宗教のときめき

15さす竹の君
やすい ゆたか
 さす竹の君よいずこに寄る辺なきさすらい人を子等が襲へり

 学校内のいじめが外に向かったのか、気の毒なホームレスを中高生が襲う事件が起こっていますね。火炎瓶を投げ込まれて焼死した人もいます。一九八三年の一月に横浜山下公園でホームレスが暴行で殺された事件では、犯人の少年たちはこう供述したと言われています。

「横浜の地下街が汚いのは浮浪者がいるせいだ。俺たちは始末し、町の美化運動に協力してやったんだ。清掃してやったんだ」
「乞食なんて生きてたって汚いだけで、しょうがないでしょ」
「乞食の味方をされるなんて、考えもしなかった」
「なぜこんなに騒ぐんです。乞食が減って喜んでるくせに」
※「乞食」は差別用語ですが、あえて供述通りに使用しました。同様に「浮浪者」も。

http://yabusaka.moo.jp/yokohamahomeless.htm参照

 この事件について日雇労働組合が真相ビラを市内の中学校の校門前で配布したところ学校の教師がビラを生徒から取り上げて破いたということです。

 大阪市の長居公園では世界陸上の邪魔になるということで、ホームレスのテントが撤去されました。市として自立支援センターに収容しようということですが、センターに適応できなかったり、高齢などの理由でなかなか安定した仕事に就けず、また公園に舞い戻ることも多いようですね。

 憲法第二十五条によれば、「健康で文化的な最小限度の生活を営む権利」を国は保障しているのですから、ホームレスに成らなくてもすむような施策をとる必要があります。本人が好んでホームレスをしているのだという人がいますが、リストラで職を失い、その結果借金がかさんで家を失った人がほとんどです。公共の福祉という基準がありますから、公園や道路での野宿生活は法律的に規制すべきでしょう。そのかわりきちんと住所不定者が利用できる宿泊施設を提供する義務があると思われます。

飢人伝説

 『日本書紀』には、六一三年に厩戸皇子は、片岡山で飢えたる者に衣服と食物を与えたというエピソードがあります。その際に「しなてる 片岡山に 飯()に飢()て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)()りけめや さす竹の君はや無きに 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ」(片岡山で、食い物がなく、餓えて斃れた、そこの旅人よ、可哀相に。親もなくて育ったのか。ご主人様はいないのか。食い物もなく、餓えて斃れた、そこの旅人よ、可哀相に)と歌っています。

 人生、山あり谷ありで、いいときばかりではありません。特に高度経済成長が終わってからは終身雇用制や、年功序列型賃金というものもなくなりつつあり、労働組合の力も極端に弱くなってしまいました。グローバル化に労働市場もさらされていきますから、これまでの諸外国に比べての高賃金水準の維持は困難です。もちろんいつ解雇されたり、非正規雇用に廻されるか分かりません。そして失業してしまうことになりかねません。つまりホームレス化の危険は決して他人事ではないのです。「明日はわが身」という目で見なければならないのが現実です。

 敗戦後日本は平和国家に生まれ変わり、「富国強兵」という目標を取り下げました。その代わりに登場した目標が「福祉国家」だったのです。それはだれひとり路頭に迷うことのない、ホームレスにならなくてすむ社会だったはずです。それが少子高齢化や国際競争の激化などにより、いつのまにか「福祉国家」の看板を外され、「民営化」、「小さな政府」が掲げられ、努力が報われる社会という名目で「格差社会」が拡大し、ホームレスがあふれるようになってしまったのです。

 少子高齢化やグローバル化による国際競争の激化という条件の中でどうすれば「福祉国家」を築けるか、あるいは少子高齢化をどうすれば緩和できるのかということは、政治の最大の課題ですね。それを解決できる処方箋をつくり、国民の合意を得て、国家の総力を結集してこの危機に立ち向かう政治指導者がいないわけです。「さす竹の君はやなきに」ということです。それでホームレス哀れという他ありません。

 政治家たちは果たして厩戸皇子のように自分の能力が劣っているから、ホームレスに成る人が溢れてしまった、本当に申し訳ないと思っているでしょうか。ほとんどの政治家はだれがやっても同じだと思っているのではないでしょうか。

フランスでは育児手当を増やすことで、出生率を劇的に増加させています。全く打つ手なしということではないのです。為政者がホームレスの身になって、その痛みを感じ、なんとかしなければと切実に思えば、解決策はいくらでも出てくるはずです。格差を肯定して、勝ち組と負け組に分かれるのは当然と思っているから、ホームレスを敗残者と嘲る心を持っていて、それでホームレス対策に切実さが欠けるのです。

しかし本当は、政治家の責任ばかり追及する我々の姿勢にも問題がありますね。そういう政治家を国民の代表に選んでいるのは我々なのですから。ホームレスの窮状は実は自分自身の窮状ですから、その対策を考え、それに取り組むのは国民一人ひとりの責務なのです。国民全体が総意としてそう自覚しない限り、政治家の姿勢も改まらないのです。だって現代日本は民主主義社会ですから、国民全体がホームレスを他人事や社会のゴミのように扱っているから、政治家たちが真剣に取り組まないわけです。ホームレスを襲撃したくなるような青少年を生み育てているのは、我々自身なのです。

ところでこれが宗教とどう関わるかって疑問ですか。一人ひとりが自分の思想や行動が世の中を作り上げていると感じることが大切だということです。たしかに日本の人口は一億二千万人なら、我々は選挙では一億分の一ぐらいの力しかもっていないかもしれません。世の中を動かせるはずもないですね。でも自分の思いや行動は、人々の心に響いて世の中を変えることができるはずだと信じることが大切なのです。つまり魂はつながっていて、大きな魂が構成されているということです。それを動かすのは自分だとみんなが一人ひとりで信じ込むことによって世の中がよくなるわけです。これって宗教でしょう。