グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版4−

グローバル憲法草案を作る会掲示板・保存版1  

グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版2

グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版3

1沈黙しつつある護憲論から、もう一つの改憲論へ 投稿者:捧 堅二  投稿日:1028()234400

 これまで、実質的な改革・変革をサボる(サボタージュする)という点では、政府・自民党、解釈改憲派も、社共、護憲派も同じでした。
 一方は成り行きのなかで対米協力を迫られて、その都度場当たり的に、アメリカの機嫌を損ねないように対応してきた。これに対して、他方も、その都度政府自民党のアクションを批判し、抵抗する、それだけのことでした。戦後日本の安保外交は、両者のこうしたバランスの上に成り立っていた。前者の優位、後者の劣位のバランスですか。
 後者は護憲とか第9条とか言うけど、それは単なる抵抗のスローガンでしかなく、実質のある現実的な対抗戦略は、どこにもなかった。それは日本人の戦争被害体験に安易に寄りかかった護憲平和論でしかなかった。加害者責任論が追加されたけど、どこまでいっても視野が日本とその過去に限定されていた。「内部の思考」なんです。「外部」に眼が開かれていない。世界のそこここの人びとが直面している現実に眼を向けようとしなかった。ナイジェリアの悲劇も、コソヴォの虐殺も。シエラネオのも。みんな無関心。
 誰の眼にも現在の事態は違憲状態です。イージス艦のインド洋出撃。しかし、「違憲」「違憲」の声があまり聞こえんのですよね。これってどういうわけでしょうか。どうやらあまり「違憲」「違憲」と騒ぐと、「明文改憲論」を持ち出されかねないと心配しているらしいですね。護憲派の諸君は。なんたるていたらく。「違憲だ」なんていおうものなから、「今どき神学論争は古い」なぁーんて田原総一郎や竹村健一に言われそうで、怖いんですね。いま、護憲論は沈黙しつつある。沈黙しつつある護憲論。それは護憲論者自身が護憲論の無力性、説得力の欠如、非現実性を自覚しているからにほかならない。
 これまで続いてきた、「解釈改憲論」と「護憲論」の二項対立を突破するのが「明文改憲論」です。いま「解釈改憲」は、その限界に直面しており、「明文改憲」が政治日程に上ろうとしている。これに金太郎飴的な旧「護憲論」を対置して、結局「明文改憲」を許してしまうのか。それとも右からの「改憲論」に、もう一つの「改憲論」を対置するのか。これが問題です。


2違いを明確に 投稿者:やすいゆたか  投稿日:1030()105745

右からの改憲論と捧さんの改憲論の中身が、具体的にどう違うのかはっきりさせて下さい。これまでの議論では、その違いが全く窺えません。


3保守的護憲論を超えて、進歩的改憲論へ 投稿者:捧 堅二  投稿日:1030()164215

 右からの改憲論は、厳密には、基本的には現行憲法を守ろうという立場です。これまでの日本のシステムを基本的に擁護するわけで、保守的立場です。この点では、護憲派と同じなんです。右からの改憲論と護憲派との違いは、第9条をめぐるものでしかありません。

 これに対して、もう一つの改憲論は、現行憲法をより進歩的な方向に向かって変えていこうという立場ですが。しかし、どう変えるかはいろいろヴァリエイションがあり得ます。わたしなんかは、できればまったく新しい憲法を制定するのがいいと思いますがね。

 憲法論議を通じて、あるべき国家、社会、地域、そして世界についてもう一度根本的に考えることが必要だと思います。とりあえず、2点ほど論じます。
 

4サクラ共和国について 投稿者:捧 堅二  投稿日:1030()164419
@共和国の形成
 たとえば、天皇制の最終的な廃止、共和制への移行ですね。国家をピープルの共同体とするというわけです。日本国憲法では、戦前国家との連続性がありました。「天皇の国家」ではなくなってけど、「天皇を象徴としていただく国家」なんですから。国を愛するといっても、「天皇の国家」と連続性をもつ「天皇を象徴とする国家」を愛するということですから、素直に愛するわけには行けません。ケネディが就任演説でいった「国がなにをしてくれるかではなく、国に何ができるか、が問題だ」という場合の国は、共和主義的なピープルの共同体として国のことです。
 網野善彦が言うように、日本という国号は天皇号とセットです。だから天皇制とともに、日本国もなくします。新しい国号は、新しい国旗、国歌とともにみんなで論じましょう。鈴木武樹だったら「ヤポネシア共和国」というでしょうか。「和(倭)国」なんてのはどうかな。「扶桑国」とか。なんなら「サクラ共和国」とか。なんだか、銀行みたいですね。(つづく)


5一つの国家から、複数の国家へ
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1030()164907

(つづき)
Aひとつの中央国家(国民国家)と多数の副国家からなる多元的統治体形成
 次に、日本国憲法の中央集中システムを変えることが不可欠ですね。それはこれまでの「地方自治」を拒否するということです。日本国憲法にしたがうと、中央が広範な権力を独占してしまいます。日本国憲法体制では、その中央に集中した権力を国会、裁判所、その下に広範な行政機関をかかえた内閣が分有していたわけです。そしてごく限られた範囲で、「地方公共団体」の自由裁量の余地があるだけです。それが「自治」の中味でした。
 新憲法では、中央の権力のラディカルな分権化が必要です。そのためには、これまで「国会」が独占していた立法権を広範に「地域」を委譲すべきです。「地域」に「地方公共団体」でなく、もういくつかの、別種の「国家」をつくる。クニですね。いわば、「副国家」を形成するわけです。
 日本国憲法下では、国会が作った法律にすべての地域が拘束されました。新憲法下では、多くの法律を「副国家」の議会で作るようにする。たとえば、農林漁業、観光、初等・中等教育、環境、衛生などの分野の法律は、東京の国家から離れて「副国家」の議会にゆだねるんです。そして、そうした分野についての行政機関も「副国家」が作るわけです。
 したがって、ピープルの共同体しての共和国(これが、国民国家ですが、仮称「サクラ共和国」です)といっても、中央・地域の多元的な共和国なんです。なお、対外政策は、「国民国家」「副国家」の両方が実施します。(つづく)
 どういう「副国家」をつくるか、どのように「分国化」(国家の多元化)をするかは、これから論議すべきですし、画一的にする必要はないはずです。ということは、各地のピープル自身の意志に従って、多様なタイプの「副国家」ができるということでして、憲法は「副国家」については最低限の規定しか与えません。だから、大統領制の「副国家」でも「内閣制」の「副国家」でも、古代ローマ共和国のように、二人「統領制」の「副国家」でもイイワケです。
 森嶋通夫氏は、「大阪」「東京」(わたしは、それぞれを「西国」「東国」と言いかえてます)を考え、琉球の独立を構想していますが、こんな風にあらかじめ考えるのではなく、時間をかけてみんなで考えるべきでしょう。「副国家」の規模は大小いろいろあってもいいのではないでしょうか。今の都道府県規模とか、中小都市規模とか……検討するのも楽しいですね。もちろん、「副国家」は仮称です。これは森嶋氏が使用した言葉ですが、青年会議所は、「藩」という言葉を使っています。なんなら、「ポリス」(都市国家)でもイイかな。
旧憲法:天皇を象徴とする国家  新憲法:多元的共和国
旧憲法:日本国         新憲法:○○共和国(たとえば、サクラ共和国)
旧憲法下:単一の国家、アイデンティティ、国旗、国歌
新憲法下:複数の国家、アイデンティティ、国旗、国歌


6草の根の改憲論議のなかから、積極的平和主義の声をあげよう 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1030()170310

