宗教のときめき

2.PLの花火
やすい ゆたか

 聖丘の空一杯の花火から胸にドゥーンと命が響く

                                      

                               大平和祈念塔

 大阪河内平野の富田林市の羽曳野の丘にPL教団の本拠地があります。そこにはまるでアラビアン・ナイトにでも出てきそうな大平和祈念塔が聳えています。パリのエッフェル塔や東京タワーが、いかにも近代工業を象徴する幾何学的な鉄塔という無機質な感じなのに対して、生命がむくむくと盛り上がって塔になったようなたくましさがあります。     

 大平和祈念塔は有史以来のあらゆる戦争犠牲者の御霊を超宗派で奉祀したものです。1970年に完成したものです。靖国神社みたいに「天皇陛下」のために戦った日本兵だけを祀るというのではありません。日本の侵略によって犠牲になった相手国の戦争犠牲者も祀っているのです。その意味では日本の良心の証がここにあるということですね。PL教団の第二代目教祖御木徳近日知さんが原型をデザインされたものだそうです。さすが「Life is art. 人生は芸術なり」を中心教義にされているだけあって、なかなか大胆で素晴らしい造形だと思います。

 PLランドという遊園地だったところにつくられていたので、ファンタスティックな塔は子供向けのおとぎの国に相応しく造られたのだろうと軽く見る人もいたようですが、塔から3キロメートルの南海金剛駅の近くに引っ越してかれこれ十年経ってみて、私のこの塔への愛着の気持ちは増すばかりです。おそらく戦争で犠牲になった有史以来の人類の平和へのやむにやまれぬ思いが、こんなふうにむくむくと盛り上がっているのではないか、そんな迫力を感じます。

 毎年8月1日に世界一の規模の花火が打ち上げられます。一時間で12万発、一分間でなんと1714発の花火が空を覆うのですから圧巻です。その絢爛に火花が咲き乱れる光景はたとえようもありません。でも花火はやがて途絶えます。そのパッと消えてしまうのが、はかなくてとてもいとおしくなり、余計に美しく感じるのです。滅びの美学ですね。その刹那にドゥーンという音が胸を打ちます。花火がはじける音が遅れて届くのです。元々花火の音はそれほど響かなかったそうですが、響くように改良されているそうです。この音で切なくなります。はじけ散った命が胸に届いたことがズシンとくるのです。                                                        

  1953年に第二代教祖が初代の徳一さんの遺徳を偲んで打ち上げられたのが最初らしいのです。しかし大平和祈念塔の近くで打ち上げられる12万発の花火は、全ての戦争犠牲者の平和への想いがはじけているのではないでしょうか。あるいはすべての生きとし生けるものの生きた様が花火なのです。みんなはかなく一瞬の生をはじけて消えてきました。今まで数え切れないほどの命が燃えては、その刹那に消滅して、新しい命がまた燃えてきらめき、きえ去っていったのです。 

 私は、命の夥しく一瞬きらめいては消えていく姿を美しくいとおしく感じています。それは自分自身の命の姿でもあります。この無数の花火の一つに過ぎないのです。一瞬きらめいたとしてもすぐに消え去らなければならない命なのです。それでもそれぞれが精一杯燃えはじければ、大きな花火をコスモスにきらめかせ、命の音を響かせることができるのだと信じたいですね。

  徳近さんも1983年に亡くなられました。徳一、徳近両教祖、有史以来の戦争犠牲者そして生きとし生けるもの霊がこの12万発の花火になってはじけているのでしょうか。どうしてこんなに夥しい数の花火にするのかが分かりますね。それに今生きている我々の命だって、同じようにはかなく、哀しいのですから、もっともっと花火をあげなくっちゃ。

 こうして花火を感じていますと、その刹那には、花火と花火を見ている自分の区別は忘れています。そしてそこではじけている徳一、徳近さん、戦争犠牲者の方々、生きとし生けるものたちの命と花火の区別もなくなっています。そこにあるのは生きているという感動だけですね。ああ、これが「純粋経験」なんだ。これが「Life is art.」なんだということですね。