二、聖人への道 

 壽庵は、壽專が幼いときには、壽專の教育には関与しなかった。先代壽庵即ち時雍が直々に孫に仕込んだのだ。先代にとっては養子も孫も学問上では自分の門弟である。養子には医学を孫には儒学を徹底的に鍛えたのである。そして養子の嫁には三代時榮の孫娘を簗田家から迎えて、西家の血脈にも配慮した。       
 壽庵は義父の早期教育を、内心おもしろくは感じていなかった。時分の子は自分で教育したい。それに小さい子供に正座させ、居敬法など仕込んで何の役に立つのだろう。經太郎はどうせ医師になるのである。儒学に邁進させても、そのうち医者にどうして国を治める学問が必要なのかと、反発されるに違いない。もっと実際的な薬草の見つけ方や栽培法とかさまざまな養生についての幅広い教育、それに歌舞音曲・和歌・俳句など趣味のある豊かな人生を送るための教育をしたかったのである。ところがこうして義父の教育が効を奏する結果となった。たしかに貧乏医者に終わらせるのは不憫である。是非とも儒学者として大成させてやりたいものだ。父としてはそう思うのが当然である。

 「本当は私はお祖父様が怖かったのかもしれません。」「何を言う、お祖父様がそなたを叱ったところなど見たことがないぞ。」四十を過ぎてから酒量が減ったようだが、壽庵は義父が亡くなってから晩酌を欠かさなくなった。壽專も十八位から少し付き合って飲むことがあった。今夜は父と子でひとつじっくり話し合い、壽專の屈折した胸の思いを聞いてやらねばならない。それには酒は欠かせない。

 「確かにそうでした、それは叱られるのが怖くて先手を打っていたからです。お祖父様には、『居敬法』だと言って、いつも胸をぴんと張って不動の姿勢でないと精神まで曲がってしまうと、禅のようなやり方で躾けられました。山崎闇斎先生の流れを汲む崎門学派の、慎みが内にあれば義が外に現れるという『敬内義外』の一点張りなんです。小さい頃 にばあやにだっこされて、薪の上に登らされ、正座させられた覚えがあります。」「が、そなたは決して嫌がったり怖がったり、泣いたりわめいたりはしなかったのう。むしろ決然として自分自身を鍛えるような凛々しい態度で向かって、それを楽しんでいるようにすら見えた。末頼もしい子じゃと、いつもお褒めに預かっていたものだ。」

 少し沈黙してから、勧められた杯を飲み干し、壽專は躊躇いがちに語った。「お祖父様には、やる気見せていれば御機嫌が良いのです。少々厳しい修行もありましたが、根はお優しいのでそれ程無理はおっしゃいません。それに学問上のことでしたら、お祖父様が繰り返し強調される肝心要の筋を押さえていれば、瑣末な事はお祖父様自身がこだわられな いので、割りに楽でした。父上のご様子を窺っていると、どんな場面にどんな行動を取れば、お祖父様は御機嫌斜めで、どんな風に振る舞えば御機嫌が良いか要領が分かっていましたので、私は狡く立ち回っていたのです。」「じゃがお祖父様がそなたが九歳で亡くなられてからも、そなたは偏屈な程学問一筋で頑張っていたじゃないか。わしは大してそなたには構ってやれなかったのに。」

 「父上は本当は崎門流はお好きじゃない。父上は学問というものを決して精神の錬磨とは捉えておられませんでしょう。むしろ学問というものを疑問にぶつかったら、自分でじっくり考えてみる、その糧と受け止めておられるのでしょう。だからお仕着せの学問や躾やきりっとした姿勢などにそれ程、重きは置いておられない。それで私を遠ざけて、他人に学問を学ばせになられたのでしょう。」息子が父に詰問するなどそれまで想像だにできなかったことだ。父は少したじろいた。

 「いやあわしは一介の医師に過ぎん。儒学を儒学として学ぶ姿勢はなかった。あくまで医学に必要な教養として学んだだけで、そなたのような秀才に教えるのはやはり立派な儒学者でないとな。それでも十一歳まではそなたの学問に付き合ったじゃないか。医学では教えることはあるが、儒学はやはり藩黌養老館で学ばせんとな。そなたの才覚に惚れ込ん で、山口愼齋先生、叔父さんの森秀庵先生、小野寺藤太郎先生、瓜生重藏先生、村田要藏先生みんな喜んで教えて下さっていたぞ。」とても懐かしそうに語った。

