六、天に日無き

 壽專は「狼狽恍惚」としていた。自分がやっと聖人への道を断念して、「瘍科の一世の宗」への道に邁進し始めたと思っていたのが、突然の君命で、また儒学へと引きずり戻された。しかも自分が誤りに気付いて克服した朱子学者にならなければならない。父は何度か説得しようとした。しかし壽專はとてもまともに話せるような状態ではなかった。当分は冷却期間をおくのが賢明とそっとしておくことにした。母は壽專が「儒者の義」を口にした以上、これは拗れれば生来が一徹な性格の壽專のこと故、切腹でもしかねないと不安になった。しかし何といって諭したらよいか学問に疎い母には見当も付かない。あまり心配している様子を見せつけて壽專に心の負担をかけてもいけないと思ったが、自分の心の不安は募るばかりだった。夜中に何度も目を覚まし、壽專の様子を窺っていた。

 二月十日、カネは梅の満開という話を聞き、仕事が手に付かない壽專を見兼ね、近所の神社に家族で梅見に行こうと切り出した。壽庵は自分は仕事で手が離せないが、壽專にはいい気分転換になるだろうと言った。ただ妻の体を気遣ったが、本人はこのところだるくて余り体を動かしていないので、かえってお産の為には歩いた方がいい、今日は気分も良いのでと微笑んだ。ミネとノブもその日は習い事や寺子屋は休みだったのでにぎりめしを作って、嬉々として出掛けた。普段の二倍以上の時間がかかったが、それでも近くだったので小半刻で神社に着いた。
 おにぎりで満腹してから、妹たちは壽丸をあやしながら神社の境内を駆け回ってはしゃいでいた。壽專はつくづくと言った。
「たとえどんなに貧しくても、両親が健在で、兄姉妹が沢山いる。これにまさる幸福はありませんね。」「ほんとにそうですとも。どんなに裕福でも、また身分が尊くても、家族に不幸があれば、それを償うことは出来ませんからね。母は子の幸せ以外に何の望みもありませんよ。」ミネは壽專の目を見て、優しく微笑んだ。
    
 壽專は張り切っている母の腹を見て言った。
「母上元気な男の子を産んでください。私が一代還俗をすれば、壽丸しか跡を継げませんから、二人男子がいればどちらか継げるでしょうから。」「それじゃあ一代還俗は承知してくれたのだね。」壽專は暫く黙っていたが、「主君に見込まれて、断るという事はとてもできる世の中じゃありません。ここで私が己を貫いたら、それこそ父上や家族に迷惑がかかることになりましょう。」壽專は唇を噛み締め、空を見上げた。
                      
 
「そなたは家族の為に、枉げてはらない義を枉げるというのですか。男には女には分からない義というものがあるのでしょう。その為には家族の幸福や自分の生命さえ犠牲にしても惜しくないような。もしそなたが己自身や己の家族の為に武士として、儒者としての道を踏み外すことは断じてできないと思ったのなら、自分の信じる行動を取ってもよいのですよ。そなたに義を踏み外させてまで幸福でいようとは思いませんから。」母は静かにでもきっぱりと言った。それから少し緊張し過ぎたせいか、ゴホン・ゴホン・ゴホン・ゴホン・ゴホンと、四・五回激しく咳き込んだ。壽專が背中を摩りながらこう言った。

  「母上、そこまで思い詰めてくれていたのですか。相済みません。相済みません。決して母上を困らせる結果にはしませんから、今暫く心の整理をさせて下さい。」母の背中を壽專のこらえきれぬ涙が濡らした。

 その言葉で母は気を取り直し、少し微笑んで
「梅の香りが体に一番いいのですよ。」と踵を立てて、背を伸ばし、梅の花びらに鼻を付けて匂いを一杯に吸い込んだ。壽專は一瞬母の脚の浮腫みがひどいことに不安がよぎった。その時、突然母は胸を痛そうに押さえて、崩れ落ちた。

