次第、即、採用となります。段階も、中間も、ありません。
憲法的であることが、脱近代です。
 現在を否定する憲法であるなら、憲法のない現在を肯定することはできません。
 部分的に容認すれば、つねに境界を議論しなくてはなりません。そこに答えはありません。段階的に容認すれば、つねに速度を議論しなくてはなりません。そこに答えはありません。
 なぜなら、それによって誰かが犠牲になるからです。
(意味として書こうとする憲法は、はじめから意味として書かれている憲法のイデアに一致させえます)


29何が言いたい、胃が痛い。 投稿者:渡辺健志  投稿日:10 6()202554

高遠な理念を抱いておられるのは、まことに結構なのですが、グローバル憲法をみんなで作っていこうとする場合、万人が納得するように書いてもらわなければ困ります。逆説的で矛盾に満ちた表現、ただ建前だけの議論を弄ばれてもついていけません。rinriさんは自分は知識人ではないと言いながら、どんな知識人よりも知識人的です。つまり知識人というのは自分の遣っている用語が、その用語についての自分の理解をだれもが共有している筈だと決め付けて、勝手に議論を進めるので、相手に伝わらないのです。おそらく「犠牲」「人権」「憲法」「犯罪」などの用語の意味も、どれもrinriさん独特のものなのではないでしょうか。こういう文章を読まされると胃が痛くなります。

 

30「大虐殺」を許すな 投稿者:捧 堅二  投稿日:10 7()000945

 今回の事件は、世界中の人びとに衝撃を与えましたが、私はアメリカで、atrocityという言い方がされていることに注目したいと思っています。この言葉は、「南京大虐殺」をさしても使われてきました。つまり「南京大虐殺」は英語では、Nanjing atrocity なのです。ということは、今回の事件を「南京大虐殺」などと並ぶような、一種の「大量虐殺」として受けとめる視点があるんです。
 日本人の多くは、60年代のインドネシア(50万人)についても、70年代のカンボジア(200万人)についても、冷淡でした。それらについて「大虐殺は存在しない」という学者、ジャーナリストさえもありました。いました。それどころか、日本が加害者であった30年代の「南京大虐殺」もなかったという人びとさえるいる。
 膨大な数の無辜の人びとが一挙にたくさん殺されたことの重大さについて、これまでも、今回も、日本人もあまりにも無関心だと思います。政治的、宗教的、イデオロギー的等々の違いを超えて、一切の「ジェノサイド」は許されません。またそれに無関心であってはなりません。殺された多くがアメリカ人であってもです。
 「ニュー・ヨークで殺されたアメリカ人に1分間の黙祷を。そして、世界のアメリカに殺された人びとには59分間の黙祷を」と言っている人がいます。また、アメリカ人は、「アメリカ人の1人に価値は、アジア人の100人に匹敵する」と信じているかのごとき態度をとってきた、と指摘する声もあります(『ニューズウィーク』最新号)。そこから、今回の事件は、アメリカ人にとっての「教訓」だという見方も出てきます。
 しかし、殺されたのがアメリカ人だからといって、「大虐殺」が無視されていいわけではありません。「反米」に甘い知識人がいます。そういう人びとは、北朝鮮の「国家テロ」に甘かった。そしてタリバンによるアフガンにおける「大虐殺」にも甘いのでしょうか。あらゆる「大虐殺」を非難し、それに対して行動を起こすべきです。