(つづきです)もう少し、論じます。
Bアソシエイティヴ・デモクラシー
 中央の権力は、「副国家」だけでなく、アソシエーションにも委譲すべきです。別途「公共アソシエーション法」のようなものが必要ですが。中央国家及びもしくは副国家の財政負担で、ピープル自身が作る公共アソシエーションが福祉・教育などの公共サーヴィスについての決定と実行をする「アソシエイティヴ・デモクラシー」のシステムをつくる。
民主主義には、議会制民主主義と非議会制民主主義とがありますが、レファレンダムやアソシエイティヴ・デモクラシーは、後者に属します。でもアソシエイティヴ・デモクラシーは、たんなる「決定」だけでなく、「実施」をも含みます。
C積極的平和主義
 グローバリゼーションの時代に見合った国際協力の推進。国益本位ではなく、正義と人権にもとづく対外政策をかかげます。「サクラ共和国」は「国際共同体」の一員として積極的に国際平和貢献をおこなうことを義務づけます。
 外務省とは別個に第三世界の貧困に取り組むための「国際開発省」を設置します。ODAは全廃し、外務省は援助業務から手を引かせます。「国際開発省」の援助業務の実施は、「公共アソシエーション」が担当します。これは、「アソシエーション法」にしたがって、民主主義的な運営と公的な会計監査を義務づけられたNGOです。
 軍事力の保有とそのコントロールを憲法でしっかりと規律することが必要です。これは軍隊ですが、どのような場合、どのような条件と手続のもとで、自衛権を行使できるのか、国際的人道目的のための武力行使に参加できるのか、必要な制度とルールを定めなければなりません。
D草の根の改憲論議へ
 憲法制定議会選挙を行い、憲法制定議会を招集し、そこで新憲法を審議し、可決後、国民投票にかける、という一挙的なやり方でなく、数次の選挙とレファレンダムをふくむ、時間をかけたやり方で、憲法制定の過程を推し進めるべきだと思います。
 しかし、いま、先ず第1に必要なことは、「改憲」をタブー視する人びとの意識を変えることです。市民、民衆が「憲法」を論じ、その「草案」についてあちらこちらで論じる。このことは自由民権運動のなかで行われました。この点を調べたのが、色川大吉です。中央公論社の『日本の歴史』の第2巻や、講談社学術文庫の『明治の精神』(だったかな)のなかで書いています。しかし、こうしたピープルのレヴェルでの、そして明治期よりもはるかに広範なかたちでの、憲法論議をこれからやる、ということについて、色川氏は思いも及ばないようです。なぜなら、彼も護憲論者ですから。保守的護憲論。
 進歩派の人びとが「護憲論」をいまだにやっている。しかし、そのことが保守的に機能いしていることを認識しなければなりません。


7「アジア太平洋民主連合」(APDU)から、「グローバル連合」へ(1) 投稿者:捧 堅二  投稿日:1030()222431
 いきなり「グローバル」ではなくて、まず「リージョナル」という考え方もあります。では「リジョーナル統合」についてどう考えるのか。この点は避けて通れない問題です。これまでの日本国のように、「内に向かって閉ざされた国家」ではなく、これからは、「外に向かって開かれた国家」――とっても、国家は多元化されますから、現実には、サクラ共和国と、それから「カンサイ共和国」等々の副国家ということになりますけど――を形成する必要があります。「グローバル」と「リージョナル」の二段構えで、外に向かって国家を開く必要があります。
 森嶋通夫『日本にできることは何か――東アジア共同体を提案する』(岩波書店、1800円)が、10月末刊行されました。
 森嶋氏の今度の本はまだ読みかけです。(日本古代史のところを読んでいるところです。倭国(九州王朝)と日本国(大和王朝)とを区別し、663年の白村江の戦い以後後者が優位し、前者を併合したという古田、藤田、室伏の各氏と同様の議論も展開されています。) それはともかく、前著では、日本(東京と大阪に分国化した日本、つまり、日本と東京国家と大阪国家)、中国(6か国に分国化)、韓国、北朝鮮、台湾、琉球を加盟国とする地域共同体が構想されていました。もちろん、徐々に統合を強めていくというわけです。
 森嶋氏にはヴエーバーの影響があって、文化を重視するんです。地理的近接については特別の言及はなかったんですが、それは当然の前提でしょう。近くで、文化的な共通性のある国々の間で協力関係、そして共同体の形成、統合の強化、のちには統一通貨の採用……などが前著で論じられていました。

 今回の本ではどういう展開がなされているか、楽しみなのですが、わたしは地理的要因、文化的要因だけでなく、いや場合によってはそれら以上に、自由と人権、民主主義を重視したいんです。だから「東アジア民主共同体」、あるいは「アジア太平洋民主連合」なんてのはどうかな。サクラ共和国がそこに加盟するという形をとるのか。それとも、カンサイ共和国などの副国家が個別に加盟するのか、は一考の余地がありますが、いずれにせよ、遠い近いも無視できないけど、文化や文明ではなく、「自由、人権、民主、寛大等々の普遍的な価値」を受け容れている国々で、連合体をつくるというのではどうでしょうか。


8「アジア太平洋民主連合」(APDU)から、「グローバル連合」へ(2) 投稿者:捧 堅二  投稿日:1030()223019

 まず日韓台が頭に浮かぶんですが、「台湾問題」というのがあって台湾は難しいのかな。しかし、当面、経済だけでの協力体でスタートならかまわんでしょう。最近日本はシンガポールと自由貿易協定を結びました。これは、たがいに関税がゼロですから、本当は大事件だと思います。しかし、この国は自由や人権を制限している国です。「アジア太平洋民主連合」への加盟希望があった場合、シンガポールには民主化を求めなければなりません。あるいは、オーストラリアやニュージーランドが加盟を希望するなら差し支えないでしょう。しかし、加盟国間での「移動の自由」さらには「移住の自由」の保障という問題があります。最終的には、これを完全に実現しなければなりません。段階的にこれを拡大します。いやなら入ってもらわんでもよろしいですよネ。オーストラリアは「白豪主義」という名の人種主義を捨てたはずです。でもこういう条件を出すとずいぶん議論が出るでしょうね。
 わたしはさきほど、「遠い近いも無視できないけど、文化や文明ではなく、自由、人権、民主、寛大等々の普遍的な価値を受け容れている国々で、連合体をつくる」と書きました。「アジア太平洋民主連合」の統合原理は、文化や文明や宗教や言語ではなく、こうした普遍的価値なんですが、同じくこうした普遍的な価値に基礎をおいた地域共同体が世界の別の地域に複数できる――たとえば、ヨーロッパ連合(EU)がすでに存在しますね、それから北米や南米などにも、そしてその他の地域にもこうした共同体ができるとする――とすると、長期的には、そうした複数存在する諸地域共同体の統合という方向での協力の積み重ねが行われ、最終的には、「人類のグローバルな統合」への現実的な動きになってきます。そして、この段階が進むようになってから、わたしたちがこの掲示板論じている「グローバル憲法」の制定が具体的な政治日程に上ってきます。

 「リージョナル」な統合から「グローバル」な統合へ。その原動力は、「グローバリゼーション」という複合的な客観的力です。しかし、この力を単に受動的に対応しているのではいけません。わたしたちは、この「グローバリゼーション」の波を正面から受けとめて、この「日本国家」の揚棄にむかって、そして、新しい開かれた多元的国家形成と地域共同体の形成に向かって主体的に努力することがぜひとも必要です。
 (「やすい」さん、こんなんでどうでしょうか。)


