宗教のときめき

17. 阪神タイガースファン
やすい ゆたか
 親が死に妻子に逃げられ泣かずとも阪神優勝泣き明かしけ

              

 私は、大阪市内の文化住宅で、一人で学習塾を営みながら、細々と研究を続けていました。そして同じ立命館大学の哲学専攻の大学院仲間を中心に、その学習塾を利用して、月に一度日曜日に研究会を開いていたのです。

 その学習塾の近所に鄙びた中華料理店があり、時々昼食などに利用していました。そこのマスターは一人でお店を営んでいて、そこが同じ境遇のせいか親しみを感じていました。味はなかなか美味しかったので、研究会に参加した仲間たちもよく利用していましたが、あまりきれいなお店ではないので、客は多くなく、経営的には苦しいようでした。

 マスターは一人暮らしでした。なんでも奥さんは娘さんを連れて出て行ったということです。脱サラで中華料理店を開いたものの、お店もうまくいかず、夫婦仲が悪くなって出て行かれたのかと想像していました。

 彼は親が死んだ時も、妻子に出て行かれたときも、一滴も涙は流さなかったけれど、一九八五年に阪神タイガースが優勝した時だけは、一升瓶を抱いて一晩泣き明かしたといいます。そういえばお店には阪神タイガースのステッカーが貼ってありました。

 親が死んだり、妻子に逃げられた時は悲しかったでしょうが、悲しみにめげるわけにはいかず、涙をこらえてがんばったのでしょう。でも阪神タイガースが二十数年ぶりに優勝した時には、その喜びを押し殺さなければならない何の制約もなかったので、泣きたいだけ泣いたのかもしれませんね。

 その時には、彼は自分のことはそれほど感じないけれど、阪神タイガースのことは自分のこと以上に感じるのかなと思いました。というより、自分のことを考えると追い詰められているので、堪えられないから、阪神タイガースに逃避していたかもしれません。それだけ自分の中に抱えている悲しみは深いのかもしれませんね。

 阪神タイガースのこととなると仕事を休んで甲子園にかけつけたり、阪神命みたいな応援生活をしている人もいるようです。「阪神タイガースファンは世界で一番や」とヒーローインタビューでオマリー選手などの外人選手が叫ぶように、熱狂ぶりは大変でおかげでホームでの勝率はアウェーと比べものになりません。それにしても自分のことではないのにどうしてこれほど熱狂できるのでしょう。

 これはフロイトの自我防衛機制では同一視にあたります。自我を拡大して、身体やそこに宿ると思われている魂に自分を限定しないで、自分と何らかのつながりのある人物や事物に自分を見出す心理状態です。

 よく家族の自慢をする人がいますね。息子の自慢ばかりしている母親をよくみかけるものです。逆に親が偉すぎて苦しんでいる息子がいますね。医者などかなりの学力がないと成れない職業を継げないと、そのマイノリティ・コンプレックスから精神的に追い詰められるのは痛ましい限りです。親の血を受け継いでいるのだから、自分は親以上に成れる筈だと思うのでしょうか。親は親、子は子で別人格ですから、自分の人生は自分で作り上げるしかないのですが。

 近親者に憧れの対象を見出せないと、地元とか同郷でもいいのです。あるいは何らかの自分との共通性を見出せるだけでも同一視の対象になります。阪神タイガースは、首都東京の読売ジャイアンツに対抗する、阪神のヒーローですから関西の人々の東京に対する対抗意識に支えられています。

 特に阪神タイガースは二十数年優勝できず、なかなか思うようにいかない人々の象徴的な存在になっていました。人生山あり谷ありだけれど、谷ばかり歩んでいる人は、いつかは這い上がってやろうと思っています。それが阪神タイガースが大活躍して、強い時代のジャイアンツを打ち負かしたり、優勝したりすれば、自分の身代わりに這い上がってくれたような気分になるのです。自分自身はなかなか難しいだけに、せめて阪神が優勝した時ぐらいは思い切り泣きたいというのは、よく分かりますね。

 大阪市内の文化住宅というのは二階建て長屋のことで、しかも一階と二階とは別の借家人が入っているのです。いかにもうらびれた感じです。そんなところでほそぼそと研究生活を続け、大学からお呼びがかかるのを待っていた私自身の境遇も、中華料理店のマスターと同じようなものでしたが、その時私は阪神タイガースに自分を同一視するのだけは止めようと思いました。あくまでも自分自身の可能性を信じなければということです。

 でも、我を忘れて熱狂でき、自分のこと以上にヒーローの活躍を喜べるということは、とても素晴らしいことですね。何も自分を個人の身体に限定して、自分のことだけに一喜一憂しなくても、人の活躍を自分のこと以上に喜べれば、その人の人生はずいぶん明るく楽しいものになります。自己一身のことしか関心のない人よりも何倍も何百倍もハッピーになれるじゃないですか。

それを幻想だとか倒錯だとかと決め付けてしまう人がいますが、自我を身体的な個我に限定しないで拡張して大いなる自我を形成しているということですから、そうとばかりは言えません。とはいえ宗教的な心理に嵌っていることは否定できないでしょうね。