宗教のときめき

4.久子どら焼きと21世紀の宗教改革
やすい ゆたか

 健やかに育てと祈るどら焼きの母の心の宗教改革

   私は、学生時代にフォーリン・ラブしました。それで大学院を受けるために浪人している時期に、無謀にも結婚してしまったのです。なんとか大学院の修士課程を修了したものの、高校の社会科教員の採用資格試験はなかなか通りません。かといって大学から講師の呼び声もかからず、細々と少人数制の学習塾を営んでいたのです。

 幼い子供たちを三人抱えては、うちのワイフは勤めに出ることもできません。それで家計のやりくりは並大抵ではなかったのです。それでも子供たちにひもじい思いをさせまいと、彼女は料理には腕を研き、安くてもおいしく栄養バランスのよいものを食べさせようと心を砕いていたのです。

 なかでも子供たちを喜ばせるにはケーキやどら焼きをお手製で作ってやることが一番でした。買えばかなり高くつくケーキでも家で作れば安くつくし、中途半端が嫌いな彼女は見た目も味もケーキ屋さんに負けないものを作って食べさせていたのです。

                    

   ケーキもどら焼きも甘みを抑えていたので、自宅で開かれていた私たちの経済哲学研究会(後に現代思想研究会に改称)の大人たちにも好評でした。お陰で研究会にもみんなの楽しみができたのか、三〇年近く続いたのです。

娘が成長して連れ合いができましたが、彼の勤めている工場でも「久子どら焼き」は好評でしたので、彼は工場でどら焼き用の「久」の字焼印を作ってくれたのです。でもこれを使いこなせるようにするのは大変で、商売人のようにはいかず、残念ながら使い物にはならなかったのです。

ということで我が家のお土産は「久子どら焼き」が定番になっています。手作りだけど老舗に負けないくらい美味しいし、なにより愛情たっぷりで心が通うのです。それで私も大いに活用させてもらって助かっています。私自身の感謝の気持ちを示すのなら、本来私が焼くべきところですね、残念ながら、なかなか人に出せるようなものは作れるものではありません。

石塚正英氏の紹介で、新日本宗教団体連合会(略称「新宗連」)主催のシンポジウム「よみがえる宗教―新しい役割を探して」のコメント役を仰せつかった。2007年2月26日が開催日でした。その準備会で十年ぶりの上京です。石塚氏への手土産で「久子どら焼き」を持参したら、これが大変評判がよかったのです。実は十年ほど前に石塚氏が我が家に泊まったことがありました。二人の共著『フェティシズム論のブティック』(論創社)の対談収録のためです。その際に牡蠣入りのお好み焼きを食べてもらったのです。彼は、お好み焼きに牡蠣が入っているのに驚かれて、大変喜ばれたのです。それで、そのことを未だに楽しそうに語られるので、どら焼きを持っていけば喜んでもらえると踏んだのが、正解だったのです。

それで次の準備会には全員に食べていただこうという気になりました。どこまでも内助に頼る奴だと情けなく思われるかもしれませんが、まあ四十年近く苦労かけてきたついでというしかないです。「よみがえる宗教―新しい役割を探して」のシンポジウムを成功させる重要な道具立てとして「久子どら焼き」の出番なのです。

どのように祈りの価値を伝えるか、どのように命の大切さを伝えるか、どのように愛を伝えるか、どのように命のつながりを実感させるのか、発題者たち宗教者の苦悩はそこにあると感じました。私は熊野隆規氏(立正佼成会立川教会長)や中江サチ氏(解脱会出版教学部次長)の草稿をそのように読み取ったのです。

どら焼きには子供たちの笑顔を見たいという母の思いが詰まっていますし、健康への願いが籠められています。それは祈りのようなものではないでしょうか。祈りがどら焼きになっているのです。祈りといえば、心の中で定番の呪文を唱えることだけではない筈です。自分の切実な願いを物にして与えることで、祈りの価値も伝わらないでしょうか。

キリスト教の礼拝は「聖餐式」といいます。それはイエスが自分の肉をパンにして、血をワインにして食べさせる儀礼です。イエスが神として崇められているのは、自分の肉と血を捧げ尽くしたからなのです。祈りをこめ、命をこめて食物を与える、そこに命のつながりが生まれ、愛が実感されるのです。それこそ宗教の原点ではないでしょうか。

どら焼きという物に霊性を認めるのは唯物信仰で、精神性の否定でしょうか。私は近代の日本の宗教は西洋の物心二元論、物質性に対する精神性の対置という図式に影響されすぎたと思っています。キリスト教ですら、根本的な命の秘儀においては肉と血に拘るのです。むしろキリスト教の根源は肉と血の共食によって大いなる生命に還帰するところにあります。この抑圧された物に精神性、霊性を見出す立場が元来の日本的霊性なのです。

宗教が命のつながりを取り戻そうとする営みであるとするなら、それは愛の心を形にして、物を生産し、サービスを提供する日常の我々の生業そのものですね。ところが物やサービスが商品化され、取引や相互支配の手段にされ、お互いの心を引き裂き、心と物が引き裂れてしまっているのです。その上で財産として疎外され生気を喪った物に固執するのは、あさましい欲望として蔑まれる事になったのです。むしろ物から離れて、物と対極とされる精神に閉じこもることが精神性として尊ばれて、近代の宗教性が生まれたのではないでしょうか。

もちろん物欲に取り付かれ、自分を喪失しがちな疎外状態にあっては、内的な精神世界を確立することの意味は大きいと言えます。しかし命のつながりを取り戻し、心を通わせるためには、それを物にして与えることが大切なのです。そして物にこそ精神性があることを見出すことが大切なのです。

物部氏は武器を司ると共に神を祭っていました。物はそのまま、魂であり霊だったのです。山は山として神であり、ヤマトタケルがオオハクチョウとして天翔けたとき、オオハクチョウという鳥の肉体と別に霊があったわけではありません。オオハクチョウがヤマトタケルの霊なのです。つまり物心二元論では元々なかったのです。

我々は疎外された社会の中で、自分の生命の発現を、商品として切り売りし、物の中に自らの精神性を見出すことができなくなっています。だからこそ宗教は、生命の原点にかえって、祈りの原点にかえって、生業の原点を取り戻す場とならなければならないのです。

どら焼きを作って、食べてもらえばいいのです。日本臨済宗は精進料理を作り、お茶を出し、花を生けました。心を籠めて掃除をしてもてなしたのです。そしてそれが修行だといっていましたね。教団や寺院や教会が、生産の原点、教育の原点、創造の原点、もてなしの原点に帰るとき、そこで本来の自分の命に帰って人々は生気を取り戻すのです。その心を家庭や職場や社会での生業に返していけば、宗教の役割は果たせるのではないでしょうか。

本番のシンポジウムでは「久子どら焼き」のお陰で、日本的霊性の意味を少しは伝えられたと思います。哲学者をコメンテーターにしたということで、難しい話だろうと思っていたがとても分かりやすいどら焼きの話で楽しかったという反応がありました。大いに手ごたえを感じた主催者から、懇親会や打ち上げで「二十一世紀こそ宗教の世紀である」とか、「このシンポは二十一世紀の宗教改革の始まりである」という声が挙がったのです。なんと「久子どら焼き」はどうやら現代の宗教改革の火つけ役になったかもしれないのです。