グローバル憲法草案を作る会掲示板・保存版3
1空理空論ではなにも解決できない 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月21日(日)01時49分37秒
>私は完全軍縮論や恒久平和論と結びつかない、あるいはそういう展望の中で位置付けら
>れていない議論は、到底全人類的な合意は得られないと思います。
これはハナシとしては面白いですが、現実問題の解決という点では、空理空論です。今日只今存在している飢餓なり、虐殺なり、戦争なりに、どう「国際共同体」は、そしてその一員である日本は、取り組むか、ということが重要であるわけです。
たとえば、パレスチナ問題の解決は、それ自体としては、「完全軍縮論や恒久平和論と結びつかない、あるいはそういう展望の中で位置付けられていない議論」にならざるを得ません。
冷戦後のグローバリゼーションと、全世界的な民主化の流れのなかで、グローバル・ガヴァナンスの一部として、国際安全保障は大切な問題です。しかし、一挙に「完全軍縮論や恒久平和論」とは飛躍がありすぎます。
2「覇権国家」と「人権の国際化」とは両立不可能 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月21日(日)02時15分55秒
>捧さんの議論は、「四つの自由」を掲げ「人権の国際化」の名目で第二次世界大戦を戦>い、戦後は覇権国家として、「世界の憲兵」になったアメリカ合衆国の「自由主義」の>立場とよく似ています。
繰り返しますが、わたしは、「第二次世界大戦」とか、「戦後」とか、あるいは「冷戦」とか、そういう時代をすでに過去として、いまや1990年代以降、誰に目にも分かるようなかたちで進行しつつある、「グローバリゼーション」の時代を見据えて考えています。
わたしは、すべての国家が、「国際共同体」の一員として、「倫理的対外政策」をやるべきだと考えています。独裁政権、人権侵害の抑圧国家への支援はあってはならないことですし、そういう国家に対する国際的な抑制、制裁、介入のシステムの必要性を唱えるものです。これは伝統的な「主権国家」の「内政不干渉」原理に対する修正をともないます。
戦後、冷戦時代のアメリカは、「倫理的外交」ではなく、国益外交、力の外交、現実主義の外交をやってきました。独裁政権であろうが、テロ集団であろうが、はばかることなく支援していました。その延長線上に、今回のテロ事件やアフガンにおけるタリバンの支配もあるわけです。「覇権国家」と「倫理的外交」「人権の国際化」とは両立不可能です。
それから、これまでの、アメリカの対外政策には、「自由主義」は入っていません。ただ共産主義国攻撃の手段として「自由主義」の看板が使用されましたが。アメリカは「覇権国家」として道を捨て、「自由主義」外交を実行していただきたいものです。
3論争大歓迎、多くの人の参加を! 投稿者:やすいゆたか 投稿日:10月21日(日)12時22分54秒
rinrivs捧論争、捧vs鈴木論争が活発です。同時多発テロ以降の世界的緊張の中で当然といえば当然ですね。グローバルな集団的安全保障体制をいかに構築するかという問題は、それぞれの立場によりアプローチの違いが出てくるのは避けられません。
「憲法第九条」の位置付け、意義付けについてもこだわり派や現実派で見解が大きく分かれるところです。たとえ「倫理的」現実主義者の捧さんでも、グローバル化の世界に対応するためには、国民国家の主権制限、相対化を推進されるわけでして、その中では当然国民国家の軍備に関する制限、さらには世界共同体による軍備管理への移管が日程に上るはずです。その際「憲法第九条」の理念が再評価されるのではないでしょうか。
鈴木さんの議論が捧さんには、空理空論に思われるのはやむをえませんね、実際に現実からおいてけぼりになった地点に踏みとどまって頑張っておられるのですから。しかし私はそういう人もいなければならないと思います。あるいはそういう国があればいいのにと思います。実際、捧さんの言われるように日本が非武装になったところで、パレスチナ問題や朝鮮問題、テロ問題が解決するわけではありません。何も役に立たないじゃないか、まだ恐ろしいならずもの国家や、国際テロ集団がいるんだぞ、覇権国家も何時牙を剥くかもしれないのに、そんな危険なことをするのは大馬鹿者かもしれません。でもそれだからこそ、あえて武器を持って殺しあったり、にらみ合ったりすることを拒否し、率先して武器を捨てて、平和を貫く国があって欲しい、そう願っているのはほんの少数なのでしょうか。そういう国の存在が平和の灯台になるのではないか、そういう国があるのに何時までも武力で殺しあったり、領土を奪い合ったりするのはとても恥ずかしくなるのではないでしょうか。だれの心の中にも平和を求める気持ちがあるものです。
もちろん危険は覚悟すべきです。まだそういう国の安全を保障する国際的体制はできていませんからね。一億二千万人がホロコーストに遭うかもしれません。でもそんな壮烈な受難があれば、それこそ人類は、本当の愛と平和に目覚めるのかもれません。鈴木さんはそこまで覚悟してますか。
捧さんの議論はとてもシャープでいちいち説得力があります。しかしもうひとつ付いていけないのは、「国際共同体」がどういう実体を成すものでどういう理念を持っているのか、「倫理的外交」という名目で行われることが、アメリカ的な自己の価値観の押し付けや、国益追及の隠れ蓑でない保障はどこにあるのか、胡散臭いものを感じてしまうからです。EUにしても日本にしても巨大な独占資本の利害で動いていて、そういう国家が兵隊を世界展開するとなると、どうしても建前や宣伝文句は信用できません。正義や人権や平和のためと思っていたことが、とんでもない犯罪であったということも起こりえます。実際にならず者をやっつけに入っても、結果として、そのならず者以上に悪いことをするかもしれません。
私はやはり国連の原点にかえって国際紛争やホロコーストに対しては、国連での審議と決議を踏まえて、国際社会の責任で、きちんと国連緊急軍を組織して、事態を収拾する措置をとるべきだと思います。国連が組織的にもいろいろ問題があり、覇権国の道具になったりすることもあるのは事実です。そういう問題を解決するためにも、国連をより機能させ、改革すべきだと思うのです。
4★暴力論というより暴論★ (捧氏の「輝かしき名言」を振り返ろう) 投稿者:rinri 投稿日:10月24日(水)00時05分18秒
★警察も軍隊も、暴力装置なんです。警察も自衛隊も「暴力」(手段、装置)なんです。 (捧氏発言)★
●これは、異なことをおっしゃいますね、捧さん。
