西周物語ー鴻飛の人ー青雲篇ー  

           一、青天の霹靂

 「御用ノ義之有リ候ニ付明日辰ノ刻父子同道ニテ御用席ヘ罷出ツヘキ旨申ツケル」藩庁からの突然の呼び出しであった。嘉永元年(西暦一八四八年)二月朔日(一日)壽專(周の青年名、実名は時懋)は後二日で二十歳になる。まだ瘍科(外科)医修行中の身故、用件に見当などつかめない。父壽庵(実名、時義)は、藩の百石取りの瘍科医である。

 当職の大岡平助は先ず改まってお達しを読み上げた。「其許 壽專儀御思召被爲在一代還俗被仰付候尤儒學修行可仕候(そこもとせがれじゅせんぎおぼしめしなされるありいちだいげんぞくおうせつけられそうろう、ことにじゅがくしゅぎょうつかまつるべくそうろう)」一瞬父子はあっけにとられ顔を見合わせた。即刻出る筈の「あり難き幸せ」という言葉がすぐには出ず、壽專は心無しか顔を引きつらせている気配だった。そこで大岡は破顔して「壽專良く聴け、殿より直々の御思召しじゃ、一代還俗して、儒学修行仕るべしとのな。そなたの才覚が認められたのじゃで。めでたいことよなあ。士は己を知る者の為に死ぬと言う。殿の恩義に報いる為に学問に励まれよ。」  

 「父上、良いのですか、私が家業を継がずとも。」帰り道、壽專は父壽庵に尋ねた。壽庵は鼻高々で上機嫌だったのだ。「流石はまだ二十四歳の若さで英主の誉れ高き茲監様じゃ。学問を盛んにして藩政の建て直しをなさろうとのお心に相違ない。家業の事などもう気にせずともよいぞ。壽丸に継がせればよいのだから。」「まだ生まれて丸三年も経ってませんよ、壽丸は。」「なあに壽丸が医者に向いてなければ、養子を貰う手がある。わしも森周庵の息子覺馬だが、十歳で西家四代当主時雍つまりお祖父様の養子になり時義と改め、今は瘍科医をやっておる。そなたの母方のお祖父様、正敏様も西家三代当主時榮の息子だったが、医業を継ぐのがお嫌で簗田家の養子に入られた。ま、そんなことよりそなたは自分の才能を信じて、主君の期待に応えてくれれば、それが何よりの親孝行じゃ。」

  このところ母兼は四十過ぎの高齢妊娠のせいか疲れ易くて、脚がだるそうだ。母も朗報だと「經太郎(壽專の幼名)が学問の道に進めるなんて、お祖父様が幼い經太郎に、なかなか筋がいいと、『孝經』や四書五経をお仕込みになった甲斐があったというものです。あれは何歳の時でしたっけ。」「まだ四歳の經太郎が甲高い可愛い声で、『身體髪膚之ヲ 父母ニ受ク、敢ヘテ毀傷セサルハ、孝之始メ也。身ヲ立テ道ヲ行イ、名ヲ後世ニ揚ク、以テ父母ヲ顯スルハ、孝之終リ也。』とすらすら素読するものじゃから、父上はほんに調子に乗られて、六歳の時には四書の素読をさせるだけでなく、堯舜や孔孟について蘊蓄を話して聞かされるそれを經太郎は背筋をピンと伸ばして、瞳を輝かして時々頷きながら拝聴していたものじゃ。父上が生きておられたらさぞかしお喜びに・・・・。」父は言葉を詰まらせた。母も苦労の甲斐があったと涙を溜めている。     

 「でも壽專は今では瘍科医に成りたいのです。医者の子は医者に成るしかないのが世の定めと、やっと儒学への憧れを断ち切って、どうせなら瘍科の一世の宗に成るんだと心に決め、医術の修行に一心不乱に打ち込めるようになったのに、今更儒学の道に進めとは・・・・。」壽專は顔を強張らせている。歯を食い縛って言葉にできない思いを噛み締めているようだ。

 壽專の反応は父には到底解せなかった。「なんと埒も無い。百石取りの医師の家業がどんなに苦しいものか、お前もよう分かっていよう。そりゃあ医術も立派な業じゃよ。父もお祖父様も仕事には誇りを持ってきた。西家は元々瘍科医が本業じゃが、時雍様は井關家から養子に入られたので、親元の本科の仕事も兼ねられて十石加増されたのじゃわしも十代で京に遊学し、古医方を吉益先生に、瘍科を堤先生に教わった。その為に並み大抵の苦労じゃなかった。医者という稼業は、特に藩医は、幾ら新しい技術を身につけたところで百石取りは百石取り、それでこの貧乏から抜け出せるわけじゃないのじゃ。」

 「同じ医業でも瘍科は軽んじられていて、私も幼い頃は、我が家の本業が瘍科だというのが、とても引け目に感じておりました。でもみんなが本科ばかりだと怪我人を治療したり、手術の上手い医者がいなくなります。瘍科が軽んじられているために、瘍科医で名を馳せた大家はいません。オランダでは瘍科も本科に同様重んじられているそうではありませんか。私は漢方だけでなく、蘭方も兼修して、両者の長所を継ぎ足して総合したような瘍科医学を打ち立てるのです。幸い同じ思いの友を見出し、一緒に勉強会を作って、励まし合い切磋琢磨し合って、自分達の進むべき大道に志を堅くしているのです。」と「青雲の志」を語った。

 母は浮腫んだ脚を摩るのを止め、正座して言う。「壽專、それでこそ西家の長子です。人の道はその心掛けでなければなりません。今の言葉を聞いて母はそなたを本当に頼もしく、誇りに思います。でもね壽專、そなたは医師である前に津和野藩の藩士です。主君がそなたを見込まれて学才が朽ちるのを惜しまれたのですよ。その期待に応えようとするの が忠義というものでしょう。いや主君だけではありません。そなたの学才や学問好きはこの津和野では知らない者はだれもいません。父母も親族も亡きお祖父様も、津和野中の人々がみんなそなたが学問を成就できることを祈っているのですよ。」息が切れてきて、母は疲れを訴えたので、父はその夜は早く母と妹と弟を寝かせた。母はこれまで父より早く寝たことはついぞなかったのだが。

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