やすい ゆたか事典

                                         

学歴

1964:大阪府立泉尾高等学校卒業。
1968
:立命館大学文学部日本史学専攻卒業。
1971
:立命館大学大学院文学研究科哲学専攻修了
 

職歴
1983年  津市立三重短期大学非常勤講師(倫理学・ドイツ語)
1984年 立命館大学非常勤講師(哲学・倫理学・教職哲学・教職倫理学・西洋文化論・比較文化論・宗教学など担当)
1988年 代々木ゼミナール 非常勤講師(政治経済・倫理)駿台予備学校 非常勤講師(倫理)
 

                著書

単著

1986『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』青弓社
1995
『歴史の危機ー歴史終焉論を超えてー』三一書房
1999
年『キリスト教とカニバリズムーキリスト教成立の謎を精神分析するー』三一書房
2000
年『イエスは食べられて復活した−バイブルの精神分析新約篇』社会評論社
2005
年『評伝 梅原猛哀しみのパトス』ミネルヴァ書房
2009年『梅原猛 聖徳太子の夢―スーパー歌舞伎・狂言の世界』ミネルヴァ書房

主要共著

1983『人間論の可能性』北樹出版
1996
年『『ソフィーの世界』の世界』大阪哲学学校編 青木書店
1995年
『知識人の天皇観』(西周・梅原猛担当) 三一書房
1998年
『知識人の宗教観』(遠藤周作梅原猛担当) 三一書房
1998
『フェティシズム論のブティック』石塚正英との共著)論創社


『月刊 状況と主体』(谷沢書房)連載論文(『月刊 状況と主体』は20001月号で休刊したままである。)

「新しい人間観の構想」199112月号から19939月号まで
「西田哲学入門講座」199810月号から20001月号まで

『社会思想史の窓』連載論文   「バイブルの精神分析」

『季報唯物論研究』やすいゆたかの責任編集
  第62号『フェティシズム論のブティック』1997年刊
  第91号『21世紀「人間論」の出発点』2005年刊

ネット雑誌『プロメテウスー人間論および人間学論集』掲載論稿
 2006
年春 創刊号 対談 『ネオ・ヒューマニズム宣言』 をめぐって
 2006年末
 第二号「【対談】人間起源論の構造構成をめざして」
 2007年春 第三号 対談 『ネオ・ヒューマニズムの宗教観』

 20

 

2007年春 エッセイ集『宗教のときめき』を「やすいゆたかの部屋」に掲載。

08年秋  第四号『長編哲学ファンタジー鉄腕アトムは人間か?』

         
 

やすい ゆたか本名 保井 温1945 生まれ )は、
立命館大学文学部日本史学専攻を卒業し、大学院は哲学専攻に転ずる。
学位は立命館大学哲学修士。
現在、立命館大学、大阪経済大学講師、
 

大学学部時代に理論に開眼し、経済哲学を専攻しようと決意、大学院は経済学か哲学が悩むが哲学専攻に決定。日本史専攻の卒論を『明治絶対主義と西周(にしあまね)の思想的位置』にする。

 
一浪して哲学専攻の修士課程に合格。浪人中に立命館大学の学園闘争が燃え上がる。学友が二派に分かれてゲバ棒でやりあったので、それに参加しなくてすんだので内心ほっとしている。

      
経済哲学研究家「人間=商品」論を唱える
 

大学院では経済哲学の梯明秀教授、人間学的唯物論、ヘーゲル研究家の船山信一教授、シェリング研究家西川富雄教授の指導を受ける。学部時代から若きマルクスの『経済学・哲学手稿』の自己疎外論に傾倒していた。人間の商品性を自己疎外の観点から批判的に超克しようというのが梯経済哲学に入門した動機だった。
 しかし院生時代に廣松渉の疎外論から若きマルクスは脱却したという議論に影響され、修士論文は人間の商品性を疎外として捉えるのではなく、歴史的本質として捉え返すことになり、「人間=商品」論を唱えた。

