宗教のときめき

19. 光Light・愛Love・命Life―3つのL−
やすい ゆたか
 大いなる命の光に照らされて愛に生きなむ時を忘れて

        

 十二月二十五日と言えばクリスマスですね。では何の日のでしょう?え、イエス・キリストの誕生日ですって。と思われて当然ですが、実はイエスの誕生日に関する伝承はないのです。冬至には太陽の陽射しが最も弱くなり、これから強くなるでしよう。それで、冬至に太陽信仰のお祭りがあったのを、「世の光」と呼ばれたイエスの誕生を記念する日に当てることになったわけです。

 愛の神イエスも光信仰、太陽信仰と習合していたわけですね。愛という感情を物質で表現すれば光なのです。イエスは救世主なので希望の光なのです。仏教では仏陀は慈悲深い存在ですね。特に慈悲の権化である阿弥陀如来は、物質的には無量壽光なのです。もちろん宇宙の根本仏とされる大日如来も実体は光です。

 日本神道の主神である天照大神は太陽ですが、やはり愛の神なのです。つまり恵みの光なのです。天照大神と素盞嗚尊は姉と弟ですが、高天原では主神は天照大神とされ、地上を支配するのも、天照の直系の子孫であるとされました。実際に覇権を握っていた素盞嗚尊の子孫は国譲りをさせられてしまったのです。これは太陽神は恵みの光で徳による支配であるのに対して、スサノオは荒ぶる神であり、暴力による支配を意味するからです。正当なのは王道であり、覇道ではないという儒教思想が影響しているのです。でも実際は、スサノオの子孫である大国主命は平和で豊かな国づくりをし、それを天照大神の孫が突然侵攻して国譲りを迫ったのですが。

 このように全く異質の宗教であるかに見える、キリスト教、仏教、日本神道は、いずれも光を信仰の対象にしていることが分かります。そして光を感情として捉えた時にはそれは愛です、愛が神・仏として捉えられているのです。このように理解すれば、全く異質の信仰と思われていたものが、核心において同じ信仰だと言うことが分かるでしょう。

 このことは生命信仰においても言えます。イエスは、自らを「命のパン」だとし、永遠の生命につながるためにはメシアの肉を食べ、血を飲めと命じました。つまり大いなる生命の循環に戻るためには、食べるだけでは駄目で、食べられることが必要なのです。イエスは自らの肉体によってそれを示し、永遠の命への道を開いたのです。生は個体的な死を介して類的生命の、さらには大いなる生命の循環を開示します。

 釈尊も飢えた虎に自分の体を与える行者の行いに触発されて悟りに達したと言われます。個体的生命の自己否定による永遠の生命との合一に宗教のテーマがあるのです。有限な個体的生命と無限な大いなる生命の循環には、悟るには宇宙の果てよりももっと遠い彼岸かもしれないけれど、煩悩即菩提であって、まさしく命を受け取り、命を与えているこの世界にこそ、個体としての生の苦しみも、大いなる生命とのエターナルな共感もあるのです。

 光も愛も生命も、ああ何も私を超絶しているのではなくて、私自身の生きるということ、そのものではないでしょうか。こうしてご飯を炊き、物を作り、言葉を交わし、花を愛でることなのです。太陽も星も風も私の命の姿なのです。それを命であるということを離れて、事物としての形式で捉え返した時に、永遠の命は見えなくなってしまうのでしょう。