宗教のときめき

18. ゼーレンとゆたかの大地震
やすい ゆたか
 父の言うその一言が子の胸に疵を遺して哲学を生む

 実存主義の哲学者「ゼーレン・キルケゴールの大地震」をご存知ですか?

  彼は父親をとても尊敬していました。ファーザー・コンプレックスと言えるかもしれません。ゼーレンが二十二歳の時に受けた父の告白で精神的に大地震を受けたということですが、その内容ははっきりしていません。専門の研究者でも、これこれと想像されるというだけですから。

  その想像によりますと、父は幼いころ神を呪ったことがあるというのです。父は毛織物商として成功したのですが、幼い時には極貧で、北欧の寒い牧場で羊飼いをしていた時に寒さと飢えの余り、神を呪ったというのです。もう一つは、父は先妻に先立たれて、寂しかったので、女中だったゼーレンの母を犯してしまった、その不義の結果生まれたのがゼーレンだったということです。

  それでゼーレンは神を呪う悪魔の子、しかも不義の子だということで、悪魔の血を引いた呪われた運命の子だと精神的に大地震のようなショックを受けたということです。

 この話は何かゼーレンが非常にひねくれ者だという印象を受けますね。だって父は子供のころ極貧でとても不幸せな境遇にあったのですから、神を呪いたくなるのは当然です。それでも神への信仰を失わず、遂に成功者となり、教会でも説教者になっているのですから、幼い頃の苦労話として聴けたはずですね。

 それにゼーレンの母を犯したという話も、きちんと責任をとって結婚していますから、ほほえましいエピソードとも受け取れます。ですから父は、そのように苦労話として理解してもらえると思って話したのに、ゼーレンはそれをひねくれて悪魔の血を引く呪われた不義の子と勝手に受け止めたのじゃないかと思いますよね。

 私もそのように解釈していたのですが、そうじゃないのです。父の信仰がそういうタイプの宗派に属していたらしいのです。自分をどうしようもない罪人と受け止めて、絶望に苦しみあえいだ挙句に、心底から懺悔し、神に救いを求めるというのが現代の信仰のあり方だという考えの宗派だったのです。日本で言えば罪悪深重ということで阿弥陀仏の慈悲に救いを求める浄土教の教えに近いですね。

  ですから子供の頃にどんな理由からにせよ神を呪ったから悪魔だ、そして不義の子を産んでしまったとんでもない悪人だということで父は自分を追い詰めているわけです。そのせいで子のゼーレンまで絶望に追い込まれたのですから困った信仰ですね。でもそのおかげで絶望をキーワードにする偉大な実存哲学が誕生したわけです。

            Soeren Kierkegaard (1813-1855)

           ゼーレン・キルケゴール

 それが「やすいゆたかの大地震」というのもあるのです。

  私の父は小学校の教師だったのです。書道教育に特に熱心でかなや漢字の練習教材など創意をこらして作っていました。母も中学教師で両親とも教師としての誇りを持ち、生徒に愛情を注いで働いていましたから、当然二人とも教育のために献身的に働いているものと私は信じていて、そのことが私にとっては誇りでした。私も働くとしたら、そういう人のために献身的に働くような生き方をしたいと思っていたのです。

 ところが大学生の時に父の一言で大地震を受けてしまったのです。どういういきさつだったか忘れましたが、父は「自分の子供を育てるために働いているんだ」と言ったのです。「そうでなかったら働かない」とまで言ったように思います。

  教師と言えども労働者であり、生活のために働くというのは当たり前のことですが、それは私の理想とは違いました。私はマルクスの疎外論に嵌っていましたから、労働は本来自己実現であり、最大の目的であり、喜びであるはずなのに、労働力が商品化されてしまっているために、生活のためにいやいや働かされているのだと捉えていました。その点教師は別で、教育という尊い使命のために自己実現で働いていれば、生活のための給料は保障されていると捉えていたのです。

 それが教師の仕事もやりがいばかりあるわけではないわけです。いろんな厭な事があります。子育てのためにやむを得ずやっているというのは、教師をやってみればよく分かります。ところが私は学生で働いた経験がなかったので、理想論でしか捉えられなかったのです。

 理想論で捉えることも大切です。人間は個人だけで存在しているのではなく、類的なつながりや他の生物との共生と循環の中に生きています。その中で物を作ったり、生命をやりとりしあいながら生きているわけです。その中に教えたり、生産したり、消費したりする活動も入ります。それは生命活動ですから本来的には自己実現なのです。どんな仕事だって本来生命活動として捉えるべきなのです。というようにピュアに捉え返せるのは実は宗教的な感性なのです。

 でも現実の疎外状況の中で、人間はばらばらにされていて、自己の本来の姿を見失なっていますから、生命発現である労働が苦役としか思えなくなるのです。そこでこの苦役に耐えうるためには、何か聖なる目的のための手段として捉える必要があるわけです。これも宗教です。ですから家族を養うために働くというのは、家族信仰という宗教に嵌っているわけですね。

 家族は遺伝子が親から子に受け継がれているので、別の人格であるにもかかわらず、自己の延長として捉えやすいわけです。自分は死んでも子の中に自分は生き続けているという不死信仰がおこります。儒教の『孝経』では子は親の遺体であると捉えているのです。

 家族の宗教性には貨幣の魔術が大いに貢献しています。父親は妻子を自分の甲斐性で養っていると思っていますが、そう思えるのは自分の稼ぎで得た貨幣で全ての商品を入手できるからです。自分が作ったものではない衣食住に必要な全ての品物を貨幣が揃えてくれます。おかげで父は全能の父なる神として天に配せられるのです。

 それで父にすれば妻子は自分を神と認めてくれる聖なる存在となります。父なる神、子なる神をつなぐのは聖霊なる神ですが、それは聖母の懐妊によってですね。聖母の貞操は従ってその保障ですから大切ですね。

 逆説的かもしれませんが、家族の宗教性は貨幣の魔術によって支えられた、労働生産物のおよび労働力の商品性と表裏一体なのです。「やすいゆたかの大地震」はそのことに気づかされて、私は経済哲学研究の道に嵌ったということです。