宗教のときめき

10.恵林寺本尊仏焚火事件
やすい ゆたか
 御仏に舎利がなければただの薪、焼べて暖とるそは如かざるや

         

  私は別に仏教徒ではなかったのですが、仏像には大変惹かれます。特に好きなのは、大原三千院の往生極楽院 阿弥陀三尊像です。立命館大学の日本史学専攻の学生だった頃、専攻の仲間と研究会の合宿が大原でありまして、三千院見学をするのですが、私だけは往生極楽院で一時間ぐらい篭って出てこないのです。

天井が船型になっていて、ごく狭い空間に大きな阿弥陀仏と脇侍の勢至菩薩と観世音菩薩が居られて、仏の慈悲で満たされているわけです。両菩薩は膝を曲げて、いかにも浄土から雲に乗って到着されたばかりの姿勢なのです。その膝をなぜるとすべすべで気持いいんですよね。まさに文字通り「極楽」です。これ以上の聖なる空間(トポス)は考えられませんね。

待てよ、そこが極楽なのは阿弥陀信仰を受け入れているからであって、私は別に阿弥陀仏など信仰していないわけですから、そんなに喜ぶのは可笑しいじゃないかと思われるかもしれません。

そこが感情移入ということでしょうね。阿弥陀信仰の空間の中にあっては、阿弥陀信仰の人々の想いが伝わってきて、いつの間にか、仏の慈悲に満たされて、法悦を存分に味わってしまえるわけです。それは私のセンスかもしれません。だって他の学友たちは長くても五分かそこらで、十分見たつもりででていくわけですから。美術的に美しいという感動はもっても、法悦までは感じられないわけです。

極端に鈍感な人は仏像なんてただの木切れではないか、そんなのを崇拝するのは仏に対する冒涜ではないかという反応をします。特に唯一絶対の超越神信仰の立場からは、神像や仏像などの偶像崇拝は、神への冒涜の極みであり、神の怒りに触れて滅ぼされて当然だということになります。

実際に、出エジプトの時代に唯一絶対の超越神信仰が確立し、自然神信仰や偶像崇拝をしている異民族を皆殺しにして、その土地を奪ってもよいということになったとも、考えられています。現在のパレスチナであるカナン侵攻に都合のいい教義だったのです。

たしかに神が唯一絶対であれば、それは相対的な事物の姿をとることはできないというのは論理一貫していますね。そこから自然の山や川や雷、大地を神と崇めたり、動植物を神に指定したり、土や金属や木材に神を象ったりするのは神に対する冒涜だという教義も成り立ちます。そういう信仰を持って、自然神信仰や偶像崇拝を批判するのはいいでしょう。大いに批判すべきです。

でも自然や動植物を神と崇めたり、神や仏の像を作るのはそれなりの信仰上の理由があるのですから、その理由も吟味せずに自分たちの理論が絶対に正しいと信じ込んで、神殿や偶像を破壊したり、その民を皆殺しにするのは恐ろしいことですね。

カナン侵攻でカナン人をほとんど皆殺しにしたと『バイブル』にはありますが、イスラエルの考古学者は、歴史的事実としてはそういう大虐殺の証拠はないとしています。宗教的教義としては、ホロコーストは否定していないのですが、歴史的事実としては否定したいのかもしれません。

物塊を神仏とする偶像崇拝ほど倒錯の極みはないというわけで、偶像を破壊した説話は痛快な啓蒙譚としてもてはやされています。『自由からの逃走』で有名なユダヤ人社会心理学者エーリッヒ・フロムは『精神分析と宗教』で鈴木大拙の法話を吾意を得たりと紹介しているのです。

〔唐代に丹霞禅師が都の恵林寺を訪れた。寒い日だったので、彼は「薪に丁度よい」と本尊の仏像で焚き火をして暖を取ったのだ。恵林寺の院主が見つけてぶったまげた。「御本尊は寺の生命だ。焼くとはどういうつもりだ!」と怒鳴ったが、丹霞禅師はそれには応えず、灰を掻き回した。そして言うことに「舎利(骨)を取りたいんだが、見つからんな。」院主は「木仏に舎利など無い。」と呆れた。そこで丹霞禅師は平然と「舎利もないような仏ならば、残った二つの脇侍も焼いてしまおう。」と言ったのだ。さてどちらに仏罰が下ったか。丹霞禅師のうわべの不信心を詰った院主の両眉が落ちてしまった。だが丹霞禅師には一切仏罰は当たらなかったそうだ。〕

舎利がつまり生命がないのなら、ただの木切れじゃないか。まがいものなど燃やしてしまえという理窟です。迷信は暴力的に否定されて当然と、丹霞禅師の行動を英雄視しているのです。聖体を破壊して他者の信仰を冒涜し、庇つけた事への良心の阿責は全くありません。

素材が木だったことは確かです。燃やせば暖を発し、灰を残したのですから。でも事物を材質(マテリー)でしか捉えないのは、質料主義なのです。本尊仏の材料が何かよりも、何を表現しているのか、あるいは本尊仏を回路にして何が現れ出ているのかの方がはるかに大切な問題の筈ですね。

仏像は素材が木・金属・土・石のどれであれ、素材故に尊いのではありません。素材が表現する仏の姿故に尊いのです。素材の役割はその尊い姿を半永久的に保存するところにあります。生きた獣や人間を直接崇拝する獣神信仰や現人神信仰もありますが、それらには骨はありますが、なにぶん身体的存在なので寿命という限界があります。それが聖なるものとしての永遠性をスポイルするのです。

超越神論者は、絶対者と相対者の絶対的区別に固執します。それで絶対者は絶対的に相対的な事物によっては表現しえないという真理に執着するのです。そうすると神や仏は人間の前に姿を現せなくなってしまいますね。だって人間が見えるのは相対的な事物でしかないのですから。

でも絶対者は相対者の前に現れ、自らを相対者の真理として示さなければならないでしょう。そうして始めて絶対者は、相対者にとって自己に関わってくる救済者になることができるのですから。それに絶対者にその能力を認めないのは、絶対者を無力な者だとする涜神に他ならないのです。

もし絶対者の絶対的力を信じるのでしたら、仏師に法力を与えて自らの形姿を素材に与える位のことは絶対者にとっては、お易い御用の筈ですよね。仏師の有限な能力で、仏の無量の力を表現し尽くすことはとてもできないでしょう。しかし仏師の帰依の心に呼応してその一端を示すこともできなければ、絶対者の威力が発揮できていないわけです。その仏師の信心には切実性が欠けていたのかもしれませんね。

祈りの心が表現されている仏像には、仏の慈悲と仏師の信仰が熱く弾けて、常に仏の生命は仏像に輝き出ているのです。その姿を見ないで素材だけ見て薪にしてしまおうというのが丹霞禅師の感性です。実に枯れ切ったセンスですね。

偶像に神仏が現れ出るということは、すべての相対的な事物、すべての生き物、すべての人間にも絶対者が現れ出る希望を与えます。我々は雨のひと雫が光り輝く刹那に永遠を見る体験をすることだってあると信じたいですね。