つまり人間の成立の契機を交換の発生に求めた。交換によって人と人が対他関係になり、人と物、物と物も対他関係になって、はじめて生理的な刺激ー反応関係から脱却したとしている。表象は反応のための刺激でしかないのではなく、客観的な事物の現われとされ、その状態や性質をさまざまに表現する必要から主語―述語構造をもった言語が成立し、知覚から認識に発達し、無限に知が蓄積されることになり、文明の発生につながることになる。人間と言語の起源を<交換ー事物的対他構造ー主観・客観認識構造ー主語・述語の言語構造>を構造的連関させて解明した意義は大きいと 「新しい人間観の試み」対談「人間観の転換」(田辺聡との対談)などで、やすいゆたか自身は力説している。

 その観点から労働概念を捉え返した修士論文『労働概念の考察』を仕上げた。もちろん人間を商品とみなすこの議論は、その批判的超克を目指しているにもかかわらず、学会発表でも理解されることなく、かえって反発をかうことになる。

 その後塾講師などをしながら研究を続ける。大学院時代の学友であった梅川邦夫、服部健二、故藤田友治らと経済哲学研究会を結成、マルクス文献の原書購読と研究交流を続ける。この研究会は後に現代思想研究会となり、
共著
『知識人の天皇観』(「梅原猛と天皇教」「西周の天皇観」担当)
『知識人の宗教観』(「遠藤周作−日本人のためのイエスを求めて」「循環の思想は人類を救うー梅原猛の宗教観」担当)
を三一書房から出版している。(2005年の藤田友治の死を契機に休会中)
 

廣松の物象化論を批判した『広松渉『資本論の哲学』批判』を経済哲学研究会刊で1880年に35歳で自費出版した。これが廣松渉本人からは無視されるも、鷲田小の紹介で山本晴義、田畑稔、笹田利光、平等文博らの活躍する大阪唯物論研究会で発表し、三重短期大学の非常勤講師に推薦される。そして立命館大学の非常勤講師にも採用される。

 三重短期大学の教員と共著で『人間論の可能性』を北樹出版が1983年に出版、「『商品としての人間』の可能性」を展開した。人間の商品的性格を説いた。人間の本質を価値としてして捉え、かえって交換価値が真の価値とされない価値意識の逆説的構造も解明した。人間が商品であるだけでなく、商品も人間であるという人間概念の拡張にも乗り出している。労働は身体だけでなく機械も一緒におこなっているとしてはじめて経済的な価値生産の構造が解明できるとし、機械を含めた人間概念への人間観の転換を説いた。

   青春の甘きすっぱき疎外論一度棄てたがまた拾いこぬ

 この間、マルクスの経済学批判期の疎外概念の使用を丹念に調べ上げた結果、マルクスが疎外論を払拭していないことを確認し、疎外論の有効性も再評価する。(「疎外論再考ノート」参照)疎外論は21世紀に入り、資本主義の世界的危機、地球環境問題、深刻な非正規雇用の問題など格差社会、学力問題、家庭崩壊などますます重要性をましており、疎外論の復権を呼びかけている。

これも踏まえて本格的にマルクスの『資本論』を批判した『人間観の転換―マルクス物神性論批判』を青弓社から1986年に出版した。

 これは未だに当人が代表作と自認しているもので、『資本論』を方法論から全面的に大上段から批判した唯一の著作である。つまりマルクスは労働者の抽象的人間労働のみが価値を生むということを定義的に仮定して、不変資本つまり機械などが価値を生むように見えるのを物神性的(フェティシズム的)倒錯として批判する方法をとっている。

 そして物である商品が人間の価値関係を結んだりすることを物が人間になっているフェティシズムと批判しているのである。つまりマルクスも社会的諸事物も包括して社会関係が成立していることを認め、商品が人間社会の要素となっていることを認めながらも、それをフェティシズム的倒錯として高踏的に批判しているのである。しかしそれでは経済関係を説明しきれなくなるのであり、それを保井温はマルクスが人間を身体的な存在に限定していることからくる「人間観の限界」として批判した。すくなくとも経済関係を捉えるときには人間は全商品を包括するものとして捉えなければならないのである。