31●渡辺さんの御指摘について 投稿者:rinri  投稿日:10 7()073615

 たいへん的確な御指摘で、ありがたく思っています。長い目で見てくださるひとにも、単刀直入にいってくださるかたにも助けられています。いまのところ、誤解もあるのではないかと思っているので、説明を試みたいと思います。
知識人とのちがいについて。
知識人の表現は、業界のひとに伝わります。ぼくの表現は、ときどき、ひとに伝わりません。知識人は、自分の意見が理解され、納得をえられるものだと信じていると思われます。ぼくは、なんとか伝えたいのですが、主流のかたたちと随分傾向がちがうようなので、理解が共有されることは望み薄だと思っています。自分でも少数民族の言語のように感じています。
勝手に議論を進めることについて。
ぼくの意見をくだらないと思われるかたがほとんどかもしれません。しかし、ひとがなんといおうと、ぼくのかんがえかたは新しいと信じています。駄目なら、批判してくださるとありがたいです。いくら独善的なぼくでも、的を射られたら反省しますよ。新しいと信じているから、模範とする意見がありませんので、なんとかイメージを言語化しようと、もがいているのが見苦しいのかもしれません。たしかに、用語も自分なりに最適化して使っています。少数民族の概念を、もっともちかい単語におきかえるような作業です。伝えようとはしているのですが、万一わかりにくくなるようでしたら、よろしければ尋ねてください。
万人の納得について。
自分では新しいつもりですから、おそらく納得されないものとして、ごくごく小出しにしています。全貌が見えないから、よけいになんのことかわからないのでしょうか。しかし、近代の知識人や、近代の一般人に理解できないからといって、ほんらいそうあるべき理念を捨てるわけにはいきません。これは生きかたの問題でもありましょう。これでも、孤立・無視・嘲笑・罵倒への覚悟はしているつもりですが。
胃が痛いことについて。
残念ながら、ぼくのかんがえがえや表現を否定して胃が痛いのには配慮できません。もしなんなら、投稿者rinriの記事は飛ばされてはいかがでしょうか。まだ議論が噛みあっていませんので、大勢に影響はないでしょう。すでにそうされているかたもおられると思います。ぜんぜん読まれていないから噛みあわないのかもしれませんし。もちろん希望としては、少しでも読んで、わかってほしいですね。
逆説的で矛盾に満ちた表現について。
しかし、今回などは、比較的ストレートだと思いますが。まさか、こんな馬鹿なことを本気でかんがえているわけではないだろう、といった先入観によって、逆説的に映るのではありませんか。用語の問題はさておき、その通りに読んでくださってけっこうですよ。矛盾があるとおっしゃるなら、指摘してみてください。まあ、表現といっておられるかぎりは、文体のことなのでしょうね。そして、逆説的に見えるということは、あるていど、論旨を捉えておられるのかもしれません。
建前ばかりの議論を弄ぶことについて。
ぼくが提唱しているのは、建前に徹底的に、こだわることです。こういう場合はしかたがないのでは、という方向で現実化してゆくと、では、こういう場合もかまわないのでは、と限りなく崩れてゆくからです。子供が読もうと、知識人が解釈しようと、明記してある通り、といいきれる確かさがほしいのです。なにか理想が悪いかの風潮があるとしたら残念です。
用語のもっとも単純な定義。つまり広義。
犠牲被害者をだすこと。
人権被害を受けない権利。
憲法最上位の完全な法。
犯罪意図的に被害を与えること。
総じて、異質な存在をどうとらえるかで、思考の奥行きが決まってくるのだと思います。問題点を細かく分析していただきまして、ありがとうございました。


