第三節 商品の存在構造
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需要の主体としての生産物

 マルクスの場合、生産物の対象性は人間的だが、生産物自体は人間ではないとします。しかし、生産物自体と生産物の対象性を区別するのは理性的ではありません。身体だけでなく、生産物も人間の現存であるという人間的自然の立場に立てぱ、生産物の商品化が即ち人間の商品化であ
ると考えるべきです。だから人間が商品であるぱかりでなく、商品が人間だということなのです。ですから、商品の存在構造はそのまま人間の存在構造であることになります、マルクスはそこまで徹底できませんでした。

 身体も生産物の生産物ですが、生産物が商品なのですから、生産物はそれぞれの物として存在できなけれぱなりません。消費によって生産物が消滅するのですから、消費は再生産を呼び起こさなければなりません。商品としての生産物の存在の仕方は、それぞれの種類の生産物が再生産されるためのあり方といえるでしょう。もちろん、生産物の各種類は社会的に存在する以上、社会的需要を満たすために存在するのですから、代替の生産物によって駆逐されることもあります。この社会的需要や、社会的欲求というものを単に身体の欲求・必要とだけ解さないで、各生産物が互いに再生産し合うために必要とする需要だと考えるべきです。

物を主体とする社会関係

 我々は社会関係というとき、すぐに諸個人の関係を想い浮かべます。諸個人も狭く身体に限定して捉えてしまいます。人間を生産物の全体、即ち人間的自然と解すれぽ、社会関係を取り結んでいる諸個人は、身体だけでなく生産物を自己の現存として関係している主体として捉え返されます。しかも、商品としては個々の生産物は相対的に個としての自立性、主体性をもって社会関係を取り結んでいる主体です。

物の主体性

 物に主体性を認めることを人ははばかります。純粋に物質的な関係、物理的、化学的、生物的関係においても、物に主体性を認めることを拒否する人がいます。自然の法則に従っているから主体性などないと。主体性を意志を媒介にした行為にのみ宿るものと解すれぱその通りです。関係を、物と物とが取り結ぶ関わり合いと解すれぱ、それぞれの物は関係する主体とLて措定されます。関係や事態を第一義的に捉えて、物をそれらを説明するための機能的概念として、その実体性を否定すれば、物の主体性も出てこないでしょう。関係や事態は、物と物の関わりとしてはじめて説明
でき、叙述できるのは、物が存在の唯一の形式であるからだという立場に立てぱ、物の主体性も救われます(拙稿「廣松渉・物象化論におげる〈物〉把握批判」季報『唯物論研究』第三号、一九八一年)。

 机という物の存在物の主体性は物質的関係では認めても、社会的関係では認めないという議論も有カです。机は人間が勝手に机と規定しているだけであって、物としては人間にどう扱われるか知ったことではないといいます。机を机として、つまり読み書きの台として使わなげれば机ではないし、食卓やみかん箱を読み書きの台として主に使用すると机になります。だから机というのは、人間のその物に対する関わり方であって、その物の規定に固定しているけれど、本当は物自身の属性ではないんだという人がいます。しかし、それは一般論ですね。現実の経済関係においては、読み書きという用途にふさわしい物に対する需要があって机という物が生産されています。そのような机は、人に読み書きをするように誘いかけており、その意味では、机が人を読み書きという一定の行動に導く主体であるといえます。

 机という物は存在しない。机は物の用途にすぎないという考えは、物を木材や金属など主に素材の観点から捉えるところに生じます。つまり物質としての物の一面だけを見ているわけです。物はしかし、特定の働き、作用をする主体として規定すべきです。机は金属でできていようが、木材でできていようが同じ机という物です。爆弾の中身は様々な種類に岐れますが、どれも爆弾としては同じ物です。

