宗教のときめき

16つくり風流(みやび)
やすい ゆたか
 滅び行く身にはひとしお迫りくる名残の桜有明の月

 また桜の季節がめぐってきました。桜の花が咲くというのは、なにか浮き浮きしますね。なんとなくうれしいものです。「花開く」というと念願が成就したり、一人前として認められることの象徴のように言われます。

 特に満開の桜は爽快な匂いに包まれることもあり、ハッピーになりますね。花見はなんといっても満開の時がいいに決まっています。ところが世の中にはひねくれ者もいるもので、兼好法師は『徒然草』第一三七段で「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言っています。

本居宣長は『玉勝間』「四の巻」でこれ槍玉に挙げています。「花はさかりに、月はくまなきを」見たいのが自然の人情なのに、無理にはかない無常を進んで味わうことを風流と思うのは、人の真情に逆らった「つくり風流(みやび)」だと批判したのです。

 たしかに兼好法師の感性には素直じゃないところがあるかもしれませんが、宣長は素直すぎて深みがないですね。兼好の言わんとしていることから学ぼうとしていません。兼好は風情というのは花が咲き誇っているときだけでなく、散ってしまってそれを惜しむ気持ちからも感じられるものだというのです。引用しましょうか。

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(いくへ)知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

(訳)花は満開のときに、月は満月のときだけ見るものでしょうか。雨を眺めながら月を恋しいと想い、カーテンを降ろして春が終わっていくのを見届けないのも、(つらくて見れない切ない気持が察せられるので)それはそれであわれで情緒があるものです。まだ蕾の梢や花びらが散って庭に敷き詰められている様子なども、見所が多いものです。歌の詞書にも「花見にまいりましたが、とっくに散ってしまっていたので」とも、「用事があっていけませんでした」などと書いてあるのは、(その惜しむ気持が伝わってきますので)「花を見て」と言うのと劣らず風情が感じられます。花が散り、月が欠けていくのを(切なく思う気持を)慕う習いは当然のことなのですが、中には、この気持ちがわからない人がいて「この枝も、あの枝も、花が散ってしまった。もはや、花見はできない」などというようです。

 満開とほとんど散ってしまった桜を見比べてどちらが華麗かと言われれば、満開に決まっているでしょうが、そんなことではないのです。桜が散ってしまうことを惜しむ心があって、その心で見るから桜にひとしお風情を感じるということです。月も有明の月がよく歌われますが、どんどん欠けて残り少なくなっている月ですね。夜明け前にやっと出るのですが、欠けている月を待ちわびるのです。

    名残の桜               有明の月

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 滅び行くものを惜しむ気持がとても切ないわけです。それで余計に風情が深まるということです。宣長は、そんな哀しい気持をわざわざ進んで味わおうとするのは真情ではないと批判しているのです。つまり宣長は、兼好法師の美意識に仏教的無常観を感じて反発しているのです。宣長は仏教が入る以前の日本人の真情に迫りたいと願っていたのです。

 無常ということは常でないことつまり変化して滅んでいくということですね。仏教は、人間の自我を含めて、すべての存在は滅びないような不滅の実体をもっていないとみなします。だから花も散るし、月も欠けるのです。その滅んでいく姿を見ると、己の体も自我も無常の定めに従って滅んでいくの を実感させられます。それで花や月を見てわが身のはかなさが身にしみるわけですね。だから風情が深くなるのです。

 でもそういう滅びの哀しみを深く味わったら、精神的に落ち込んでしまわないでしょうか。そこですね、このテーマは。そのはかない気持が文学や芸術に昇華されて表現されることによって、共感が興り、哀しみ が共有されます。するとそれが癒しになるのです。逆に哀しみを突き抜けて共感できる喜びが生じるのです。これはある意味つくり風流だけれど、そこにこそ共感を作り出す創造の喜びがあるということです。

 滅びゆくこと、死にいくことは哀しいことです。でもそれに立ち向かっていかなくては本当の感動を共有できません。この滅び行く実存にこそ、魂を震わせる美が、エターナルな意味があるというのが、仏教的無常観のメッセージなのです。