32反近代論をこえて 投稿者:捧 堅二  投稿日:10 8()004702

 近代とは、確かヘーゲルも語っていたように「理性」の時代です。
また、近代とは、フランス革命の標語「自由・平等・友愛」に代表される、
世俗的な価値ないしは理念の時代です。
 たしかに近代は、主権国家、資本主義、環境破壊、総力戦などを産み出しました。しかし、今日の「理性」はそうした現実に、反省的、否定的に関係しようとしています。つまり、いま近代は単純な「理性」の時代から「再帰的(リフレクシヴな)理性」の時代にすでに入っているのです。原爆について、大気汚染について、そしてジェノサイドについて批判するのも、つまり理性の限界について批判するのも理性なのです。
 近代が理性の時代だとするのなら、現在もなお理性の時代であり、近代に属します。ただっそれが「再帰的理性」の時代であるとするならば、「再帰的近代」という言葉を使った方がいいかも知れません。ベックやギデンズやラッシュにならって。
 かって戦時中、京都学派は「近代の超克」を唱えましたが、その実体は遅れた近代でしかありませんでした。彼らは昭和の超国家主義に迎合しました。戦後左翼も近代批判がお好きでした。丸山真男や大塚久雄が「近代主義」だとして批判されました。しかし、批判者たちは、グロテスクなプロレタリア独裁の支持者だったのです。
 ポスト・モダンも、見当外れです。時代は今もこれからも「近代」なのです。なおプレ近代的な諸要素も残しつつ、再帰的な近代化も進みつつありますが、「近代」です。近代かその否定か、ではなく、「いかなる近代か」が問題です。安易な「反近代」論はいいかげんに卒業した方がいいと思います。それはプレ近代への逆行か、それとも近代の最悪の部分を招来するだけです。
 そしてグローバリゼーションを上に成立するグローバル社会のグローバル憲法は、近代的な憲法の最新ヴァージョンでなくてはなりません

 

33「近代の超克」について 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:10 8()134540

近代を超えるという場合、近代で何をイメージするかで当然、立場が違ってきます。国民国家の時代として近代を捉えてきた人達にとっては、グローバル憲法の制定は近代を超えようとする試みに他ならないわけです。もちろん近代の何もかも捨てようというわけではありません、国民国家間、文明間、宗教間の対立を超えて、人類共通の課題に共同して取り組んでいくなかで、グローバルな新秩序を形成していこうとする運動の一環なのです。それも反省的理性・再帰的理性に含まれるから近代的だというのは、近代を理性の時代と定義し、再帰的理性も近代的理性に含めるからなのです。近代はいつまでたっても永久に近代ですが、近代はいつも近代を超えることで近代なのです。


34主権国家の揚棄、国民国家の転形  投稿者:捧 堅二  投稿日:10 8()182431

 いまグローバリゼーション、リージョナリゼーション、地域分権化、アソシエーションへの権限委譲の流れが、存在します。この流れは、近代主権国家に集中した権力・権限・機能の分散化、言いかえれば、国家に集中した「統治の多元化」であり、また「新しい統治の分業の形成」だと思います。

 この過程で、従来の「主権国家」は揚棄の方向に向かっており、方向性としては「主権国家」はなくなるわけですが、しかし、「主権国家」と「国民国家」はイコールではありません。また「主権国家」の揚棄は、「民族国家」の揚棄ということは同一ではありません。
 グローバル社会の形成とは、人びとが帰属する政治的共同体は、唯一(あるいは、圧倒的、一元的に)に国家ではなくなるということです。国家は形を変えて存在していくでしょう。それを「国民国家」といってもいいんですが、その「国民国家」は、主権国家でも民族国家でもありません。人びとは、同時に、そうした新しい「国民国家」と、グローバル社会――コスモポリス(世界都市国家)――、地域共同体(EUなど)、「副国家」(地域国家)」、そして市民社会の内部に存在するアソシエーション、 コミュニティ(近隣社会)等に存在します。
 これは国家のラディカルな相対化です。もはや国家は絶対的な忠誠の対象ではなくなります。また民主主義も、国家中心の従来型の民主主義に訣別し、多元的な民主主義へと転形する必要があると思います。