物の価値と価値支配カ

 ところで、使用価値・効用としては物に主体性を認めても価値としては認めない。社会的主体はあくまで人間であって物ではないと固執する人はもっと多いようです。そういう人も、商品にはお金を支払わされていますし、貨幣の力をありがたがっています。そして、商品を得るため、貨幣を得るために、毎日あくせく働かなければなりません。それでも、その人はいいます。「自分は物に支払っているのでばない、人に支払っているのだ」と。そしてこう付け加えます。「貨幣は人の価値に対する支配権の証明書にすぎない。物と物の関係は、実は人と人の関係なのだ。」こういう議論に対しては、価値は物の属性であるという前章の証明で反論済みです。しかし、物には意志や感情、判断力がない筈だから、どうして自己の価値を実証し、実現することができるのかが問題にされるでしょう。

諸生産物の意識

 我々は、意志や感情、人間の思惟活動を身体の活動、あるいは脳髄の活動としてだけ捉えてしまう傾向があります。我々は素裸で、原始林の中で棲み、そこで考えたり、感じたりしているわけではありません。もしそうだとしても、我々の思惟や感性は、原始林を自己の身体、自己の情況として感じ、思惟することになるでしょう。人間は諸生産物にとりかこまれ、それらによって構成されている社会機構、文化のなかで思惟や感性を機能させます。したがって、我々の思惟、感性は身体のみならず諸生産物の働きかけ、機能によって生起するのです。その意味では単に身体の思惟、感性ではなく、諸生産物の思惟、感性だといえるのです。

 ただ、人間は自己意識をもっています。それで、身体の外部の諸事物を他者として措定することによって認識を成立させているのです。そのせいで思惟、感性はあたかも、身体だけの、極端には脳髄だけの活動であるかに憶い込んでいるのです。たしかに、社会関係においては、意識が不可欠の媒介になりますから、意識がそこにおいて生起する場所としての身体は欠かせません。しかし、諸生産物の意識が身体に担われていると、身体が身につけている個人の性格、利害等によって、正確に事物を代表する役割が損なわれます。ですから、価値は、様々な値をとる交換価値の社会的平均として法則的にのみ実現するのです。

商品の意識としての商品語

 マルクスは『資本論』首章、第三節で、商品間の関係論理を価値形態論として展開しました。そこでは、交換を行う商品所持者は後景に退き、商品は相互に商品語を交わして関係し合う構図になっています。宇野学派の人びとが、実際に交換を行う所持者の意識を無視するのはおかしいとこれを批判していることは有名です(宇野弘蔵『価値論』青木書店)。だが、価値形態論は交換過程論ではありません。つまり商品所持者が交換を行う論理ではないのです。商品が相互にいかなる関わりを結ぶのかが問題になっている場面です。てすから、たとえ所持者がそれぞれの商品を代表するために必要であっても、彼らの意識は商品の内在的な論理を反映して、商品の意識になっている限りで、この商品間の関係に関わっているのです。

 たしかに、所持者の意識を自分の意識にしなけれぱ、商品語の世界は成立しません。しかし、価値形態論では所持者の意識は商品自身の意識と見なされて、はじめて、商品間の論理である価値形態論が成立するといえるでしょう。

リンネルはいかに価値法則を貫くか

 ところで、リンネルが上着の効用に価値を見出すという場合、それはどういう意味でリンネルの意識なのでしょうか。リンネル自身に上着という具体的な効用に対する欲求があるわけはありません。第一リンネルは上着を見る感性すらなく、ましてや、上着の価値量を推し量る才覚があるとは思えません。

 商品社会では、リンネルはただリンネルという効用であるぱかりでなく、リンネル商品として産出され、リンネル商品としての役割を担って存在しています。リンネル所持者は、リンネル商品を上着商品或いは他の商品と交換し、リンネル商品の価値を実現すべく存在しています。リンネル所持者はリンネルを抱えこんだままで、その価値を実現しないとしたら、彼自身に必要な価値を手に入れることはできないので窮乏してしまいます。

