グローバル憲法草案を作る会掲示板・保存版1  

グローバル憲法草案を作る会掲示板・保存版3

グローバル憲法草案を作る会掲示板・保存版4

目次

 グローバル憲法草案を作る会掲示板・保存版2まことに申し訳ありませんが保存が遅れていくつかが消えてしまいました。

(無題) 投稿者:三郎  投稿日:1011()005637

>>rinri さんへ
>日本でも老人のなかには、喝采している人もいる。
>世界にはアメリカの「自業自得」論もある
>ぞ、と言っておきました。「教訓」ということも言ったかな。
(10月9日『タッキー816を聴いてみてね』より抜粋)

 私のこの個所ですが、「老人」というのは、戦争体験者ということです。
ラジオの録音収録では、二人の実例をあげています。名前は挙げていませんが、そのうち1人の発言についてはかなり具体的に触れてます。いずれも私との会話での発言です。
 「自業自得」論は『ニューズウィーク』10月10日号(先週発売)にも出ています。


2「ラディカルで非選別的な人間主義」 投稿者:三郎  投稿日:1011()010751

 ニューヨークのビジネス・エリートも、ワシントンの青年将校も、カンボジアの農民も、イラクの子どもたちも、広島・長崎の人びとも、みんな人間として同じ価値を持っています。
 サルトルだったら、娼婦も、アルジェリア人も、ベトナムのボート・ピープルもというかもしれません。「他者」というのかな。
 アメリカ人の多くには、ここのところがわからなかった。だから、私は、「9・11」を「クスリ」として機能させる必要があると言っているのです。
 これは、「ラディカルで非選別的な人間主義」(コーン・バンディの言葉ですが、広めたのはグリュックスマンです)に立っての発言です。

 倫理的社会主義者のトニー・ブレアは、「第三の道」の4つの価値というのをあげています。その第1が、「すべての人びとの平等な価値」です。
 まぁ、「人間の平等」ということなんですが、従来のそれは、往々にして「内部の平等」だったんですね。たとえば、アメリカ国家の内部の(昔は、アメリカ国家の内部の白人の内部だけの)平等だったというわけです。だから、グリュックスマンやブレアのような言い方が必要になってきたんでしょう。
 ちなみに他の3つの価値は、「責任」「共同性(共同体)」「すべての人にとっての平等な機会」です。
 「責任」というのは、モラルないし倫理の問題です。近隣社会、市民社会、国民国家、そして世界(人類、グローバル社会、コスモポリス)などの「共同体」の一員として、わたしたちは、1人1人、「責任」を負うということです。貧困、平和、環境、犯罪などについて、こうした視点から考えたいと思います。
 「すべての人にとっての平等な機会」とうのは、ラディカルな「機会の平等」概念で、これを実現するには、貧困の廃絶や民主化が不可欠です。グローバル憲法は、グローバル社会におけるすべてのピープルに「機会の平等」を保障するものでなければなりません。

3キリスト者の自己欺瞞 投稿者:三郎  投稿日:1011()014107

 やすいゆたかのイエス論、キリスト教論で私は初めてキリスト教がわかったような感じがしました。そういうわたしが、今日、あるキリスト教徒と話しました。そしてやすい理論に言及しました。
 彼は「(そういう話を聞いても)信仰は変わらない」と言うんですね。それから『聖書』は、このごろは「物語」として考えられているとも言っていました。

 この人は、宗教的な理由で非暴力主義者です。「自分は正当防衛の暴力も行使しない」と言っていました。
 しかし、自衛隊やアメリカ軍については触れないとしても、警察がわれわれの社会に存在し、警察官の行動(暴力の行使をふくむ)が多かれ少なかれ、われわれの安全に貢献しているわけです。その結果、私や彼が、正当防衛であれ何であれ、暴力を行使しないで済むような状態が維持されているのです。われわれは暴力に日々依存しているわけです。
 つまり彼は、警察官の暴力に依存しながら、「自分は暴力を行使しない」と言っているわけですね。この人には、社会的諸関係、社会システムというものが視野にないんですな。

 「暴力」は、人間と社会の条件です。これは、「暴力」の完全な廃絶は不可能という意味です。問題は、「暴力」を個人、家族、社会、国家、そして世界のレヴェルでどう減少させ、制御するかです。少なくととも理念的には、そのことにすべての人が責任を負います。単純に自分は(いま言ったキリスト教徒ですね)――あるいはわが国は、「暴力」を行使しないとか、「暴力行使」を全否定するとかでは、暴力の絶対量の削減とその効果的な統制につながるとは、決していえないはずです。
 「暴力」の極小化をめざして、「暴力」をもって「暴力」を制するメカニズムが必要です。これは主権的国民国家のレヴェルでは、かなりの程度達成されています。しかし国際レヴェルではきわめて不十分です。ここでも新しいグローバルな国際協力が必要です。  


(無題) 投稿者:捧 堅二  投稿日:1011()220547

 私は「暴力はなくならない」ということを、暴力の正当化ではなく、暴力の危険性を指摘するために述べたつもりです。
 私は、人間もしくは人間性について、楽観的であってはならないと思っています。むしろ悲観主義が選択されるべきです。誰にも、他者に暴力を振るう可能性があります。人を傷つけたり、場合によっては殺す可能性です。もちろん、わたし自身にも(幸い私はこれまで、人を殺してしまう、あるいは殺さなければならない、そういう状況に置かれていないので、まだ人を殺しいません。しかし、状況しだいでは分かりません)、集団の場合にもです。そして、権力者もです。そうした人間の「弱さ」を考慮した政治制度が必要です。

 これはマキャヴェッリの視点かも知れません。人間における「悪の要素」への注目の必要性があると思うんです。だから誰でも「悪人」になりうる。そしてその悪行を正当化するのが「イデオロギー」(世俗的及び宗教的な)です。
 とくに宗教は、「神」「あの世」「天国」「神通力」「輪廻」「霊」などの超現実的な観念を内包しているイデオロギーですから、宗教が政治と結合すると大変危険です。宗教が、「悪人」(くり返しますが、だれでも「悪人」になる可能性があります)によって利用されるととんでもないことになります。世俗的イデオロギーの場合も結構危険ですけど。マルクス・レーニン主義のように。

 この間、イギリスのコラムニスト、ポリー・トインビーは、『ガーディアン』に、「良い宗教は、死にかけの宗教である」と書いていました。今回の事件をきっかけに、無神論の立場からの宗教批判が新聞に出ているんですね。
 トインビーのホンネは宗教否定にあるんですけど、しかし、当分宗教はなくなりようがないのだから、「良い宗教のすすめ」をするのもいいかも知れません。もちろん、イスラム原理主義は、キリスト教原理主義とともに、「悪い宗教」です。われわれは、「悪い宗教」を攻撃し、「良い宗教」には寛大である必要があります。


7対等と平等 投稿者:rinri  投稿日:1011()144702

 なるほど「平等」には歴史があるんですね、捧さん。ぼくはといえば、そのあたりの複雑さがイヤで「平等」という概念を捨てちゃったんです。概念が形づくられるまでの歴史が長いと、学ぶ者には負担になります。だいいち、現状ベストである「すべての人にとっての平等な機会」がなぜ必要かなんて、憲法にはかけません。というより、訳語が長すぎて憲法になりません。そもそも、最もシンプルで普遍的な概念が、長い表現になるだなんて「転倒」です。歴史の逆行というか……。ぼくが「対等」を採るのは、そういう煩わしさを避けたいから、と同時に、人間に上下が無いことを確認したいからです。ノーベル賞「受賞者」の待遇をよくすると、他のひとへの配分が目減りするわけで。金メダルが眩しくて他のひとの輝きが曇るような……。もっと評価を抑えて「対等」にしたいんですね。虚妄の諸「価値」を削って、ね。
 近代は「社会の仕組み」としては「封建時代」区分の「後期」にあたるとかんがえています。ぼくにとっては単に近代が終わるんじゃなく、封建時代が終わるんです。だから「対等」がよいですね。上下関係の全廃が、わかりよくて。
 なお、「ラジカルな個人主義者」であるところのぼくにとって、「3つの価値」に「共同性」がはいっているのが嘘っぽいです。協調性の無いぼくには。これについても「人間には共同性は不可欠だ」の論法でくるんでしょうね。だとしたらこれも、歴史の重みに呪縛された、知識人の帰納法なんでしょう。

(たくさんかきましたけど、これでも、わかりやすさをこころがけています)