 「みんな崎門流のゴリゴリの朱子学でした。周囲の期待が強いので私も大志を抱いて、てっきり聖人君子に成れるつもりで、学問に打ち込みました。そして朱子学が基準になって生活をするのが正しいことだという思い込みが染み着いてしまっていたのです。」「そういえばそなたは堅物で通っていて、少しでも礼に外れるようなことはしなかった。連れと悪ふざけをするような事も一切無かったのう。もう少し融通が効かないものかと、これはお祖父様の躾が効き過ぎだと、わしも不憫に感じておった。じゃがここ二年位は伸び伸びしてるようじゃな。連れと遊ぶこともあるんじゃろ。少しは酒もたしなめるようになったし。」  

 「私は十二歳には四書五経は終えて、朱子の『近思録』に入っていました。瓜生先生に は詩を賦すことも教わりました。漢籍が読めて、その意味がたとえ先生方の受け売りでも納得できて、しかも漢文を書くことができる、それだけで、自分はすっかり聖人君子の心持ちだったのです。ですから聖人気取りで大言を吐き、さも偉そうに郷の人まで教え諭そ うとするものですから、一体何様のつもりだと鼻つまみ者でした。今から思うとませたこ憎たらしいわっぱだったと気恥ずかしい限りですが、当時は人々を蔑んでは嘆かわしいと思っておりました。無論、飲み、搏つ、買う、猟をするなど下賤な遊びは一切拒絶して、高尚なことしかやりませんでしたから、本当に気の置ける友というのもできませんでした。心中とても孤独で淋しかったのですが、それも聖人君子の道故と納得しようとしていました。」

 「それが瘍科医に成るしかないと悟って挫折し、それで堅さが取れたのか。それは気の毒なことよなあ。」更に一献、父は哀れな息子に酒を注いだ。息子は注がれた溢れそうな酒を暫く凝視したまま、沈黙を守っていた。飲まずに杯を置くと、「父上、私はやっぱりもう朱子学はやれません。もうこりごりです。このお話し、折角の殿の思し召しですが、断わらして下さい。」と言い切った。     

 父は拳を握りしめて、身震いし、いきなり壽專を殴り付けた。「たわけを申すな。学問は己の身勝手でするものではないわ。世を憂い、国を救い、民を安んじる為にするものぞ。それをこりごりなどと、そなたはただ己が褒められんが為に学問をしてきたのか。そんな知識は百害あって一利無し。そんな根性で医者になるつもりなら、父は断じて許さんぞ 。」壽專はこれまで父から殴られた事はついぞなかったので、仰天したが、すぐにきっぱりと言い返した。「正しい学問ならもちろん喜んでお受けしますが、朱子学は根本的に間違っております。ですから節を枉げる事はできないのです。」

 「何と生意気な口をきく奴じゃ。確かにそなたはおつむは良いかも知れぬが、朱子学が 間違っているなどと言い切れる程、学を極めたのか。朱子学が間違っていると思うなら、それこそお引き受けして、その間違いを正すべきじゃろうが。」間髪を入れず壽專は大声で言った。「それができる位なら、お断りは致しません。崎門学派の面々は、朱子学に疑問を呈すること自体、罪悪と決めつけてしまうのです。すぐに破門に成ってしまい、一門の恥では済みませんよ。」意外にもこの言葉に、父はニヤリとしたのだ。「壽專、そなた青いのう。青い、青い。一体誰の事を考えているのか知らんが、崎門学派に属していても、それは係累上のこと、随分柔軟な先生も沢山おられるものじゃ。異端書を感心して読ま れたり、和歌を嗜まれたりで、風流を好まれる先生もおられる。決して堅物ばかりじゃない。京遊学の折りは、そんな先生に良くお目に掛かったものじゃ。が、どうしてまた朱子学の過ちとやらに気付いたのだ。」

 儒学の事はまるで門外漢の顔をしながら、壽庵が崎門学派の裏まで通じているような言葉に壽專は気を呑まれた。

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