9嫌いになった相手と  〜 アソシエーション・コミュニケーションの減免  投稿者:rinri  投稿日:11 1()041411

 同居にともなう苦痛は、ひとえに逃げ場のなさによる。距離をおけない関係は、夫婦・親子にとどまらず、すべて (契約・半契約・無契約) の集団にみいだされる。
 別居・離縁をのぞむ者が、別居・離縁できない状況をかたちづくるような制度環境、職場環境、地域環境、身内・風潮、各場所・各場面における評価・処遇の偏向 (機会の不均等) が存在する。
 己の立つ地点は、他者の人格的な「強弁力・吹聴力」に発し、集団的な「人事権・執政権」に至るまで、遠近の要因に囲まれてはいても、特定の他者とは場や営みを隔てたい、という意思を阻まれるいわれはなく、疎通を求められても拒否・断絶できなければならない。
 たとえば、すべての知人から同席・接触において酷評される者を想定してみる。嫌われることそれ自体は無罪であってしかるべきである。酷評は、軽率にも時流に乗って形づくられもする「個々の価値観」にもとづくものとする。しかしながら総じてもなお、その者の乏しさ・不快さは、情緒的交流において孤立させられるべき元凶となろう。ならば、そうした「孤独でなければならない者」を嫌いつつも、取り巻かねばならないのはなぜか。それは (それじたいが有罪である) 諸制度の縛りか。ひとを誘引できない者が振りかざす権限か。結合せんとする周囲からの圧迫か。尤も、去ることで反作用をまねくような個性とは自ら別れられなくはあろうが。
 少なくとも嫌う相手である以上は (各人の美学からしてとうぜん) 相手が心に占める割りあいは極小でなければならない。恨み・妬みに限っていえば、その限りではないにせよ。ただし、感じたり、映したり、生みだしたりできない己が「心の空洞を埋めるため」の時間に、嫌う相手への小言や罵倒が在るのであれば (価値観の不一致どころか) 嫌う相手に依存していることになる。むろん、それが「制度的拘禁」による諦めからの機制なら、その「場」そのものが有罪であるのだが。

10参考文献1. 婚姻関係の分配 投稿者:rinri  投稿日:11 1()041721

 アソシエーションが、多重所属を前提とするように、婚姻ユニットも多重契約が (〜法によって) 許諾されていなければならない。要は、契約 (内容) が重複 (抵触) しなければよいのである。 ありあまる「魅力と、その発揮すべき時間」の持ち主が、特定の配偶者に独占されるところに、嫉妬 (機会の不均等への感情応報) と、自 (両配偶者) 他による婚姻の破壊が生ずる。破壊は不当ではあるが「みるべき」理由の無い現象ではない。重婚が禁じられる地域で、無期婚姻しか許されない不備が痛感されねばならない。複数人の間での「魅力」と「待遇」の交換機会が奪われているところに、控えめな特定の「願望」と、奥ゆかしい特定の「単身」が蔑ろにされた孤独を生成するのである。全か無かではなく、関係を分配することで、婚姻当事者を核とする「家族」も、分散 (連鎖・放射、混合) 型の多様な形態を獲得してゆけるのだ。したがって集団婚 (性的家族集団) も可能となる。

 

11参考文献2. 関係選択の自由 投稿者:rinri  投稿日:11 1()041605

 自由な関係の取り結びへの理解と活用が損なわれるようにして、公然と習わされてきた慣例が固陋な観念と自制 (自己抑圧) を強いているのである。むろん、守旧的・趣味的な1対1対応を両人が望むなら、単身婚を採ればよい。それに、あえて短期婚 (有期婚) や暫定婚 (試用婚) を選ぶ必要もない。そのことで (つまり、ひろげられた諸条件の完全一致がむずかしく、そして固執から) 成約件数が減るとしても、それが、そもそもの個々の嗜好であったか、あるいはまた「嗜好の自由」の全面開花なのである。対して「過去の圧倒的な成約」は、一方が他方にあわせている実態の表現形である。または、忍従しても欲しい関係であるから成約させたに過ぎないかもしれない。この耐える分は、その起因するところの制度から「婚姻当事者の (雇用的) 主導側に搾取されるようにして」譲与されているから、制度改革は即ち適正化である。そして、たとえば同意された短期婚が可能になるだけの「選択幅」をそこにあらしめる施為なのである。この拡「幅」という供給 (制度) が先行し、需要が追随しても必ずしも転倒とはいえない。自らが主体的に関係を形成できるようなこうした婚姻 (養育) の自由化は自由契約論の白眉でありえよう。(成約に対する選択の優位)

 

12(脱近代的婚姻制度) 投稿者:rinri  投稿日:11 1()041835

不倫の制度的開放、かつ、不倫の制度的賠償の確立。
婚姻の性格づけの変革。
習俗からの独立。
婚姻契約時に、あえて不倫時・離婚時の規定を。


●13 投稿者:rinri  投稿日:11 1()042001

副憲法1101条   自由婚 (姻制) の保証
 婚姻は、自由な契約の形態、自由な結合の形態でおこなうものとする。(集団の結社に準ずる) 1) 重婚の全地域的解禁 2) 婚姻期間の自由設定


14 爆弾かミサイルの破片が首を貫通、首から下がまひ……投稿者:rinri  投稿日:11 1()042139

農業ムハンマド・ラザさん(40)=ハヤタバト病院。(死亡)

 

15婚姻制度はグローバル憲法で規定すべきか? 投稿者:やすいゆたか  投稿日:11 3()211125

 婚姻制度は各地域の伝統によって規制される面が大きいものです。宗教によって規制されている場合もあります。究極的にはグローバル・スタンダードが作られるでしょうが、むしろそれは遠い将来のこととして置いた方がいいような気がします。といいますのが、下手にグローバルスタンダードを設けますと、その内容では気に入らない人々がグローバル憲法に反発すると思われます。


16婚姻・酒・薬物・宗教 投稿者:rinri  投稿日:11 3()224946

 ありがとうございます。ご趣旨はわかります。婚姻について一日だけ書いてみた直接の理由は、こうです。以前、ここの掲示板で「イスラムは悪い宗教だ」として、重婚や禁酒が語られたことがあったのです。憶えておられると思います。しかし「宗教狩り」の一環として、「よい宗教」か「わるい宗教」か迫られたうえで、そういう「宗教的な自由」まで奪われては、たまったものではないと思ったわけです。
 宗教にかんしてさらにいえば、世界憲法にも「信教の自由」とともに「宗教自体の自由」が、独立して在るべきです。その自由のなかで教義がつくられて「禁止」や「義務」がつくられるわけです。宗教が個人の意思で選ばれる限り、宗教の「禁止」や「義務」は有って無いようなものなので、それはべつにかまわないのではないかと。(つまり、教義における「禁止」事項は、教祖と信者の「自由」によって成り立つわけですね)
 それにたいして世界憲法の「眼目」は、宗教が「外部の人を殺す」ようなものである場合の「犯罪」の部分の除去です。宗教が人権に反しない限り、むしろ憲法は、グローバル化によって宗教が押しつぶされないよう保護する必要があるかもしれません。
 かんがえていたのは「宗教における禁酒」よりも「人権に抵触する飲酒」のほうが、はたして人権に適っているといえるのかどうか、ということです。飲酒による暴力と横暴による、とくに女・子供の見えざる被害は相当のものです。世界の過半数の平和な人々にとっても日常の苦しみの最大のものかもしれません。飲酒と薬物の常用の境目はなんなのか。酒類と薬物が同格なら、酒類と薬物が同時に解禁されねばなりません。解禁となれば、イスラムの底の深い悪意はともかくとして、薬物は蔓延しながら彼らの収入源は確保されるでしょう。最貧国も助かるでしょう。ですから「禁酒」についても軽く触れようかとかんがえていましたが、いまは決めかねています。
 それとは別に、繰り返しの議論だけではなく、いろんな切り口を模索しているということも、ご理解いただければ幸いです。人権というひとつの巨大な輪がありますので、それをどう伝えるか。そのあたり、かなり腐心しております。これで限定されたわけではないとは思いますが、一例としての婚姻に固執しているわけではないので「はずれ」た回は、いつものように無視して流していただけると、ありがたいです。おっしゃるように、たしかに婚姻を規定した憲法は万人に「容れられる」という点ではむずかしいですね。ですから「副」憲法という形で「参考意見」的にあつかったつもりです。一番いいたかったのは「それぞれなんでもよい」ということです。いわば自由の全面化・極大化です。なので制度によって宗教の「よしあし」を決める論調には反対なわけなんです。