暴力のメカニズム 投稿者:rinri  投稿日:1011()132130

 捧さん、一応よくわかりますよ。でも微妙にちがうんだなぁ、これも。「暴力はなくならない」というスローガン(?)が、いかに「悪人」の自己正当化に寄与しているかですよ。「悪人」でもね、心理的に怯むと悪いことができなくなる場合があるんです。暴力の絶対量の削減ですからね。減るような表現にしてもらわないと。
 建前がだいじです。暴力はなくならないと憲法に書けないでしょう。事故もなくならないはずだが、発生ゼロへ向けて運用・製造責任で厳しく締めあげてゆくんです。事故は有りうるという「思想」が「雪印」のような経営者を生むんだ。
 ダイヴァージョンというプログラムがあります。これは犯罪者への再発防止の教育です。具体的に「拳を振りあげる瞬間」の自己統御を学ぶんです。まあ、そこまで専門的につめなくても、街頭のスピーカーでクラシックを流したら、犯罪が半減したって聞きましたけど。
 ぼくが内閣にいたらね、「不良心理学」を必須にするでしょうね。暴力の常習者にとっては、暴力がカッコよかったりする。この心の弱さのメカニズムを毎日、心理的に抉ってゆくんです。授業でやられるとバツ悪いですよ、これは。でも、早期教育でやんないと、教師、吊るされますけどね。
 たとえば、小林某なんか、戦争が人間の証みたいにいうじゃないですか。でも「森の詩人」マンギャン族は、戦争なんかしたことないって。
 つまり、暴力を「既に」あり、「常に」ありつづける世界内のインフラみたいにしちゃだめだってことです。(どうせ帰納法なんだから)
 「原始状態」は「暴力世界」なのだ、って信仰がなにをもたらすか。開き直っちゃって、なにを己に許すか。ちょっとぐらい「人間なんだから」いいじゃん、て。
 そういう意味で、暴力が暴力を抑えるという表現がよろしくないです。どうせポリ公も「暴力」振るうじゃないかっていう悪人根性に利するんです。暴力対暴力の「戦争」だと思えばもう「敵味方の世界」に入り込めちゃう。すると自分は「悪人」ではないわけですから。
 ですから、正当な手続きを経た警察権の行使は、暴力なんかじゃない。これは、表現の粉飾ではなくって「実質」です。
 また、国民国家のレベルでも暴力の抑制は「まだまだ」だという意識が必要です。これから吹きでてくるんです。治安の悪化じゃないですよ。訴訟社会になったとき、いままで泣き寝入りで隠しこまれていたエグい暴力が表沙汰になるってこと。震災のとき、紳士的な市民の態度で世界の注目を浴びた神戸の廃屋? 路地裏? で女性がどういう目に遭っていたと思います?
 5人に1人、1千万人の女性が、顔見知りからセクハラを受けているこの国で、なにが「かなりの程度達成」ですか。(東大調査)
 学校で、世間を、暴力を学ぶんです。腕力にビクビクしてるんだから。それを塗りつぶすようにして笑顔を描いたりして。
 田原某が電波で語った「イジメはなくならない」を連想するんです。こちらは「極小化」は云ってないけど、そういう風に利用されうるんです。校内暴力対策の予算が、警備費に流れたら悲しいでしょう。まず予防教育しなくちゃ。
 やすい氏のいう「テロリズムに対しては断固NO!でいかないと、『グローバル憲法』など作れる道理がありません」て、たぶん、そういうことなんじゃないかなぁ。

(ぼくとはまたちがったおかんがえなのでよくはわかりませんけど)


9勝手に、ひとやすみ。 投稿者:rinri  投稿日:1011()112517

 「老人」の箇所について、皮肉めいた表現を用いたのは云い過ぎだったかもしれません……。
 なんだ、三郎さんは捧さんなのか。ぜんぜん見破れなかった。なんだか、この掲示板、「英語+世界情勢」系ばかりだなぁと思ったくらいで。あ、まさか鈴木さんが渡辺さんてコト、ないでしょうね。しばらく消えてた(?)やすい氏が船曳さんだとか。まさかね、失礼、失礼。え、じゃあ別の掲示板で見かけた三郎さんも、捧さんなんだ。うぇ〜。←?
 ……鈴木さん、条文かいたよ。これが、ぼくのわかりやすさのギリギリです。ホントはもっとブッ飛んだ草稿にしたかったかも。(超くだらない草稿になっちまったゼぃ←ホンネ)


10世界憲法(草案)断章 投稿者:rinri  投稿日:1011()084831

●名称 ●前文  第○条……(普遍性・無条件)
 この憲法は、すべての世界市民に、無条件に適用されます。
 (定義) 世界市民とは、……。
○条……(対等・その条件)
 すべての世界市民は、憲法を守るかぎりにおいて、対等です。
 (定義) 対等とは、……。
○条……(自由・その条件)
 すべての世界市民は、憲法を守るかぎりにおいて、自由です。
 (定義) 自由とは、……。
○条……(例外の放棄) この憲法に、例外はありません。
(1.) 憲法の停止は有りません。(2.) 憲法の休止は有りません。
 (附則) 緊急措置も、定められた憲法の範囲内でおこないます。
○条…(武力・暴力の禁止) いっさいの武力・暴力を禁じます。
 (定義) 武力・暴力とは、……。
○条……報復・制裁の禁止) いっさいの報復・制裁を禁じます。(定義) 報復・制裁とは、……。
○条……(発動)
 (1.)違憲にたいして、世界政府は、警察権・裁判権を発動しなければなりません。 (定義) 警察権・裁判権とは、……。

 (2.)違憲がないかどうか、世界政府は、情報を収集しなければなりません。 (附則) 発動要請に対応しなければなりません。
 (定義) 発動要請とは、……。
○条(世界政府) 憲法を実現させるためだけに、世界政府を置きます。(財務府・環境府、警察機構・裁判機構から成ります)
(財務府) 世界政府の財務を司ります。 
(環境府) 世界環境の向上を司ります。
 (定義) 世界環境とは、地球環境・市場環境・食糧事情・衛生状態をいい、……。
○条(警察機構) 違憲調査・令状・介入(行使・逮捕・尋問)
○条(裁判機構) 違憲調査・公判・裁定(拘禁)


11■虚しい暴力論 投稿者:rinri  投稿日:1013()131943

 (暴力の定義にもよるが)
 滅びるまでに、暴力はなくならない。(悲観論)
 滅びるまでに、暴力はなくなる。  (楽観論)

 予言できない以上、どちらもなりたちうる。個人的に、どちらを信じようと、それを曲げさせることはできない。反証される可能性のある判断を、確定するほうが誤りとなる。

 「未来に、いかなることが起きるか」は誰にも予言できない。(天然痘のようにして暴力を撲滅できる、特殊な努力や特殊な方法が、早期教育として実施されるかもしれない)
 【暴力はなくならない】 覚悟を決めることができる。
 撲滅する意欲は失われる。暴力はあって当然で、対策を急ぐことができない。「なくならないものは、あってもよい」とおもえてくるかもしれない。
 【暴力はなくなる】 覚悟を決めることはできない。
 撲滅する意欲は失われない。暴力があるのは当然ではなくて、対策を急ぐことができる。「なくなるものなら、ないほうがよい」とおもえてくるかもしれない。
 掲示板では誰も、なくなるとは言っていません。そういう議論も聞きませんが一体だれにむかっていっているのでしょう。なにか予防の効果でもあるのでしょうか。(無意味に思えます)
 (……暴力不滅説という反動……)
 極小とは、どういう状態でしょう。値がありません。こちらも実は「極小化の原理」は考えましたが、制度としての構想にはキリがなく、事実に極小はありません。(無意味に思えます)
 (……暴力を極小化して赦す……)


12「グローバル憲法草案をつくる会掲示板−保存版1−」正誤表

 投稿者:rinri  投稿日:1013()132114

40鈴木さん、ありがとうございます。(投稿日:10月 9日) 投稿者:rinri
意義→【異議】申し立て

●本件については、いい「さらし者」になってしまいました。永久保存?


13「宗教判定官」殿「悪い宗教」リストを心待ちにしております
 投稿者:rinri  投稿日:1013()132224

 「悪い宗教」を確定できて、リストアップできるのですか? 「憲法」に明記できますね。「第何条、某宗教を禁ずる」というように。一定規模以上の宗教を対象とするのであれば、それら全てをリストアップすることで、刑罰という「対処」を準備できるでしょう。ですから、ほんとうに「宗教を分別できる」という「実証」のためにも、全ての宗教・宗派についての「リスト」を、判定能力のある「判定官」のかたが報告されることを、心待ちにしております!

14■「暴力」は、人間と社会の条件です。
 投稿者:rinri  投稿日:1013()132328

 ↑捧氏の発言からの引用↓

■わが国は、「暴力」を行使しないとか、「暴力行使」を全否定するとかでは、暴力の絶対量の削減とその効果的な統制につながるとは、【決して】いえない【はず】です。■

 納得いきませんね、これは。
 暴力を全否定しているからこそ、日本発の戦争に歯止めがかかっているのではないでしょうか。少なくとも暴力としては、警察も、自衛隊でさえも、とらえられていませんよ。暴力は嫌がられるから、いかに暴力でないように装って自衛隊を駆使し、既成事実にしてしまおうか、という話です。いくらなんでも、それは御存知なわけでしょう。それを……甘さを戒めるためなのかどうかはしらないけど……憲法の前文なりで「暴力も(ときには)必要だ」といってしまったら、大手を振って罷り通りますよ。ですから、じっさいに書けることを提案してくださいよ。(全否定では「暴力の削減」につながらない、というのは「憲法の表現」をおっしゃっているんでしょう?)
(それに、こちらが付した【……】の部分も、曖昧ですし)

 暴力が人間の条件、というのもいただけません。少なくとも「条件」といってしまうと「それがそれであるために必要なこと」に聞こえる場合があり、誤解のもとです。(暴力は、人間が人間であるために必要なこと?)


15近代国家と暴力 投稿者:捧 堅二  投稿日:1013()161114

>>rinri さんへ
>暴力を全否定しているからこそ、日本発の戦争に歯止めがかかっているのではないでし>ょうか。少なくとも暴力としては、警察も、自衛隊でさえも、とらえられていませんよ。

 あなたは「暴力」という言葉に過敏に反応されているようですが、「暴力」violence という言葉は、日常言語では否定的な意味で使用されますが、社会科学では価値中立的に使用されています。つまりそれ自体としては、否定的含意が込められているわけではありません(もちろん肯定的な含意も込められていませんが)。

 そのような意味で、マックス・ヴェーバーなんかも、近代国家について、それの主要な特徴を、「正当な暴力行使の独占を要求する政治団体」として規定しています。つまり、警察も軍隊も、暴力装置なんです。警察も自衛隊も「暴力」(手段、装置)なんです。

 政治学の教科書なんかには書いてあると思いますけど(たとえば、猪木正道の『政治学新講』など)。ギデンズの『国民国家と暴力』もそうです。たとえば、『現代政治学小辞典』では、「直接的・物理的(肉体的)強制をともなう力の発動をいう」(有斐閣)とあります。
 アフガニスタンは、このヴェーバー的な意味での近代主権国家が崩壊したところで起きた事態ですね。近代主権国家を乗り超えようとしている時代に、世界の一部地域では、ホッブズ的「自然状態」が発生しているのです。しかし、タリバンは「自己保存」のために行動しているのではない、「原理主義」によって自らを正当化する「ならず者」として行動しています。アフガンの大部分がこのならず者によって占拠され、タリバンは、大多数の人民の「自然権」を踏みじにっている。人民の多数はその被害者です。アフガンに主権国家が存在しない以上、「国際共同体」による人道的介入が必要です。しかし、この「国際共同体」が未成熟であるところに今日の過渡期世界の問題があります。


