四、朱子学から徂徠学へ  

 「先程『論語』『孟子』は仁愛による王道政治を行うべしと説くが、じゃあどうすれば良いかが学問だと言いました。それを朱子は居敬窮理として説いたと言いましたね。でもそれも結局座禅のようなものに過ぎません。私利私欲を去って、心を清めたからといって、それでじゃあどうするんだという疑問にぶつかります。これは仁愛を政治に現わすにはどうすれば良いのかと同じ疑問です。確かに純粋至善の心を持つことは大切です。でも修身の事と政治の事はきっちり区別してかからないといけない。朱子学も精神主義に陥っている点では旧態依然だということが先ず挙げられます。」

  「ちょっと待ってくれ。」壽庵は腕組みをして暫く考えた。「どうも納得いかんのう。わしが勝手に思い込んでいたのじゃが、政というものは放っておくと為政者の利権争いや勢力闘争で目茶苦茶にされてしまう。それでは民百姓は大変な迷惑じゃ。故に為政者の心掛けを正しくする為に、聖人や賢人は仁愛とか居敬の大切さを説いたのじゃろう。そなたは政治のやり方や技術を儒学に求めておるが、儒学というのは元々こころがけの学問ではなかったのか、徂徠先生もそなたも儒学に無いものねだりをしていないかのう。」

  壽專も腕組みして少し考えた。「孔子は弟子に禮・樂・射・御(乗馬)・書(読み書きから文献研究まで)・數(計算から会計まで)の六芸を教えました。ですから儒学は元々礼楽刑政の全般にわたっての学問だったのです。それが世が乱れたり、複雑になればなる程、礼楽刑政の一つ一つの中身は問われなくなって、道義とか忠恕とか仁愛とかの精神主義に偏ってしまったのです。そして宋儒となると天理や性情などの机上の空論と結びついて、やたら深遠で難解な屁理屈に堕してしまったのです。」

 「学問をやろうという人物が、端から空論だの、屁理屈だのと相手を決めつけて馬鹿にしたような口の聞きようをするのは、聞く耳には不愉快じゃ。かえって説得力が無くなるぞ、そなたの説く議論に。」

  確かにそうだ、だがここで朱子学の誤りを全部説明するには、どうしても論証抜きの決めつけの羅列になってしまう。儒学嫌いの筈の父上が私と儒学論争をして、私を打ち負かし、崎門学派に戻そうとされているのか。壽專は壽庵の意図を計りかねた。  

 「私は四書五経を読んでから、宋儒の書を読んだと言いましたが、四書五経の解釈は実は朱子の解釈の受け売りだったのです。朱子の誤りは今の世の言葉の意味を秦漢以前の時代に当てはめて、自分達の学説に都合良く解釈したものだったのです。ですから本当に四書五経を読んでいたとは言えません。時代と共に言葉の意味も変遷しています。先ず秦漢以前の書から『古言』の意味をしっかり確定した上で、はじめて四書や六経(書経・詩経・易経・樂記・禮記・春秋)の解読ができるのです。それで徂徠先生は『古文辞学』を提唱されたのです。

 我々は宋儒の書に慣らされ、それを真理の基準にしてから、宋儒の言語宇宙で捉えられ、宋儒の価値観で評価できる四書五経しか知らなかったという徂徠先生の発見は、天の日が地の回りを回っていると考えていたのが、地が天の日の回りを回っていると分かった時のような衝撃を私に与えたのです。」いままで十七年間信じ込んでいた宋儒の世界が大音響と共に崩れ去り、まるでうたかたの夢が覚めるように、新しい真理の世界が拓けたと壽專には思われたのである。

 「徂徠先生の偉い事はよう分かっておる。確かに古典解釈は言葉の意味の変遷に注意しなければならんの。これは国学の本居宣長も強く主張しておる。賀茂真淵は『万葉集』の研究で有名だが、彼は本当は『古事記』の研究をやりたかったそうじゃ。が、古い時代の言葉の意味がよう分かっておらぬと、的外れの解釈になってしまう。先ず『万葉集』の解釈から入ったのだ。結局『古事記』の研究はやれず、宣長に託したそうな。松坂の一期一会の宿での。京での、宣長を崇拝してた連れからの耳学問じゃな。ま、それはそうだが、古典の解釈が多少おかしいところがあろうとも、だからといって理気二元論や居敬窮理の学説まで間違ってることにはならんじゃろう。」          

 父の津和野での生活は貧乏瘍科医の印象が強い。医者としての腕は確かで門弟もいたが、台所はいつも火の車であった。それでも歌を詠む風流心はあって、時々息子にも披露したことがあった。こういう風雅を育てた京遊学の頃の父はきっと若き春を満喫したに違いない。壽專は養子の父が、崎門派の堅物の義父の許でどんなに窮屈な思いをしていたか、 それだけに京遊学の解放感はひとしおだったろうと思うと、心なしかほっとするものを感じた。     