 人間を社会的諸事物や人間環境を包括して捉える視点は『経済学・哲学手稿』の「人間的自然」の概念や、「人間の非有機的身体としての自然」の概念にもある。しかし価値を生むのは労働者の労働のみにするという搾取論的観点から人間概念を再び狭くしてしまったのである。(「マルクスの人間論」参照)「人間観の転換」によって生産手段も包摂しても搾取理論は成り立つことを論証したのである。

             人間論の研究

 『人間観の転換』は当人の予想を裏切って、ごく少ない理解者をえたものの全く世間一般の理解や評判を得ることができなかった。それは広く古今東西の人間論を踏まえていないためだろうと反省し、広く人間論および人間学の研究を行い、その成果を『月刊状況と主体』に連載することになった。これが「二千年代に向けて」「新しい人間観の構想」199112月号から19939月号まである。

 その結果、様々な角度から人間を捉え返すことの意義を確認し、「人間=商品」論の意義を強調しつつも、各人間論の有効範囲を明確に構造化して示し、それを巨大な「人間論の大樹」まとめ上げるべきだと考えるようになる。プロタゴラスは人間を国家も含めて捉え返しており、ホッブズは、人間身体を神が作った自動機械と捉え、国家をリヴァイアサンつまり巨大な人工機械人間として捉えている。パースにいたっては、人間は記号であり、記号とは事物が他の事物を指し示す事物の知的性質だとしている。

 特にパースは人間を事物の存在のあり方として捉え返しており、人間が商品であるばかりでなく、商品が人間であるとしたやすいの人間観に通じるところがある。しかも人間の思考過程と事物の思考としての顕現過程を同一の過程と捉えている。これは主観が客観を認識することが、同時に客観が主観に現れることでもあるということである。そのことによって主観と客観の一致という科学的真理を担保しているのであるが、そこには思考過程を事物も主体的に形成しているという、認識論の逆転発想があり、西田の「物となって考え、物となって行なう」という論理と通じるところがある。カントが認識論の「コペルニクス的転換」で思考を全く主観に還元したのに対して、「逆コペルニクス的転換」がなされているのである。

 東洋思想には、バラモン教の説話にコスモスはプルシア(原人)から生じたとしており、これは大乗仏教の一切の生きとし生けるものは本来仏陀(目覚めた人)であるという根本性質があるという。陽明学では「天地一体の仁」を説く。また本居宣長は「もののあはれ」を説いて、我と汝、人と物、人と自然の断絶を乗り越える発想をしている。

 むしろ人と物の区別に固執し、それを幼稚な未開人の宗教だと批判して、それで資本主義を理論的に論破したつもりになっている『資本論』のマルクスよりも、そういう区別に固執しないで自然の中に物の中に人間を見出す方に分があるのである。


 また鎌田東二らのモノ学の動向へも共振するものがありそうなので、コメントしている。
対話・モノ学とネオ・ヒューマニズムについて

    
 歴史終焉論批判とグローバル統合の時代へ
 

東西冷戦の終焉に伴い、もはや歴史を動かす動力である体制間の対立がなくなり、歴史は終焉したとフランシス・フクヤマは『歴史の終わりとラースト・マン』を出版し、世界中でベストセラーとなった。やすいゆたかは、彼の見解がコジェーブの誤ったヘーゲル解釈に基づくものであることを論証し、世界史はこれからが本格的なグローバル統合の時代に入ることを指摘した。この世界の統合はヤスパースの冷戦時代の作品である『歴史の起源と目標』で予言されている。そこで、やすいは、ヤスパースの歴史哲学の再評価とフクヤマの歴史終焉論の批判を、一冊にまとめることにした。これが<やすい ゆたか>のペンネームにした最初の著作『歴史の危機―歴史終焉論を超えて』(三一書房、1995年刊)である。

                                     