 リンネル商品は、その社会的需要や、そこに投下された労働量によって、その生産者や、その価億を認めて買いとった所持者に、自己を他の商品と娶わせ、交換するように仕向けます。もし、所持者がリンネルの価値以下に交換すれぱ、めぐりめぐって、リンネル生産者のもとに帰ってくる価値量は少なくなり、リンネルを再生産するに必要な物資が少なくなりますから、リンネルの生産量が減少します。そうしますと、リンネルの社会的需要は充たされなくなるので、リンネルは高く売られる結果になります。その逆もいえますから、リンネルは、その社会的需要が一定とすれぱ、社会的平均としては価値法則を貫くことになります。

社会的需要と再生産

 各商品種類は、まず、その社会的需要を充たすために消費されなければならず、消費の場に辿りつくために幾度か交換されなければなりません。次に、その交換に際しては、自己の商品種類の社会的需要の維持に対応して、価値を実現しなければならないのです。そしてこの二つの事がうまくいかなければ、生産有機体全体が維持できませんから、商品のこの要求を叶える形で機構が整えられ、人びとも行動し、意識せざるをえません。

 たしかにリンネル所持者が上着の効用をみて、その価値を洞察するのですが、それはリンネル商品の価値が上着に自己と同等の価値を見出すように見なければなりません。つまり所持者の目はリンネルの目にならなければならないのです。ちょうど運転手の目が車の目にならなけれぱ、車も運転手も安全ではないのと同様です。

 そんなわけで、商品社会は、様々な商品種類が、互いに関係し合って構成する社会です。そこでは、それぞれの商品種類が自己の社会的需要を維持し、再生産するように働きかけ合っています。もちろん、静的ではなく動的に競い合っていますから、その中で新たな種類の生産物が創造され、古い種類の生産物の社会的需要が減退し、その種類全体の価値量が減少したりします。労働力商品の社会的需要も、その種類によって変動Lたり、それに対応して、労働力商品の質的変化、量的変化が生じることは避けられません。

 常識的には、社会的需要といのは諸個人にとっての需要と思われがちです。しかし、この諸個人というのも先述したように、所有を介して、単なる身体的存在ではなく、生産物を自己の定在にしているのですから、社会的需要も全商品の連関にとっての需要と解さなければなりません。例えば、ガソリソは、車をもっている人にとっての需要ですが、そのことは車がガソリソを需要していることにほかなりません。

 価値をこのように社会的需要という観点から見直せば、各商品種類の価値は、その商品種類を再生産するに必要な他の商品の量として捉え返されます。労働力商品の価値は、労働力の再生産費ですが、その内容は、賃労働者の衣食住に必要な物資の量です。どの商品も、社会的需要が安定していれば、その商品を再生産するに必要な生産物の量であるといえるでしよう。このように述べますと、価値を効用で捉えているという誤解を受けると思われます。社会的需要という観点は、一応商品交換を捨象して価値を考えているので、物資の量となったわけです。ですから、これは商品社会であろうとなかろうと、ある種類の生産物には、その再生産に必要な物資を、生産過程に集積するカがなければならないという事実を表現しているにすぎません。商品社会では、この事実に見合って、それを交換という形式で表現したとき、価値という用語が使われるということです。

価値と労働量

 価値は、A商品x量=B商品y量の等式で表現されます。その意味ではやはり物資の量ですが、この等式が成立つためには、同一量が両商品種類に含まれていることを前提します。この同一量は、それぞれの商品を生産するのに要した労働量として捉えられます。それぞれの労働は異質ですから、これが同一量であるためには労働の異質性は捨象されなければなりません。したがって、価値は抽象的人間労働の集積であることになります。

 抽象的人間労働の量が等しければ、それらの商品を交換しても、各商品をつくり出すのに必要な労働量を再び手に入れることができますから、各商品種類はその商品量を維持できることになります。価値が投下された労働量によって決まるのはそのためです。