ということはですよ、「犯罪」も「警察」も、おなじになってしまうじゃないですか。あなたのおっしゃる「暴力の絶対量の削減」というのはなんだったんですか。あなたによれば、これから「暴力の絶対量の削減」をしなくちゃならない。ところが、この「暴力の絶対量」というのに、おなじ暴力である「警察も軍隊も」含まれるわけです。ということはつまり、「警察も軍隊も」削減してゆかなくてはならないわけだ。これはもう、わけがわからないですね。
●そして「暴力」を「極小」化せよ、とも云われるわけです。この「極小」というのは、もしかして「警察」と「軍隊」のこと? 一致するんですか? そうじゃないですよね。もともとあなたは、(暴)力の「種類」を区別していないんだから。
●犯罪を減らせるとしたら「その抑止」のほうも、同時に減らせそうなものじゃないですか。ところが「暴力はなくならない」わけだから、警察と軍隊を削減しようにも、削減のしようがない。絶対量は減るんだけど、警察と軍隊だけは残ってしまう。それはおかしいんで、「暴力の絶対量」の削減は「すべての暴力」を減らすことじゃないんですかね。
●そもそも、あなたのいう暴力の削減なんて、空(想)論にすぎないわけですよ。じゃあ、いったい警察と軍隊をどれぐらい残せばいいんですか。「犯罪」と「その抑止」は、反比例するんじゃないですかね、理論的には。減らすために増やすわけだから。
●防備という「力」は大きいに越したことはないんです。ところが「過大」であれば、ひとたび「平和への攻勢」に転じたなら、比肩しうるものなき「力」となる。それこそ脅威です。しかも「過大」であることそのものが誘因となって「暴走」しうるんですね。ですから暴力への「悲観」は公平に、防備の「暴走」にも「適用」しなくてはならないんです。防備にも「悲観」すべきなんですね。
いうなれば「防備」と「防備への抑止」の双方に「悲観」するわけです。結果として「悲観」は相殺されることでしょう。これら「2つの悲観論」が、たとえ厳密には「等量ではない」にしても。
●すると、楽観論のほうも「防備」と「防備への抑止」に公平に適用しなければならなくなる。つまり、楽観論は悲観論の「裏返し」にすぎないので、適用のしかたにおいて「悲観論と楽観論はおなじこと」になる。
●では「度合い」としては「犯罪」と「防備」のどちらがより危険か。
悲しいことに「犯罪の大きさ」は予測できないわけです。ですから宿命的に、防備の力は余りうる。力が余っている「軍隊」は危険ですよ。民間人や味方を含め、結果的に大量に「殺す」のは、むしろ軍隊ですから。力そのものが破壊力なわけで。それをなんとか抑えたいんですけどね。
●防備の「過大さ」は求められているんです。世界を取りしきる警察や軍隊からの物資の需要は大きいですから。「過大さ」のほうに、つねに加圧されているといってもいい。
防備の大きさを決める「政治」があるでしょう。予算枠、そして年ごとの予算ですね。
では、いくら要りますか、と問われたときに、てきとうな「脅威」でも用意できれば、予算を引っぱれますからね。国民国家であれば省庁幹部、族議員、軍産ともにホクホク顔ですね。
こういうふうに見てゆくと、暴力への一面的な「悲観論」というのは、なんのことはない、本質において「脅威論」なんですよ。不安に比例するんです。いわば「不安に乗じて」肥大化するんです。しかも「危機を人工的につくりだす」という「危機」なんですね。
●というわけで、「暴力の削減」は、あなたがかんがえるほど単純じゃありません。ただ、一筋縄ではいかないからと「迷宮」に入れてしまうんじゃなくて、原理的にありうる、あらゆる「諸力」を解剖しておく必要があるわけです。
そのためにも「用語」は分けておくべきでしょう。「犯罪の力」と「抑止の力」を「力」に統合してしまっては混同のもとです。(そして、結果として「狡猾な政治家」に「錯覚させよう」とさせうるのです)
●「力」というものは、厳格な「手続き」によって、システムの管理下におくことで「正当な力」になります。暴力というのとはまた「異質」な力になるわけです。にもかかわらず「犯罪」の力と「抑止」の力で、表記が、おなじ「暴力」というのでは、「条文」も「議論」もあったものじゃないですからね。
●防備は「生活を守る」ということですね。ですから「暴」力ではありませんよ。
(あなたが起草するとして、憲法に「警察機構という暴力(装置)を設置する」と謳えますか?)
5精神世界における「真面目な護憲論」 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月25日(木)00時41分45秒
>「掲示板」の鈴木さんの投稿に
鈴木さんによると「不真面目な護憲論」というのがあるそうですね。そうすると鈴木さんの護憲論は「真面目な護憲論」ということですね。
しかし、鈴木さんの「真面目な護憲論」は、あれも「括弧の中に入れ」、これも「括弧の中に入れ」の護憲論ですね。都合の悪い「現実」は全部「括弧の中に入れ」るということですな。
すべてを「括弧に入れる」護憲論、それはあらゆる「現実」から解放された護憲論です。ということは、日本国憲法は、あくまでで鈴木さんご自身の頭蓋内部における観照の対象としてのみ存在するんですね。鈴木さんは婉曲に「思想の次元」とおっしゃっていますが、むしろ「精神世界」(実在世界ではなく)の内部とおっしゃるほうが正確ではないでしょうか。
(いずれにせよ、ここで問題になっているのは、本当の意味での「憲法」ではありません。「憲法」は具体的な最高法規、国政についての基本的なルールなんであって、鈴木さんの脳中にあるような観念的もしくは神秘的な対象物ではありませんから。)
日本や世界がどんなに変化しようが、大量虐殺があろうが、大規模無差別テロがあろうが、お構いなしに、「憲法第九条自体の世界史的意義」なるものが、想起され、反芻(はんすう)され、知的に賞味される。もちろん、実現可能性についての考慮が働くわけではない。鈴木さんは、一切を「括弧に中に入れ」て、次のようにおっしゃる。
「一人一人『憲法第九条』にこだわり、自分の国にその実現を求めていくことが、二十一世紀のグローバル市民のポリシーだということがわかるでしょう」
「報復」叫ぶニュー・ヨークの市民にも、タリバンの支配に苦しむカンダハルの住民にも、『憲法第九条』の折伏(しゃくぶく)をせよ、おっしゃるんですか。いや、もちろんそうではないはずです。あなたにとって、事態の一切は、あらゆる現実を捨象(しゃしょう)した――「括弧の中に入れ」た――観念空間のなかでのおハナシなんですから。
「実在する世界」、そしてそのなかにおいて「具体的に存在する人間」から出発して、現実に存在する「問題」をどう解決したらいいのか、そのために「国際共同体」は、日本は、そしてわたしたちは、なにをすべきなのか、なにものをも「括弧の中に入れ」ることなく、思考すべきです。