そこでグローバルな統合が、覇権国の「グローバルスタンダード」の押し付けでなく、真のグローバル・デモクラシーに基づくものでなければならないと説いている。これを踏まえて、後にグローバル憲法をつくる会掲示板』にグローバル憲法案を寄せ合う運動をはじめることになる。ただしこれは現在開店休業中だ

 でも一応『グローバル憲法草案』の『前文』を提示しており、そこには「グローバル・デモクラシー宣言」が含まれている

   
     

 

オウム真理教事件の衝撃とイエス復活に関する仰天仮説
 

 1995年に勃発した地下鉄サリン事件はオウム真理教という宗教カルト集団によるものとわかり、やすいゆたかは大きな衝撃をうけた。神戸大震災の縦揺れをとって「魂の縦揺れ」と表現した。つまり大量破壊兵器が科学技術の進歩に伴い低廉化して、宗教カルトですら全人類を相手にハルマゲドンを仕掛けられる可能性が示されたからである。かくして国際テロ組織による2001年の同時多発テロへとつながって21世紀の文明間闘争の新しい戦争の時代が始まった。

 オウム真理教は仏教やキリスト教の教義を恣意的に解釈して、この世界を破壊し、オウム帝国を築く構想を作り上げた。既成宗教はオウム真理教事件の被害者であるかにふるまい、オウム真理教に悪用されたみずからの教義についての反省にいたることはなかった。やすいは『バイブル』のトリを飾る「ヨハネ黙示録」が過激な審判思想で、カルト犯罪を今後も生む危険があることを指摘し、その聖典からの削除を「ほふられた仔羊ーオウム理教と「ヨハネ黙示録」ー」というエッセイを書き、『月刊状況と主体』誌上からキリスト教会に要求した。

 かくしてイエスの再臨が全人類の救済ではなく、審判戦争による人類の大部分の掃滅になりかねない『ヨハネ黙示録』の研究から入り、福音書を研究することによってイエスの復活に関する仰天仮説に到達した。それは「最後の晩餐」はあくまでリハーサルだったということである。つまりパンを食べ、ワインを飲むように、イエスの体を食べ、血を飲みなさいという「主の聖餐」のリハーサルである。すでにガリラヤの地でイエスは「命のパン」として自分を意義づけ、「人の子(=メシア)の肉を食べ、血を飲む」ことを終末の日の復活の条件にしている。ついにその時、イエスの時が到来したのである。

 人の子(メシア)との一体化により、聖霊が乗り移ったと思い込んだ弟子たちは全能幻想に襲われて、イエスの復活体験という「見神」体験をしたのである。このように考えて福音書を読み返すとつじつまが合うことが多い。もしそうでなかったら、キリスト教は異教徒にとって有り得ない死者の復活をでっち上げたいんちき宗教ということになる。信徒たちが死を恐れずに布教できたのも、イエスの復活で永遠の命を確信したからである。そしてそれはイエスの十字架の死という犠牲によって可能になったのだから、それを信じない人々は神の愛を裏切ったとして審判に遭うことになるという教説も生まれたということだ。教会の儀式の中心が「パンとワインによる主の聖餐」であるのもうなずけるのだ。

 やすいはこの仰天仮説を石塚正英との対談を通して着想した。石塚との二人著『フェティシズム論のブティック』(論創社1998年刊)はそのドキュメントでもある。やすいはこの仰天仮説を『キリスト教とカニバリズム』(三一書房1999年刊)『イエスは食べられて復活した』(社会評論社2000年刊)の二冊で発表した。キリスト教会からのはげしい反発があると思ったが、増刷するほどは売れなかったので、無視されたままだった。
 

           『西田哲学入門講座』 

 イエスを<食べるだけではなく、食べられてこそ大いなる命の循環に返り、永遠の命にいたる>とした「命のパン」の思想家として捉え返したものの、<聖餐による復活>仮説は、あまりの仰天仮説でかえって無視されたのである。こういうことになると次の出版はむつかしい。