16みんなで「悪い宗教」「良い宗教」について論じよう!
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1013()161808

>「悪い宗教」を確定できて、リストアップできるのですか? 
>「憲法」に明記できますね。「第何条、某宗教を禁ずる」というように。

 rinri さんは、私が書いていることをよく読んでいない。
どの宗教が「悪い宗教」かどうかの判定は、市民社会内部の問題です。個人や集団レヴェルの問題です。 憲法にどの宗教が「悪い宗教」かなんてことが明記される必要はないし、それはあってはならないことです。

 「悪い宗教」との闘いは、われわれ自身の課題です。とくに宗教者にとっては大切な問題だと思います(彼らにとっては、自分が信仰している宗教・宗派は「良い宗教」という前提があるでしょうが。日蓮なんか盛んにやりました。「真言亡国……」云々)。日本のメディアは、宗教をタブーしています。宗教の問題を避けるのではなく、公的な場で議論することが必要ということに関しては、オウム事件の際に論じられたはずなんですが。

 (ついでながら、ポーリー・トインビーは、「唯一の良い宗教は、死にかけの宗教である」と言いましたが、この考え方の根底には、本当は、宗教そのものが悪いという認識があるようです。ただし彼女の頭には、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教という一神教、啓典宗教しか頭にないでしょう。仏教については別に考えるべきだと思います。ただしこの問題に踏み込むと、これはわたし自身の「良い宗教」についての議論に入るのでここではふれません)。

 なんらかの宗教団体が違法行為をおこなった場合、それは法的な制裁の対象になることは言うまでもないはずです。これは宗教団体に限りません。
 現在は、アメリカ、イギリスなどは、必要な国際機構が存在しないままに武力行使を行っていますが、将来的は、グローバル憲法にもとづいて、グローバルな軍事機構・警察機構が組織されたら、そのルールと手続きに従って、捜査、司法手続き、必要なら武力行使がおこなわれるべきです。rinri さんはまさか、この点を否定するわけではないでしょうね。今回の場合は、もちろんこれとは程遠いわけです。


17◆権威と権力=教義を護る側近と兵士とユダ
 投稿者:rinri  投稿日:1013()175025

すみません、悪いけど、そこまでゆくと、お笑いですよ、捧さん。
 じゃあ、池田さんちの宗教はどうなんだ、って。あなたのことばをお借りすれば、あなたにこそ「なんらかの利害関係が作用しているのか、手心を加えているのは許せません」といいたい。
 一流の政治家である池田さんの政治的言説に乗っかっちゃって、どうするの。1000年で「教え」の賞味期限が切れるんですって? じゃあ、何年までならいいのさ。ねぇ! 根拠のない数字が飛び交うトコがモロ「近代」だっていってるの。アリストテレスの論理学だって、そこそこ風雪に耐えてますよ。千年だろうが万年だろうが、万年雪だって、食べれる雪は食べられるんだ。そりゃ、新興宗教は、いいますよ。あんたとこの教義はもう古いって。そりゃあ、イスラム復興の歴史の長さに嫉妬もしますよ。社会学じゃ、カリスマは一代限りってことになってるんだから。もし、池田さんが文化外交しに浄土まで旅立たれたら、あと、どうするんですか。「行幸」する身体性を失ったら。「先生」ファンは泣きますよ。いまが極楽なんです、いまが。
 あのかた、欲望のありかたが現世的なんです。肉体的、ないしは肉体延長的というんですか、リモコン操作というのか。だから、いまのとこ、ビンラディンさんがラジコン飛行機で急襲する値打ちもない日本にあって、なにが脅威だって、テポドンよりも、ドンですよ。
 宗教の「左手の法則」って御存知ですか? 片手では聖典を掲げているけど、なに後ろ手に隠し持ってるの、って。あなた風にいえば「共同体の外に立つ」ってことなんです。ただ、この「外」は、濡れ縁みたいな周縁でもあってね、共同体からあぶれた異人を懐に包み、返してやることで、社会システムを補完してもいるんです。寄食といってもいいかビフィズス菌みたく。
 たとえ怪しい道場でも、道に看板を出している間は、はみだし者であるはずの信者のスティグマは消えているんですね。なもんで、宗教共同体は、本ちゃんの共同体に対峙したり、彼岸に屹立してはいない。いないんだけど、その世界観はむろん、水と油ほど相容れない。あらゆる宗教は、宗教として定義された時点で「半」社会的なんです。卑俗じゃないんだから。だから、世俗価値からすれば「限定的」信教の自由なんですよ。そんなことわかってるでしょあなたなら。ていうか「論壇の縄師」吉本さんがそれに暁通していることを、あなたは熟知しているんだ、たぶん。で、なにをいまさら、馬鹿なことはいわんでくれ、と申しあげたくなるんです。暴力不滅のあなたが宗教については「当分なくなりようがない」と表現をする以上、いずれ「宗教はなくなる」んですよね。信者狩りの手始めに、わかりやすくも壕から頭を出した杭として、匪賊モスレムを狙う。まずは思想的に制空権を奪おうとする文武「二重侵略」にも似て。日米多国籍軍的に、「安全」な後方支援で。
 なので、良い宗教と悪い宗教を分けるのは、なにも、科学と「精神」の共存を目指したものじゃないんでしょ? 要するに「宗教という属性をもった聖別集団」が、「観念的に社会に押しつけられてゆくアソシエーション」とやらにとってかわるまでの「戦略的過渡的措置」ってやつでしょう、弱体化への。ですよね? だとしたら重症だわ。

(ねぇ、もっと「憲法(の)論議」しようよ!)


18なぜ、イスラム原理主義を擁護し、創価学会を批判するのですか? 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1013()221348

>>rinriさんへ
>1000年で「教え」の賞味期限が切れるんですって? 
 このあなたの言葉は、イスラム原理主義の立場からのものだと言われていも仕方ありません。
 「原理主義」(fudamentalism) とは、アメリカで生まれた言葉ですね。以前は、「根本主義」と訳していました。キリスト教原理主義とは、キリスト教の聖典――聖書に書かれていることをそのまま真実、真理と見なす立場です。
 しかし、「原理主義」という言葉は、イスラムにも使われるようになりました。これは、1000年前にコーランに書かれている規範をそのまま実践に移そうとするわけです。残酷な刑罰(スリの右手は切断です)。妻は4人まで可能。そして聖職者による専制政治(キリスト教の原理主義には、政教一致がないからまだマシです)。
 コーランには、生活の規範が入っているんですが、それが宗教的な規範でもあり、法規範でもあるということになってしまう。だから酒を飲むなということは、単なる宗教的な戒律だけでなく、酒類の販売、飲酒は国法によって禁じられる。それから「ジハード」
(聖戦)で死んでも天国(「緑園」)に行ける。死んでも本当には死んでないのであって、天国では、永遠の処女100人が接待してくれる……これが本当だということ信じ込んで、テロリストたちは喜んで死んでいった。今回もそうでした、残された指令書にも天国のことが書かれていました。(別の自爆テロに関連してですが、父親がテロリストの息子に、うらやましいといった話もあるそうです。)

 池田大作は、学会内部ではもっと激しいイスラム批判をしているでしょうが、『毎日新聞』紙上では市民社会の常識レヴェルから批判しているに過ぎません。あなたは池田の「政治的言説」といわれる。しかし、「1000年前の教えは現在に通用しない」という池田大作の発言がどうして「政治的言説」なんでしょうか。
 あなたは池田大作に過敏に反応されているようですが、わたしは池田大作の宗教思想や行動について論じているのではなく、彼の『毎日新聞』紙上での、どこといってオリジナリティのない、ごく常識的な批判をあげているだけです。わたしは、メディア上では、吉本隆明と池田大作ぐらいにしか、こういう当たり前のイスラム批判の言説を見なかったので、とくにあげているのです。

 あなたが、イスラムないしイスラム原理主義を擁護されるのなら、ここでは無関係な創価学会批判などに話題をそらすのでなく、率直に、イスラム原理主義支持の理由を示していただきたい。
  >1000年で「教え」の賞味期限が切れるんですって? 
とすれば、1000年前の教えが、今なお、なお有効であり、「賞味期限」内のものでる、ということを語っていただきたい。
 あなたがイスラム原理主義者ないとすれば、「あの宗教も結構、この宗教も結構、みんな結構だけど、宗教批判だけはタブーだよ」とお考えなんでしょうか。「良い宗教」「悪い宗教」を論じるのがなぜ悪いのか。理解に苦しみます。

 池田批判、創価学会批判も、大いに結構です。本屋に行ったらそういう本はたくさんあります。あなたは、それと同様の視点で、あらゆる宗教と宗教団体を論じるだけの、批判精神をお持ちでないのでしょうか。

 よく考えてみてください。イスラム過激派の被害者はアメリカ人だけではないのです。彼らは、ファシストや共産主義者よりも、凶悪です。現在、世界の各地で、そのイスラム原理主義者の非道な専制と暴力に苦しんでいる人びとがいるんです。
 アルジェリアでは、タリバンと友好関係にあるイスラム原理主義集団が、理由なき虐殺を数年前か行っています。子どもでも、老人でもどんどん殺している。イランでも、1979年イスラム共和国が生まれて、刑務所は満員、イラン・イラク戦争では、多くの人びとが戦場に駆り立てられ、悲惨な人命軽視の人海戦術が行われました。
 そういう世界の現実について、少しでも思考してみるのに必要な最低限度の「想像力」がないと、とてもグローバル憲法なんて論じることができないと思います。