そして憲法についても、現在の日本国憲法を取りまく状況に真正面から向き合いつつ、憲法の改正(というよりも新憲法の制定)を射程に入れた論議をすべきです。保守派の人びとの改憲論に対して、現実無視の観照的な「真面目な護憲論」のようなものを対置するのではなく、進歩派のラディカルな改憲論をさまざまな角度から対置すべきです。
6水掛け論にならないために 投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月25日(木)09時14分07秒
水掛け論はやめましょう。
「憲法第九条」は傷だらけだし、全く反故にされています。世界有数の戦力を保持しながら、それを世界の集団安全保障のために機能させない口実にされているのです。
自衛隊を保有しているのに、それを使わないのは日本だけ無責任です。憲法が邪魔になっているのなら、改定すればいいのです。そういう意味では捧さんのおっしゃっていることはもっともです。
憲法を変えてきちんと世界の集団安全保障に活躍できる戦力を保有できるように変えましょう。それが捧さんのいわれる「進歩派のラジカルな改憲論」でしょう。ようするに「世界の常識・日本の非常識」の状態を改めようという議論です。それって普通の国になることでしょう。
私は日本が自衛隊がありながら、派兵しないのはよくないと思いますが、日本が派兵してそれで世界が平和になるとは思いません。それよりいつまでも戦力を国民国家のレベルで保有しあっているというのが、最終兵器の時代にはとても恐ろしいことだと思うので、「憲法第九条」の実現を求める運動に現実的な必要性を痛感するのです。
捧さんは核兵器や生物化学兵器を保有しあって、にらみ合っている状態を恐ろしいとは思われないのですか。国民国家レベルでの戦力保有はもう止めるべきだとは思われないのですか。ずいぶん楽天的ですね、
7議論を噛み合わせるために 投稿者:やすいゆたか 投稿日:10月25日(木)16時50分03秒
私は行司役ではありません。でもちょっと口を差し挟みます。
自衛隊を保有している限りでは、世界の集団的安全保障での国際的義務を果たし、「人道的外交」「倫理的外交」を行うべきだという点では、鈴木さも捧さんの意見に同意されているわけです。これは社民党や共産党より随分「現実的」で「勇敢」じゃないですか。もっとも鈴木さんはその効果のほうは疑っているようですが。
対立点は「憲法第九条」の意義です。成立した時点においては、「戦争放棄・戦力不保持・国の交戦権否認」で画期的な非武装宣言だったわけです。それは当時の政府も国民もそのつもりだったわけです。
鈴木さんは、そんな世界史的意義のある宣言をいったんした以上、それを貫くべきで、貫けないというのなら、はっきり変えるべきで、解釈改憲などとんでもない冒涜だというわけでしょう。
捧さんは、全く「非武装宣言」に世界史的意義を認められないのですか。非現実的な宣言をして馬鹿だったという反省をされているのですか。
捧さんに対して鈴木さんは、歯がゆいと思っているのは(私もですが)、完全全面軍縮へのプログラムは必要ないのかということです。特に最終兵器の時代にです。
それから「グローバル憲法」では、国民国家の主権制限が当然課題になります。
軍備を国民国家からグローバル政府に移管することによって、国際紛争を不可能にするというのが、グローバル化の時代の課題だと思われます。
そのことは現実的課題ではないのですか。当面の課題でないというのなら、それへのプロセスを示してください。そうすれば議論もかみ合うところが出てくるのではないでしょうか。
8「成熟した戦争」とは? 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月25日(木)21時49分47秒
今回のアフガニスタンにおける米英の武力行使をどう評価するか、これは一つの重要な検討課題です。もちろん、今の段階では評価は時期尚早です。しかし、大雑把に少しだけ論じてみます。
今回の米英両軍の武力行使では、爆撃を軍事目標、テロ訓練施設などに限定し、民間住宅等は目標から除外することになっています。民間人の死傷者が出ることに対する配慮もなされている。もちろん、かなり「誤爆」もあるようで、不十分な点も多いと思います。それと、食料パックの投下も行われました。「人道的配慮」というのがあるということです。もちろん、これも不徹底ですが。
(多くの軍事評論家が、例えば湾岸戦争などと比べて、巡行ミサイルの数、出撃機の数などが少ないと指摘していますし、北部同盟の側からは、爆撃が効果的でない、量的に乏しいという不満もあります。米英としては、国際世論、とくにイスラム諸国の民衆への配慮が働いているのは周知の通りです。)
24日のBBCによりますと、ダライ・ラマは、第一次世界大戦、第二次世界大戦とくらべて、今回は「成熟した戦争」(mature
war)だと言っています。比較の対象が古すぎますね。おそらく湾岸戦争、ユーゴスラヴィア空爆と比べてもそう言えるかも知れません。
(ダライ・ラマの発言は下記のBBCを参照)
http://news.bbc.co.uk/hi/english/world/south_asia/newsid_1617000/1617475.stm
タリバンの発表では、民間人の死者は1000人です。タリバンは立場上、被害を大きく見せたいわけですから、実際には、最大1000人、話半分として500人というところでしょうか。アメリカはタリバンの幹部の自宅に「ピン・ポイント爆撃」をしている、という軍事評論家の分析もあります。アメリカは、民間住宅は爆撃しないのが公式の立場で、このことをパキスタンなどにも約束しているとのことで、このため「誤爆」ということにして、タリバンの幹部の住宅などを爆撃しているというのです。もしこの分析があたっているとすれば、純然たる民間人の死傷者はさらに少なくなるはずです。まぁ、これは、希望的観測でしかありません。そうあってくれたらなぁ、というわたしの気持ちが入った数字ですから、別に根拠があるわけではありません。
それにしても、「成熟した戦争」という言葉は奇妙な言葉ですね。しかし、あらゆる戦争を否定できない人類史の現時点においては、「必要悪」として戦争がやむを得ないとすれば、その戦争は「成熟した戦争」でなければならないでしょう。今回の戦争は、まだまだ十分「成熟」しきっていない戦争です。「よりいっそう成熟した戦争」の追求が、これからの重要な課題だといえるでしょう。
9原点復帰。いいかげんにしろ。 投稿者:rinri 投稿日:10月26日(金)11時02分57秒