 しかしその間、やすいゆたかは『西田哲学入門講座』19982000年にかけて『月刊状況と主体』に連載した。梯経済哲学が西田哲学に基づいていることもあり、西田哲学への挑戦は避けることはできなかった。それに自分の著作を分かるやすくするためにも、難解な西田哲学を分かりやすく解説することは大いに役立つはずである。高校生にも分かる西田哲学入門をうたい文句に書いたものだ。途中少々難解な部分はあるが、これだけ分かりやすいのは類書ではないだろう。

 そこで西田哲学が全体として人間学であることを実感する。「純粋経験」といい、「場所」といい、「行為的直観」といい、それは人間の実践的なありようであり、人生そのものなのである。

 
西田自身の苦悩に満ちた人生の悪戦苦闘の「ドッキュメント」なのだ。西田哲学が難解なのもその苦悩がそうしからしめていたのである。それを通り一遍に易しく解説することなどできない相談ではある。ただ西田は「物となって考え、物となって行う」という論理があり、人間と物との絶対的な断絶を乗り越えようとするところがある。この試みは社会的な事物や人間環境も含めて人間を捉え返そうとするやすい自身の人間論と通ずるところがあり、やすい人間学からみた西田哲学は、それなりに分かりやすくなっていると評判である。

       
『評伝 梅原猛―哀しみのパトス』
 

 やすいは、梅原猛には直接授業をうけたわけではない。学部は日本史学専攻で、大学院浪人の時に梅原は立命館大学を学園紛争で辞職していた。『隠された十字架』や『水底の歌』などの怨霊によって歴史が動かされたというような非合理主義的な解釈は、科学的歴史学を学んできたやすいにとっては到底共鳴できないだろうと敬遠していた。

 ところが初めての単著『美と宗教の発見』を1980年代になって読み、権威に挑戦する梅原の迫力に圧倒される。そこで天皇制の精神的な内圧によって宗教的痴呆に陥って、日本の伝統を忘却しているという議論に共鳴した。怨霊信仰の視点から歴史を見直すということは、心を持って生きている人間の歴史として歴史を生き返らせるこころみなのだ。その観点から読めば『隠された十字架』や『水底の歌』は、すばらしい名著である。

 ではなぜ梅原だけが、聖徳太子や柿本人麿が怨霊だと気づいたのか、その謎を解く鍵は『湖の伝説』という画家三橋節子の伝記にあった。彼女が癌で右手を切断して、左手で絵を描いた。幼子を遺して死ななければならない思いを絵に託したのである。この伝記を書く時に梅原は彼を生後一年余りでこの世に遺して死ななければならなかった生母千代への哀悼をこめて書いただろうと思っていたが、実は違っていた。生母のことは意識下に抑圧されていたのである。つまり命がけの恋を認めてもらえず引き裂かれようとしたため結核に罹り、医者に生めば命が危ないと言われていて、あえて猛を生んだ母の怨念が彼の潜在意識を形成して、彼を無意識に衝き動かしていたのである。それが彼の独特の怨霊アンテナをつくっていたのである。

 だから『湖の伝説』後生母への思いは氾濫のごとくあふれ出し、母なる東北の蝦夷文化へ、さらにはアイヌ文化へと赴かせ、ついにイオマンテの中に、あの世とこの世の往還の思想を見つけ出す。それは二十歳の若さで猛を置いて死ななければならなかった生母を取り戻したいという思いの現われだったのである。このことに感動して、やすいは『評伝 梅原猛―哀しみのパトス』をミネルヴァ書房から2005年に出版した。
 

『梅原猛 聖徳太子の夢―スーパー歌舞伎・狂言の世界』
 

 前著では紙幅の関係で梅原猛の戯曲などの文芸作品にふれることはできなかった。その際に梅原文学についての論稿だけで一冊分あったので、すぐにも続編の形で出版するつもりだった。しかし独立した書物となると新たなテーマで書き直さなければならない。「天翔ける心、それが私だ」というのがイメージにあるのだが、それは哀しみのパトスを昇華した創造の、表現の喜びの舞のようにも思えた。今度こそ『夢の翼』という表題でいきたいと思った。ところが、梅原戯曲を読み返してみると聖徳太子の和の精神が貫かれているのである。梅原は、聖徳太子から『ヤマトタケル』『オオクニヌシ』『ギルガメシュ』を創造しているのだ。それはまさしく白鳥の天翔ける姿なのである。つまり戦士ヤマトタケルは、大白鳥に変身したのである。ということは、梅原猛は戦後精神を高らかに戯曲化したのである。

