宗教のときめき

13三橋節子の絵画革命
やすい ゆたか
 異なれる時を合わせてキャンパスに愛物語る絵画革命

           

 三橋節子の絵に『田鶴来(でんつるくる)』という作品があります。

 画面の上に鶴の群れが飛んでおり、そのすぐ下に弓に矢を番えた猟師が狙いをすましています。一番下には鶴が仰向けに倒れており、その羽根には夫の首が差し挟まれているのです。そして画面向かって右端に猟師が反省して立っています。そしてその隣に赤子を抱いた妻が冥福を祈っています。

 この絵は、物語絵という様式の絵なのです。物語が一枚の絵の中で展開しているわけです。異なる時が組み合わされてひとつの画面を構成しているのです。本来なら紙芝居にすれば何枚もの絵になっている筈ですね。それを一枚の絵の中に全部描いてしまうという、あつかましいせっかちな絵なのです。

 この物語は近江の民話です。とても妻子を愛している優しい鉄砲撃ちが好きな猟師がいたのです。女房は殺生はいけないと止めるのも聴かず、鶴を撃っていました。ある日、鶴を撃ち落として獲物をとりにいきますと何とその鶴は羽に一年前にその猟師が撃ち落とした夫の鶴の首を抱いていたのです。つまりこの女房の鶴は、一年間夫の鶴を抱き続けていたというわけですね。この夫婦愛の深さに、猟師は殺生の罪深さに目覚め、二度と殺生はしないと鶴夫婦の遺骸に懺悔し、妻と一緒に鶴夫婦の冥福を祈ったのです。

 鉄砲は弓矢に変えられていますが、民話の内容が一枚の絵に見事に構成されています。そして夫婦愛の深さ、大切さというのが見事に描かれています。また命の尊さがひしひしと伝わってきます。鶴も人間も愛によって結びつき、愛によって支えられ、生きていることに変わりないわけです。自分たちの愛を大切だと思う心があるのなら、妻子がある鶴をどうして撃つことができるのでしょう。この猟師が犯した罪は大変重いですね。この絵はその意味でも大変教訓的です。物語を通して道徳教育。宗教教育をしているわけです。

 実はこの絵の画家三橋節子は、この絵を描いた時には利き腕だった右腕を右肩鎖骨腫瘍で切断していたのです。ですから夫の画家鈴木靖将に手伝ってもらいながら、左腕だけで描いたのです。再発しやすく、節子は余命が二、三年しかないと覚悟していました。そこで幼子を二人この世に遺して、夫とも別れなければならないので、絵に想いを託そうとしたのです。

 夫は「右手は無くなっても、俺の手と合せて三本あるじゃないか」と励ましてくれたのです。それで節子は近江地方の民話を画材に選んで、彼女の愛のメッセージを遺すことができたということです。ですからこの絵は幼子と夫のために描いています。けっして美術評論家の高い評価を得て、画家として成功しようというのじゃないわけです。この絵も素晴らしいものですが、選にもれています。というのは評論家たちはこの絵が何を伝えようとしたか見ていないのです。会場で画面の構成や色彩感覚だけで選んでいるわけですね。

 梅原猛はこの絵が絵画史上革命的な意義をもつ名作だと評価しています。と言いますのは、近代絵画は、それまでの絵画から物語性、時間性を消し去りました。中世絵画などは聖書のお話を絵画にしたのがほとんどですね。そういうのは一切拒絶したのです。ですから宗教性も道徳性もなくなったのです。もっぱら美的観点から絵画を評価しようということになったわけです。

                         
                                       梅原猛近影

 しかし絵を通して何が表現され、どういう思いを伝えようとしたのかということがあって、その絵を見る側の感動も生まれるわけでしょう。そうしますと、物語の内容をいかに効果的に伝えたかという評価も大切なはずですね。そういうのが審査員の頭には全くなかったわけです。

 異なる時刻の場面をひとつの画面に見事に構成しているということが、この絵の最大の技法上の特色ですが、それが全く評価されていません。命の大切さ、夫婦愛の素晴らしさというのがひしひしと伝わりますが、絵画は宗教や道徳ではないと いう立場の審査員は、そのことに感動することも評価することもできないわけですね。もちろん鶴も人間も命の尊さには変わりないという仏教的な生きとし生けるものを大いなる生命の立場からのメッセージも伝わらなかったわけです。

 梅原は三橋節子が伝えたかった想いをいかに効果的に表現でき、見る側に感動を与えたかで評価するならば、この絵が名画中の名画であることは否定できないはずだと感じたのです。そして近代絵画が切り捨てた絵画の宗教や道徳や想いを伝えるという役割を、この絵画が思い起こさせてくれているという意味で、絵画史上で革命的な意味を持っていると評価したのです。

 特に異なる時刻を一つの場面に構成するという技法は、近代絵画には忘れられていたものであり、その点だけみてもこの絵の絵画史上の意義は画期的です。ではなぜこの技法を三橋節子は思いついたのでしょう。それは彼女には余命がなかったからです。一つの物語の展開を追っていけば紙芝居のように何枚も描くか、絵巻物のように、古い順に描いていくしかありません。でもいつ癌が再発して描けなくなるかもしれないので、一つの画面に構成してしまったのです。それが不思議に違和感なく構成できていますね。まったく驚きです。

 三年しか生きられなければ、その間に他人の五十年分ぐらいの仕事をしなければならないわけです。実際、三橋はそれまでの作品よりも、飛躍的に素晴らしい作品をその三年間にたくさん描きました。おそらく彼女は癌で右腕を失っていなければ、どんなに長生きしてもこれだけの素晴らしいメッセージを遺せなかったでしょう。

 生きるということは、この世に自分の生きた証を遺すことでもあります。人生を絵と譬えますと、どんな絵を描くかはその人の生き様であり個性ですね。三橋の発病という不幸は、痛ましく、哀しいことですが、それをてこにして素晴らしい絵に自分の生を結晶させることができたのですから、一概に不幸だとはいえませんね。さて我々はこれまでどんな絵を描いてきて、これから残り少ない余命にどんな絵が描けるのでしょう。三橋節子の絵にふれることで、とても大切なことに気づかされますね。