 「理気二元論ですが、朱子学では、世界はことわりを表す『理』と材質を表す『気』の二要素から成る、と考えます。でも実際は『気(材質)』が在るだけでして、『理』はいつも気の理に過ぎません。」

 「そういやあ、王陽明は『理』を見ようと庭の竹を鋭く切って、その切り口を十日程じっと眺めていたが見ることが叶わなかったので、理と気を分けて考えるのは間違いだと言ったそうじゃ。しかし物はたしかに何かの固まりとして考えれば気として在るんだが、同時に何らかの根拠があって、それなりの関わり合いで、なんらかの形や仕組みをもって在るわけじゃろ。その面を見れば理が在っての気ということもできるんじゃないかのう。」

 「父上、何でもものは言いようです。物事の理を明らかにすることは大切で、何事も理があって成り立っていることも確かです。でも、朱子学は先ず理想的な理があって、それが気を纏って現れると考えるのです。そして気質の濁りや汚れで不完全なものになります。ですから気質を変化させたり、無化させたりして純粋至善の理に戻す『復初』が主張さ れます。

 人の心も、『理』の面は純粋至善の心なんです。これが元々の『本然の性』つまり『性』だとします。いわゆる『性即理』ですね。『気』の面は、欲望や衝動など身体的な気に影響される『気質の性』つまり『情』に当たります。そして気質の性が強すぎると、濁ったり波立ったりするものですから、物事を正しく心に映し出せなくなるというのです。そこで気質を変化させ、人欲を無化して『本然の性』である理に戻れば、物事の理と一つになれますから、天理を身に受け、物事の理を窮めることができるというのです。」父は頷きながら聞いていた。

  「一々尤もな道理じゃないか。『明鏡止水』というか、心に少しでも濁りや迷いがあったり、欲望に囚われていては、物事の道理が分からないというのじゃろう。これはどんな学問をするときでも心得ておかねばならん態度じゃ。特に医者の仕事は少しの気の迷い、心の動揺も許されないぞ。なにしろ医者の指先一つで患者が三途の川を渡ってしまうことも、途中で引き返して来ることもあるのだからのう。」そうだ一々尤もだ、それで居敬法なるものをやらされて、いかにも偉くなったつもりでいるが、それでどんな立派な政が行えたというんだ。貧乏な下級武士からも禄高の一部を取り上げて、藩財政の建て直しを計るなどする他は考えつかないじゃないか。だがこれは父上に申し上げる事でもあるまい。

 「蛙の子は蛙、お玉杓子はドジョウには成れません。気質を変えられるなどと考えるのが、身勝手な思い上がりに過ぎないのです。まるで道教の仙人術のような発想です。それにだれでも聖人に成れたりするわけはないのです。それを座禅をすれば仏に成れるという仏教の物真似みたいな居敬法で聖人に成れるなど、今にして思えば、子供騙しのようなものです。
                  
 それに居敬法で人欲の無くなった人が政治を行うとします。果たして良い政治ができるでしょうか。為政者自身は寡欲な人に成っていますから、民百姓は随分欲のつっぱっ連中に見えるでしょう。そこで為政者はつい民百姓に贅沢を止めて、倹約に励むよう説くことになります。それこそ寡欲な人が指導するのですから、極貧の生活でも結構贅沢に見えるでしょう。為政者はすっかり『聖人の治』を行っているつもりかもしれませんが、民百姓にはとんでもない苛政になる恐れがあります。人は欲があるから働く、そうでしょう。腹が減るから飯を食いたい。この人欲を充たす為に田を耕します。やはり人欲があってこそ人は人であるのですから、人欲こそ生まれつきの本質、即ち性なのです。これを浄盡するどとんでもないことなのです。」

  
  「たしかに朱子は人欲を無にしたら、誠立ちて明通ず、と述べておるが、そのままそこだけ切り離して字句通り受け止めるのは、揚げ足取りじゃないのか。朱子のいう人欲の無化はあくまで居敬つまり身を慎むということじゃろ。例えば、腹が減っても断食して、飯を食わないことが人欲の無化じゃなかろう。そんなことでは目を廻してしまうから、かえって物事を冷静に凝視することになるまい。人欲の無化はだから欲に惑わされないという意味じゃろう。まさか欲望を無くすことは意味しないだろう。」
「じゃあ、そういう表現をしなければよいでしょう。」
      
