第四節 価値と価値意識

身体的自己意識について

  人間は商品交換を始めることによって人間になったと先に述べました。それは自己を生産物としての商品にすることを意味していましたが、同時にそれは自己を他人に譲渡すること、つまり自己を他者化することにほかなりません。こうして人間は、生産物としての商品を他者として意識するので、自己自身を商品としての生産物ではないものとして意識します。自己意識は自己を自己でないものではないものとして措定します。自己でないものではないもの、それは表象ではないものです。表象は事物の表象として受け止められ、事物は自己にとって外界を構成します。何故なら、表象は自己と他者の生理的統一、主・客未分化な全体ですが、それを他者と見なすことで自己意識が成立したからです。しかし、表象でない自己は何ものでもないことになり、かえって自己は見出せません。そこで自己は身体としての表象を他の表象から区別して、自己自身として措定します。

 かくして、身体的な自己意識が成立し、意識、感性、意志等は身体のそれとして捉えられます。例えば木の表象は、木が身体に自己を対象化した意識であり、その意味では木の意識ですが、その面は捨象され、もっぱら、身体が木を自己の意識としてもつ面だけが採り上げられます。身体を自己として意識し、感性や意志を身体のそれと感じると、自己意識の有限性を身体の有限性の自覚によって知ります。身体の有限性を運命として受げ止め、身体の官能を自己の業として観ずると、それに陶酔して、自己の運命を忘れようとする意識と、結局それも空しいという意識も生じます。まさししく、自己をいかに規定し、いかに生くべきかという苦悩が生じるのです。

社会的価値と社会人

 人間は商品として自己を対象化し、その商品を支配するカとしてまず存在しなければなりません。この支配力が価値であります。価値はしたがって、何はともあれ第一義的な人間の規定として、人間の本質です。彼らは自己を商品に対する、ひいてはそれを創出する他人に対する社会的支配力として定在させるべく努力します。一人前の社会人、市民とは自己をこのような社会的価値として定在させることができる人間に他なりません。

 彼らは自己が価値であることを、自己を自己の提出する商品であるという形で示します。かくして彼の仕事、即ち彼が産出する生産物が価値としての彼自身であるのです。彼はそれによって社会的価値を認められ、一人前の社会人になります。彼はこの社会による彼に対する肯定によって自己を肯定し、自己の存在の資格を得、自分自身を意義あるものとして自覚します。ですから、彼らは自己をより大なる価値、即ち社会的物的支配力にしようと競い合い、物を奪い合い、互いに支配し合います。市民社会は万人の万人に対する闘争の修羅場と化し、人びとはその中で、社会の冷酷な評価を受け、自己の価値の卑小さに自信を失い、再び価値として生きることの意義を見失いそうになります。

身体的自己の有限性と宗教的意識

 人間は自己を身体として捉えることによって、個体的生命の有限性、それを自己とする自己意識の有限性に悩み、しかも、自己を価値として捉える時に、自己の社会的卑小性、無力性に失望します。人間はそれゆえ、永遠の生命を憧憬し、無限の価値を希求します。自己の生命が個的身体の限界を超えて連綿と生き続げること、自己の価値が絶対的な評価を受けとること、これが人間の自已意識の最大の希望であり、切実な願いです。この願いは宗教的意識として表明されます。

 宗教は絶対者への関わり方によって分類されます。一つは絶対者への融合の形式をとります。呪術・祈祷・狂乱(乱舞)・冥想などの方法によって、自己意識は絶対者と自己を隔てる身体的束縛から自由となり、絶対者に自己を融合させようとします。今一つは、絶対者との絶対的区別を自覚し、絶対者による救いを信じる形式をとります。いずれにしても、絶対者との関わりによって自己の有限性を克服し、絶対的価値づけを得ようとするのです。しかし、観念的な宗教的生活は、現実の宗教的生活によって培われなけれぱ育ちません。この現実生活の宗教性が家族において典型的に表現されます。

家族の宗教性、夫婦・親子の一体性

 「父なる神」、「天のお父様」などと神が父にたとえられたり、神父と牧師が呼ぱれたりすることがあります。これらはあくまで比喩ですが、家族的関係が宗教性を帯びていることを示唆するものといえるでしょう。新興宗教では家族的結合を求め、教祖が「お父様」と呼ばれたがる傾向が見られます。明らかに、家族を宗教的に捉えているのが、曽晢の著書といわれる『孝経』です『孝経』は、孝を仁の本体として把え、あらゆる人倫の根本として据え、天地自然の摂理も孝に基づくとします。「父を厳(たっと)ぶは父を天に配するより大なるはなし」とし、父を天として崇め祭ることに孝の極致を見出します。