19「平等」の擁護のために
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1013()231916

rinriさんは、つぎにようにおっしゃっておられます。
>「なるほど「平等」には歴史があるんですね、捧さん。ぼくはといえば、そのあたり複雑さがイヤで「平等」という概念を捨てちゃったんです。概念が形づくられるまでの歴史が長いと、学ぶ者には負担になります。…………もっと評価を抑えて「対等」にしたいんですね。虚妄の諸「価値」を削って、ね。」
 しかし、わたしは、「平等」概念の放棄には、賛成できません。
 渡部昇一が『不平等主義』とかいう本を出しました。日本のインテリは「平等」が大嫌いなんです。竹村健一も「悪平等」ということをいう。日本社会は平等すぎるとい言って批判しているんです(かって、渡部、竹村は、金持ち減税をテレビで主張していました)。
日本はあまりにも「平等」が大事にされており、本当は「社会主義国」だというひともいる(小室直樹)。あまりに「平等」すぎてはイカンというのです。
 rinriさん。しかし、彼らでさえ、あなたと違って、「平等」概念を放棄せよとまではいっていません。

 「平等」は、「自由」とならんで、「近代」が生みだした重要な価値であり、理念です(そういえば、あなたは「近代」とか「近代的」というのはお嫌いでしたね)。自由主義思想も社会主義思想も、「自由」と「平等」の両方の価値を継承しています。フランス革命は、「自由」「平等」と「友愛」を理念としてかかげました。近ごろでは、「友愛」のかわりに「連帯」や「共同性」をかげる人もいます。
 わたしは、「自由」「平等」「友愛」の理念は、グローバリゼーション、情報革命という人類史的な時代の変化のなかで、どこまでも追求していくべきだと思います。そして、新しい時代の地平において自由主義と社会主義とを高次元で総合すること。そこに「グローバル憲法」の基軸が置かれるべきだと思います。

 したがって、「平等」という価値、理念をあらゆる種類の攻撃から守らなければなりません(rinriさんによる攻撃からも)。
 新自由主義者(新保守主義者)は、社会民主主義やリベラリズムの原理に立つ「福祉国家」に対する批判を「結果の平等」の観念に対する批判として展開しました。それに対して彼らが対置したのは、「機会の平等」でした。「機会」さえ平等であれば、後は努力と競争と運次第というわけです。こうして彼らは「福祉」攻撃を展開したのです。しかし、今日の先進国においても、「機会の平等」なんてどこにもないのです。経済的な不平等があるところでは、「機会の平等」はありません。貧しい家のことどもと金持ちの家の子どもとでは、人生における「機会」において大きな不平等が存在するのが実情はないでしょうか。
 貧富の差にかかわらず、「機会の平等」を保障するのでなく、貧富の差をなくして、「機会の平等」を実現すべきなのです。それから女性であろうが、老人であろうが、どこに住もうが、どんな人種であろうが、そして障害者であろうが、平等な機会を持つことができるようにすること、これが「すべての人にとっての機会の平等」ということです。
 これは雇用に関しても言えることです。働く意志と能力(可能性としての能力をふくめて)とをもつすべての人に、雇用が保障されるべきです。真の意味での「完全雇用」が目標です。

 rinriさんは、「すべての人にとっての機会の平等」という言葉が長すぎると言っておられますが、大切なことは、言葉の長い短いでなくて、「平等」の概念(意味)なんです。どういう内容の「平等」なのかということです。
 これまでの薄っぺらな「平等」概念を超えて、「平等」概念をヨリ豊にするための作業が必要であり、「機会の平等」をめぐるさまざまな議論も、その一部分でしかないのです。
 なお、これからは、特定の国家の内部の「平等」でなく、グローバル社会を念頭に置いた「平等」を具体的に考える必要があります。グローバル社会=コスモポリスにおける人類の「友愛」「連帯」「共同性」を基礎にした、そして世界中の人びとの「世界市民」としての…………とりわけ、豊かな暮らしを享受している人びとの「世界市民」としての…………義務と責任(したがって、負担)をも念頭に置いた、グローバルなレヴェルでの人間=人類の「平等」というものを考える必要があります。
 繰り返しますが、必要なことは、「平等」概念を捨てたり、薄めたりすることでなく、ヨリ豊かな「平等」概念をつくることです。というわけで、「平等をやめ、これからは対等だ」なんていう、rinriさんの議論には、くみできません。

20★知の驕り(豊かなひとびと) 投稿者:rinri  投稿日:1014()092816

 捧さん、これだけ一気に話をひろげられますと、どれからいこうか迷います。ある意味、よりどりみどりなわけですから近代人であれば喜ぶべき「豊かさ」なんですがね。故意なのか、なんなのか、論点を微妙に「差延」してくださいますから、幾何級数的に膨らんでゆくので疲れますよ。ぼくがどうして「極端なことばかりいう」かというと、曖昧な話は、結局こうなってしまうからです。知識の在庫を処分したいひとには、楽しくてしょうがないんでしょうけど、いっこうに答えが見えてこないんです。一本道で辿れないというのか、消化不良の「知識の羅列」には「整合性」がないんです。引用されるのはいいんですが、それぞれの論客は、膨大な、自著という自分の文脈で語っているだけですから。それを拾い集めて、つなぎあわせてもねぇ。そうやって、フランケン化するんです。
 つまりね、脳に情報があふれていて、使いたくて使いたくて疼いている。そこで、マッサージするようにして、ときどき蒸気を抜いてやらないといけない、とまあ、そういうことです。湯煙は、どんどん流れてゆくんですよ、どこまでも。議論というよりも、言説のオートマティックな製造、量産とでもいいますか。まあ、近代をまっしぐらに牽引してきた機関車なんでしょうけどね。それだけ熱量ももっておられるわけです。そして、豊かさという脂肪で覆えば覆うほど重たくなる、動きが鈍くなってゆくんですね。歴史の厚みというんですか。それに、豊かに生い茂ったジャングルでは、いくらでもごまかしがきくわけです。いうなれば「データベースとしての学問のジャングル」の在りかたそのものに利用価値があるんです。密林を「迷路」といってもいい。そこを、つまり、何が飛び出すかわからない情報の森を、巧みに駆け回る、そして煙に巻く。というふうに、むしろ、ベトコンのほうが「保守派」なんですよ。ですからね、厳格な「原則論」をはずせば、なんとでも言い包められるわけです。これを「思う壺」と表現したんですがね、憶えておられますか。立論するときは自分でシェイプアップ=伐採したほうが歩哨の、斥候の双眼鏡の見通しが利くんです。それだからこそ、ぼくは知識そのものを批判し、まずは「情報量」を減らそうとするんですね。ところが無自覚に情報を増やそうとする左派もいる。用途も中身もない「概念」で着飾る。そのあげく、保守派のミニチュアを演じている。植林して、自分も路に迷って、踊りかかったベトコンに喉を斬られたりもする。ここまで云っても、コテコテの近代人であるあなた(がた)に理解する力があるかどうかはわかりません。コテコテといえばアメリカも豊かな国でしたね。ダイエットしてほしいですね。豊かさという意味でぼくは、知識人は「知識人であることそのもの」が危ない、と思うんですよ。まあ、感想ですがね。このメッセージは、じつは「総論」なんだけど、わかりますかね。ともかく、時間は「たっぷりある」から、ぼちぼちいきますか。(失礼ですが、あ

なたが粗製濫造された数々の面白いお話が、記録から消えてしまうわけではないのでね)

(消費も含め、豊かさの魅力には抗しがたいなぁ。戦争も豊かだしね。大人向けの某紙じゃ最新兵器の図解とかあって楽しそう。買って読めばよかった)?

 


21「災い転じて福となす」
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1016()180240

 米特殊部隊(こればかり、注目されているけど)プラス北部同盟が主力というのでなく、
アメリカは、大規模地上戦をやるつもりでしょう。大規模地上戦をやる部隊が入り始めています。
 スティンガーが脅威となるという意見もあるが、射程距離が短いので、決定的な武器にならなんでしょう。
 どうもタリバンやアルカイダを過大評価するような論評が一時多かったですね。ここのところ急速に減っていますが。(それは、アメリカの戦争に反対ということを言いたいだけの話で、現実に即した分析とは思えません。湾岸戦争の時にも、中東、イスラム専門家、護憲論者、進歩的インテリは、「イラクは強い、第2のベトナムになる」、なんてよくも考えないで言っていました。ジャングルと「聖域」、そして大国からの援助がないとベトナム同じようにはならんですよ)
 地上戦は短期間で大勢は決するかも知れません。あとは山のなかに閉じこもった
タリバンが残るだけでしょう。
 結局、イギリスや日本がアフガンに大規模援助を行う。国連アフガン暫定統治が始まる。
ブレアは、最後まで国際社会はアフガンの将来に責任を持つとまでいっている。
 パレスチナ問題の解決も、この際一気にいかないといけない。
 とにかく、今回の事件は、「災い転じて福となす」で、国際社会をヨリより方向に向かって変えていくきっかけになれば、と思います。
 それにしても、ワンパターンに「報復戦争反対」とかを言っている連中は、またしても思考停止だな。