17イギリスにおける新憲法への道 投稿者:捧 堅二  投稿日:11 3()230312

 イギリスでは、以前から、成文憲法の制定をめぐる議論が行われています。
イギリスは世界で最初に憲法(国政の基本的ルール)をもった国でしたが、
しかし、それは不文憲法でした。憲法が一つの憲法典のかたちをとっていないのです。
 この不文憲法を成文憲法に変えようと動きがあります。しかし、これは実質的には、全面的に新しい憲法を制定しようということです。
 単なる憲法改正ですと、ブレア政権は、スコットランドとウェールズへの「委譲」、換言すると「副国家」の形成というかたちでやっています。大きな政治改革は、必然的に憲法改正を含まざるを得ません。
 労働党の議員の半数は、反君主制、共和制支持です。成文憲法の議論では、共和制憲法を唱える人も少なくはありません。
 アメリカにあるイギリス大使館の広報サイトにイギリスの憲法についての解説があります。
 http://www.britain-info.org/faq/xq/asp/SID.332/qx/showfaq.htm


18ゲーマー(カエルも呆れる)1● 投稿者:rinri  投稿日:11 3()233921

 まえにも述べたが「成熟した戦争」なるものは、言語操作にすぎない。(そういういみでは「平和ボケ」と似ている)
 煮ても焼いても食えないような「戦争」に「ランク」をつけ「相対的にマシなものは許される」とする。それなら、盗む金額がマシであれば盗んでもよいのか。泥棒とはちがう、というかもしれない。たしかにそれはそのとおりだ。戦争は、泥棒よりもタチが悪い。
 いうまでもなく相対的にマシでも、どんな場合であっても、悪いものは悪いのである。ある場合には……この場合なら……妻を寝取られてもよい、とは思わないだろう。だから「相対的にマシな戦争」が許されるというのは、マヤカシである。それをいわれると、どうしようもないから、すぐに戦争「不可避」論をもってくる。戦争が不可避ならマシなほうを取るしかない、というワケである。
 ここでなにか思い出さないか。そう、「歴史必然」説である。つまり「発展段階」説である。現在というものはつねに「歴史の必然」もしくは「発展の段階」の途上にあるという論法である。これを戦争に応用すれば「戦争の歴史的発展」となる。発展を繰りかえすことで、さいごに辿りつくべき「約束の地」に近づいてゆくというわけだ。したがって、その道のりは、どんな苛酷でも、残虐でも許されてしまうのだ。前よりも「少しばかり」マシならよい。前向きならよい。微々たる進歩でもよい。しょせんすべては「実験」であり「経験」であるからと。ここでいう「約束の地」とは「民間犠牲者ゼロの戦争」である。(ヘーゲルは「発展の過程」を無限とする。約束の地は無限の先にある。ヘーゲルは約束する、約束の地は必ずあると。かくして「無限の先送り」となる)
 空爆主義者は「誤爆は減少傾向にある」という。技術は、爆撃の精度を高めてゆくだろう。だが他方では「攪乱する技術」もまた向上する。今回たまたまテロリストが撹乱技術を保有していなかっただけだ。いまのところアメリカ以外の諸国が保有していないだけなのだ。しかしアメリカは保有している。蓄積している。そして、それは盗み出され、拡散する。たとえば「最高度の細菌精製技術」が今回「生物戦」として流出したように、だ。つまり「技術」の進歩というものは、その裏では「攪乱」を保証し、技術自身の魔力・魅力から「拡散」をも保証する。盗みだすのもまた「技術」である。
 アメリカとテロ集団。ワル知恵では対等であっても、じっさいには「国」力の差が大きい。それで、ピンポイントという正確な狙い撃ちが成り立っているだけのことだ。技術が伯仲すれば、どうなるかわからない。軍事力の差が縮まれば、ベトナム的な泥沼状態が現出する(再現される)。
 もうひとつの問題は、たとえ犠牲者が減っても、犠牲になった者にとっては、殺人でしかないということだ。戦争がいくら「全体として」犠牲者数を減らしても、犠牲となる個々の人間=実存にしてみれば「戦争による無実の死刑」を「減刑」されるわけではない。戦争は、つねに第一級犯罪なのである。しかも責任者は実在し、のうのうとヒーロー然として中枢に居座る。世にこれほどの理不尽があろうか。(この件は繰りかえし取りあげてゆくべき「ライトモチーフ」だと思っている)


19ゲーマー(カエルも呆れる)2● 投稿者:rinri  投稿日:11 3()233702
 では、なぜ空爆主義者が左翼に散見されるのか。
 なんのことはない、平和の弁証法に挫折したので、つぎは戦争の弁証法に飛びついたわけだ。どこまでいっても旧左翼マルキシズムのクセが抜けきらないのである。もとよりマルキシズムは「動き」のあるダイナミックな「世界像」を提供する。そういう「動的な世界観」は、保守的な「開発志向」と容易に結びつく性質をもっていた。なにごとも過去のものとして上書きしてしまうのが「開発志向」である。下手をすれば、たとえば「戦争にたいする意識」を「変えろ変えろ」と右からも左からもカエルの大合唱になりうる。「新しもの好きの」旧左翼は、つぎつぎ転向して資本主義にどっぷり漬かって、資本主義を変えるまでもなく社会のプチブル的「成功者」に豹変している。ひと皮むけば、右にも左にも、学生にも学者にも、時流に敏感な「多数派」根性、表層を漂うような「多数派」根性しかなかった。だから、右の「変える」と左の「変える」の間をとった「第三の道」も、けっきょく「変える」でしかないのである。すなわちカエルの大合唱なのである。
 百歩譲って「戦争へのイメージ」を「変える」として、それによって根本のなにが変わるのか聞きたいものだ。人を殺してもよいということが変わるだろうか。変わりはしない。ひとの意識は変わるというが、そこまで変わったら世も末だ。幸い、自由に「ひとを殺してよい」という道徳観が主流となる見通しはゼロだ。変わらないものを変わってゆくようにみせかけ、ほんとうに変えなければならないものは意地でも変えない。この「表向きだけ変える」というパターンは「万年与党」の政治スタイルである。(正直者にとっては哀しい黄金律であった)
 いずれにせよ、「変える」左翼から「変える」右翼へと主張を「変える」というメタ「操作」がなされたにすぎない。社会が変わるのではなく「てめえ」が変わるのだ。コロコロと。ただただ世渡りの寝返りである。寝返って反対側とも寝るのである。ところが弁証法だけは鞍替えせずに、なぜか頑なに操をたてる。それどころか、ラディカルな改革などと臆面もなく説いている (厚顔無恥もはなはだしい)。
 もちろんこれも「言語操作」にすぎない。言語操作のほかにも、事実への認識を (政治の側に) 抽象化して「ナマの現実」を忌避するという操作がある。これによって、きらびやかな、イメージ豊かな概念だけを組み立てて遊ぶことが可能となる。
 こうした二重の操作で「浄化」された無菌室にいて、ぬくぬくと天下国家を論じている学者を「ゲーマー」と呼んでみたわけだ。世界を知っているのではなく、世界を語るのにつごうのよい「できあいのイメージ」を知っているのである。そうしたイメージは、つねづね諸外国のメディアで流されているシロモノだ。保守が買うようなイメージを海外からとりよせて「けっこう楽しいぞ」と、ひとにも勧めている。組み立てやすいように、はじめからセットになった「西側のパーツ」で遊んでいるのである。


