宗教のときめき

8.ありがとう
やすい ゆたか
 ありがとうその一言で微笑もれていのち潤う砂漠の街に

       

  私は母が大好きでした。私は四人兄弟姉妹の末っ子で、甘えん坊で育ったこともありますが、母は家族にだけではなく、教師として教え子にも親身になって愛情を注ぐタイプだったと思います。それには「愛子」という名前も関係しているのです。祖父も「愛三郎」で私の娘も母にあやかって「愛」という名前です。

 私の曽祖父がキリスト教に改宗して、熱心なクリスチャンだったことが関係しているようです。もっとも私自身はイエスという人間には愛着があるものの、キリスト教には距離をおいていますが。

 それはさておき、私は母に対してひとつだけ道徳的に批判をもっています。それは母に連れられてお店で物を買った時に、「ありがとう」と言うと、後で母が「お金を払っているのだから、ありがとうは言わなくてもいいのよ」と言ったことです。私は「そうかな」と一応納得して、それからお店で物を買ったり、タクシーやバスを利用したときでも「ありがとう」とは言わなくなりました。

 でも他人の行動を観察していますと「ありがとう」とか、丁寧に「ありがとうございます」と言っている人もいるわけですね。そしてそう言った人の方が、言わない人よりもさわやかで、微笑が洩れている気がするのです。感覚的に言って「ありがとう」と言った方が好感が持てるわけです。

 確かに商品社会ですから、商品やサービスに対しては貨幣で交換しているわけです。母は、商品関係を外れたところで愛情を示されたときに「ありがとう」と言わなければ、礼に背くし、愛情がないと感じていたようです。

 家庭や学校や地域社会において、互いに助け合ったり、世話を焼いたりしていますね。それは商品関係ではないので、当然報酬を求めない無私の愛情で接し、それに対して「ありがとう」で返すわけです。この母の論理は確かに一貫性がありますね。でもどこか冷たいところがあります。

 母にすれば商品関係に愛情関係を持ち込むと、逆に愛情関係にも商品関係の損得勘定が混入すると思っていたのかもしれません。商品関係をドライにすることで、それ以外の人間関係をウエットに保つことができるという受け止め方です。

 父は小学校の教師で母は中学校の教師でした。両親ともわりと近所の学校で教えていたのです。特に母は地元の学校で教えていましたから、教え子が頻繁に家庭に出入りして、相談に乗ったりしていました。学校の仕事を家でも遅くまでしていましたが、それに不満がましいことは一切言いませんでした。もし教師という仕事を商品関係で割り切っていますと、 「ただ働きばかりさせられて」と愚痴るところです。

 ですから母は、教師の給料は労働の対価ではなく、あくまでも生活給だと捉えていたのです。もちろん教師は大概そう捉えているはずです。もし労働の対価なら、教師に教わっても生徒は礼を言う必要はなく、教師も知識の切り売りに徹すればよいことになります。それでは人間教育というのは成立しません。

 でも何か納得いかないでしょう。つまり家庭や学校を商品関係ではないから、真心と感謝の関係として捉えることで、商品関係の社会を品物と貨幣の関係と割り切ってしまって、そこに真心や感謝が入らないようにしてしまっているような気がしますね。

 商品売買の関係だと、売る側は「ありがとう」というのは当然だと思われています。買ってもらってありがたいからです。買ってもらえなければ、その日の暮らしも成り立たないわけですからね。そこで三波春夫よろしく「お客様は神様です」となるわけです。

でもよく考えますと、買う側も売ってもらえなければ、困りますね。その日の生活も成り立ちません。それに商品とその対価は等しい価値ですので、何も売る側だけが感謝すべきいわれはありません。つまり客が「ありがとう」と言わないでいいのなら、士族商法みたいですが、売る側も「ありがとうございます」と言う必要はないわけです。

 ただ売る側は「ありがとうございます」と言うことで、客のご機嫌を取って、売れ行きをよくしているわけで、礼を言う動機は感謝よりも儲けにあるわけです。もし客の方も「ありがとうございます」と言ってまけてもらえるなら、喜んで「ありがとうございます」と言うでしょう。でも実際は客は礼を言ったからと言ってまけてもらえないものですから、言う必要を感じない人も多いわけです。

 では実際客の側から「ありがとう」と言う場合はどんな場合でしょう。いい物が手に入ったり、いいサービスが受けられたりすると気分がいいもので、それを提供してくれた売り手に感謝したくなります。自分のために商品を調達し、サービスを提供してくれたからです。そのお礼に貨幣を提供したわけですが、貨幣が等価なのは、その品物やサービスと等価なわけですね。それを提供してくれた人とのつながりに対しては、また別なのです。その売り手に対して、人格と人格としての挨拶がお互いの「ありがとう」ではないでしょうか。

 商品交換という形式に覆われていますが、必要な物資を調達し、それらを材料によい品物を作り出し、サービスを提供しあうという関係で、我々は命のつながりを保っているわけです。その意味で商品関係は人間関係でもあるわけですね。当然そこには互いに助け合い支え合っている関係があります。それを貨幣を使うことによって、見忘れてしまいがちになります。

 「ありがとう」と客から言われたときに商品やサービスを提供した人は、苦労が報われた気持になりますし、それが生きる支えになるのです。決して家庭や学校という非商品関係だけが真心と感謝の関係ではないということですね。
 カントの言い方を借りますと、「ありがとう」は「手段の王国」を同時に「目的の王国」にもしてくれるという意味で、命の交流という人間関係の原点に立ち戻らせてくれる宗教的な言葉なのです。