22報復戦争反対! 投稿者:やすいゆたか  投稿日:1016()194240

 アメリカの覇権に反対していた筈の捧さんらしくありませんね。確かに自衛権というのは国際法的に認められた自然権ですから、アメリカがアフガニスタンに入って犯人を捕獲する権利はあります。しかしそれは自然状態においてであり、社会状態においては、被害者は自らの権利を留保してその行使を社会全体に治安機構に委託しています。泥棒に入られたら、被害者は泥棒の家に取り返しに行くのではなく、警察に行ってもらうのです。そうしないと社会は奪い合いの傍観者になってしまいます。息子を殺された父親は仇討ちに犯人を殺したいでしょうが、それでは殺し合いになり、報復に対する報復を招きかねないわけです。そこで警察があり裁判所があって、犯人を捕まえ裁き、罰を与えるのです。そうして初めて平和な社会ができます。
 国際社会も同じ原理が機能するようにしなければ、平和な時代はやってきません。アメリカにすれば初めてアメリカの経済と軍事の中枢をものの見事に破壊され、六千人近い人命を奪われて、覇権国家の面目丸つぶれですから、鶏冠に来て報復したいのは無理もありませんが、ここで軍事力にものを言わせてテロ集団とその庇護権力を撲滅してしまえば、結果として彼らはアメリカの覇権に挑戦して果敢に自爆テロで戦ったイスラムの戦士だったことになります。それでは彼らはより巧妙に組織を立て直し、テロ攻撃をかけてくるでしょう。
 ここで忘れてはならないのは、科学技術の進歩とともにカルトや秘密結社などでも生物化学兵器やミニ核兵器を製造したり、入手できるようになりつつあるという現実です。こういう騒ぎが断続的に起こってゆけば、世界経済の破綻はますます深刻になり、環境問題への取り組みもできなくなり、確実に世界は破滅するのではないでしょうか。
 ここで被害国アメリカが国連の安保理や総会に訴えて、国際社会の責任でテロの撲滅を行うことを要請し、国連の機関とイスラム諸国会議の決定でテロを根絶するために、アフガン政府に犯人の国際法廷への引渡しを求めるようにすべきだったのです。特にイスラム諸国は国際的なテロリスト出したことに責任がありますから、彼らが責任をもってタリバーンと交渉すべきなのです。もちろんタリバーンが断固拒否すれば、テロリスト逮捕のためにイスラム諸国が中心になって国連緊急軍を編成してアフガンに入るべきです。このような筋書きにしようと思えば、当然できた筈で、そういう国際社会のルールが確立していなかったので、アメリカが怒りの鉄槌を下すというので、それに協力することで、テロが撲滅できるだろうと安易に考えたのが、大間違いなのです。
 たとえ当面は捧さんのいうようになっても、それがかえって世界を破滅に向かわせる道だということを気づくべきなのです。その意味で、我々が『グローバル憲法草案』の議論を通して、平和秩序の形成をアピールするのは大いに意義のあることだとは思われませんか。多くの人々の投稿を期待します。


23政治的リアリズムから「倫理的外交」へ
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1016()230433

 今回の事件は、「グローバリゼーション」のありかたを根抵的に問い直す機会、そしてこれまでの対外政策の根抵的な見直しの機会です。欧米ではそういう声がずいぶん出ている。
 対外政策では、これまでは、各国家がそれぞれ自国の「国益」を中心に動いていました。「力の政治」、「バランス・オブ・パワー」という政治的現実主義、「国家理性」の論理でやってきたわけです。キッシンジャーなんかは、この方面での理論家でした。
 ソ連という主敵に対して、「敵の敵」である中国と手を組むというやり方ですね。イランが湾岸の産油国の脅威になるからといってイラクに援助していたら、イラクが強大化し、クウェートの侵攻した。ソ連の膨張を阻止するために、イスラム勢力にてこ入れする。そのなかにビン・ラディンもいたわけですね。西側は、アフガンのイスラム勢力の麻薬栽培にも見て見ぬふりです。こういう現実主義の対外政策の結果が、今回のような「ブローバック」を引き起こしたんです。このことの自覚が広がっている。

 このようなやり方を反省して、どういうやり方をすべきかというと、それは、アメリカでは、かってカーター政権が打ち出した(当時は、結局、中味がなく、反ソ外交にそれも中途半端に実施された)「人権外交」です。つまり、これからは力の論理ではなく、道理、正義、人権の対外政策のほうを大きく方向転換すべきだということなんです。1997年、イギリスでは、ロビン・クック前外相は「外交における倫理的次元」ということをいっていました。ブレア首相のこの10月2日の労働党大会での演説のテーマはこれでした。アメリカの民主、共和両党内の動きはつかんでないんですが、ブレアのニュー・レイバーは、この機会にこの方向でアメリカの世界政策を転換させようとしています。閣内でこの方向でブレアの尻を叩いているのは、労働党左派のクレア・ショートです。いまショートは世界のメディアに注目されています。

http://europe.cnn.com/2001/WORLD/europe/10/02/blair.address/index.html

24オルタナティヴなグローバリゼーションに向かって 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1016()232552

 9・11事件を「先進国対第三世界」という枠組みで捉えようという見方があります。わたしは反対です。ビン・ラディンとアルカイダに「第三世界」を代表させるわけにはいきません。ハンチントンは、このような二世界的な見方を批判して、世界の貧困国、それも最貧困諸国は、結束力もなく、国際的なパワーもたないと言ってます(『文明の衝突』)。ビン・ラディンらは湾岸のオイルマネーに支えられているわけです(彼は、北一輝が三井財閥にブラフをかけて、カネをせしめたように、湾岸の金満家にブラフをかけてカネをせしめている)。
 クレア・ショートは、シアトルWTO会議、ロンドン・メーデーなんかの時の、反グローバリゼーション運動の活動家たちとビン・ラディンたちは似ていると言ってます。つまり、情報、カネ、人のグローバルな移動をやりつつ、つまりグローバリゼーションの利益を享受つつ、自分たちの運動、闘争をしているということです。ところが、彼らはともに、アメリカ主導の今日のグローバリゼーションが気に入っているわけではないのです。

 国際テロとの闘いは、グローバルなレヴェルでのさまざまな規制を必要とします。人についても情報についてもカネについても、これは広く見ると「グローバル・ガヴァナンス」(地球規模での統治)の問題なんですね。これまでの自由放任的な要素が強かったグローバルな諸関係に規制と統治を加える必要があります。そのための国際協力や国際機関が必要です。
 従来の「自由放任的なグローバリゼーション」(アメリカ型といっても結構です)は、貧富の格差や経済的な混乱を必然的に産み出します。シアトルの活動が問題にしたのはこれです。しかし、そうしたグローバリゼーションだけが、グローバリゼーションでありません。グローバリゼーションは、不可逆的な人類史的な過程ですが、しかし、それがどのような形態をとるのかは、人類の選択の余地があります。わたしは、より良きグローバル社会をめざす立場から、「自由・平等・友愛の理念にもとづいた、オルタナティヴなグローバリゼーション」に向かって、いままでのグローバリゼーションのありかたを転換していく必要があると思います。


25オルタナティヴなグローバリゼーションに向かって(続) 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1016()232732

 「第三世界の貧困」が大規模テロを産み出すわけではありません。テロや「報復の連鎖」を断ち切るためには、根本原因である「第三世界の貧困」を除去しなければならない、という議論があります。話としては面白いんですが、粗雑で、世界の現実をよく見ていないと思います。
 テロがあろうが、なかろうが、われわれは「世界市民」としての義務と責任から、「第三世界の貧困」との戦いに取り組むべきです。貧困だけでなく、飢餓、難民、戦乱、そして虐殺についてもです。そういう点では、わたしは、「人道的な援助」(humanitarian aid)が大切だと思いますし、事態によっては「人道的な介入」(humanitarian intervention)も必要です。念のために言えば、後者は武力の行使を含みます。つまり、戦闘、戦争も必要だと思うんです。「暴力」についての私の考え方は、先に書きました。
 9・11が仮になくても、アフガンへの「国際社会」の介入は不可欠の状態でした。アフガンの状況を知る国連関係者、NGOの人びと、そして国際赤十字の人びとには、「国際社会は、どうしてコソヴォのように介入できないのだ」(今週のサンプロで国連の元アフガン政務官の人も言っていました)。と感じていました。しかし、国連がアフガンの飢餓や難民の問題で各国に拠出金を求めても(「人道的援助」)さっぱり集まらず、ましてや「人道的介入」おやと言うところでした。

 そこに降ってわいたのが、9・11事件です。アメリカのアルカイダ、タリバンに対する軍事力行使をアフガンへの「人道的援助」「人道的介入」のほうへ引っ張っていこうという力が働いているんです。クレア・ショートなんかは、この立場です。アメリカの空爆を徹底して軍事目標に限定すること、アフガン人道的援助を彼女は強力に主張しています。
 ブッシュは、軍の作戦計画を三度にわたって退けています。もちろん、パウエル国務長官の国際的配慮が働いていることも明らかでしょう。(アラブ、イスラム諸国の反応の懸念、アフガン周辺諸国、ロシアは等関連諸国への配慮)ほかに、しかし民主党リベラル派、や共和党保守派(この中には、孤立主義者がいる)の声もありますし、反戦運動もある。
 アメリカとともに軍隊を派遣するイギリスは、ブレア首相が今回の事件を「新しい世界秩序」をつくるための「再秩序化」の契機にしようとしてます。クックがいう「倫理的次元」を本格的に取り入れるようというわけです。「世界」を「国際共同体」の立場から再編成しようというわけです。ブレアは、この立場でブッシュにいろいろ注文をつけいているわけです。前述のように、それが生ぬるいと言わんばかりに、ブレア内閣の内外で積極的に発言しているのがクレア・ショート国際開発相です。
 欧米の社民、リベラル勢力は、この際新保守主義(新自由主義)を葬り去ろうとしています。グローバルなレヴェルに社民・リベラル路線を入れようというわけです。それは、グローバル資本主義の規制、第三世界の貧困問題に対する闘い、環境、内戦などについての国際協力ということです。彼らの議論には、少々、我田引水的な議論もあるんですが、わたしは方向としては正しいと思っています。
 世界で起きている出来事をまるで他人事のように書斎で、茶の間で、教室で、
ただただ、昔と同じように、ひたすら「戦争反対」と言っておればよいわけではありません。
 問題は、具体的な現実において生きている「他者」への想像力です。
そして問題は、「世界の変革」です。しかし、そのためにはヨリ適切な「世界の解釈」が必要です。
これなくしては、グローバル憲法についてもしかるべく思考できないはずです。


26覇権国に追随はいただけません
 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:1017()184123

捧さんはいろいろ理屈を並べられていますが、結局覇権国アメリカに追随して、タリバーンやアルカイダを壊滅すれば、テロ問題は解決する。後は中東問題を別途解決していけばよいと考えておられるのではないでしょうか。しかし事態は、そんなに単純ではありません。戦場はパキスタンやイラクに拡大する危険が膨らんでいます。ナイジェリアでも宗教暴動が起こっています。たとえこれらが大事に至らずに終わっても、アルカイダなどのイスラム過激派がますます勢いを拡大する地盤は大きくなっているのです。それはテロとそれに対する報復という図式の中で、テロ対反テロではなく、イスラム対反イスラムという対決図式が鮮明にされているからです。テロ対反テロという対決図式に持っていくためには、国連やイスラム諸国会議などを前面に出して、国際社会によるテロ撲滅という処理の仕方を選択すべきなのです。捧さんはそのことを机上の空論のごとく言われているのは、おそらく捧さんの大好きなイギリスのブレア首相がアメリカ追随の態度に出ているからでしょう。アメリカの覇権の下でのグローバリズムではなく、真のグローバル・デモクラシーに基づく恒久平和を希求するのなら、国連中心の集団安全保障体制を機能させる絶好のチャンスとして、この危機を捉えるはずです。