 価値論で最大の問題は、労働量によって価値が決まるのなら、労働量の測定方法がしっかりしていないと、労働量によって価値が決まっていることが実証できないことです。この問題は、労働価値説ははたして実証可能かという問題でもあります。価値に労働凝結量という規定をあらかじめ与えておきますと、労働量によって価値が決まるのは同義反復になります。しかし、問題はその価値が価格の標準としての役割を果たすかどうかということです。つまり価値法則が成立しなげれば、労働が価値であること、価値が存在すること等は無意味になります。

 もし労働時間が単純に時計で測れるものとしますと、価値は時間を長くかけれぱかける程大きくなります。これではなまけものが得をすることになりかねません。そこで同一種類で同一品質の生産物の価値は、その社会的に必要な労働時間と考えます。つまり平均的な労働時間が凝結していると考えるのです。ですから、平均が一個につき二時間としますと、それに三時間要しても二時間分しか働かなかったことになりますし、一時間で仕上げた労働は、一時間で二時間分働いたことになります。凝結した労働量である限り、どれだけ労働がこめられているかは、その商品自身によって示されるのであって、自分は何時間働いたから、何時間分の価値をというのは甘い考えです。

 ところで、異なる商品種類の交換では、社会的必要労働時間が等しけれぱ同一価値と見なされるでしょうが、実は、それだけでは不充分です。というのは異種類の労働は労働の複雑度が異なります。マルクスは、複雑労働は何倍化された単純労働であり、単純労働に換算して労働時間を計算しなければならないとします(『資本論』首章第二節)。

労働の複雑度の基準

 労働の複雑度の内容は、技術に熟練を要するかどうか、重労働か軽作業か、複雑な作業か単純な作業か、危険度はどうかなどが含まれます。しかし、それらの程度を数量化するのは決して容易ではありません。それぞれの労働に携わっている人びとは、自分の労働が有利に判定されることを望みます。純粋に客観的な立場に立って測定することは不可能ですし、その方法もありません。しかし、人が判定しなくても、市場では一定割合で交換され、そのことによって、労働の複雑度は判定されています。実際、市場の判定にまかせるの、が一番客観的で公正であり、冷たいといえるでしょう。

 しかし、市場の評価が、ある労働の一時間分が他の労働の一時間分より価値が大きい、複雑度が高いと判定される根拠は何かが問われなければなりません。それは、資本制では労働力商品の再生産費の大小によるとされます。商品生産一般では、生産者の生活費の大小に関わることになるでしょう。つまり、それだけ複雑、高度な労働を維持し、伝え残すためには多くの生活資財を消費しなければならないという事実が根拠にあげられます。

 しかし、生活費自身は価格的には示されますが、これを労働時間に換算することはできません。価格が価値に比例すること、労働時間に比例することが前提としてわかっていなければ、価格の差が労働時問の差を示すとはいえない筈です。ここではそれを証明するために、その根拠として必要な生活費がとり上げられているのですから、結論を前提する循環論法はとれないのです。要するに生活費の大小は労働時間の評価に影響を与えることは事実だとしても、労働時間の尺度は存在しないことになります。これが価値法則の論証不可能性の根拠になります。

 それに、生活費の多少と労働の複雑性の比例関係ははたして論証可能でしょうか。むしろ労働の複雑性、高度性が社会的に認められた報いとして多くの生活資財が与えられるのではないでしょうか。或いは、各労働種類の業者間での社会的経済的地位をめぐる競争、闘争の成果として、労働の複雑性、高度性の判断が成立するのではないでしょうか。

 ある職業が現在あるような、一定の社会的価値、つまり社会的な物的支配力を認められるためには、階級間、身分間、職業間の競争や闘争の長い歴史があったのであり、政治的、経済的、イデオロギー的・文化的な社会的地位をめぐる複雑な相克を背景にしていると考えられます。そして各時代には相対的に固定した経済的待遇が与えられて来たといえるでしょう。

 ですから、各商品種類間の交換比は、その時代の労働間の社会的地位を反映しているのです。この観点から労働の複雑性は相対的に捉え返されます。Lかし、これが労働時間に対する社会の客観的判定である以上、労働時間は結局、その時点においてはそれだげであることを認めなければなりません。それでは労働時間によって交換比が決定されるのではなく、交換比によって労働時間が決定されることになるという強い反発は覚悟しなければならないでしょう。

