宗教のときめき

22. アンパンマンとキリスト教
やすい ゆたか
 アンパンマンなんのために生まれしか命を与え蘇るため


 

 テレビアニメ、「それゆけ、アンパンマン」が相変わらず幼児の人気を集めている。私の孫娘はちょうど四歳なのでアンパンマンを毎日繰り返し見て、感動している。そして「何のために生まれて、何をして生きるのか、こたえられないなんて、そんなのはいやだ」と倫理学の根本的問いかけの 「アンパンマンのマーチ」の歌詞を大声で歌っている。

 アンパンマンははじめ絵本で登場したのだが、それは砂漠を行く飢えた旅人のところに現れて、自分の頭を食べさせるもので、大人たちはあまりにグロテスクだと顔をそむけた。かなり顰蹙をかったらしい。それでも子供たちにはかえって受けて、続編が描かれ、増刷されているうちにテレビアニメに登場し、大人気になった。

 アンパンマンの自己犠牲的な勇気に感動したソフトボールの上野投手は二日間で六百球を投げ、手の指が剥けて痛々しい姿になりながらも、金メダルに貢献した。

 作者やなせは、敗戦体験でこれまでの正義がいとも簡単に覆って、新しい正義に乗り換えるのを見て、そういうイデオロギー的な正義は信じられないという。そして飢えたものにパンを与えることにこそ普遍的な正義があるという。

 飢えた者にパンを与えるという正義を貫こうとすれば、自らの食べるものを減らしたり、極端に言えば、自らの体を与えるような厳しい自己犠牲すら伴う覚悟が要るという。そのようなヒーローを目標にしたときに、生きる目的や生きる喜びが感じられるのだということらしい。

 アンパンマンの自己犠牲的精神をやなせの弟が22歳で特攻隊で散ったことと結びつける解釈もあるが、それだけではあるまい。彼がクリスチャンであることと深くつながっているのである。

 イエスは自分を「命のパン」「まことの食材」だと規定した。「人の子(メシアつまり救世主のこと)の肉を食べ、血を飲む人を私は終わりの日に蘇らせる」と約束したのである。

 キリスト教会の礼拝のことを聖餐式という。それは主イエスの肉を食べ、血を飲む儀式である。教会は地上におけるイエス・キリストの体とされ、そこで聖化されたパンはイエスの肉であり、ワインはイエスの血だとされている。こうして信徒はイエスの肉を食べ、血を飲むことで、イエスの体と合一して、永遠の命に連なるとされている。

 アンパンマンは食べられてなくなってしまう。でもそれは頭だけで、新しい頭がつけられるから平気だよと受け止められているかもしれない。やなせは自分の体を食べさせるということは、それはとても激しい自己犠牲だと言っている。古い頭はさっさと食べてもらって、新しい頭にリフレッシュするのは快感だと誤解してはいけない。

 アンパンマンの頭全体がアンパンであり、アンパンマンの全てなのだ。つまり自分の命を与え、いったん死んで、その自己犠牲が聖なるものとされて復活したのが新しい頭であり、実は復活したアンパンマンなのである。

 だからアンパンを聖餐した人も、アンパンマンのように生きるならば、アンパンマンに合一して、自分の命を捧げつくして生きなければならない。そのことによってのみ永遠の命に連なり、復活することができるということである。

 復活という場合、イエス=アンパンマンと合一して大いなる命に還ったわけだから、命を与えられた人の中にイエス=アンパンマンが生きることが復活なのである。つまり私たちが命という勇気の種をもらって生きていることが、イエスの復活であり、アンパンマンの復活なのである。

 もちろん命を与えるということで短絡的に自分の命を軽く扱ってはならない。命を与えるとは生きる力を与えることである。つまり料理を作って食べさせるということである。パンを与えることだ。それは狭い意味のパンを与えることに限らない。より良く生きるためのものを作って与えたり、生きる知恵を与えてもいい。そうして人々と命がつながるのである。

 その際、人の身体だけに命は限られていない、パンも服も、住む家も水も空気も太陽も我々の命を構成しているのである。
 

http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/so/anpan/anpanmannomarch.html
主題歌アンパンマンのマーチは上のサイトに歌詞があります。