27労働党政権の「倫理的次元」は不徹底
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1017()230628

 私のテロ問題も重要だと思いますが、実は、むしろアフガンの飢餓とタリバンによる虐殺と人権弾圧のほうに関心があります。前にも書いたように、9・11テロ事件がなくても、アフガンへの「人道的介入」が必要だと思っていました。世界の各国政府で、この問題で積極的に動いた政府は皆無です。イギリスのブレア政権もです。わたしは、ブレア、イギリス政府を支持しているわけではありません。ブレアと労働党政権の「対外政策における倫理的次元」はいちじるしく不徹底なものだからです。

 ブレアは、倫理とモラルの人です。キリスト教倫理から社会主義に行った人ですから。自分の立場を「倫理的社会主義」と呼んでいます。それから、ギデンズの『第三の道』には、今日の社会をかってなく「モラル的な社会」としてとらえる視点があります(「新しい個人主義」の個所を読んでください)。このバックにはシンクタンクのデモスによる調査があるんです。つまり、ボランティか活動からアニマル・ライツにいたるまでの、かってない規模でのピープルの倫理への関心があり、ニュー・レイバーは、それを計算に入れて、「倫理的社会主義」とか、「倫理的次元」を言っているところがあるんです。
 これはイギリス、そして先進国の話ですが、しかし第三世界でも、テレビの普及がグローバルなレヴェルでの倫理の在り方に影響を及ぼしているように思えます。ピープルはテレヴィを通じて、アメリカの「豊かさと傲慢さ(98年のイラク空爆など)」を見て、「羨望と怒り」を覚えたはずです(ジョン・ロイドの説)。倫理は先進国だけの問題ではありません。
 マルクス主義(科学的社会主義)は、倫理を軽視しました。ブレアは社会主義を本質的に倫理的なものとして把握しています。これは正しい視点だと思います。エツィオーニなんかの「共同体主義」なんかも本質は倫理にあります(エツィオーニは、カントとブーバーに立脚しています)。エスィックス(倫理)とポリティックス(政治)との結合をどう考えるか、が問題だと思います。

(ブレアが大好きなわけではありません。前にも書いたけど、ブレアよりもショートの方が興味深いですね。某大学で、『ガーディアン』の2面にわたって印刷されているブレアの10月2日のスピーチのフル・テキストを嬉々としてコピーしている人たちがいました。でも彼らも、クレア・ショートにはまったく関心がないですね)


28日本主導の人道的介入を 投稿者:捧 堅二  投稿日:1017()230950

 ないものねだりですが、たとえば、日本がイニシアティブをとって、国際協力を組織し、各国の参加を求めつつも、日本自身が人的、財政的負担を負いつつ、アフガニスタン「人道的介入」を実施できればと思います。念のために言えば、自衛隊による戦闘行動をふくめてです。アメリカが不参加でも、またアメリカの反対があってもです。アメリカ追随ではないですよ。当然前提として、日米安保破棄がなければなりません。

 これには、もちろん、改憲が不可欠です(「グローバル憲法」に連動するような内容の新憲法を考えたいですね。一緒に、議論しましょう)そして、この過程で人道的介入のための国際機構の形成に着手する。「人道的介入」論は、国家の上に「グローバル社会」を置き、主権の上に「人権」をおきます。したがって、「主権」原理の制限に立脚しています。つまり、「内政不干渉原理」を制限するわけです。
 ここではっきりと確認する必要があるのは、「グローバル憲法」は、近代主権国家体制を否定するものでなくてはなりません。「グローバルな政治的共同体=コスモポリス」を組織するんですからね。国家(それはもはや主権国家ではない)の上に立つコスモポリスですね。主権国家でも、民族国家でもなくなった「国民国家」(ラスキは近代主権国家を「一元的国家」と呼んでいるんですが、この国家を「多元的国家」と呼ぶことができるかも知れません)をその構成要素にふくむ、コスモポリスです。


29ブレア:理想主義から現実主義へ
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1017()231625

   ブレアは1997年5月のスピーチで「現実主義と理想主義との統一」なんてことを言っている。でも、大きなブレがあるんですね。
 まず「理想主義」のほうですが、1998年3月、わたしは『ニュー・ステイツマン』を読んでて驚きました。「『第三の道』のインタナショナル」なんて書いたあったからです(この時初めて、「第三の道」という言葉に接しました)。この年の秋、アメリカでクリントン、ブレアなど中道左派の首脳会議があったんです。翌年にもこの会議があった。この二人の他に、ドイツ、イタリア、オランダなどの首脳も参加しました。
 要するに、社民・リベラル派の側で、グローバリゼーションに見合った新しい世界秩序をつくっていこうとしたんです。ブレアのシカゴ演説は「国際共同体」に関するシカゴ・ドクトリンという人もいるんですが、結局、会議を開いただけに終わってしまいました。

 ポイントはアメリカが動かないと世界は動かないということなんです。しかし、クリントンは動こうにも動けない状態だったんですね。政権基盤が弱かった(クリントンは民主党を大きく変えたわけでもなかったんです。軍産複合体の力を抑えることもできなかった)んですね。折からの女性スキャンダルもありましたが(これはメロン財閥、たばこ会社、共和党の陰謀です)。先進諸国の首脳が中道左派揃い(しかも、その多くは社会民主主義者)、イギリス労働党のイデオロギー的イニシアティブ、米大統領の全面的な協力、そして……とこう考えたけど、甘かった。

 今度は「現実主義」のほうです。ブレアは、9・11事件以後の展開のなかで、アメリカに協力しつつ、アメリカを掣肘、抑制、方向付けようとしているんです。時には、アメリカにお構いなしに先走っている。関係ない分野なんですが、ブッシュに京都会議の決定に帰れてせまる。テロ事件にどう対処するか、アルカイダをどうするか、アフガンは……ということを超えて、アメリカの世界政策を変えさせようとしているわけです。いまはそのためのまたとない好機だと判断しているですね。それが、10月2日の労働党大会での演説なんです(前にも触れましたが)。ブレアは、3年後の民主党政権を待っておれない、ひょとすると軍産複合体を抑えるには、共和党政権が好都合だと考えているのかも知れません。
 この「現実主義」でうまく行くかどうか分かりません。しかし、イギリスが動こうが、動くまいが、アメリカはアフガン軍事介入をするわけです。イギリスの参加により、民間への被害を減らし、住民への人道的支援を拡大できれ方向で事態が動いているわけで、その点で、アメリカの単独介入よりも相当マシではなかったでしょうか。少なくとも、日本で「報復反対」を叫んでいるよりも有益でしょう。アフガンの人民にとって。

30憲法第九条を守ろう 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:1018()203812

 「人道的介入」を安易に認めると、いくらでも口実を作って侵略する国が出てきますよ。特に覇権国家は、気に入らない国に「非民主的」「反人道的」「ならず者的」等のレッテルを貼って、侵略したがるものです。もちろんよほどひどい事態になっていれば別です。ポルポト派の大虐殺のような場合、ベトナムの軍事介入はいちがいに非難できないでしょう。
 捧さんの論法だと「人道的介入」ができる体制を作るために日本がわざわざ憲法第九条を改定した上で、軍事介入を率先してしようということになります。国連で議論して安保理や総会の決定で国連軍が介入するというやり方ではどうしていけないのか、疑問です。捧式では一国の勝手な判断で、自衛でもないのに軍事力を行使してもよいことになります。これでは集団安全保障体制はできません。
 日本は軍事力を行使する権利を率先して放棄して、完全軍縮への道を開く憲法をもっています。それをわざわざ放棄すれば、いつまでも完全軍縮はできません。もちろん自民党政府は実質改憲していますが、我々は、「グローバル憲法」によって「戦力を放棄した国家」を尊重し、その数が増えるようにすべきだと思っています。自衛のための軍事力を持つ国が、国連軍に軍隊を提供すればよいのです。もちろん自衛隊がある以上、日本が憲法を盾にそれを派遣しないというのは理不尽ですが。

31古い「惰性的思考」からの脱却を
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1020()000835

>国連で議論して安保理や総会の決定で国連軍が介入するというやり方ではどうしていけ>ないのか、疑問です。捧式では一国の勝手な判断で、自衛でもないのに軍事力を行使し>てもよいことになります。これでは集団安全保障体制はできません

 わたしは、そんなことは一言も言っていません。国連での議論を退けているわけではありません。一国の勝手な判断でOKであるとも思っていません。(5大国が特権をもつ安保理、国連は根本的に改革する必要があると思いますが。)

>「人道的介入」を安易に認めると、いくらでも口実を作って侵略する国が出てきますよ。
 ……ということは、鈴木さんは「人道的介入」それ自体は否定されないということでしょうか。
 わたしは、「人道的介入」ができるように、軍事的な国際貢献ができるように、憲法を改正する必要はあると思います。軍事力を他国の侵略に用いてはならないのはもちろんですが、自国の防衛にのみに用いるという考え方も、おかしいと思います。
 グローバリゼーションが進み、トランスナショナルな関係が広がり、そしてグローバルなメディアが発達するなど、根本的に変化した世界においては、どの国も、その能力に応じて、「国際共同体」の一員として責任を果たさなければなりません。

 国際貢献の一部としての軍事貢献を推進する上で、二つの障害物があります。

 第1は、かっての日本がおかした侵略戦争に対する真摯な反省がないということです。現職の首相が侵略戦争神社に参拝するような状態ではどうしょうもありません。つまり、危ない(というのは、過大評価なんでしょうが)連中が権力の中枢にいて入る状態では、軍事貢献といっても、真に「倫理的」な実質をともなわないということです。新しい進歩勢力が政権の座に着かなくてはなりませんが、これが存在しない。

