宗教のときめき

 九.遊びをせむとや生まれけむ
やすい ゆたか
 哀しくてはかなきことのみ多けれど歌に謳えば愉しみもあり

         遊びをせんとや〜梁塵秘抄

 キルケゴールはそのために生き、そのために死ねるようなイデーを求めて苦悩したようですね。私も理想社会を実現するために生きるべきだという考え方を持っています。でもそれだけで生きているかと言いますと、実はそうではないのです。

 毎日の生活を維持するためにあくせくしているのが実情です。なまじっか理想の実現などを目指していますと、その手前、あまり浅ましいこともできません。いろいろ見栄を張ったりしなければならないので、かえってへたくそな生き方になってしまいます。人生設計もうまくいかず、失敗の連続で、再チャレンジ組にまわされることが多いようです。

 せっかくいろんな知識を学んでいますので、いろいろ知恵を出し、創意工夫すれば、どんな分野で仕事をしてもそこそこ成功を収めて、経済的には余裕のある生活ができるはずだと思いませんか。そういう考えが頭のどこかにあるのです。

 それで無い知恵を絞りながら頑張っているつもりなのですが、自分ではいい線行ってると自負してみても、なかなか華々しい成功をあげるというところまでいきません。

 それではストレスがたまりますよね。ですから、常に逃げ出したいという気持を抱えています。こういう気分は私個人の個性と言うのではなく、実は世間一般の誰でも抱えている心理らしいのです。これが病的になると鬱病に落ち込んでしまいです。そうならないように、気晴らしをするわけです。
 
 パスカルは気晴らしについて書いています。息子に先立たれて悲嘆にくれ、今にも死にそうにしていた父親が、そこにゴムマリみたいなものが飛んできたら、途端にキャッチボールに興じはじめ明るく時間を忘れていたというのです。

 感覚的でリズミカルな変化を楽しめたりしますと、気がまぎれたり、うれしく感じたり、きれいだなと思ったり、ちょっとした興奮や驚きがあるのです。

 トランプでもストレートやフラッシュといって、順番に並んだり、同じのが集まるとうれしくなります。テトリスというゲームがあって、横一列に並ぶとうれしくなりますね。それがパッと消える。あれは、消えるから面白いのです。花火でも消えるから印象に残ります。

 そういう美意識があるのでしょうね、並んだり、並んだら消えると美しく感じる。またコントラストが大切ですね。大と小、丸と四角とか、凸と凹などの対極的な形が向き合ったりすると視覚が刺激されます。

 そういう対極的なもの同士というのは、作用し合うもので、反発しあったり、合体したりしますね。そういうダイナミズムが楽しいものです。エロチシズムの美学とも関係ありそうです。

 こういう感覚的な悦びというものは、理想や価値とどうかかわっているのでしょう。人生の意味を構成しているのでしょうか。たんなる逃避や気晴らしにすぎないので、それ自体無意味なことでしょうか。

 それが案外そうではないのです。実際、音楽や美術などはそういう感覚的な美が重要なテーマですね。他人をこういう悦楽に誘うことができたら、無上の喜びだ、それが私の人生の最大の目的だと言う人もいるのです。

 後白河法皇が編纂したと言われる『梁塵秘抄』には

「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」359

とあります。人生の重荷を沢山抱えて生きているのですが、そんなことは忘れて、子供のように無邪気に遊び呆けていられたらということでしょうか。この歌は次の歌を受けているような気がします。

「君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は」343

 この歌は、あなたが好きだった、きらびやかな美しい理想を見失って、それを探している間に夜が明けてしまって、恋の悦びを感じる間もなく年老いてしまったということでしょう。

 綾藺笠は後白河法皇にとっては、朝廷文化、貴族文化の象徴かもしれませんね、それが戦乱が打ち続き、平氏や源氏などの武家が台頭して、賀茂川の流れに夜陰にまぎれて流されてしまったわけです。

 必死で回復しようとしてあがいているうちに年老いてしまったということでしょう。でも朝廷文化、貴族文化がきらびやかで美しいと思えるのは、実は衰退し、滅んでいきつつあったからではないでしょうか。

 『梁塵秘抄』は後白河法皇が編纂したとはいえ、実は庶民の歌謡である今様集でした。彼は歌いすぎて喉をつぶしたそうですよ。庶民は仏教的無常観から、時代の流れの中で、衰退していく貴族文化のきらびやかなものを追い求めても虚しいのだと諭しているのです。そして我を忘れて、時の流れに身を任せ、童の無邪気さに戯れることに本当の生きる意味があることを謳い上げているわけですね。

 後白河法皇は、仏教的無常観にひたり、自らの時代への抵抗を覚めた目で見ながら、没落と戯れるしたたかさをもっていたので、源頼朝からは「日本国第一の大天狗」と警戒されるほどの生き様を示せたのかもしれません。

 遊びを仕事と対極に置き、無目的な気晴らし行動に限定しますと、かえって遊びは仕事からの逃避でしかないという意味で、仕事に囚われてしまって、存分に遊びの醍醐味を味わえないかもしれませんね。逃避そのものに精神衛生上の効果はあるにしてもね。

 むしろどんな真剣な仕事や戦闘の最中にあってさえ、五感を全開にして、どんな感覚的な悦楽があるのか、どんな息詰まるドラマティック展開があるのか、痺れるほど体感してやろうという遊び心を持っているの奴が、自分自身にとっても周りの人間にとっても面白い人間ではないでしょうか。仕事の中で気晴らしができたら最高ですね。

 またたとえ哀しくてはかないことが続いても、それを歌や物語りに昇華したり、祈りを込めて仕事に打ち込んだりすれば、素晴らしいものが生まれたりしてそこに人生の悦びがめぐってくるものらしいです。

 命を燃やし尽くして生きる生き方というのは、そういう人生を真剣に遊び愉しめる生き方ですね。そういう人は、小さなエゴにとらわれることなく、コスモス全体の命をエナジーにして輝くのです。そういう生き方こそ、最も宗教的な生き方なのでしょうね。