馬鹿は休み休み言ってくださいよ。戦争が成熟するために、これから、どれだけ死ぬんですかね。「知識人」が、皆でマジで「止めよう」と言えば、たったそれだけで戦争が無くなることぐらい、子供だって知ってますよ。なんだかんだ説明をつけて商売する「知識人」がいて「これはしかたがない」とか言うから、ナイーブな国民も、大義名分のほしい政治家も、それに乗っかってるんだ。戦争は、頭がよい人間が始めるんだよ。ほんとうの馬鹿ばかりなら、戦争なんてしやしないよ。究極の戦争の成熟は、死者がゼロなんだから、それは警察なんだよ。戦争のほうに無理やり遠回りせずに、いいかげん警察について論じてくれよ。必要悪ということば自体が自家撞着なんだ。戦争が永久に必要だという論証なんて、いままで見たことないですよ。それとも、知識人というものは、戦争を止めるすべを知らないほど無力なのかい。戦争をやめさせる方法が思いつかないんなら、すっこんでてくださいよ。かんがえようともしないで、不可避論ばかり唱えて、知識人ぶってるんじゃないよ。飢えたひとも飽食のひとも、戦争を無くす方法を知識人に期待してるんだ、わかんないのかね。それができないなら、助成もらって大学で偉そうにダベってないで、税金返せといいたいね。
10食料パック投下は笑いもの。 投稿者:rinri
投稿日:10月26日(金)11時36分55秒
爆弾おとしておいて、食料パックとはこれいかに。
爆撃のあとじゃ、毒でも入ってるんじゃと思うのは当然だな。これで救援物資のつもりか。奪いあいになれば、弱き者ほど手にはいらない。あたりまえだ。
こう言うと、これからは「よりいっそう成熟した」投下方法を、なんてノタマウんだろう。戦争が未来型に成長する過程では、なんでもありだ。思考パターンが弁証法なんだから、どんなテーゼでも許されてしまう。
近代は、実験の世紀だった。原爆おとして「あっ、やりすぎた」。原発つくって「あっ、しまった」。でも、許されてきた。つぎは、もっとましにやるやるから、と。 それで済むのか。
環境破壊は、すでに修復不能だ。あとからでは、とりかえしのつかないことがある。なによりも、実験の犠牲になったひとは、帰ってこない。死人に口なし、忘却のかなただ。イスラムでは「熱さ忘るる」がひとの愚かさの最たるものらしい。
だれかの世渡りのおかげで、すべてが過去へ過去へと押し流されてしまう。そういう装置なんだ、右は。そして、二重スパイだかなんだかしらないけど、左翼に混じって日の丸を振ってるやつもいる。
しこたま金儲けしておいて、しわ寄せをかぶらせておきながら、戦争するためなら、飢えたひとを持ち出してくる。なら、そういう人間が裸になって、NGOの人道支援すればいい。
よくにているな。食料パックを落とせば、食べる人間を殺してもいいような口ぶり。
そして、左の皮をかぶっていれば、なにいってもいいみたいな、農夫のかっこうをした敵兵。
戦争って怖いなぁ。
11憲法を変えろ!(109条/110条/111条)●変えなくちゃ症候群にあわせて● 投稿者:rinri 投稿日:10月26日(金)16時28分19秒
憲法109条で、自衛(隊)を放棄する。かわりに憲法110条で、公安をテロ対策専任として増強する。
憲法111条で、対米福祉予算を恒久的に拡充する。
自衛隊は、世界に展開できないような弱小軍だから、大目に見てくれるんですよ。
いま何が危ないといって、軍備をもっていることほど、市民の安全が脅かされるものはない。軍備は闘牛場で日の丸を振るように、牛を刺激します。狂牛病ひとつで、これほど揺さぶられる国ですよ。オウム市国がオウム連邦ぐらいのスケールになったものが国際テロ集団だ。地下鉄になにを撒かれるかしれない。議事堂に種痘やサルモネラやら混合株でも持ちこまれればワクチンが足りない。信用もなにも、日本経済は干上がるでしょう。
軍備なんてプルトニウムみたいなもんだ。持ってると危なくてしょうがない。とりあえず一国平和できればいいから、じゃんじゃんアメリカに金を渡すんです。アメリカは日本の傭兵なんだから、たっぷりはずんでやればいい。「福祉目的」のノシつけて。ガードマンの身分でしかない傭兵が「侵略」「虐殺」に転じたら、その全責任は傭兵自身にある……。
……そのココロは。
経済というのは、なにか目新しいことを始めなくては回ってゆかないのです。毎日のように新製品がうまれる日本です。不況とあってはなおさら、消費者は新しいことを期待するような心理環境に投げだされます。もとより勤勉な日本ですから、せわしなく「変えてゆく」ことが「善」なのです。むろん、護憲じたいは悪くないが、改悪派におしきられる将来をかんがえておくべきでしょう。
たしかに現憲法は、とくべつな「意義」を確立しました。だからこそ、もう棄ててもよいのです。日本が軍事国に後退しても、いちどは実現した平和憲法です。それを模範にして、スケールアップして採用する国が、どこかに現れないという保証はない。むしろ、模範であるはずの日本が、憲法とうらはらの実態であることのほうがまずい。もう引退です、そういうイミで脱皮です。さきざき平和憲法の国が増えますように、と祈ってるだけでいい。
それよりも、いまは世界統一へのプログラムの道筋がないのです。護憲をいう前に、世界の最終ビジョンの構築に力を注いでほしいものです。数すくない純然たる人権派が、風前の灯火のような護憲にエネルギーを投資している時間が惜しい。半死体の生命維持はコストがかかる。近代日本は「変えなくちゃ」病にかかっているから、この風潮がおとろえるまでは護憲なんて焼け石に水でしょう。
人間は「バク」ですから、夢を食べないと生きられない。守りよりも攻めです。まずは政策です。最終的に、どう変えてゆくかのビジョンです。先回りして目標地点の橋頭堡を確保するのです。そのためのグローバル憲法です。そういう場であるはずです。
(まあ、予想どおり、ほとんどムイミな議論になってきてるけど)
見通し。
【憲法改悪 (今世紀) →
破局(?) →
「世界憲法」制定 (来世紀) →
倫理社会の実現(?)】
12▼▲▼ 引用 ▲▼▲ 投稿者:rinri 投稿日:10月26日(金)21時45分05秒
それこそ近代の超克だ!投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月
8日(月)19時52分08秒
捧さんの構想力は素晴らしい。それこそ近代の超克です。我々の求めているものです。グローバルで多元的なデモクラシーの新世紀像を単著で発表してください。
na・ive《形》
《1》(人・言動・考えなどが)世間知らずの,単純でばかげた;信じやすい(@日本語の「ナイーブな」は2の意味に近いが英語では通例悪い意味に用いる).
《2》純真な,無邪気な,うぶな.