 第2は、進歩派の知識人、政治家の守旧的な思考です。彼らは古い思考から抜け出すことができない。半世紀以上前におわった「戦争の影」から抜け出ることができないのです。考えているのは日本のことばかりで、日本が「かってのように」侵略戦争をすることがないように……という心配ばかりが先に立って、変化した、新しい世界のなかで、日本が「豊かな国」にふさわしい国際的な義務と責任を積極的に果たすことを彼らは妨害するのです。


32前向きのラディカルな改憲論へ 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1020()001608

 進歩派の多数の人びとは、建設的ではないんですね。新しい日本をつくる、新しい世界を創る、積極的にその方向で思考する、そのなかで政治や経済のシステムについての新思考を模索する……このことが必要だと思うんですが、いつまでも「反対」(opposition)思考から抜け出せないのではいけないと思います。保守派の改憲論と正面から勝負しつつ、まず日本の新しい憲法草案を議論することが大切です。
「政治改革」にせよ、「構造改革」にせよ、改革のイニシアティブをとっているのは、右の保守派ではありませんか。大胆な、ラディカルな改革構想(たとえば、戦後憲法が定める、国会による「立法権」の独占を打ち砕くような、根本的な分権化構想)が不可欠です。後ろ向きの守旧的な護憲論から、前向きのラディカルな改憲論へ。

 20年ほど前まで、ファシズム論というのがあって、「ファシズムが復活する恐れがある、戦後民主主義を守れ」、という時代錯誤の議論がありました。これは、前方に向かって進むのではなくて、歴史の逆行の防止という後ろ向きの思考でした。いまの40代以上の人は若い頃のこうした思考様式をまだ引きずっている人が多いのでは。

 大変失礼ですが、最後の二つの段落で鈴木さんがおっしゃっていることは、言い古されたことです。少数のインテリや政治家がこれまでそういうことを言い続けて、何が変わったでしょうか。これからも同じことを繰り返すのでしょうか。戦争直後、1950年代、そしてそれをふくむ冷戦時代。あちらでも、こちらでも、革新、進歩派が言っていたことです。それで一体どうなったでしょうか。
 念仏なら唱えれば「お浄土」へ行けるかも知れません。でも「護憲」をいくら唱えても、無力です。政府自民党が次々に産み出す既成事実を受け容れざるを得ない状態に自らを置くだけです。どこを切っても金太郎が出てくるように、いつでも何でも「護憲」が出てくる、金太郎飴的な議論からいいかげんに脱却しないとどうしょうもないと思うんです。


33「国際共同体」の一員としての義務と責任を引き受けよう 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1020()005947

 日本のメディアは、英語のinternational community をどういうわけか、「国際社会」と訳します。しかし、これは「国際共同体」です。「社会」と「共同体」とではだいぶ意味が違います。今朝の(NHK衛星放送の伝える)BBCでも、クレア・ショートの発言で出てくるinternational community も同時通訳で「国際社会」になってました。

 しかし、いま発売中の『日本版ニューズ・ウィーク』(10月24日号)の「ブレア首相の『正しい』戦争」という記事では、正確に「国際共同体」と訳しています。この記事は、前に私が書いた一九九九年のブレアの「国際共同体ドクトリン」にも、10月2日の労働党大会でのスピーチにも簡単に触れています。

 この記事では、ブレアの思想を「共同体主義」としてとらえています。英語は確認していませんが、「コミュニタリアズム」でしょう。ロバート・オウエンの思想も「コミュニタリアズム」と呼ばれることがあるんですが、日本人は「共同体」がお嫌いで、エンゲルスをふくむ、いろんな社会主義者がcommunity という言葉を使っていても、「共同社会」なんて訳したりしています。

 「共同体」ということは、そのメンバーは自己の利益を主張するばかりではいけなくて、そのメンバーが強く連帯した共同体のなかで、各メンバーはその力に応じた義務と責任を負うということです。
 この記事には、ブレアの九九年のドクトリンの一部を要約して、「西側諸国は国際共同体の一員として、自国のみならず世界に責任を負うと論じている」とあります。2日の党大会のブレアのスピーチからは「世界は一つになりつつある。(国際)共同体が力を発揮するときだ」という条りを引用しています。

 つまり、グローバリゼーションが進むなかで、どの国も国際協力をせざるを得なくなっているんです。豊かな先進国の場合はなおさらなんです。

 しかし、日本は、政府自民党は不承不承、あるいはつきあいで、孤立を心配して、また解釈改憲の機会として、外務省、防衛庁、自衛隊は「省益」などのセクショナリズムから、「国際協力」に取り組んでいるに過ぎません。積極的に「義務や責任」を考えているわけではないので、アメリカからの要求があって初めて動き出すんですね。
 野党はこれにブレイキをかける方向でしか対応できない。いま「国際協力」が本当に求められる時代に入っているんだという認識がない。だから、まがりなりにも「国際協力」を進めている政府自民党に完全にイニシアティブを握られているんですね。
 
 われわれは、新しいグローバル社会を構想しつつ、またそのなかでグローバル憲法についての議論を深めつつ、当面の「新しい世界秩序」の形成のための「国際協力」の在り方を論じなければなりません。日本の「人道的介入」をふくむ積極的な「国際協力」に向かわなければなりません。そのなかで、自民党的、外務省的、さらにはアメリカ的な方向とは異なった道を提起すべきです。


34「憲法第九条」は時代錯誤ではない。 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:1020()153748

捧さんは、日本のイニシアティブで協力国を募って、自衛のためではなく、アフガンに「人道的介入」という名目で、改憲してまで軍隊を入れろと言っています。しかもそれにはアメリカの反対があってもやれといっていますし、そのために国連の決議が必要だとは言っていません。
 「ないものねだりですが、たとえば、日本がイニシアティブをとって、国際協力を組織し、各国の参加を求めつつも、日本自身が人的、財政的負担を負いつつ、アフガニスタン「人道的介入」を実施できればと思います。念のために言えば、自衛隊による戦闘行動をふくめてです。アメリカが不参加でも、またアメリカの反対があってもです。アメリカ追随ではないですよ。当然前提として、日米安保破棄がなければなりません。これには、もちろん、改憲が不可欠です」
 私の読み間違えでしょうか。ともかく、捧さんは不用意な言辞を弄されて議論をエスカレートさせ、結局改憲、海外派兵論の急先鋒になっているのです。捧さんの論法では「憲法第九条」そのものがアナクロニズムということになります。しかし近代日本は幾多の侵略戦争の歴史を振り返り、二度と再び武器はとるまいと決意し、戦争のない世界のさきがけとして「戦争放棄、戦力不保持、国の交戦権否認」の憲法を作ったわけです。これこそ人類の戦争史にピリオドを打とうとするものであり、画期的なものであることは誰も否定できないはずです。
 残念ながら冷戦下で覇権国アメリカに従属していた日本は、再軍備の道をたどり実質的に改憲してしまっていますが、そのことによって「憲法第九条」は少しも意義を失ったわけではありません。なぜならこのまま国民国家が軍備をもち続けるならば、最終兵器が開発されている今日においては、国際紛争が人類の破滅を招くことは必定だからです。「憲法第九条」をいまこそ現実化させなければならないのです。もちろん日本だけでなく、各国に広げていくべきです。平和憲法を持ちながら、それを投げ捨てて、軍隊を外国に派兵するなど全く後ろ向きの議論なのです。
 我々は国連を真に集団安全保障体制として機能させるべきだと考えています。当然各国は、相互不可侵と共同制裁の義務を負うわけです。侵略があれば全ての国が侵略国を制裁すべきですが、非武装国は軍事協力はできません。しかしこれは非武装国が増えることで完全軍縮・恒久平和に近づくのですから、当然のことです。日本が自衛隊を派遣しないのは、「憲法第九条」を口実にしていますが、全く国際的には欺瞞的です。派遣しないのだったら、自衛隊を解散すべきなのです。自衛隊がある以上は、集団安全保障上の義務として派兵すべきです。その点は捧さんと同意見です。
 しかし捧さんの意見だと「憲法第九条」自体が時代錯誤だということになります。それならあの反省は間違いだったのでしょうか。二十一世紀もその後も国民国家のレベルで戦力を保持すべきなのでしょうか、何時でも戦争できるように身構えるとすれば、人類は遠からず絶滅するでしょう。このへんで率先して「憲法第九条」を実現することこそが、世界平和の道なのです。そういう国が現れない限り、完全軍縮を目指す交渉も一時的には成功しても、なかなか実施できないでしょう。ソ連解体後の軍縮の歴史がそれを示しています。
 グローバル憲法は、世界平和はグローバルな形で維持すべきだと考えますから、国民国家レベルの戦力保持は認めないのが原則なのです。問題はそれを実現するプロセスです。率先して戦力を放棄する国家に対しては、その国の安全保障を世界共同体が保障し、自衛力を維持する国は国連軍に何割かを提供する義務を負わせます。その上で国連主体の軍縮交渉で軍備の段階的な削減を進めていくのです。これがカントの恒久平和論の趣旨にもかなうわけです。捧さんはそういう理念をアナクロニズムのごとくいわれますが、現実論にたって実行しようということが、集団安全保障の理念からは後ろ向きのように思われます。私は完全軍縮論や恒久平和論と結びつかない、あるいはそういう展望の中で位置付けられていない議論は、到底全人類的な合意は得られないと思います。
 


35国連決議より、人道が優先されるべきである 
投稿者:捧 堅二  投稿日:1020()195200

 わたしは、「国連」は尊重に値するけれども、それはけっして絶対的なものではない、むしろ相対的なものでしかないと思います。というのも、国連安全保障理事会では、五大国が「拒否権」をもっており、この点で国連という国際機関は、いちじるしく、公平を失しているからです。つまり、大国による世界寡頭支配の制度になっているですね。