20最終携帯兵器(個人テロ)1● 投稿者:rinri  投稿日:11 5()0025

 アメリカの、テロ対策委員会 (下院) の「関係者」にボダンスキーなる人物がいるという。日本でいえば、ワイドショーにででくるような (軍事) アナリストだろうか。戦争になれば忙しくなるような人物か、すくなくとも国防費が増すような世相に出番が回る人物なのだろう。こういう輩が「じつはアルカイダには秘密「核」基地 の情報もあるのです」と、まことしやかに語っても鵜呑みにするひつようはない。
 ボダンスキーに一目置くのは、S氏なのである。そしてS氏の情報は、ボダンスキーに依存している。つまりS氏の情報は、S氏によって一目置かれているにすぎない。ボダンスキーの情報は「無視できない」というのも、単に『 (特集) フォーサイト』に寄せられた論文が素晴らしい、というだけのことなのだが「素晴らしい」といっているのは、むろん当のS氏なのである。これは云い換えるなら、「権威」の「タライまわし」である。いまさら、このような使い古されたロジック の「使いまわし」 など聞きたくもない。(論理学でいえば循環論法)

 もちろん問題は、そういう次元にとどまらない。ポイントはS氏が「危機感を煽っている」ところにある。S氏はボダンスキーという西側の、しかも「体制側」の人物のリーク情報に丸乗りしているのである。アナリストはすべからく体制に寄る。情報提供を受けるにも協力的でなければならず、情報の流しかたに情報元からのコントロールを受ける。折りが折りだけに (たとえば日本国内のリーク情報のような) あからさまな政治的意図さえ疑われる。そもそも「軍事情報」そのものが、戦争を旨とする戦争主体、すなわち「国家体制」に付属しているのである。
 S発言の要諦は、イスラムの危険を説くところにある。これはS氏に一貫してみられる傾向だ。こういうところだけはS氏はなぜか一貫している。(宗教論の各回でも イスラム憎し の一点張りだった)
 テロを押さえ込むには、「暴力」が要るなどと暴論を吐いたS氏である。「目には目を」の点では、毛嫌いしてきたアメリカと、いわば「感涙もの」の和解 (シンクロ) を果たしたわけだ。そうなるともう、テロリストがハイテクでくるのだから甘いことをいってはおれない、こちらは超ハイテクだといわんばかりに、こたびの「技術的にエスカレートした」戦争を「積極的に」「賛美」しはじめる。即日裁判どころか、全員死罪といっても過言ではないテロ支援者の「浄化・根絶」にまで暴走している前近代的処刑 (魔女狩り) でしかないのに、あれほど嫌っていた「脱近代」の概念をつかってでも、いかに今の戦争が昔とちがうか力説してきた。
 そうやってテロリストどころか、S氏自身の論敵をも、ものの見事に押さえ込んだ。かに見えた。しかしである。ハイテクを超ハイテクで抑えたとして、その超ハイテクを抑えるものは何なのか。超ハイテクは、アメリカに独占されている前提だった。いうなれば「正義の下」にあるはずだった。それは厳重に管理されているはずだった。だが。
 管理コストがかさむからとはいえ、蓄積された技術をまとめて盗まれる事態は防ぎようもない。なにより産業スパイ先進国が、それを身にしみて知っている。エシュロンで傍受するような国であればなおさらだろう。尤も、兵器はともかくとして、たとえ危険な核燃料であっても事故もなく、表に出ないのであるなら、とやかく云いはしない。また万が一、盗みだされ、使われたとしても、それを「盗んだ者の全責任に帰する」こともできよう。しかし極秘情報は、研究者に分有されているのである。細菌兵器のノウハウをもったまま、べつの組織に雇われれば流出する。かりにそれが防げたとしても兵器は市場で売られているのである。製品から技術を抽出できなくても、当然つかうことはできる。
 兵器の「拡散」は、はじめから予想された事態だ。拡散するだろうと誰もがわかっていながら、つねに誰かが「開発路線」を支持してきたのである。だからいまさら驚くにはあたらない。それを「新たな脅威」のようにしてわめきたてるのはどうか。
 以前、「暴力論」でも説明したことだ。S氏が真意を理解できたか心もとないが「暴力を徹底的に抑えれば、こんどは抑える力が脅威となる」という基本を理解してほしいものである。


21最終携帯兵器(個人テロ)2● 投稿者:rinri  投稿日:11 5()002310

 現在、世界最強の軍はアメリカの管理下にあるが「技術」のほうは管理が追いつかない。したがって、それを奪われたら、まだ相手の知らない兵器を開発することで優位に立つしかない。わすれてはならないのだが「小組織」相手のこの、抜きつ追われつの「循環」も「軍拡」なのである。軍拡は、ソ連のつぎはイスラム、イスラムのあとは「第3のソ連」というふうに半永久につづきうる。それどころか「軍産」のために、さまざまに「敵をつくりだして」でもつづかせることだろう。異文明にかぎらず、対抗する経済圏のあるかぎり、……それが世界に分散する集団であれ、なんらかのネットワークがある限り……、国家は (もしくは別のネットワークは) その中枢を護るために見えざる敵に対抗して「開発路線」をひた走らねばならない。それは国を疲弊させかねない負担であるから、いっそのこと世界警察機構に委譲し、その強大な権限によって世界を予防的に監視してゆこうという発想になる。さもなくば地球文明の発展という名の「軍拡」の歴史しかありえなくなる。ところがさらに不幸なことには、この循環は右肩あがりではない。やがてピリオドが打たれるのである。ピリオドの候補が今回噴出した怪情報 (いずれ事実にもなりうるが) なのである。いうまでもなく、テロリストが保有するとされている「マンハッタン」も吹っ飛ぶ (などと囃される) くだんの「携帯(核)兵器」の噂である。携帯兵器にかぎらず人間は、もう崖っ縁まで歩を進めてきた。まさに、これこそが「最終兵器問題」ではなかったか。

 まちがってもらっては困るが、決して「最終兵器論争」に与するわけではないのだ。「最終的に危険な」なにかの拡散によって「何人」死のうが、「人類」が滅びようがそういうことを問題にしてはいない。はっきりいって「ひとを束ねた高所」からの議論など知ったことではない。人類が消えてしまうことそれ自体は (いつしか人類が滅びるのが「必定」であることを抜きにしても) なんの問題もない。問うべきは「集合」でも「数」でもないのだ。早い話が、個々の「一人の」「無実の」人間が「正しいはずの法で」「法治国家によって」「合法的に」殺されることに問題があるというにすぎない。国家によって……犠牲者がたった一人であっても (誰と) 誰かによって「議決された法」にもとづいて……間接的にでも「殺される」ことは許しがたいということだ。人間が決める法である以上、誤りを含まないような「国」ごとのテロ対策「措置」法は (いかようにも) 考えられたはずだ。ひとを侵さないためにつくられるべき「法」の具備条件は唯一つ、すなわち (法によって) 「ひとを侵さないこと」なのである。