13文脈を忘れないで下さい。 投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月26日(金)22時46分56秒
rinriさんは、捧さんの憲法改定による派兵論に対して、「憲法第九条」実現論をぶつけている私の議論と次の捧賛歌は矛盾していると思われているのかもしれませんが、具体的に引用して疑問を解いておきます。
34主権国家の揚棄、国民国家の転形 投稿者:捧 堅二
投稿日:10月 8日(月)18時24分31秒
いまグローバリゼーション、リージョナリゼーション、地域分権化、アソシエーションへの権限委譲の流れが、存在します。この流れは、近代主権国家に集中した権力・権限・機能の分散化、言いかえれば、国家に集中した「統治の多元化」であり、また「新しい統治の分業の形成」だと思います。
この過程で、従来の「主権国家」は揚棄の方向に向かっており、方向性としては「主権国家」はなくなるわけですが、しかし、「主権国家」と「国民国家」はイコールではありません。また「主権国家」の揚棄は、「民族国家」の揚棄ということは同一ではありません。
グローバル社会の形成とは、人びとが帰属する政治的共同体は、唯一(あるいは、圧倒的、一元的に)に国家ではなくなるということです。国家は形を変えて存在していくでしょう。それを「国民国家」といってもいいんですが、その「国民国家」は、主権国家でも民族国家でもありません。人びとは、同時に、そうした新しい「国民国家」と、グローバル社会――コスモポリス(世界都市国家)――、地域共同体(EUなど)、「副国家」(地域国家)」、そして市民社会の内部に存在するアソシエーション、
コミュニティ(近隣社会)等に存在します。
これは国家のラディカルな相対化です。もはや国家は絶対的な忠誠の対象ではなくなります。また民主主義も、国家中心の従来型の民主主義に訣別し、多元的な民主主義へと転形する必要があると思います。
35それこそ近代の超克だ! 投稿者:鈴木淑郎
投稿日:10月 8日(月)19時52分08秒
捧さんの構想力は素晴らしい。それこそ近代の超克です。我々の求めているものです。グローバルで多元的なデモクラシーの新世紀像を単著で発表してください。
14◆◆ファシズムは消えたことがない◆◆ 投稿者:rinri 投稿日:10月26日(金)23時35分24秒
ファシズムは、「微増」と「微減」を繰り返している。ファシズムは、「低空飛行」しているから、政権を陥れない。だが、ホラーなのはファシストの数ではない。一のファシストよりも、百の予備軍である。
ファシストに限ったことではないのだが、世のなかに、完全な「主義者」がいるとは、かんがえにくい。だれでも、幾つかの「主義」をブレンドして、脳に沁みこませているのが実情だろう。とりわけファシズムは、陰陽五行
(六腑)
のようにして、ひとをかたちづくる原料である。いうなれば、だれもが臓器のひとつにファシストの原液を湛えているのである。だから、ある図柄を網膜に映すとき、その刺激の触発によって、ひとはだれでも、いつでもファシストたりうるのである。性衝動のようにして……。どうだろう、一億のファシスト予備軍がいることは、想像するだに、おぞましいではないか。
ところで、性欲の抜きんでて強い者がいるように、図抜けて濃いファシズム原液を分泌する者がいる。そういう体質の者は、すれ違いざまにも、どこかしらファシズムを匂いたたせているものだ。
灯台もと暗し。
……ところが、ファシズムには自覚
(症状) がないらしい。当人には見えないらしい……。「おまえの頭に、カギ十字の旗が揚がっているぞ……、お子様ランチみたいに」。……もちろん、きょとんとしている。それは、怖いことではあるが、しかしまた同時に、滑稽でもある。……よく観察してみよう。面白いから。
15第9条を改正しないことの危険性 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月26日(金)23時38分04秒
日本国憲法についてですが、警察予備隊(1950年)、保安隊(52年)、そして自衛隊(54年)ができ、第9条解釈も変わっていきました。
本当は、50年に、遅くとも54年に改正すべきだったんです。改正できなかったら自衛隊は作ってはならなかった。解釈がいくらでも変えられるとしたら、それは第9条は、確固としたルールとして機能していない、ということを意味しています。
解釈でごまかして、第9条が「自衛戦争と自衛力は合憲、自衛隊は専守防衛で海外派遣・派兵は違憲」の線で解釈されていた時期がかなりの期間続きましたね。1980年代までそうでした。ところが90年代にはいるとPKOで自衛隊が海外に派遣されました。今回の自衛艦のインド洋派遣はさらに進んだ事態です。これはこれまで長く続いた第9条解釈をはみ出しています。第9条はルールとして機能していないのです。もしかりに、80年代に第9条を改正し、「自衛戦争と自衛力は合憲、自衛隊は専守防衛で海外派遣・派兵は違憲」の内容に明文の規定を与えておれば、90年代以降の自衛隊派遣は明確に違憲になっていたでしょう。
かって社民連の江田五月なんかが第9条を改正し、なし崩し的な解釈改憲を防ごうとしたことがあったんですが、護憲論者が批判したんですね。世論の支持もなかった。80年代であれば、自民党は、「自衛戦争と自衛力は合憲、自衛隊は専守防衛で海外派遣・派兵は違憲」の内容の憲法改正に、泣いて喜んで応じたでしょうね。しかし、それが実現していたら、新しい第9条は、90年代になって彼らの手を縛り、海外派遣を阻止したはずです。
前に述べたことからわかるように、わたしは、そうした内容の改憲を望んでいるわけではありません。自衛隊に関する憲法上の具体的な規定が必要だと言いたいのです。内閣、国会、海外派遣等についてです。国連決議とか、国民投票だとか、いろんな条件や仕組みを入れることも検討に値すると思います。
しかし、いまここではそうした個別の内容に立ち入るつもりはありません。ただ自衛隊について、国の根本規範である憲法でしっかりルール化しておく必要がある、そうしないと何時かとんでもないことになってしまう危険性がある、と思うんです。
16さようなら、「日本」 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月27日(土)00時21分02秒
どの国でも、「わが国」は「良い国」だという教育が行われます。そして、自国の憲法が「良い憲法」だとして教育されます。明治憲法時代の日本も、戦後憲法のいまの日本もそうです。しかし、宗教に「良い宗教」と「悪い宗教」とがあるように、憲法にも「良い憲法」と「悪い憲法」とがある。
そうまで言わなくとも、憲法のなかには、「良い部分」と「悪い部分」(といって悪ければ、「問題がある部分」)とがあるわけで、そこのところを検討し、改正すべきは改正する、必要ならまったく新しい憲法を作る、そういうことが必要ではないでしょうか。
小・中・高の学校教育で、「日本国憲法」(1940年代の憲法ですヨ)をそのまま「良い憲法」として教えられ続けています。子どもたちに、現行憲法を「自然」なものとして無批判的に受容することが組織的、制度的に強いられてきました。