 「身体髪膚、これ父母に受く、あえて段傷せざるは孝の始めなり」というように、子の身体は父母の遺体であり、その生命を受け継いだものです。子のなかに自已の生命の継続を確信Lようとし、子と親の一体性の信仰によって、自己の有限性を超えようとするのです。子はやがて、親から自立しますが、再び自分の子をもつことによって、親に連なる自己を再発見します。親は子に自らの生命を託し、子は親を自己の前身、拠り所とする関係、この関係の連綿を絶えることのない連続、そこに『孝経』は最大の意義を見出します。

 へ-ゲルは『法の哲学』で家族を人倫の基礎として捉えています。彼は夫婦単位の家族を考えています。夫婦間の結合とその証しとして子の養育、それを通して、家産として所有が伝えられる関係を捉えたのです。

 夫婦は互いに半身として結合して一体となり、一つの人格的主体を形成します。この結合は、性的結合であり、そこで互いに互いを自己の分かちがたい半身として確認しようとします。もし、この関係が取りかえのきく関係ならぱ、その結合は偶然的であり、一時的であり、つかのまの性的陶酔感の中だけの一体感に終わります。ですから、一夫一婦制という婚姻形態は、この関係が絶対的で、不可分離なものであることを確証させる形式です。

 夫婦関係の絶対性によって、両者は互いに不可分の半身であること、したがってもはや、他人ではないことを信じ合います。そこに、互いのためにつくし合うことがけっして他人への犠牲ではなく、自分自身のためであると捉えられます。それゆえ、性的放縦、婚外交渉は、この関係への裏切りと
して、夫婦間の倫理に対する背徳行為です。夫婦関係の絶対性への要求は、婚前に遡り、処女崇拝の意識を乎び起こします。性交は夫婦間の一体性を確証するための神聖な儀式であるべきだと捉えられます。

家族主義的価値観の成立

 夫婦、親子の一体性に対する信仰によって、家族は絶対的な自己関係となります。そこでは、自己は家族にとって、家族のために存在する自己となり、家族の主体となります。かくして、一家の稼ぎ手は、家族のために働き、家族のために生き、家族に見守られて死ぬことを望みます。家族を主体として捉えたとき、自己は永遠に連綿と生き続ける生命と一つになり、そのために生きることに自己の価値、存在意義を見出すのです。

 彼は家族のために社会的な物的支配カ、価値にならなげればなりません。彼は家族の必要とする衣食住のすべてを支配できるだけの社会的力をもつ必要があります。彼は家族にとってすべての必要な物資の創造者として現われ、万物の創造者、絶対者とLての地位を与えられます。「父を天に配する」とはこの事です。かくして彼は、家族において絶対的な価値、絶対者となります。

 このように家族にとってかけがえのない存在として認められることによって、稼ぎ手は自己の存在意義を与えられ、自己の有限性、相対性を止揚できるのですから、彼にすれば家族は自己に価値を付し、生きがいを付与する絶対者であり、救い主です。山上憶良の「銀も、金も玉も何せむに、まされる宝、子にしかめやも」という歌を思い出して下さい。

 社会にとって卑小にすぎない自己の価値も、家族にとっては絶対的になるこの関係によって、価値は、もはや単なる社会的物的支配力という意味だけでなく、神聖な意味、家族関係のかげがえのなさに転化します。もちろん、それは物的支配力をもっていることが前提ですが、たとえ貧しくても、家族の絶対的自己関係を支えているという意味では、尊さにかわりはありません。やがて、価値は、絶対的な自己関係そのもの、かけがえのない人間関係、愛情等として捉え返されるようになり、家族主義的価値観が形成されます。市民社会の人間は、日常生活においては、この価値観によって生きているのだといえます。

家族の偽臓性、貨幣の魔術

 我々は、この価値観を無自覚に抱いていますから、この価値観のもっている宗教性、そこに宿っている偽瞞性については往々にして無頓着です。家族の衣食住は、自然とそれに働きかける人びとの生産物であり、一家の稼ぎ手が創造しているのは、そのなかの一種類か、その部品あるいは材料にすぎません。それも自然自身の創造を手助けしているだけです。つまり、家族は人間的自然の再生産、生産物の生産によって支えられているのです。ところが、あたかも、稼ぎ手がすべてを創出したかに憶い込み、彼にのみ養われているかの錯覚に捉われ、社会性を喪失します。この錯視は人間の商品性に起因しています。