 今回「けっさく」だったのは、S氏が押さえ込んだ (ないしは無視した) 最終兵器論に (自ら) さっそく 直面していることだ。そして注目すべきは、したたかなS氏らしく、直面した「壁」を悪用して騒ぎたて、この壁をさらなる軍拡の「膨張」によって乗り越えようとしているという、その「心理」である。しかし「近代の枠内での発展」だろうが「近代の超克」だろうが、いつまでも「膨張」しつづけられるわけではない。しいていえば、そういう「弁証法の発想」そのものが揚棄されなければならないだろう。(弁証法の矛盾)
 もし「膨張の限界」というパラドクスをはじめから予想 (自覚) していて、なお盾と矛を (マッチ・ポンプとして) 売ってるのであれば「死の商人」なみの狡猾さである。
 盾と矛。それは原発もしかりだ。原発をつくることでさらなる軍備を要する羽目になる。この点では日本にとっても対岸の火事ではない。


22スポンジ読書人●1●天国と「戦争論」末期 投稿者:rinri  投稿日:11 6()003042

 いかに「読書」しようと、結論が「戦争賛成」なら知識はゴミだ。「豊かな情報通」になるまえに「人間」になれ。
 情報社会のゴミ情報は、隣の掲示板にもあります、もうもらいました、たくさんです。どこもここもゴミだらけだ。
 理想的に「文明が融合」しはじめた「夢の島」も満杯だ。「核融合炉」も「高温焼却炉」もいらないからゴミを減らせ。「近代知識」の残骸を、オートメーションの生産ラインで惰性的に製造するな。
 「少数にとどまるなら空爆犠牲者OK」という愚論を撤回せよ。もうそろそろよいだろう、これもゴミだ。
 おのれの発言に「責任」を感じるいとまもなく意見を使い捨てにするな。「輸入」本を読んで仕入れては、また吐き出す。裕福な古代人が指を軟口蓋に突っ込み、胃袋から絞りだしては、つぎの料理の「喉越し」を楽しんでいたという。
 知識を「使い捨て」にするな。掲示板はゴミ捨て場ではない。飽食した一族の貝塚ではない。学者の廃品を回収させられるのは「下層」民である。おこぼれに両手を差しだして頂戴する。ありがたい、ありがたいと。
 知識人は好みの食感、舌ざわりのよい献立を偏食する。あとは残飯として捨てる。(贔屓の「5つ星」の厨房にて。曰く、あの学者は中東よりも極東よりも洋 (食) がお好きだ、そそうのないように……)
 △○▽○△シェフの自慢料理は腐っていたから別のを運んでこい。テーブルで怒鳴る。繰り返し繰り返し、おなじ種類の肉を食う。おのれの意見は「自己洗脳的」に強化されてゆく。異説を打ちのめす素材は懐を膨らませる。どんどん頭は肥厚する。重油の脳の泉から廃油として排出される脂肪で、身体が横に弛んでしまう。そんなふうに、いつまでも、どこまでも水平方向に見聞をひろげるのではなく、見聞を深めよ。粗食せよ。(一把の旬の菜の味をかみ締めるのだ。そして命の水脈に井戸が届くまで反芻するのだ)


23スポンジ読書人●1-A● 投稿者:rinri  投稿日:11 6()002925

 「俗説に惑わされずに、ちゃんとした本を読んでください」などと、至れり尽せり親切・懇切にアドバイスするのは例によって「文科省推奨」の「良書」を選定した御本人である。自分のは「俗説」ではないのか。わざわざ本を読まなければ「真理」に達することができないのか。そんなに頭が「わるい」のか。成長 (精通) は、そして勉学は、素朴な「憂国の市民」の、そして人間の義務か。それとも「文明の交わる富裕な国」の恵みを還元せんと「国際貢献」よろしく、窮乏する流民難民に「代読」してあげているつもりか。読んでかんがえるまえに、じぶんの頭でかんがえよ、じぶんの目でたしかめてみよ。だれにでもわかる。だれもがわかりうるものこそ「普遍」の真理なのだ。「洋」書など読まなくてもわかっているひとはわかっている。つぎつぎに本を買えない、それこそ今日の「食糧」にすらありつけもしない「貧困」層のひとのほうが「現実」を肌で知っている。たとえば、肉親が爆死した娘が「空爆反対」を叫ぶとき、もうそれで知識は「完成」しているのだ。真実を知るための知識でなくてなんの知識か。(ほんとうに必要な「最小限の」知識とは「侵されず、侵さずに」「他者と生きる」「智恵」のことだ)
 世を睥睨して「通説は俗説」と決めてかかるその御説は、まったくの私的な持論 (信念) であろうか、はたまた学界のお偉方の御託 (宣) か。
 どこぞの教祖が自分の意見は「定説」だという。べつの教祖は「天声を聞いた」というだけで、なんの論証もでてこない。


24スポンジ読書人●1-B● 投稿者:rinri  投稿日:11 6()002744

 ここ数日来やっていることといえば「欧米の活字」の「権威」を自らが崇め、卸売り商でしかない自らの「権威」で「とれたて」の品々を「下々」に押しつける「トップダウン」にすぎないではないか。他社製品が「俗説」かどうかなど、ことの真偽は議論の場で明らかにすればよい。(チップさながらのオマケ情報もふくめた「情報の等価交換」でしか議論できないのか)
 ようするにナマの非情な「現実」に向きあうのは疲れるから、虫のつかない枯れない「造花」を花瓶に生ける (差す) のだろう。好奇心や「心の渇き」を満たすために、せっせと読書を重ね、旺盛に教養を積む。死と空虚をわすれるために学問に勤しむ。あげくの果ては「世界の理想」のために「多少は犠牲になってもらわないと」と、どこかで聞いたような「痛みの論理」を開陳しはじめるのである。
 この掲示板は「知識志向」の言論人が多いだろうから、馬の耳に念仏かもしれない。しかし、美味しいものならガブ飲みする馬たちだけに、誤って酒を呷ることで「蒸気機関車的な暴走」(学者に倣って、煙に巻きながら加速する「遁走」とでも言い繕おうか) を鈍らせもしよう。
 グルメ学者は「消化不良」気味だ。ディリーニュースで手っとり早く仕立てた知識の「パッチワーク」だけに綻びが目だつのだ。
 ……その「端切れ」の一枚に「an air-raid alarm?」とあるのを早晩みいだして歯切れが悪くなろうから、遠い春がくるのを心待ちにして、さあ越冬することにするか。凍死者の靴の下で耐えていよう……(尤も、食って吐く機械に「食傷」などないだろうが)


25スポンジ読書人●2●あなた (がた) に読みこなせるか 投稿者:rinri  投稿日:11 6()001745

 ところで、すべての知識人は人「間」だろうか。他者の命を「最大限、極大限に」尊重してこそ、人と人の「間」柄である。「命への畏敬」とでもいうべき「人間の証」がスポンと抜けたら人間ではない。水に浸したスポンジは、スポンジのようにのみ機能する。スポンジのような軽い、じつは隙間だらけでしかない人間は、吸収力も凄まじい。その吸収力だけで地位を固めたスポンジ学者もいる。(しかし、スポンジそのものを「敬う」ひとは見かけない)
 押せば零れるほど「豊かな知識」に溢れているなら「道具的理性」ということば「ぐらい」耳にしただろう。近代まではこの「道具的理性の時代」だった。物とカネ、そして「科学的な」知識を集めれば集めるほど人間は「幸福」になれるという (啓蒙の) 錯覚と狂信 (倒錯) 、すなわち「膨張路線」一辺倒だった。そういう抑えのきかない「誤った理性」がシェアを伸ばすと「倫理的理性」は手薄になる。それがいまの世界の惨状だ。
 飢えて痩せ痩け衰えた現地人の横で、楽しげに読書に耽ってみよ。身体を割られた民間人の横で、よい本だ、と説いてみよ。虹色の未来があります、極 (楽) 彩色の浄土です、と (ああ免、ご免)。いえ、なに、▽○△資本が押し寄せたからといって、べつに貧しく慎ましく働かされてなどいないはずです。「搾取?」……滅相もない。そのうえ最後の「逆」審判まで下って……いません。めったなことをいうものではありませんよ。たしかに肝も劈く轟音、そして「爆」音とともに火の雨が霰のごとくに降り注いでいますが、すぐにやむ驟雨です。世界平和のためです。辛抱してください。犬死にさせられてはいませんよ、決して。などと空念仏で拝み (倒し) つつ、肝心かなめの「真理」にさえ気づかぬよう、そして怨まぬように夢みながら成仏しろとでもいうのか。
 空爆主義者も、いまは「爆殺」が正しいように信じたいところだろう。世に七色の説があり、それぞれの説の色あいも七変化する。そんな蜃気楼は、ちかづけば逃げ水のように目標を移す。そこに反省などない。彼らはいうだろう。参考までに紹介したのだ、ひとの意見をつたえただけだ、教えてあげたが、もうわすれた。あのときはあのときだ。ときの状況で判断したまでだ。よかれとおもっていったのだ、いってみただけだ。戦争の「暗い過去」なんか忘れろ云々と。責任論は陽炎のごとく、風雪もろともに去りぬだ。
 ……さて、こんどは「文明の融合」ですか。けっこうな粗茶で。「虹の架け橋」ですな(夢のような)。(手を取りあって海外派遣か。ああ麗しや)

