羽曳野に羽曳く鳥はまぼろしかビルに埋まれり白鳥の湖
『古事記』によりますとヤマトタケルは、三重の能煩野で斃れ、そこで墓に葬られましたが、白鳥になって飛び立ち、海沿いに飛鳥ではなく河内に向かったとい
われています。
とすれば大鳥神社のあたりに降りて、そこから河内の志紀に向かったようです。いったんそこで墓に収まりましたが、また飛び立って、羽曳野の丘を低く飛び、河内葛城に向かったと想像でき
ます。これは大和琴弾原から河内に抜けた『日本書紀』とは逆ですが、それは別に検討しましょう。
兵士が遠く戦地で斃れると、白鳥になって舞い戻るという伝承が河内にはあったのではないでしょうか、それがこのヤマトタケル伝承のベースになっていると考えられ
ますね。
谷川健一の『白鳥伝説』には、物部氏は白鳥の末裔だという伝承が載っているらしいのです。それなら河内物部氏の戦士たちは戦地から霊が白鳥になって舞い戻ってくると信仰していた可能性が強い
ですね。
早速『白鳥伝説』にあたってみました。残念ながらその伝説は河内ではなくて、琵琶湖の余呉の伝説らしい
のです。それでも河内に白鳥が飛んでいたとしたら、河内に戦士の霊が白鳥になって舞い戻るという信仰があったといえるはずですね。 幸い大阪平野には昔河内湖がありました。そこへ大和川が四本に分かれて注いでいた
のです。だから広大な湿地があったはずです。そこにはいろんな鳥がいたはずです。百舌鳥や鵜などは古墳や大王の名前に使われています。白鳥も生息していてもおかしくない
のです。
しかし白鳥の南限は現在千葉だよという疑問の声があるかもしれません、でも昔は琵琶湖にもいたわけです。それなら河内湖周辺に生息していたとしてもおかしくは
ありません。でもそれをどうしたら実証できるのでしょう。
どうも河内湖に白鳥が生息していたという記録は文学作品には見当たりません。でも藤井寺市の津堂城山古墳出土の水鳥形埴輪があ
ります、それは頸が長いのでアヒルではなく、どう見ても白鳥と思われます。
大阪市立自然史博物館に問い合わせ
ましたが、縄文や弥生などの遺跡から白鳥の骨は出ていないので、生息していたという確たる証拠は残っていないということです。骨が出ていないということは白鳥が居なかった証拠ではありません。白鳥を食べなかった証拠です。弥生時代には既に霊鳥だったから食べなかったことは納得できますが、縄文時代でも白鳥は食べなかったのでしょうか、霊鳥信仰ははたして縄文時代にまでさかのぼれるのでしょうか。
白鳥が夏を過ごすシベリアでも白鳥は霊鳥で狩猟はずっと禁じられているらしいのです。アイヌや東北の蝦夷も自分が身代わりになっても白鳥を守るという話しです。霊が鳥になるという発想は霊を精神的実体として二元論的に捉えていないことですから、もっとも初源的な霊信仰ではないでしょうか。だとすれば縄文人にも遡れる可能性は強いですね。
幸い紀州の和泉の境にも白鳥伝説があるといわれています。なんと琉球にまで白鳥伝説があるのです。だから南限にこだわる必要は全くなかったのです。やはり河内湖に白鳥が生息していた蓋然性はかなり高いようです。
果たして羽曳野の丘を羽をひいて飛んだ白鳥は幻なのでしょうか、河内湖は白鳥の湖ではなかったの
でしょうか、否定する証拠はありませんが、それを裏付ける確たる証拠もないのです。
でも広大な湿地が広がり様々な鳥たちが群生した河内の空に、白鳥になって舞戻る戦士たちをイメージするとき、哀しみが空一杯に広がるのを覚えるのです。
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