 今まで戦後の「平和と民主主義」は欧米のプラグマティズムやマルクス主義を媒介して輸入されてきたために、きわめてご都合主義的に解釈された薄っぺらいものでしかなく、日本人の心に血肉化できていなかったのではないか、形骸化が叫ばれ、弾劾された、戦没学生の「わだつみ像」まで破壊されてしまった。それは実に嘆かわしいことである。梅原は『隠された十字架』で聖徳太子の怨霊と向き合い、『聖徳太子四部作』を仕上げることで、聖徳太子の和の精神、互いに慈悲の心で話し合ってまとまっていくことを説いた『十七条憲法』にこそ「平和と民主主義」を受容する豊かな土壌があると覚ったのである。しかも仏教的な和の精神は動物や植物や山河を含む国土や地球全体に及ぶものである。だから梅原猛の夢は聖徳太子の夢に他ならないのである。そういうように梅原猛こそ、日本の「平和と民主主義」の戦後精神を土着の伝統思想から受容し、血肉化させようとしている戦後精神の真の代表者なのである。そういう観点からスーパー歌舞伎およびスーパー狂言の世界を分かりやすく読み解いた作品である。ミネルヴァ書房から2009年2月末に刊行された。
 

 
 
  

やすい ゆたか の創作活動 

 なお梅原猛の文学活動の研究によって刺激されて、やすいゆたかも創作活動に意欲をもっている。短編小説『新しい天使』伝記小説『新西周(にしあまね)伝−鴻飛の人ー』を手始めに梅原猛の代表的戯曲『ヤマトタケル』の続編を狙った戯曲『オキナガタラシヒメ物語』を作り、梅原の『海人と天皇』を原作にした『物語 海人と天皇などもてがけている。また突然還暦前になって歌心が起こり、文章の見出しに短歌を挿入するなどしている。すでに千首近くを作ってホームページに載せているが、「下手に作るのがコツ」といっているように、芸術的なものではなく、文章の要約や思想の要約のために効果的に用いている。

  哲学ファンタジー『人間論の大冒険』を執筆、これを立命館大学の理工学部『哲学と人間』や大阪経済大学の『倫理学入門』でもテキストとして採用している。高校生の上村陽一や三輪智子が、哲学者榊周次のつくった電脳空間のバーチャル・リアリティの世界で歴史上の人物や架空の人物になりきって活躍することで、さまざまな人間論を学んでいくという筋立てである。これを出版したいのだが、それぞれの物語に繋がりがないので、一冊の書物にできないでいる。そこで『鉄腕アトムは人間か?』の長編化を試みた。まだまだ未完成だが、そのうち文学作品として世に問えるものに仕上げたいと思っている。

     長編哲学ファンタジー『鉄腕アトムは人間か?』
 
『ネオ・ヒューマニズム宣言』とネット雑誌『プロメテウス』

 ネット文化の時代が到来した。やすいゆたかも遅ればせながら『やすいゆたかの部屋』を開設している。出版不況の中でなかなか出版出来ない以上、ホームページから直接発信するのも大切である。やすいは、21世紀の新しい人権には「全世界に発信し、全世界から受信する権利」が筆頭にあげられなければならないという。そしてmixi『人間論および人間学』『倫理が好き』のコミュニティを立ち上げて管理人をしている。