 
壽庵は議論の喜びを思い出している。津和野では崎門流なので、一方的に教え込むだけだ。時雍にはとても異論など言えなかった。壽庵にも門弟がいるが、みんな受け身で議論の火花は飛ばない。京の議論はおもしろかった。無論専門の医術の事も議論したが、政治向きのことも。儒学、仏教、国学、歌論、どんな女が良いかなどでも飲み明かしながら議論した。それで知らず知らずに議論に強くなっていたし、互いに啓発し合えたので、いろんな書物を廻し読みしたものである。 
                
 壽庵は決して朱子学を支持して、徂徠学を排斥するつもりはない。また息子に儒学者の道を歩ませる為に朱子学を庇っているのでもない。息子が薄弱な根拠で一方の学派から他方の学派に移ったり、薄弱な議論を鵜呑みにして相手を論難する態度を批判しているのである。だが壽專は、父に無理やり議論でやり込められて朱子学者にさせられることに反発して、本気で議論し始めている。それに自他共に認める英才が、儒学嫌いの筈の壽庵に議
論で負けるのは沽券に係わるのだ。
                  

 「それはのう、壽專、時世じゃ、時世がそうさせるのじゃ。そなたも宋儒の書をそれこそ反吐が出るまで読んだ口だから、分かるじゃろう。宋は金に圧迫されて淮河の南に追いやられていた。その上、金に毎年の莫大な贈り物を強制され、亡国の危地に瀕しておった。そこで朱熹等憂国の志士達が尊王攘夷を掲げ、富国強兵策を取って、金を万里の長城の北に追い払おうと働きかけていた。その為には挙国一致で窮乏生活に耐え、軍備を整え、兵を訓練しなければならんのだ。そこで欲に流されることを堅く戒めた考え方が、受けたんだよ。  だから文意を正確に受け止めるには、その文章の書かれた時世の動き、時世の課題からつまり時代背景からきちんと読み取らなければならんのだ。」
     

 なるほど父上は今の御時世も次第に宋に似てきていると仰りたいのだな。それで宋の時世の危地が生んだ朱子学にも学び直すべき点があるということか。一般論としては拝聴しておこう、と壽專は心の中でつぶやいた。     
 「居敬窮理は、『正心誠意』すれば『格物致知』つまり物にいたりて知を致すという『大学』の名文句と結びついています。つまり『居敬』すれば『窮理』し、物事の道理が分かってしまうという構造になっています。徂徠先生に言わせれば、これでは物事の道理を物事の働きによって説明する学問は不要です。そして『理』と『気』は別ですから、どんな気つまり材質の人であっても、理を窮め聖人に成れるのです。それならばみんなに居敬を勧めれば済みます。いかに礼楽刑政を行うかの学問など要りません。」更に続けようとした壽專を壽庵は制止した。
       

  「待て、暫く。どうもおかしいぞ。次元の違うことを混同していないか。朱子は身を慎み、心を透明にしておかないと物事の理は正しく捉えられないという。そこまでは正しい筈じゃ。その事と、ではその上で、物事の道理を物事の働きに即して知るにはどうしたらよいかという学問は別な筈じゃろ。徂徠は朱子がその二つを一つの事として説いているから誤りだという。でも朱子にすれば前の事しか言っていないと弁解するかも知れぬではないか。
     
 それからだれでも聖人に成れるわけではないのはその通りじゃが、だれもが聖人に成れる可能性は秘めているのではないかのう。逆に徂徠の言うように特定の人だけが材質によって聖人に成れるとすると、その聖人の定めた礼楽刑政は完全無欠だということに成ってしまうじゃろう。ところが実際は、どうじゃ。完全無欠じゃないから、廃れてしまったのじゃないのかのう。

 つまりこれは聖人とは何かをどう約束するかで決まる。礼楽刑政を定めるのが聖人というのなら、だれでも努力次第である程度立派な礼楽刑政を定められるじゃろう。つまりだれでも聖人に成れる可能性はあるのじゃ。じゃが何時の時代に成ってもそこに帰ればよいような完全無欠の礼楽刑政を定めるのが聖人というのなら、それはまだ出現してはおらぬし、全く特別の材質を備えたお方であろうな。」聖人論はたしかに徂徠学の急所だ。壽專は隠されていた父壽庵の学才を改めて見直した。

 議論が酣になったがどうも家中が騒がしくなった。壽專より四歳年下の妹ミネが、母上の容体がおかしいと駆け込んで来たのだ。どうもミネが寝かしつけていた壽丸が夜尿をし、濡れたままで母カネのところへ訴えにいったらしい。それをミネもまだ十歳の妹ノブも、寝入っていて気付かなかった。母カネは壽丸をあやしつけて、着替えさせているうちに、腹部に痛みを覚えてうずくまり、壽丸が大声で泣き出したのである。もはや議論どころではない。

 

 

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