七、主命と信念

 壽專は、父の手伝いから次第に外されていった。主命は還俗して蓄髪せよということであり、端的に言えば医者を辞めさせろという命令である。いつまでも医師の手伝いをやらせていることは主命を軽んじることになる。それに母の死後は、壽專は夢幻の中を彷徨っている感じで、とても仕事にならなかったのである。 
          
 三月三日桃の節句に、壽專が酷く落ち込んでいると聞きつけて、瘍科医学研究の若手勉強会のメンバーが励ましにきた。一人は吉次靜泰である、彼は後に森家十一代当主森伯仙の養子になり、森家十二代当主になる。彼の息子が森家を継ぐ軍医森林太郎(鴎外)である。そしてもう一人は壽專の妹ミネが後に嫁ぐことになる水津光信である。

 壽專は、初七日が過ぎてから毎日、母の倒れた悲しい思い出の神社を訪ねる習慣が出来ていた。それは母が
「家族の為に義を枉げないでよい」と言ってくれた言葉を反芻する為でもあった。そして何より母の最後の鮮烈な印象が彼を惹きつけて熄まないからである。母が微笑みながら背伸びして梅の香りを嗅いでいた、あのうっとりした表情が、壽專がかつて見たこともない、母の女らしい姿だったからである。今日は梅に代わって桃の花が咲き匂い、桜の蕾も膨らんでいた。

 
「壽專よ、おぬし主命で儒者に成れと言われたのに、瘍科医に成るんだって頑張ってくれたそうじゃないか。その話を聞いて、おぬしの瘍科医学に対する志に感銘しているところだ。靜泰も拙者もおぬしの志は決して忘れず、大志をもって瘍科医学の発展に尽くすよ。おぬしが儒者に成ってしまうのは、確かに瘍科医学にとっては大損失だが、やはり、おぬしは瘍科医で終わらせるわけにはいかん、それだけの器量があるんだ。」光信がこう切り出した。   
 
「買い被らないでくれ。儒学は漢・高麗・本朝に五万と学者がいる。重要な研究の内容を知るだけでも大変だ。その上に何か貢献をなそうとすると、拙者のような小人にはとても手に負えんのだよ。それより医学の中でも瘍科医学は、前途洋々たる未来がある。拙者はその可能性に賭けてみたいんだ。」壽專は未だ瘍科医への夢を捨てきれていない。

   靜泰は静かに諭すように言った。「若手勉強会はこれからも続けていくさ。壽專も時間があったら参加してくれていい。だがな壽專、瘍科医は怪我人は救えても、その原因になる揉め事は収められない。藩や幕府は今後ますます舵取りが難しくなっていくんだ。良い人材を登用して改革を進めていかなければ、結局藩や幕府が破産して拙者たちが路頭に迷うことになる。おぬしには貧乏な下級武士を守ってもらう為にも、是非とも儒者に成ってもらわなければならないんだ。」「そんな『蛙の子は蛙』医者の子は医者にしか成れぬ、いつまでも儒学にばかりかかずらわってないで、本気で瘍科医学をやってみないかと拙者を誘ったのは靜泰、おぬしの方だぞ。」

  靜泰は苦笑して、
「そんなこともあったな。だが主命が降りて風向きが変わったんだよ。」光信が口を挟む。「壽專、おぬし古学をやりたいとごねたそうじゃないか。その問題はもう解決したのか。」壽專は「他人事のようで悪いが、拙者に君命を覆すだけの器量も、力もある筈はないだろう。」と不満げに答えた。

  光信は呆れて、「壽專、おぬし勘違いしていないか、ここは京ではないんだ。津和野だぞ、こんな小藩で朱子学と徂徠学と二つの学派が並び立って対抗し合ったら、どうなると思う。政略的な派閥争いに利用されるだけじゃないか。それを茲監公は懸念されての宋学を尊信せよとのお達しなんだ。決して徂徠学を排斥されてのことじゃないだろう。」「確かに『素り古宋學のけちめなし、同じく脩身治國に止まるのみ、といへとも我藩従来宋學を尊信すれば、渠もまた宋學をなさんことをねかふなり』とのお言葉だったな。しかし拙者はもうあのいんちきくさい居敬法にはうんざりなんだよ。あんなもの尊信しても仕方無いじゃないか。」

  靜泰
「そんなことを言えば徂徠学だって、聖人の礼楽刑政を持ち上げているが、英吉利が阿片を清国に売りつけて戦争になり、香港を分捕った時代に聖人の礼楽刑政なんか果たして参考になるのか。そういうのを『目糞、鼻糞を笑う』と言うんだ。」光信「アッハッハ、その通りだ。学派などにこだわっていたら、ますます儒学そのものが時世の役に立たなくなる。今おぬしに拙者達が期待しているのはな、今まで信じてきた漢・本朝の学問が、どれだけこの時世に通じるものか、はっきりさせて欲しいという事だ。」壽專は儒学の上では、彼らをはるかに見下していたつもりだったのに、ぐさりと心の臓を突き刺すような鋭い批判に唖然として返答できなかった。
            