 彩り豊かな、趣味のごとき「主義」主張は、趣味にとどめよ。少年労働者が収穫する果樹園に入りこんで、なんだろう美味しいな、などと甘い「蜜」のところだけむしりとったような知識で世界を語るな。少なくとも「社会問題」に首を突っ込むな。あなた (がた) は、けっきょく、たんなる「読書好き」の「趣味」人なのだ。


26●戦争「許可」戦争の二分法●(背理の前後にあるもの) 投稿者:rinri  投稿日:11 7()015009 a-1
「局限戦争」が許可される要件
 一、戦場が、完全に隔離された空間であること。そして、外部から惨状が見えないよう遮断、つまりは「自然の要衝」によって「目隠し・目張り」された場を確保すること。(しかし、これは理論上にあって、むろん「実現的」ではない)
 二、戦争参加者全員の成約 (相互殺人許諾の契約関係の成立) が明確なこと。および「当該契約者」以外の者全員に一切の危害・損害をあたえないこと。被害には当然、環境被害 (具体的生活・地球的インフラ) が含まれる。
 「一」の後半を中心とした解釈
 「人間が物であるかのように処遇される場面」「身体が物であるかのように裁断される光景」「人間が自然の人間ではないかにまで変形されている状態」「忘れていた己の未来の死を思い出させる具体的な瞬間」「未だ個別の濃密な他者になりえていない見知らぬ他人の死の情景」「他者という存在の痛みの表出そのもの」等々はショックをもたらすであろう。死に接したとき、死にたいして慣れていない、死に「麻痺していない」人間が、それでも耐えられるとしても、わざわざ見せられるいわれはない。むろん、死が隠されているべきものであるとも、周囲の者によって隔離されるべき義務を生ずるものだともいわないが「無用の死」を (余分に) 見せられる「義務」はないのである。知らなければ殺されていてもよい、ということではない。見えないところで明確な契約にもとずいて殺しあえ、ということだ。これは仮定である。このとき志願とは、殺しあう契約を制度として具現したものである。また、徴兵は国家に境涯 (処遇) を委任した間接的な「危険契約」である。しかし、国家への社会契約は (選挙制度まではあっても) 明確な契約の形態をとっていない。それはともかく、先の仮定に沿うなら、兵士 (隊員) が契約不履行に甘んずれば「目撃情報」と「警察」によって「摘出」されるべきである。通報があれば警察は戦争に介入し、戦争契約の履行をサポートしなければならない。そのために警察機構自身が前線・後方 (後背地) を内視するような、戦争が円滑に遂行されるための監視は、莫大な費用を要する。この見地からすれば、臨戦での兵士らの一斉の「死の契約」もしくは「履行」は「契約権の濫用」のように映るかもしれないが、そもそも「完全自由社会」での契約は無制限である。契約違反が「うな垂れた服役囚の見せしめ効果」によって充分に抑えられるとの前提があるなら、物理的に警察でカバーできるから、死の契約が個々の民事に還元されて野放しとなろうが差しつかえない。しかも、急襲で翌朝にも死のうかという者にとってでさえも「強制的に生かされて」「無為の檻」に収監されるのでは、おいそれと契約を破棄できないのである。最後まで戦う、との「誓約」の文言は、負傷しても鞭打たれるオプション条項となりうるのだ。(なお、信号・標識のもとで職務中の警官への発砲・発射・放射・照射・噴射・噴霧・散布・投擲・爆撃・急接近等は執行妨害および「未遂」の現行犯に当たり、戦線離脱・勾留の「憂き目」に遭う。他方で、交戦を遅滞させないよう、戦地にも赴く機構警察官であるからには、迅速な各種処理のために、任官は未然の「死に慣れる」課程での実技修得者が望ましい。これにたいして兵士は「実地訓練」を余儀なくされている)


2戦争の二分法 投稿者:rinri  投稿日:11 7()014729a-2
 さて、明確な契約は「死」や「危険」や「殺人」を許容するが、その伝でゆけば、他者に対して己の「死」や「危険」を保証することにもなる。それは、敵前逃亡できないといういみで「野」に放たれる者の「最大最終の退路の自己切断」となる。この場合、射殺されるのも辞さないと「献身度」に虚栄・虚勢を含めた契約をすれば、初めて踏む戦場の緊張に耐えられなかった「誤算」にたいして「逃亡者」として、士気の維持のために射殺する側が正当となる。半端に高価な戦闘機に搭乗すれば、軍事機密を無傷で持ち出すよりも撃墜されることになる。逃亡者は「犯罪者」であるからゲームとして参加した戦争において、真に「人格的に不名誉な」死に終わる。これは「忠誠」が「契約」という実体をもつからにほかならない。忠誠は「誓う」までに逆らえればこそ重い。もともと忠誠の無いところで自ら誓うからこそ忠誠なのであって「半期の自由」と「半期の服従」が相まみえなければならない。また、志願とは「戦争」が成りたつだけの「戦闘」の激しさに高めるための忠誠である。文書で誓約を取り交わすさいに、そうした実態の「説明責任」が果たされたうえで、死にたい者は死に、恐怖を上回るほど危険が好きな者、目的のために命を賭して顧みない者は「参戦」すればよい。ひとたび契約が発効すれば期限まで追われる。具体的には警察機構が追う。死んで責任をとるつもりであっても「罰せられなくとも」「悪いことは悪い」のである。したがって「自他の死」を遣り取りするに当たり、「人命取扱」者の管理責任が生ずる。各自、見えない場所で殺し、死ななければならない。主催者は安心して死ねる場所を買収してあるはずだ。そういう前提にたつ。それゆえに一般市民 (不参加者) に「微細な」被害ですら塗りつけてはならない。細やかな「精神的被害」をここでは包括的に、たとえば「擬似痛」とでもいおうか。それに配慮し、プレス・ネットは衝撃的な現場を興味本位に暴いて配信してはいけない。そこは「真の聖域」でもある。報道から開放されるべき「純粋趣味」のアソシエーション領域であるところの「実戦地域」はしかし、訓練海域とならんで配管工事の日取りのように、これという変哲もなく、メディアで日々予報されている。そこで何が繰りひろげられているか親たちは知っている。しかし、血の色は見なくてよいし、火の粉も降りかからない。今日もどこかで死んでいるな、と思うのは、今日も誰かが (壮絶に) 自然死したな、と思うことと変わりはない。自らの希望で死ぬことは、安楽死同様、自然死なのである。熊や自然災害に殺されるのも、自然や別の自然 (偶然の状況) に苛まれて煩悶した末、医師に請うて己が殺すのも、質において等しいのだ。それは「他者」によって不本意に殺される末路ではない。志願兵たるもの、上官の軍靴に辱められたうえ、憎むべき敵兵に殺されてさえ、誓約した己によって間接的に決定的に殺されたにすぎないのである。これを「本望」という。激痛に顔を歪めながらも、意識のあるあいだに、内心には、可能だったうちでも「無上」の「充実」が去来することだろう。少なくとも死に見あう、そして、それほどの「義をたてうる決着」を、また、その過程をすらふくめ、手中にした「偉大なる趣味」の充足がそこにはある。不参加者には、そこまでの「特殊」な「戦争好き」を理解することができないが、趣味に生きる者たちの或る歓びは直感できる気がする。むしろ清々しい感慨に駆られるのである。それは、毎日の、他者たちの無念の死、理不尽だ・不可解だという叫びに慣ら「される」こととは丸でわけがちがう。それは、ああ今日もスラムで強盗に撃ち殺されて死んでいるな。ああ今日も、ひび割れた大地で乳を飲めない子に、草の根の汁の残りを含ませて餓死した親がいるだろうな、というのとはちがうのだ。