35それこそ近代の超克だ! 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:10 8()195208

捧さんの構想力は素晴らしい。それこそ近代の超克です。我々の求めているものです。グローバルで多元的なデモクラシーの新世紀像を単著で発表してください。

36脱近代への試金石 投稿者:rinri  投稿日:10 9()062104

「非階層モデル」(最新ヴァージョン)
所有-個人インフラの管理権限をもつ個人。
離散-個人その他の個人。
所有-集団インフラの管理権限をもつ集団。(家庭、集合住宅、企業、自治体、領土国家)
離散-集団その他の集団。(サークル、ネットワーク国家、条約機構)
憲法-機構憲法に基づいて警察機構を運用する。
 個人の集団への帰属、集団の集団への帰属は、ともに、契約を介して、自由におこなわれる。憲法-機構へは、無条件に帰属する。たとえば「憲法-離散-所有-離散」という「重層」と、「憲法-所有」という「直属」を選ぶことができる。ただし、「憲法」と「所有」は、欠くことができない。はじめから階層構造を設定するのは中央集権である。したがって、集団の属性を、階位ごとに規定することはない。集団は、属性を自由に創出・変更され、興亡する。憲法はそれを制限せず、分類は必要最小限とする。憲法は、契約の自由、意思決定方式を含むインフラ環境からの移動の流動性、自己決定の安全と自己決定に応じた安全を保障する。これらに反するすべての事象に対し、警察機構は介入することができる。以上のシステムは、憲法に明記される。 

37脱近代入門初級篇 投稿者:rinri  投稿日:10 9()080254

 大虐殺とは、何人以上をいうのか。誰がきめるのか。1人で貿易センターから飛び降りるのと百人で降りるのと、飛ぶ己にとってどうだろう。即死とストーカーのメッタ刺しとではどうか。悲惨さには主観が入る。そこで客観的に犠牲者の数を比べる。が、いま死ぬ己に他人の死は主要な関心ではないのではないか。事件を全体で眺めるのはTVの傍観者だ。大虐殺は個々の殺人の束である。数年に一度の大虐殺もあれば年間の累積殺人もある。局所大量殺人の問題は数ではなく確率だ。組織的に犠牲を増やす手堅さを問題にするなら団結も分かる。ただ、大虐殺と呼べば政治性を帯び、民族の問題に磨りかわる。これは「戦争」も同じだ。個々の殺人に分解するのだ。すると「緊急」という「飛躍」を防ぐことができ、日常犯罪で扱える。震災で誰と誰を喪った。都市の耐震レベルを下げられていた。だから総責任者である市長に殺されたといえば、これは殺人であり、責任の所在が明確となる。全体で見ないこと、これが脱近代への出発である。


38議論の基礎脱近代ヴァージョン 投稿者:rinri  投稿日:10 9()124317

用語の自由。
言語は、話し言葉でもよいし、木の葉を並べてもよい。論旨や用法に整合性があるかどうかの翻訳可能性、媒体適性・伝達効率の問題である。多数派の言語を話す義務はない。ましてや学の制度の部外者が学を踏まえて語る義務もない。また、差別・煽動でもないのに表現の自由を奪うことはできない。ラジカルな表現を禁じておいて、ラジカルさは己にのみ在りと、単独性を示す論拠なく説くなどは、もってのほかである。
よくある、との同一視。
某学派と同じ論法だと断ずる論難は、どの箇所が同じか挙げない限り無視してよい。印象で語っても決めつけに過ぎない場合がある。逆に、真に等しい思潮が勃興したさいには、過去の蓄積から最適な批判を抄出すればよい。己の系譜の先人との相似を看破しただけでは、文化的文脈を異にする者への論駁にはならない。
預言。
経験則では、実証されてさえ、未来の激変を無いと断ずることはできない。想像力の欠如を超えて未来永劫を説く者は立証を要する。ただし、語義を極限へと伸張する操作で、概念の側から未来をカバーすることは可能である。
託宣。
私は時代を見てきた、とか、これだけ知識のある私がいうのだから、は通らない。脱近代では、それらの知識の虚構性が軒並み露わとなってゆく。
無関心の権利。
犯罪・犯罪的事故による非業の死は遍在する。社会問題を論ずるのであっても、特定の政治的犠牲に関心を寄せる義務はない。他者からの被害はすべて社会の問題である。同列なのだ。むろん、喚起は自由であるが。
歴史の「不在」性。
歴史自体は想定に留まる。ひとは歴史の断片を分有するに過ぎない。西洋文明も、非西洋文明も、各々の歴史観による歴史を実体として捉える限りは近代である。近代人は、知識人であっても己がいずれかに属するという自覚が足りない場合がある。
「ねばならない」
他者に強いる場合、その根拠を示さねばならない。そして、その根拠は、根拠なく強いれば自由を侵害する、という一点にある。
「最悪」の開示。
それは危険な思想につながる、と非難するのであれば、どんな思想に、どこが繋がるのか中身を示さなければ議論にならない。
知識人。
1.政権に進言できる学者。2.学の制度を介して持論を時空に阻まれずに流布できる者。3.自説が商業ベースに乗る者。広義には、4.彼らの叙述を無上として信奉・伝導する者。……知の結集が叫ばれ、伝えうる者は伝えただろうに、なんら改善の兆しがない。むしろ一般市民の側に新たな案は蓄積されている。(栄誉ある無自覚的無能)
近代。
術語よりも慣用語に信をおく。多数派が引くことの容易な広辞苑には「資本主義社会」との記述も見られる。近代的な建築といったイメージもあって幅ひろい概念だ。理性・自由平等・グローバリゼーションと、捉えようも多面的になる。近代の諸問題が構造から必然的に発生する限り、連関を根こそぎ変える以外の処方はない。それは、制度のみならず人心の不満のありようへの対処をも含む。(道具的理性の徹底は、理性の徹底の対極にある)