 わたしは、さきには、「またアメリカの反対があってもです」と書きました。別にアメリカだけでなく、他の4常任理事国(イギリス、フランス、中国、ロシア)とて同様ですが、これらの諸国による安保理での反対が予想されても、必要とあらば、国際的な正義と人道、そして国際的な支持を背景に、「人道的介入」は実施されるべきだと思います。

 ユーゴスラヴィア空爆は、セルビアによるコソヴォのアルバニア人に対する「ジェノサイド(大虐殺)」を阻止するための「人道的介入」でした。このユーゴ空爆は、国連の決議抜きで実施されました。ロシアと中国の拒否権発動が予想されたので、国連決議を回避したのです。
この点は、決して責められるべきことではありません。むしろ適切な選択でした。

36ユーゴスラヴィア空爆の歴史的意義
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1020()212805

ユーゴスラヴィア空爆は、内政不干渉の原則を人道の名において制限しました。もし国連決議を不可欠の条件としていたならば、ユーゴ空爆は実施できなかったでしょう。

 ユーゴスラヴィア空爆については、ヨーロッパではどの国でも60パーセント以上の支持率がありました。それは、「ヨーロッパでの虐殺は、今世紀限りにしよう」、「わたしたちは、ナチスのユダヤ人虐殺の時の誤りを繰り返すな」(つまり、周辺諸国民が虐殺の情報がありながら、見て見ぬふりをしたりして、積極的にやめさせようとはしなかった、虐殺は存在しないという議論さえあったこと)、という人道的な声に押されて実施されました。ヨーロッパの市民たちは、自分たちの利益のためではなく、コソヴォのアルバニア人の命のために軍事介入を求めたのです。政治家や軍人でなく、市民がイニシアティブを取った点でも画期的でした。

 確かに、誤爆が多かったという大きな問題がありました。したがって、無条件に是とすることはできません。しかし、ユーゴスラヴィア空爆は、次々に人びとが殺されていっている状況のなかで、ただちに実力をもってジェノサイドを阻止するために、国連決議があろうとなかろうと、「人道的介入」は実施されるべきですだということについて、重要な良き先例を残したと言えます。

 この地球上のどこかで虐殺や飢餓に苦しむ人びとがいるというのに、それをヤレ「憲法第9条」だ、ヤレ「護憲」だといった、お家の事情を持ち出して、ひたすら内向きの議論をすること、差し迫って求められている「支援」をサボタージュすることのぜひを考えていただきたいと思います。

 日本では、ドイツの著名な進歩的哲学者ハバーマスがユーゴスラヴィア空爆を支持したことにショックを受けたインテリがずいぶんいました。そのなかには、ハバーマスは転向した、何て言っている人がもいました。しかし、ハバーマスにとっては、ナチス支配下、占領下のユダヤ人とコソヴォのアルバニア人とが二重写しになっているんですよ。反ナチ、反ファシズム、反ホロコートということと、ユーゴスラヴィア空爆支持とは密接に結びついているんです。

 しかし、日本では、「コソヴォに虐殺なんかない」「西側の宣伝だ」とかいうことが公然と大新聞で書かれている(そういえば、カンボジアの虐殺の時もそうでしたね)。とにかく、戦争はイカンというわけです。それは分からなくもない。しかし、ジェノサイドには、つまりコソヴォの人びとには無関心なんですね。内向きの議論として語られているんです。


37古い伝統的な消極的平和主義から、グローバル時代の新しい積極的平和主義へ
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1020()213022

       地球上の遠くの「他者」の人権や生命の危機について、どうやってジェノサイドを止めるのか、いま何をしなければならないのか、という日本国家の外部における問題について、「国際共同体」の一員として、自分たちの問題として考えなければなりません。グローバルなコミュニケーションが発達した今日、そのことはかってよりはるかに容易になっていはずです。いままさに、守旧的護憲論の硬直した内向きの思考を打破する時です。

 日本の憲法、そして自衛隊を「人道的介入」が可能なように変えることが必要です。ただしその前提として、政党政治をふくめた、日本の政治の在り方を変えなければなりません。そして、日本の民衆の世界に対する意識の在り方を変えること、その精神に「世界市民」の「倫理」をビルト・インすること、日本国家をこれまでのような内に向かって閉ざされた在り方から、外に向かって開かれた在り方へと変換していくことが、必要です。
 それは言いかえれば、冷戦時代の古い伝統的護憲論の消極的平和主義から、新しいグローバリゼーションの時代の積極的平和主義へ移行するということに他なりません。


38古臭いのはどちらでしょう。 投稿者:鈴木淑郎  投稿日:1020()234510

 捧さんの議論は、「四つの自由」を掲げ「人権の国際化」の名目で第二次世界大戦を戦い、戦後は覇権国家として、「世界の憲兵」になったアメリカ合衆国の「自由主義」の立場とよく似ています。もちろんぎりぎりの判断で、大虐殺を食い止めるために良心に従って、国連決議がなくても隣国が介入することに対して、無条件に反対することはできません。事と次第によるでしよう。正義は多数決では決められない面がありますから。
 しかし日本は歴史的に自らの侵略体験を反省し、武器を捨てると世界に宣言したのです。このことの世界史的意義はとどこへいったのですか。捧さんは歴史のどさくさの中で、このことを忘れている。いったんそう宣言しておいて、他国で非人道的なことが起こっている、人がたくさん殺されているからといって、また武器をとって戦うのですか、それより自らの宣言を忠実に守って非武装を貫くのが道理ではないのですか、第三国から見ると、非武装宣言をかなぐり捨てるための単なる方便にしか聞こえません。もちろん既に実質的には改憲してしまっている以上、憲法第九条を口実に派兵しないこと自体が、全くの欺瞞でしかありません。捧さんの議論はそういう既成事実にのっかっているのです。私は「憲法第九条」を実現することこそ軍事介入することより何百倍も有意義であり、世界の恒久平和に役立つと思うのです。アフガンへはテロリストを身内から出したイスラム諸国中心になり、国連が、犯人を出すように責任をもって働きかけるべきです。捧さんこそ、軍縮を大胆に進めていくべき時代にあって、逆行する消極的な保守的な議論を展開されているのに気が付かれていません。

39非現実的な思考からはなにも生まれない
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1021()013645

>鈴木さん>しかし日本は歴史的に自らの侵略体験を反省し、武器を捨てると世界に宣言したのです。>
 そのようなことは歴史的な事実として存在しません。驚くべき非現実的な思考です。日本の侵略戦争の反省は、いまでも渋々で不十分なものでしかありません。また、そうした反省から、日本自身が武器を捨てた事実もありません。
 もちろん、連合軍による武装解除と陸海軍の解体というかたちで武器を捨てたことはあります。そして、1950年にマッカサーの命令で警察予備隊がつくられ、主権回復(1952年)後の1954年には自衛隊ができています。1945年末から1950年前半についてのみ、日本は「非武装」でした(連合国軍という武装集団がいましたが)。主権回復の1952年以後なら、あらためて非武装化できたはずですが、そういうことはなかった。
 冷戦下で日本社会党が「非武装」を唱えたことがありますが、この党にはソ連派がいて、ソ連からカネをもらっていた。北朝鮮からもカネをもらっていた。


40「憲法第九条」の実現というマヤカシ
 投稿者:捧 堅二  投稿日:1021()013853
>私は「憲法第九条」を実現することこそ軍事介入することより何百倍も有意義であり、世界の恒久平和に役立つと思うのです。>

 「憲法第九条」の実現? どういうことでしょう。憲法は憲法規範としてはつねに解釈されたものとしてしか存在しません。「自衛戦争は合憲、自衛力も合憲」というのが現実の「憲法第九条」です。
 それとも「あらゆる戦争を放棄、あらゆる戦力を否認」というのが「憲法第九条」でしょうか。しかし、そうだとしてもそういう状態をどうやって実現するというのでしょうか。いまの日本で、自衛隊の存在は、85パーセント前後の人びとが承認しています。自衛隊の廃止論は、少数派の意見でしかありません。そして多数派になる可能性も皆無です。数の問題ではない、正しいことは正しいと言われるかもしれませんね。しかし、それは「憲法第九条」を実現不可能な夢として抱いておくということでしかありません。

(いいですか、よく考えてくださいよ、近い将来「自衛戦争は合憲、自衛力も合憲」という「憲法第九条」を改正し、海外で戦闘行動できるような改正はあるかも知れません。しかし、「あらゆる戦争を放棄、あらゆる戦力を否認」という解釈へ復帰性はゼロですよ。)

 日本社会党という、決して本気で政権を握ろうという気持ちを持たなかった。したがって本気になって日本の変革に向かって努力しようとはしなかった。そんな政党が、「非武装」論を唱えていました。
 日本とアジアの平和と安全について、この党は「現実的なオルタナティヴ」を出さなかったとので、反対のための反対をするだけで、結果として、政府自民党の独走を許してしまいました。

 それにしても、よしんば、日本が「非武装化」されたとしても、「世界の恒久平和に役立つ」ことはありません。アフリカや中東の紛争の解決に、インドとパキスタンの対立の解決にどう具体的に貢献できるのですか。日本が「非武装化」されたら、韓国も北朝鮮も「非武装化」するとお考えなんでしょうか。いま「憲法第九条」の実現を宣言したら、アフガンやアンゴラの内戦が終結へと向かうと言えるんでしょうか。
 鈴木さんの思考は「憲法第九条」に呪縛されている。それは、旧戦後革新勢力のワン・パターンです。いまでもあなたのように、それを繰り返し「反復」している人びとがいる。確かに、1950年代には、鈴木茂三郎(社会党委員長)が「青年よ銃をとるな」と叫んだ時、国民に訴求力がありました。戦争が終わって10年経つかたたないかの時点では、また昔に逆戻りするような心配があったんですね。しかし、60年代にはいるとそういう時代ではなくなった。それが社会党の長期低落となって表現されました。そして90年代にこの党は小政党になってしまいました。現在の社民党です。
 「憲法第九条」をひとつの理念としてお持ちなんでしょうけど、抽象的理念への執着は、現在の世界の現実的な諸問題の解決に具体的に取り組む上での手がかりを一切提供しません。

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