28●戦争の二分法 投稿者:rinri  投稿日:11 7()014601b-1
 以上は、戦争によって白黒の「決着」をつけたい場合、または、純粋な「戦争好き」の捌け口として、「戦争の実相」を味わうために想定されている。たとえば、好戦的でマニアックな政治家も「戦術核」の飛び交う隔離空間で「現実感」を味わうとよかろう。むろんその場所は、高度な判断能力のない一般人が、遭難してさえ立ち寄ることのない場所で、でなければならない。くわえて生態系、環境の循環から独立した地域を確保できれば、なのだが。
 (これとは別に) 倫理的な「判定」は、戦争による「決着」と性格を異にする。また「仇討ち」という「決着」も、上記とは別のあつかいとなる。これは、ほんらい裁判に委ねられてしかるべき案件であるが、それがままならないのは、世界は国家が最上階を占めていて「国家から独立して」「国家を裁ける」ような裁判所が存在しないという (永き) 閉塞に起因する。
 そのほか、武力を背景とした犯罪者への処罰ということがある。処罰といっても、裁判を待たなければならないし、容疑が明確でなければならない。そして、それは「戦争」という括りを免れるようにして「犯罪」として処理されなくてはならない。
 ところで、理想的に昇華された戦争があるとすれば、それは当事者 (諸国家) の上位にある法にもとづいているだろう。つまり、少なくとも当事者間で締結された「絶対的条約」に則った「法的手続き」に沿った戦争であるはずだ。あえていえば、これを戦争と呼ぶ必要はない。そしてさらにいえば、いちどは述べたように「戦争」の民間犠牲者ゼロは、すでに戦争ではない。そういう事態は、もし敵将を陥れることが不当であれば (拉致監禁を含みうる大量) 殺人、そうでなければ「警察の介入」である。個々の契約にもとづかない (国家の) 戦争 (=犯罪、これまでのところすべて、参戦国のすべてが) である場合、民間犠牲者ゼロでも足りないのであって、敵兵に対しても「戦争契約」が明確でない以上、罪に応じた審判・制裁が加えられなくてはならない。つまり、この者には銃殺、この者には懲役に相当する「重傷、そして可能ならば入院」という具合に、これは例ではあるが、等級 (責任の配分、所在) に応じた攻撃がなされなければならない。そういう意味では、現在の衛星・偵察機・照準器からの識別、射撃精度は「まったく」追いついていないということだ。また司法機関とのネットワーク、おびただしい数の令状・諸判決主文と具体的処罰の指示がなければならず、情報化の波といっても、現状をみるかぎり、その情報技術・社会的インフラはまるで体をなしていない。(空爆主義者の論陣にあわせる義務などないが) 程度の問題、そして「現実的認識」を問われるのであれば、軍事的水準からいっても、この手の戦争は不可能なのである。
 処罰は決定権に応じてというなら、指導者や、そして開戦に導いた知識人ほど厳しく指弾・断罪されるべき道理は論を待たない。もし「即断即処刑」を、と所望するなら「等級の高い将校」や「戦争知識人」にたいしては、額か後頭部にマーキング (赤色光) 即、射殺である。特殊部隊が、警察と執行人を兼ねるということだ。指導者というものは原理的に個々の犠牲者に (一つの命では) 報いきれない。そうかんがえるときにも、もちろん犠牲者を数としてうえから眺めるのではなく、個々の「この犠牲、どうしてくれようか」が押し寄せてくるような「質量」とでも捉えよう。どのみち、互いに敵にとして最も憎むべきはテロの「指導者」や、あるいは「大統領」であろうから、少なくとも一方のトップを引き摺りだす「結末」は、平和論者・戦争論者のみならず「どちらともつかない、つかせない連中」の肯定で一致をみよう。平和論者とて平和を希求すればこそ、主犯格の犯罪者への少なくとも「教育的厳罰」は切望するところだろうから。


29●戦争の二分法 投稿者:rinri  投稿日:11 7()014331 b-2
 もとより (戦争においても) 決定権の大きいものほど無事に生き残るという「転倒」がある。これは近代社会が「封建的要素」を残しているということだ。「決定する者ほど裁かれない」ような「近代までの原理」によって、わかりやすくは「平時」での「首切り」や「尻尾きり」を筆頭に、世界のつつうらうら、日常の随所、人間関係の至るところで泡だっている膨大・甚大な被害である。これについては、いまここでは論じえないのだが。要は「決定者を裁け」ということである。指導者の決定に「決定的な影響をあたえた」知識人についても謂わずもがなだ。いずれにせよ、いかなるかたちであれ、戦争を肯定する「発言者」が、相応の罪を被らずに罷り通るのでは議論する意味もない。議論する限りは (議論に強度・濃度を感得しえないのであれば) 議論する者は「己の手足を担保に入れる」べきだろう。民間人が足を切断すれば、空爆主義者も足を斬るとか、分担して指を一本ずつツメるとかだ。(それは政治的決定の場にも当てはまる)
 たとえばブッシュが、われわれには、これだけの覚悟がある、とタラタラ百万言を費やさずに、黙って小指の一本でも切り落としてみよ。それならば、なるほど覚悟しているな、兵士の痛みもわかるひとだ、民間人の痛みもわかるのではないか、と印象も変わろうというものだ。尤も、パフォーマンスで印象が変わっても、いっこうに埒はあかない。したがって戦争を主導した責任者は、戦争が終われば、その小指とともに「死ぬ」べきだろう。冗談をいうのではない。それだけの重みをもって、犠牲をも厭わない「非常」措置を採るべきなのである。誤爆で「犠牲者」は、ただ小指を欠損するだけではない。死ぬのである。誤爆すれば「業務上」過失責任を生ずる。したがって (安全であるかに騙った) 戦争の「主導者」は、ひとりの誤爆犠牲者を出した段階で、逮捕されて然るべきである。(それとも、確信犯としてか、または) 最高責任者として、少なくとも「未必の故意」は問われなればならない。虐殺した「独裁者」を例に取れば公の場で、ときには「国際法廷」で裁かれているであろう。一般人でもおなじことで、殺人なら2人殺せば死刑を免れえないのが「相場」であるとすれば、大統領とて (容疑と事実認定が明白で文書が完全に準備できるとすれば逮捕されるなり)処刑される、なり、獄死せねばならない。いかに美辞麗句を弄そうが、空爆様の「戦争形態」が、第一級の「故意の」犯罪であることにはちがいはないのだ。