 

39(無題) 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:10 9()165546

渡辺健志さんの気持ちがよく分かります。rinriさんはおそらく大変原理的な法哲学的な議論をなさりたいのでしょうが、私たちが希望したいのは、できるだけ「グローバル憲法草案」の案文に近い形の文章にして欲しいということです。それならだれが読んでも分かる文章になる筈です。なにしろ全世界の人々が読んでよく分かる内容でないと困りますからね。原理的なことを論じる場合でも、一般の高校生にもよく分かる文章のレベルで論じて欲しいです。

 

40鈴木さん、ありがとうございます。 投稿者:rinri  投稿日:10 9()220417

 申しわけありません。才能の無さもあるでしょう。
 この掲示板に限らず、わからない、わからない、と集中砲火を浴びているぼくとしても、苦悶しているところです。ただ、ほんとうに新しいものは理解されにくいものです。すごく古い考えかたの焼き直しか、低レベルの議論か、狂信的な悪意に満ちた思想であるかのように捉えられることも、ないとはいえません。みなさんの目に、どう映っているのか恐ろしくもあります。
 それはそうなのですが、あくまでも、新しいものは理解されにくい、ということを割り引いてかんがえてください。
 では、なぜ新しくなければならないか。
 近代の真ん中でつくるなら、世界に誇る平和憲法である日本国憲法のグローバル版でもよいのです。しかし、脱近代はスタートしてしまったんです。
 わかりやすさからいえば、たとえば、報復や国際貢献を原理とした「戦う憲法」のほうが、ぼくの提案なんかよりも、日本国民をふくめ、圧倒的に受け容れられると思いますよ。しかし、そんなものをつくってもしかたがないはずです。では、あなたがたの好きなアソシエーション論はどうか。カッコいいけど、世界平和になるかといえば、マルクス主義と同様、落とし穴があるのです。だから良心をもって阻止しなければならない。受け容れられるものをつくるのが最大の目的ではないはずです。
 小手先の軌道修正で、惨事を防げるほど、根の浅い構造ではないんです。
 ぼくの提案は、実は、一般の生活者や、弱者や少数派や少年の問題に根ざした、奥行きのあるものです。口だけの平和や友愛なんかどうでもいい。わかりやすいけど実体がない。ことばだけ綺麗で、悪用されてばかりの日本国憲法とはちがうのです。自衛隊に限らず、公共事業の裏、腐敗、較差への憎悪、人間疎外、家庭崩壊の実態は、凄まじいものがあるでしょう。
 あなたがたは、現在の左翼系の思想などを
よく勉強されているから、ニーズを共有できるのです。しかし、世界の潜在するニーズは、それだけではないんだ。あなたがたは、苦しむ人間の側に立っていないのではないか。優等生として、別に世のなかが変わらなくても、ポジションを確保できるだけの能力がある。そこを注意しないと、問題意識が国際政治に偏ってしまう。憲法ですから、生活のすべてを網羅する必要があるんです。そして、そのうえで、ごくごく少数派の怨みも招かないものにしなくてはならないんですよ。あなたがたのアソシエーション論でいうような粘り強い対話だけでは、拒否・拒絶や暴力には無力です。宗教・民族の断絶や、世代の断絶や引きこもり、児童虐待や、児童売買にどう対処できるのか。しかももう、個人でテロができる、する時代なんです。