たとえば、象徴天皇制も、なにか結構なものであるかのごとく教えられるんですよね。まぁ、明治憲法(1880年代の憲法)の天皇主権と比べればマシでしょうが。よく考えてください。日本国憲法には「民主主義」という言葉が存在しないんですよ。なぜ、「民主主義」という言葉がないのか。それは象徴天皇制と関係しています。『世界年鑑』(共同通信社)では日本は「立憲君主制」ということになっている。
「君主制」を否定したのが「共和制」です。日本国憲法は、「君主制」を完全に否定してないので、「共和制」の憲法ではありません。「共和国」は、君主の国家でないだけでなく、君主を「象徴」としていただく国家でもありません。それはピープルの政治的共同体です。わたしの理想としては、天皇制を最終的に廃絶し、「天皇」とセットで生まれた「日本」という国号も捨て、多様な差異をもった諸市民からなるピープル(民衆)のコミニティとしての「ポスト日本国家」を展望したいですね。その国号の検討は先の課題ですが、いずれにせよ「○○共和国」でしょうね。
17何とでもいえる。 【 論証未満 】 投稿者:rinri 投稿日:10月27日(土)03時10分27秒
こんにちは、「日本」
どの国でも、「わが国」は「良い国」だという教育が行われます。そして、自国の憲法が「良い憲法」だとして教育されます。明治憲法時代の日本も、戦後憲法のいまの日本もそうです。しかし、宗教に「悪い宗教」と「良い宗教」とがあるように、憲法にも「悪い憲法」と「良い憲法」とがある。
そうまで言わなくとも、憲法のなかには、「悪い部分」と「良い部分」(といって悪ければ、「問題がない部分」)とがあるわけで、そこのところを検討し、改正すべきでないものは改正しない、必要ないなら新しい憲法はまったく作らない、そういうことが大切ではないでしょうか。
小・中・高の学校教育で習った「日本国憲法」(今世紀半ばの憲法ですヨ)が、あたかも「古い憲法」として批判され続けています。卒業した子どもたちに、現行憲法を「不自然」なものとして無批判的に受容することを組織的、洗脳的に強いてゆきます。
たとえば、象徴天皇制も、なにか不都合なものであるかのごとく批判されるんですよね。まぁ、明治憲法(1880年代の憲法)の天皇主権と比べればダメでしょう。よく考えてください。日本国憲法には「絶対君主」という言葉が存在しないんですよ。なぜ、「絶対君主」という言葉がないのか。それは象徴天皇制と関係しています。『世界年鑑』(共同通信社)では日本は「立憲君主制」ということになっている。
「君主制」を否定したのが「共和制」です。日本国憲法は、「君主制」を完全に否定してないので、「共和制」の憲法ではありません。「共和国」は、君主の国家でないだけでなく、君主を「象徴」としていただく国家でもありません。それはピープルの政治的共同体です。わたしの理想としては、天皇制を最終的に絶対化し、「天皇」とセットで生まれた「日本」という国号も活かし、多様な差異をもった諸市民のコミュニティからさらにサブジクト(臣民)のコミュニティとしての「ポスト日本国家」を展望したいですね。その国号の検討は先の課題ですが、いずれにせよ「日本○○王国」でしょうね。
〜 反定立の提案として (捧氏発言
『さよなら、「日本」』 により作成) 〜
18訂正 投稿者:rinri 投稿日:10月27日(土)03時14分08秒
今世紀半ば
→→
前世紀半ば
19猜疑心は良心の土嚢。 投稿者:rinri 投稿日:10月27日(土)05時54分10秒
土井たか子の行動に「裏」があるとのウワサはチラホラ聞かれる。したがって、土井たか子を信ずることができないでいる。というよりも、すべての政治家を疑うところから出発するほうがよいと思っている。しかしながら、どれほど多くの政治家が過去に「悪」に手を染めようとも、世の表舞台に踊り出る「つぎの一人」が悪人であるとはいいきれないのである。このひとは大丈夫だろうと信じるしかない国民は、だから騙され、裏切られ続けている。
江田五月とて例外ではない。科学技術庁のポストをチラつかされると、急に態度をひるがえしたという。あくまでもウワサだ。しかし、江田五月の言動から、さもありなん、と思えるのだった。
およそ、気骨があるか、論理的かどうかは、発言内容のブレをチェックすれば窺い知れる。また、充分に注意深ければ平素の振る舞いからも、それと知られるであろう。たとえば、世界システムの美しいビジョンを描く者が、どこからやら降臨したとしよう。だが、騙されてはいけない。ひとを感服させるに長けた者は、独裁者の遺伝子をいくつか宿しているものである。
まずは、その未来ビジョンに「軍事力の統制」が組み込まれているかどうか吟味してみるとよい。すると、ビジョンから「武力の問題」がスッポリ抜け落ちていることに気づくかもしれない。強権の恣意的発動の余地を残してあったりしないだろうか。ときに「未来の組織編成」は、「恐怖の軍事政策」と、見事なマッチングで両輪を成すのである。
おなじ意味で、装飾過多の用語も要注意である。戦争という変哲のない単語に、「正しい」を、「正義の」を、そして「成熟した」という修飾語を付けるとどうなるか。戦に、「聖」の字を付す。悪に「必要」を足す。こうしてできた「正しい戦争」「正義の戦争」「成熟した戦争」「聖戦」「必要悪」という語群を眺めて感ずる点は二つあろう。一つには、「戦争」や「悪」という現実としてはどうしようもない概念を、耳障りのよい「響き」で「薄めている」ということだ。もう一つは、矛盾する反意語の結合が好対照をもたらして、ある味わいのあるイメージを創出しているという点だ。これらは決して放念できない演出である。こういう微小な遣り取り・気配りの積み重ねで
(心理を) 少しずつ確実に、ある一点へと追い込んでゆく。
戦争の「創造」は、はじめにことばありき、である。戦争指導者は、語彙が「豊か」だ。しかも、戦争を目的とした時点で、すでに自己解放を果たしている。つまり、いかように言辞を弄してもよい、と思い定めているのである。タガがはずれるというが、そうなれば水を得た魚で、「悟空」は自由に言語空間を飛び回ることができる。抑え
(自制)
がないので創造性が噴きあがり開花する。むろん、それは「言霊」という「現世の力」をうるために、魂を売ったことにほかならない。自由な創造に身をゆだねることで
(越えてはならない一線を一貫して守る相手陣営よりも)
効率よく折伏してゆけるのである。
空爆主義者は、「誤爆は減少傾向にある」と、これからも云いつづけるだろう。では次回の空爆では民間人は無事だろうか、と思いきや
(満員の)
バスが撃破されたりするであろう。そうやって「希望的」観測は、打ち砕かれつづけるのかもしれない。
まず疑うことだ。疑わないから、政治家も知識人も、すぐ「図にお乗りになられる」のであろう。
(これらは、謂わば「良心」をもって、いま語っておくべき「土嚢」である)
20「憲法第九条」のどこに反対なのか。 投稿者:鈴木淑郎
投稿日:10月27日(土)20時06分25秒
捧さんは、「憲法第九条」を改定したがっておられますが、あなたは本当に全ての国が兵器を持って構えている状態がいいのですか。
せっかく「憲法第九条」があり、そこに「戦争放棄・武力不保持・国の交戦権否認」と明記されているのだから、その言葉どおりに非武装国家にすればいいじゃあないですか。
そういう国があると周囲の国が侵略したがるから危険だと本気で思っているのですか。やすいさんも危険だと思っているようですね。