 靜泰も光信も、儒学はそれ程熱心な方ではない。壽庵同様、医学の教養として学んでいる口だ。だから学派の論争にも深入りせずに単刀直入に評論できるのだろう。光信は更に言った。
「それに茲監公は、論争で相手学派を完膚なきまでにやっつける論客を求めておられるのではない。今の時世に藩やわれわれがいかに対処すべきか、の問いに答えてくれる賢人を求めておられるのだ。その答えの内容は古学か宋学で違ってくるわけではないだ
ろう。だって古学か宋学かは、学問の仕方の違いで分かれたわけだから。」


 
「それはそうかも知れぬが、すぐに外面的な態度や姿勢で口やかましくいう連中だし、何かと学風で文句を付けられるんだよ。何せ崎門学派だからな。」靜泰はすかさず追求した。「そういうおぬしこそ、崎門学派の盲信者だったじゃないか。そして今は徂徠学の信者か、来年当たりは陽明学にぞっこんじゃないのか。徂徠学が正しいというのは今のおぬしにとってであって、十七歳のおぬしにとってではない。だったらどうして二十五歳のおぬしにとって正しいと言い切れるのだ。」

   光信は、深く頷いて「そう言えば『論語』に『四十にして惑わず。』とあるな。孔子のような聖人でさえ、四十まで迷ったのだから、おぬしがもう惑わないというのなら、自分を孔子以上の聖人だと主張していることになり、不遜の極みだぞ。」「何も拙者は将来惑わないとは言ってない。」と壽專は抗弁した。

 「それならこれから本格的に儒学修行をする若造が、偉そうに朱子学が間違っていて、徂徠学が正しいから古学をやらせてくれなどと注文をつけるな。素直に藩の命じる修行をすれば良いじゃないか。そして修行した上で、もう一度きちんと勉学した結果として、各学派の正誤・優劣を論じて報告しろよ。そうすればだれも文句は無いさ。」と靜泰は説得した。

   そして次の殺し文句を付け加えた。
「正直言って、おぬしが主命に対して自分の信念を守り抜こうという態度には、驚いたよ。これはなかなか出来ることじゃない。偉いよ。本朝では主命は絶対だからな。主命の絶対に対して信念の絶対、これじゃ埒が開かない。貫こうとすれば、腹切りだ。そこが恰好良いとも言えるが、それでは みんな困るんだ。おぬしの思いもそれで遂げられるのか。」

 これには壽專もなるほどと頷く他はなかったのだ。
「たしかに拙者にも思い上がりがあって、正しいとなったら盲信して突き進む癖があるようだ。茲監公が拙者を認めてくれたことは、死ぬほど嬉しかったさ。何といっても拙者は幼い時分から、聖賢の士に憧れ、大きく羽ばたいて雄大な偉業を成し遂げようと『鴻飛の志』を抱いてきたのだからな。その拙者に出番を与えてくれたのだから、その恩には命懸けで報いたいという気持ちはあるんだ。だが自分の信念を枉げるのは、儒者の義に悖る行為だ。義に悖っては、主君に対しても忠信に背くと苦しんできた。      

 しかし自分の信念を絶対視することは、実は逆に学問に外れるんだな。信念の内容だって、諸学の内容だって、実は、これからその真理性を懐疑の精神をもって吟味すべき相手なんだということが良く分かったよ。」   
    かくして「狼狽恍惚」の苦闘の末、「懐疑の精神」で実証的に物事を認識するべきだという、西洋近代の実証主義・功利主義の哲学受容の土壌がこの時、形成された。五月朔日(一日)蓄髪した壽專は、小池勝茂を賓と頼んで、冠礼の儀式を行い、儒者としての修行が始まった。壽專はその通称を脩亮と改めた。時はペリー来航の五年前であった。

 青雲篇終わり 

 参考文献 大久保利謙編『西周全集』宗高書房刊より第一巻より
「一 徂徠學に對する志向を述べた文」   
第三巻より「一 西家譜畧(自叙伝)  三 西家系圖 参考 森家系圖
  四 西家系譜   五 家譜略         十三 西時義墓碑銘」
  森鴎外著『西周傳』(鴎外全集第七巻、全集刊行會刊)蓮沼啓介著『西周に於ける哲
学の成立』神戸法学双書20」小泉仰著『西周と欧米思想の出会い』三嶺書房刊

 

    ●前に戻る      ●目次に戻る    ●ホームに戻る