 産前の妊婦は栄養が壊れがちで脚気になり易い。その脚気が心の臓を襲っての突然死である。この十日程、壽專の事が気掛かりで充分睡眠が取れないことが、疲れを酷くし体の抵抗力を弱め、脚気が急にひどくなったのかもしれない。ともかく煎じ薬も食餌療法も何の手の施しようもなかったのだ。医師でありながら何の手当てもできないで、病魔に負けてしまったことが、壽庵も壽專も悔しかった。

  通夜の夜、壽庵は妻の亡骸から離れずに放心していた。娘たちはおいおい泣くばかりだ。事情のわからない壽丸はすやすや寝ていた。壽專は人前では気丈に振る舞って通夜を仕切っていたが、夜更けて家を抜け出し、裏山で身悶えして烈しく慟哭した。君命による
「狼狽恍惚」は、母の死によってその極に達したのである。          
 百石取りの藩医の家庭だと、一人年間の米の消費量が一石として六人家族で助手をしていた門弟が三・四人住み込んでいたとしても十石あれば済む。残りを換金すれば、充分生活費は賄えた筈である。ところが実際に西家は貧困に陥っていたらしい。杉片河の家は六畳・四畳・三畳・三畳・三畳・二畳・台所・玄関・土間の間取りで、医療器具や書物を置き、門弟やばあやもいたとすると大変狭い。
  
 現金支出で考えられるものは、江戸詰めの時に何かと物入りであったということ。遊学に息子を出すとかなり掛かっただろう。それから医師としての研究費・医療器具・設備費など最先端を競うと物入りだったかもしれない。その他一般に幕末になればなる程、商品経済化が進み、生活費が高騰したようだから、次第に台所事情が悪化したのかもしれない。それに藩財政自体が窮乏化すると、上米と称して、禄高の一部を藩に返上させられた。もちろん百石以下の武士も沢山いたのだから、西家よりもっと窮乏化した武士も多かっただろう。

 それに借財が溜まって窮乏化が加速されることもある。借財が溜まって返済不能になり、謹慎処分を受ける窮乏武士も増えてくる。西家も母の死後二三年の内に二度も謹慎処分を受ける羽目になった。そんな実態だから、母は嫁入り以来、金銭的な苦労が絶えなかった。しかし一日だって辛いと愚痴を零したことはなかった。舅・姑によく仕え、夫の世話を甲斐甲斐しくやき、子供の養育に心を砕いた。自分のことはいつも後回しで、自分はいつも古い残り物を食べていた。そしてつぎのあたっていないまともな衣服は自分用には一つも持っていなかった。

  母は体は至って丈夫で全くの病知らずで、いつも笑顔を絶やさず明るく振る舞ってきた。どんなに落ち込んだり、辛いことがあっても、母の笑顔や優しい言葉で立ち直れたものである。そしていつかは志を遂げて、母の苦労に報いようと思ってきた。そう思うとどんな辛い修行でも耐えられないことはない。壽專はたしかに人の何倍も学問に頑張った。建前では、世の為、人の為に役立ちたいからだが、本音では、母への報恩の想いがそれだけ熱かったからである。その母が思いがけなく忽然と消滅したのである。天か ら太陽が忽然と消滅して暗闇に覆われたのだ。一体自分の今までの人生は何だったのか。

  壽專は、母に心配ばかりかけて結局寿命を縮めてしまった自分の大罪を思うと、母への孝行が出来なくなった自分に何の未練があろうかと思った。できることなら母の後を追って殉死したいと思った。だが父や兄弟姉妹をのこしそんな無責任なことはできない。母も、自分が元気を取り戻して、父に孝養を尽くし、妹や弟を立派に育て上げてくれるように草場の陰で祈ってくれているに違いないのだ。

      ●先に進む     ●前に戻る     ●目次に戻る