でも非武装国を侵略する方が、武装国になにかと難癖をつけて侵略する方が、やりやすいとも考えられます。より危険という根拠は少しも明確じゃありません。
私の考えでは、最終兵器を持った国同士がいつまでもにらみ合っている方がはるかに危険だと思います。非武装国は侵略される可能性はあっても、侵略する可能性はゼロです。侵略されても戦闘行為は起こりません。安全じゃないですか。
捧さんは国民の支持がないから非武装は、非現実的だといわれるのですか。
最初からみんなに支持される意見はありません。特に軍事など安全保障に関わることですから、世界史的に画期的な提案はなかなか支持されないものです。
それでも、国内的には市民が刀や鉄砲を持つことはなくなりました。まだアメリカのような野蛮国では、多くの人がピストルを持っているようですが。それでもアメリカ市民の中には他人が持っていても平気で丸腰で暮らしている人も沢山いるじゃないですか。
捧さんがかたくなに答えないことなのですが、現在のように最終兵器が開発され保有されている段階では、いったん戦争になれば人類の破滅につながりかねないということです。一日でも早く全面軍縮への交渉を再開し、一国でも多くの国が率先して武器を放棄すべきだとは思われないのですか。私は不思議でなりません。一度まともにお答え願います。
21訂正 投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月27日(土)20時11分43秒
「でも非武装国を侵略する方が、」を「でも非武装国を侵略するよりもが、」に訂正願います。
22訂正 投稿者:やすいゆたか 投稿日:10月27日(土)20時25分58秒
鈴木さんの訂正を訂正します。これでいいですね。
「でも非武装国を侵略するよりもが、」を「でも非武装国を侵略するよりも、」
一言コメント、非武装国の方が安全というのは、あなたは主観的に確信されているかもしれないけれど、平和な国を野蛮で侵略的な国が踏みにじるということは歴史的には、よくありました。
インドのマウリア朝はアショーカ王の仏教による平和国家づくりが成功していましたが、後にクシャーナ朝にに侵略されます。特にカニシカ王は非武装の仏教徒を一億人以上(オーバーでしょうが)殺戮したといわれています。その結果、カニシカ王も仏教徒の怨霊に悩まされ、それを慰めるためにはじめて仏像が造られたといわれます。
23やすいさんへ、捧さんへ 投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月27日(土)22時18分42秒
訂正ありがとうございます。それにコメントもありがとう。
古代の話を例に出されるのは参考にはなりますが、現在においてはどうでしょう。たとえば韓国や北朝鮮が非武装国の日本を占領できるでしょうか。
あるいはソ連や中国がアメリカ軍が引上げた後の非武装国日本を絶好のチャンスとばかり侵略したでしょうか。私はそういう仮定はあまり現実味はないと思います。ましてや非武装国に侵攻してホロコーストを行うなんてできなかったと思います。
私の仮定を甘いと捧さんは思われるのでしょうが、私は、最終兵器の時代にいつまでも各国が武器をもってにらみ合っている方が、はるかに危険だと思うのです。捧さん、どう思われますか。
24「短絡的な考え方」 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月27日(土)22時27分40秒
>捧さんは、「憲法第九条」を改定したがっておられますが、あなたは本当に全ての国が>兵器を持って構えている状態がいいのですか。
わたしも「全ての国が兵器を持って構えている状態」は、イイとは思いません。しかし、だからといって「それゆえ、どの国も兵器を保有すべきではない」と考えることは、「短絡(たんらく)」的というか、飛躍というか、いろいろ考える手続を抜きにしていると思います。
問題は、現実の「全ての国が兵器を持って構えている状態」がどうして存在しているのか、ということでしょう。どうして存在しているかというと、国家間に対立が存在するからでしょう。対立、紛争、そして武力の行使、戦争が実際に存在している、あるいはその可能性があるということです。だからほとんどの国家が、武装しているわけです。
したがって、国際レヴェルでの対立構造を除去すること、このこと抜きに、いきなり「兵器を捨てましょう」「非武装にしましょう」と宣伝、説得しても、効果はないでしょう。そういうわけで、鈴木さんがおっしゃることは「短絡的だ」と言っているのです。
「武器があるから戦争になる、だから非武装化したら戦争がなくなる」という考え方は、は、大変一面的なものの考え方だと思うんです。「国家間に対立があるから、そこから場合によっては戦争の可能性が出てくる、だから戦争に備えて武器、兵器、戦力を必要としている」ということをよく認識する必要があります。
国家と国家の対立という「関係性」があって、それが兵器、武器という「目に見えるモノ」の形をとっているわけです。大切なのは、前者の変革に取り組むことです。後者にも対処する必要がありますが、前者を無視して、後者だけに関心を集中するのは、おかしいと思うんですけれども。
どの国も兵器を必要としない、そういう状態が望ましいわけですが、もちろん一気にそれができるわけではない。まず現に存在している戦争、戦争の危険がある地域に取り組むことが大切ですね。戦争の可能性がない国家間、地域ではすでに国境になんらの軍事施設が置かれてないところもあります。一気に「非武装」と言ってしまえば、それこそ「空理空論」扱いですヨ。具体的なケースについて、紛争解決、安定化、未然防止、軍備管理、信頼醸成措置、軍縮などに具体的に取り組むべきでしょう。
しかし、地域、世界の平和に向かっての戦略も不可欠です。これには国際協力が必要であることはいうまでもありません。どの国も、自国の平和にのみに関心を集中するのではなく、積極的に世界のあらゆる地域での紛争の解決に貢献すべきだと思います。
ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えれば「お浄土」へ行けるかも知れません。しかし、念仏のように、ただひたすら「非武装」「護憲」を唱えたとしても、「平和な世界」はやってきません。「南無阿弥陀仏」はココロに安心と満足を与えてくれるでしょう。しかし、「非武装」を唱え、「護憲」を唱えても、それを唱える人のココロには満足をもたらしてくれるとしても、そのことが現実の紛争の除去や解決役立つわけではないし、ヨリましな国際社会の実現に貢献するわけでもありえません。
それから前にも書きましたが、現在起きている武力衝突、紛争の過半数は、国家と国家のあいだでではなく、国家の内部の「内戦」なんです。旧ユーゴスラヴィアでも、アフガンでもそうでした。これらの諸国では、「国家」が解体したことが紛争の原因になっているわけです。だから、この場合は、国家の「非武装化」はなんら問題の解決にはなりません。この種の諸国では、むしろ、国家に武器(暴力手段)を集中させ、民間レヴェルでの武器の拡散をなくすことが必要になってきます。
『現代新国語辞典』(学習研究社)から引用させていただきます。
たん-らく【短絡】《名・自他サ》・電気回路のショート。