 人間は、商品として存在しているため、自己を価値として規定せざるをえません。彼は自己の価値を商品としての生産物に表出し、それを交換することによって社会的に承認されます。そこで、彼の生産物は価値としては、他人の生産物とは同一であり、無差別となります。かくして、いかなる生産物に対しても平等の支配力を行使できる力となります。この力は貨幣に物化されます。貨幣を得ることによって、人はあらゆる生産物に対する抽象的な支配力=価値となり、彼は一種類の商品を生産するだけで全種類の商品を生産したことになります。この人間の貨幣性が、個人を有限者から絶対者へたかめます。つまり、個人は、抽象に還元されることによって、同時に類として存在するのです。

 たしかに、個人は人間的自然を構成し、類を構成し、類的力として存在しています。その意味では、個人が類の定在であることは否定できません。しかし、それは、人間的自然、類の有機的全体を前提としてもっているからです。価値関係はそれらを捨象し、抽象して、あたかも、個人がそれ自身
で、自立した絶対者であるかに錯視させるところに問題があるのです。彼らは、有機的全体を捨象し、ただ自己が社会的支配力、価値として認められれぱよいと考え、そのためなら、何をしてもよいと考える傾向をもちます。そして互いに社会的支配力を競い合い、物を奪い合い、相互に支配し合うという市民社会の「万人に対する万人の闘争」に身をゆだね、その結果、互いに傷つけ合い、大多数を窮乏化させ、自然を手段化することによってやみくもに破壊するにいたります。しかも、それを家族主義的価値観によって正当化し、善人の行為として捉えようとします。

価値と価値意識のずれ

 我々は、家族主義的価値観がいかにして必然的に生じたかを捉え、そのことによって、人間の価値意識の特色を把握するとともに、その宗教性、偽瞞性をも冷静に捉え返して、それの超克への道を探らなけれぱなりません。

 家族主義的価値観は、商品としての人間の価値意識です。ですから、当然、価値、社会的物的支配力を価値として捉えています。しかし、それだけでは救われないので、かけがえのない人間関係、その愛情を至上の価値として捉える姿勢を示します。

 ところが、価値とはもともと、社会的物的支配力であり、商品の属性としては交換価値にほかなりません。かけがえがないということは、交換できないことですから、これは価値ではない筈です。価値でないものを価値として捉えるところに、価値と価値意識のずれがあります。

 本当に大切なものを価値として捉えようとする意識がそこには見られます。しかし、大切さと価値とは本来別の範疇です。商品社会ではすべての大切なもの、あらゆる欲求の対象は商品化され、価値として流通し、手に入れることができるのですから、商品価値をもたない物はいかに主観的に大切であっても、社会的、客観的には大切な物としては認められていないことになります。この事態によって、人びとは大切なものを手に入れるために、社会的物的支配力として価値を手にし、価値によってそれを評価し、価値としてそれを手に入れる必要があります。したがって大切さと価値の区別は解消され、両者は混同されることになります。

 このように価値に支配された社会では、大切さと価値はまず同義として捉えられます。しかし、人びとのもつ価値は限られて、貧窮にあえいでいますから、貨幣によって手に入れられる物に対する欲望は抑制され、そうした物に対する反発心が禁欲心とともに生じます。彼らは分相応の価値に安んじ、それで手に入れられる物で物質的には満足すべきだと自分たちにいい聞かせます。本当に大切なもの(すでに偏値と混同され、価値と呼ぱれている)は、お金で手に入れられるもの、お金に替えられるものではなく、かけがえのないもの、即ち、家族的紐帯であり、それを慈しむ心なのです。かくして真の価値、至上の価値は本来の価値ではなく、本来価値に入らなかったものに求められるのです。真善美や神が価値とされる経緯も同様に考えられます。

 現在、価値は多義的に使用されることばになっています。価値哲学は、価値の一般的な定義を求めて苦悶していますが、多義性をもっていることばに、一般的な定義は不要であり、不可能です。もし、社会的物的支配力=交換力を価値の一般的定義とすれぱ、真善美や、かげがえのない間柄、崇高性等は著しい冒涜を受けることになります。崇高性にそれを求めれぱ、交換力は崇高性とは関わりがないので、その意味が歪められます。効用や欲求充足手段という定義も、交換力は別の観点から価値ありとされますし、崇高性は手段化されることによって冒涜されます。ですから、一般的定義づけそのものが誤った発想に立っているのであり、価値の多義性を見極めていない証拠です。価値の多義性の根拠は、商品としての人間存在の自己意識に根ざしているのであり、それを明らかにしない限り徒労です。

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