 やすいは、彼の社会的諸事物や人間環境を包摂して人間を捉えるという人間論の立場を「ネオ・ヒューマニズム」と命名し、ネット上で『ネオ・ヒューマニズム宣言』を発信している。これは新手の人間中心主義だと警戒されるかもしれないが、個体的身体に人間を限定しないで、最も広い意味では人間の感覚によって構成される現象界全体が人間として捉え返されるので、かえって貫徹された自然主義でもあるのだ。

 ただしそれがやはりヒューマニズムなのは、人間の範囲は関心相関性によって伸縮することを認め。それぞれの人間観の構造を明確にして、構造構成主義的に調整し、「人間論の大樹」を構築しようということである。そうすることによってさまざまな人間観の違いはあっても、相互に認め合い、協力し合えるのではないかということである。なおやすいは西條剛央らの構造構成主義を方法として高く評価し、対談・やすいゆたかの入門「構造構成主義」を書いている。また『現代のエスプリ』の「構造構成主義特集」に「20世紀の三大思想と構造構成主義」という論稿を載せている。

 『人間論および人間学』のコミュニティを立ち上げを記念してネット雑誌『プロメテウスー人間論および人間学論集』を創刊した。 

 そこに自身の論稿としては『ネオ・ヒューマニズム宣言をめぐって』という対談形式にしたネオ・ヒューマニズム入門を掲載している。雑誌創刊にあたってネット雑誌のテストケースとしての意義も自覚している。つまり大学や研究組織や同好会などの紀要は莫大な経費がかかり、大学などの経営危機から存続は難しいと思われる。しかも限定された読者しかつかない。ネット雑誌は費用も抑えられ、読者は不特定多数で、全世界に発信される。カラー写真をふんだんに使ったり、音声も入れられるし、動画で発表することも可能である。ただネット雑誌の見本が必要である。その意味でネット雑誌『プロメテウスー人間論および人間学論集』創刊号は上出来である。元々やすいにはITスキルはなく、web制作をボランティアで担当した鈴木麗子の功績は大である。

プロメテウスー人間論および人間学論集』第二号は2006年12月末に完成した。ただし鈴木麗子が仕事の事情でweb制作係りを降板したために、アドレスも「やすいゆたかの部屋」に移転した。そこに「【対談】人間起源論の構造構成をめざして」を掲載している。

 エッセイ集『宗教のときめき』と新宗連結成55周年シンポ

 
2007年2月
26日に東京神田如水会館で「新宗連結成55周年記念シンポジウム」『よみがえる宗教ー新しい役割を探して』が開催されて、やすいゆたかは石塚正英と共にそのコメンテーターを務めた。やすいゆたかは、宗教が生活の原点に帰る営みであることに基づき、祈りを込めて食物を作ってだしたり、心を込めてもてなしたりする命の交流の場になれば、家庭や職場や社会活動の場に戻る時にリフレッシュできるのではないか、それが宗教の社会的役割ではないか、特に疎外され人間としての交流を失った現代社会においてこそ、宗教には大きな役割があることを説いた。
 また宗教的な心情が生まれる原点を求めて、思索をめぐらせたエッセイ集『宗教のときめき』を「やすいゆたかの部屋」に掲載している。『やすいゆたかの部屋』に教養講座を設け『日本の宗教』の掲載を始めた。

    熟年よ、歴史は面白いーくすのき塾講演集

 2005年より富田林市の熟年のための教養講座を開催している「くすのき塾」で、歴史の講座を担当している。梅原猛研究での蓄積や藤田友治、室伏志畔らの刺激も受けていることもあり、それにキリスト教関係の教養もあるので熟年層の知的好奇心に応えて好評を得ている。その講演のための草稿を「やすいゆたかの部屋」の「やすいゆたかの歴史論集」のコーナーに掲載している。
 


くすのき塾講演集
持統天皇は怖い女か?
聖と俗の狭間にゆれて
イエス復活の謎
聖徳太子は架空の人か?
聖徳太子の夢
前編 ヤマトタケル伝説 
後編 神功皇后伝説 
大国主命について 
記紀の神々

 『ソフィーの世界〜哲学ファンタジーゲーム』CDROM監修 トランスアート

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