・物事を・正常な(論理的な)すじみちをたどらず、簡略なやり方で結びつけること。「―的な考え方」
25 「イイとは思わない」で済みますか 投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月27日(土)23時03分50秒
国内に深刻な対立があっても、日本では内戦になっていません。今後ともならないでしょう。それは国民が武装していないし、民主主義がまがりなりにも確立しているからです。
国同士も戦争にならないようにするには、どうすればよいかということです。
その場合に私が言っているのは、国どうしが喧嘩になった場合、げんこつで殴りあうのでなく、最終兵器を持つような時代に入ったら、これはいいかげんに武器を持たないで、国際紛争を解決するルールをつくらないとやばいと思うのが当然でしょう。
それで「憲法第九条」を造ったのではなかったでしょうか。それなのにそれを歪めたり、反故にしたりするのはよくないことだとは思われませんか。
確かに外交や軍事に携わっている当事者が、相手国が武装しているのに、こちらが一方的に武器を捨てるのは躊躇するかもしれません。しかし武器を持って対峙しあうことは、最終兵器の時代にはそれ自体大変恐ろしいことなのです。
「イイとは思わない」では済まされない、危機的なことなのです。感覚が麻痺しているだけではないのですか。
しかしここらで武器を捨てるべきだという認識をもった全人類的立場で物を考えられる人々が、自らの属する国民国家や全世界の国々に武器を捨てるように呼びかけ、運動するのがどうして「短絡的」なのか全く分かりません。
日本は自衛隊を派遣する代わりに、自衛隊を建設隊に改めて、パレスチナ自治区に派遣し、インフラ整備をし、民間会社が資本投下をした方が、豊かなパレスチナ国家ができて、テロの口実がなくなり、平和になるのではないでしょうか。
26日本だけでなく世界を見よ、虚構世界から出よ 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月27日(土)23時24分31秒
>>鈴木さんへ
>古代の話を例に出されるのは参考にはなりますが、現在においてはどうでしょう。たとえば韓国や北朝鮮が非武装国の日本を占領できるでしょうか。
>あるいはソ連や中国がアメリカ軍が引上げた後の非武装国日本を絶好のチャンスとばか
>り侵略したでしょうか。私はそういう仮定はあまり現実味はないと思います。
日本のことばかりですが、世界に目を開き、平和について考えて欲しいと思います。
たとえば、北朝鮮と対立している韓国です。そして、インドと対立するパキスタンです。国同士も戦争にならないようにするには、どうすればよいかということです。その場合に私が言っているのは、国どうしが喧嘩になった場合、げんこつで殴りあうのでなく、最終兵器を持つような時代に入ったら、これはいいかげんに武器を持たないで、国際紛争を解決するルールをつくらないとやばいと思うのが当然でしょう。それで「憲法第九条」を造ったのではなかったでしょうか。それなのにそれを歪めたり、反故にしたりするのはよくないことだとは思われませんか。>
「それで」「造った」のではありません。何か、鈴木さんは、「虚構世界」のなかで思考しておられる。「実在世界」で思考していただきたいですね。
「憲法第九条」は、アメリカによる占領中にできました。アメリカ政府の「初期対日方針」に日本が再び米国にとっての脅威にならないようにすることが占領政策の基本になっていたわけで、「ポツダム宣言」とこの「方針」の枠内でマッカサーが広範な自由裁量を行使して、この憲法もできたわけです。
日本を軍事的に無力化するのが目的だったんです。アメリカの脅威にならないように。天皇制を残すかわりに、つまり危険な可能性を秘めた天皇制は残してやるが、その代わりに、非武装にする「バーター」説を唱える研究者もいます。
27『日本国憲法』を作ったのは日本国民です。 投稿者:鈴木淑郎 投稿日:10月27日(土)23時46分21秒
歴史認識の方法が違うのでしょうか。憲法制定のかけひきばかり見られて、そこに日本国憲法の本質を見るのは「占領憲法」論をとっていた右翼思想家たちです。
憲法は日本の帝国議会で審議され、圧倒的な国民の支持の下に成立したものです。その時、国民的な議論が起こり、日本国の政府も国民もこぞって(たしかに共産党は反対しました)、非武装の憲法を歓迎したのです。
そこに国民の決意も主体性もなく、ただアメリカの日本弱体化の意志しか見られないのは、実にひねくれた歴史認識です。まったく可哀想なくらいです。
その後の解釈改憲や日米安保体制での再軍備は、かなり国民の意志や主体性を無視したもので、国民の真剣な討論がきちんと積み上げられたものとは言えなかったかもしれません。とはいえ民主主義のルールのもとで、結局多数の国民が、戦後の決意を忘れて、あるいはひるがえして再軍備を認めてしまったことも事実です。
28虚構・実在・念仏 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月27日(土)23時51分56秒
前回、前々回のわたしの投稿に補足します。いずれも『現代新国語辞典』(学習研究社)からです。
きょ-こう【虚構】
・事実ではないことを事実のようにしくむこと。つくりごと。「―の世界」。
・(fiction)文芸作品を作者が想像によって組み立てること。また、そのもの。仮構。フィクション
じつ-ざい【実在】
《名・自サ》・〔想像や幻ではなく〕実際に存在すること。「その人物は―した」
ねん-ぶつ【念仏】
《名・自サ》仏の姿や恵みを心に思い浮かべて、口で仏の名号ミヨウゴウを唱えること。特に、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えること。また、その唱え文句。・念誦ネンジユ・ネンズ。
ところで、わたしは、日本仏教の弱点の一つは、「世界」認識の欠落にあるということをある仏教書で読んだことがあります。
29なぜ、辻元清美はタリバンによる人権侵害に触れないのか。 投稿者:捧 堅二 投稿日:10月28日(日)00時17分13秒
辻元清美さんが、昨日の「ニュース23」に出演していました。
残念なことがあります。自衛隊を出すなと言うわけですね。
それはそれでいいとして、ビン・ラディンへの言及は一度だけなんです。
そしてアフガンにおけるタリバンの抑圧的支配には一言も触れないんですね。
タリバンにはまったく触れていなかった。
わたしは、ヒョッとすると、社民党の人びとにとっては、本当は、アメリカにおける国際テロも、アフガンにおける人権侵害もどうでもイイのであって、関心は完全に内向きであって、護憲だけということでないのかな、と思ってしまいました。
もちろん、短時間のテレビ・スタジオでの発言からの判断ですけれども。辻元さんは、土井さんはだいぶ違うはずで、天皇制否定ということもいっている(でも「護憲」)。ヨーロッパの新しい社会民主主義の動向も勉強しておられる。
もう少し、注意深く、この人を見つめたいと思います。
30大工モハマド・バリアリさん(28)=チャマンにいた難民、カンダハル出身。 投稿者:rinri
投稿日:10月28日(日)03時51分52秒
「爆撃で家が4軒吹っ飛んで10人くらいが死んだ。体が細かくちぎれてしまったから全部一緒にひつぎに入れるしかなかった」