 高校生にもわかるように、といいましたよね。学力低下の叫ばれる時世に、「リージョナリゼーション」・「再帰的(リフレクシヴな)理性」・「プロレタリア独裁」・「ポスト・モダンも、見当外れ」・「プレ近代的な諸要素」といった表現を説明も綴りもなくポンポンだされて、高校生にわかりますか。あなたにはわかるのは、あなたが同じ文化圏、つまり書物環境にいるからではないのか。少なくともぼくの用語は、辞書で引ける範囲ですよ。ぼくは、新しいから伝わりにくいと覚悟しているからまだいい。しかし、あなたがたがそれで伝わると思っているなら、それこそ典型的な知識人の独善ではないか。しかも、西洋の目でみた歴史の知識や価値観で、近代の延長や、更新や、超克を考えている。そもそも、この超克ということばだって、むずかしいですよ。ものすごく抽象的で、わけがわかったようで、なにもわからない。説明できていないんです。ぼくは、脱近代を細かく説明しようとしています。ところが、あなたがたは、それで済んでしまっていないか。近代の超克は、われわれの望むもの、といったって、多様な人間がいるんだ。多様な望みがある。そして、多様な人間に当てはめる憲法です。多様な人間の、多様な表現による多様な意義もうしたてがあってしかるべきです。


41タッキー816を聴いてみてね 投稿者:捧 堅二  投稿日:10 9()222627

 やすいゆたか さんがいう「歴史の危機」(同名書が三一書房から刊行)の背景には、歴史についての思考におけるシニシズム(冷笑主義)やペシミズム(悲観主義)に対する批判というものがあると思います。かれが「グローバル憲法草案」をつくることを提起するのも、かれが「歴史の危機」を敏感に感じ取っているからでしょう。
 蛇足ですが、箕面市の第三セクターFM局「タッキー816」というのがあります。
ボランティアが運営に参加するコミニティ放送局です。今日そこで「道ばたサミット」という番組を収録してきました。
 同時テロ事件について60分話したのです。といっても、途中で「カサンドラクロス」(生物兵器)、「栄光への脱出」(イスラエル建国に向かうユダヤ人)、「アラビアのロレンス」(アラブ人とイギリス軍将校)の三つの映画音楽を私の選曲で流したので、正味は50分ですが。
 だいたいここで書いているようなことをしゃべってきました。日本でも老人のなかには、喝采している人もいる。世界にはアメリカの「自業自得」論もあるぞ、と言っておきました。「教訓」ということも言ったかな。チャルマーズ・ジョンソンとハンチントンの理論。アメリカはその対外政策を反省して、今回の不幸な事件を、方向転換の機会にすべきだ、ということも言いました。
 コミニティ放送局なので箕面市とその周辺(吹田市北部など)でしか聞くことができません。お近くの方で、もし良ければ聴いてみてください。放送は、来週の水曜午後2:30〜3:30(再放送同日午後9:00〜10:00)です。周波数は、81.6MHz。
http://www.minoh.fm/bansen.html
 そのうち、やすいゆたか氏の出演も実現するはずです。

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