宗教のときめき

7.生命をいただきます。
やすい ゆたか
 「いただきます」何気ないその言の葉は命の秘密ひらく言霊

   

      いただきます

 

「『いただきます』と言いなさい。」こうみんな躾られていますね。ではいったい、誰に「いただきます。」なのか?

答えは人様々です。料理人に対する挨拶と受け止めている人もいますし、両親のお陰で食べられるのだから両親に対する感謝の気持を込めて言うものだと思っている人も多いようです。或いは食糧を供給してくれた農漁民への感謝の気持の表現だとも考えられます。いや生産の営みは神の加護によるのだから、神への感謝の気持ちから唱えるのが本当だという信心深い人もいますね。それなら自然の恵みだから、自然への感謝の気持ちこそ大切だとも言えるのです。

もう四十年近く前になりますが、朝日新聞の「小さな目」という子供の投稿詩のコーナーがありまして、このことについての新鮮な解釈が載っていました。「いただきます。」と言って食べるのは、実は「生命をいただきます」という意味なのだ、とその詩は主張していたのです。

 穀物・野菜・果物・魚介類・肉類みんな生命なのです。我々は生命をいただいて、自分の生命を維持しています。だから我々の生命は自然の全体的な生命の小部分なのです。生きるということは実は、他の生物の生命を貰い受け、自分の身体に取り込み、自分の中で生命を燃やして活動することなのです。自分の身体だって日々燃やされ老廃化して償却しているのですから。そしてやがては自然の全体的な生命に溶解してしまいます。

他の生物の生命を奪い、弱肉強食の食物連鎖の中に我々も生きています。自分が手を下して牛や豚を殺していないからといって、肉を食べている以上、同じことなのです。他の生き物からすれば人間ほど恐ろしい獣はいません。

ところが分業や流通のシステムが、凄惨な殺戮の現場から我々の意識を遠ざけてくれています。だから食うことは我々にとって、食欲を満たし、健康を保つための行為としてしか受け止められないのです。それで「生命をいただきます」という発想が出てこないのですね。

自然の動植物の生態からも、狩猟や屠殺・田植えや刈り入れの現場からも切断されて、我々は食物をあたかも自分自身や父母の勤労の成果として見なしています。自然の生命からも自然との生の格闘からも、交換を介することで我々は隔絶されているのです。

 交換はすべての人間の活動を漂白化し一元化します。価値を創出する活動として多様な人間活動をひとしなみに扱うのです。その限りで車のセールスをしている父に「いただきます」と感謝の言葉を発して、米の飯を食べても少しも奇異ではないのです。

 それに刺身を食うのも、へヤースプレーを使うのも、テレビで『風林火山』を娯しむのも価値の消費としては同等に扱われます。また交換はあらゆる人間活動とその成果を抽象化し、結び付けます。それで、人々は無自覚的に社会的分業関係を構成することになる。人々は特殊な一作業を繰り返しているだけで、あらゆる種類の財とサービスにありつくことができるのです。まさに「一にして全」ですね。

ということは一家の大黒柱は一家にあらゆる富をもたらす「全能の神」であるということになります。この幻想に取りつかれているのなら、人類全体の営みを自分自身の営みとして認め、その責任を引き受ける覚悟はあるでしょうか、それはさらさらないようですね。

 「生命をいただいて生きている」ことを知ることは、生命のつながりや人間同士のつながりを思い返すきっかけになります。それは人間存在の秘密を解明する鍵なのです。

 子どもの素直な感性が捉えた人間存在の真実は、我々の感性が、商品関係によって歪んでいることを気付かせてくれます。「いただきます」という言葉の意味を捉え返すことによって、我々は生命の循環に立ち返り、大いなる命に目覚めるきっかけを掴むことができるかもしれません。その意味で「いただきます」という言葉は言霊を持っている宗教的な言葉なのです。