物化された時間としての価値

 労働時間は一人よがりのこれだけの時間働いたという主張では無カであって、生産物という形で物化しなければならない以上、物として評価される運命にあることは避けられません。我々は時間が物として定在する世界に生きていることを忘れるわけにはいかないのです。我々は一定の社会での一定の労働の力関係を背景にして、労働の複雑性が判定され、かくして単純労働に換算されるとき、労働価値説が妥当し、価値法則がその限りで論証されうることを認めることができます。いかなる理論の真理性も、それが前提として捨象している背景を無視すれば、いかようにも論破されうるものなのです。

 我々は、この価値法則の再吟味によって、商品の本質としての価値を、商品の物的支配力として再確認し、それが労働の力関係を背景にしていることを再確認できたと思います。

不変資本の抽象的人間労働

 価値を労働に還元することは、とりもなおさず、人間の身体的活動だけが価値の源泉であり、価値関係は人間の身体的活動の間の関係であることを示したことになる、だから、商品関係は実体としては労働関係であって、物と物の関係というのは仮現ではないか、という疑問が生じます。商品が、生産物が人間であるとするなら、生産物としての商品が労働し、価値を産出することを論証しなければならない筈だ、この疑問は正当です。

 マルクスは『資本論』「不変資本と可変資本」の章で、不変資本は価値を産出しない、可変資本だけが価値を創造し、しかも、不変資本の価値をそのまま新しい生産物に移転するという立場をとっています。しかし、第一章「商品」では、抽象的人間労働だけが価値に関わり、具体的有用労働はまったく関与しないことになっています。ところが、ここでは具体的有用労働が不変資本から価値をとり出し、新しい生産物に移転させるというのですから、明らかに労働の二重性の視点と矛盾します。しかも、そのことによって抽象的な人間労働の価値凝結はまったく影響されないという都合のよい論理になっています。

 これは、価値が抽象的人間労働の膠質物であって、生産物にとりついた膠(にかわ)であり、労働の火に焙られて溶け出し、新たな生産物に付着するというマルクス独特の論理に支えられているのです。もし、生産物が価値であれば、生産物の消費によって価値も当然消費されてなくなります。可変資本は自己の労働時間以上の価値を産出することはできませんから、不変資本は自力で自己の価値の消滅分を新たな生産物として産出しなければなりません。

 実際、新たな生産物を作り出Lているのは、不変資本と可変資本の共同作業であることを否定することはできないでしょう。機械制大工業になると可変資本の価値付加分はきわめて少なくなります。ほとんどの価値は、不変資本が自已を消滅させながら、新たな生産物として産出しているのです。もし、不変資本がそれだけの役割を果たさず消滅してしまえば、新たな生産物の価値は小さくなり、元も子もなくなってしまいます。可変資本と不変資本の根本的相違は、可変資本は、その価値産出分以下の価値で再生産されるが、不変資本は価値産出分と同じ価値で再生産されるという原理が法則的に成立していることです。

生産的消費について

 このように商品は交換によって自己の価値を実証し、最終的に生産的消費で、自己を消滅させると同時に、自己の価値を他の生産物に対象化します。生産財はとくにそうですが、消費財にもある程度あてはまります。消費財は交換によって自己の価値を実証し、消費によって消滅します。そのとき、労働カを再生産します。したがって労働力の再生産費はその消費財の価値に等しいことになります。つまり、消費財も自己の価値を労働力に対象化しているのです。ところが、消費財は同時に不労所得者をも再生産します。彼らは自己の価値を生産物に対象化しませんから、この不労所得者の消費、再生産は生産的ではありません。その分、勤労者が自己の価値以上に生産物を生産しなければならなくなります。これが搾取と呼ばれているのです。

 諸個人の身体も、商品としては同じ運命を背負っています。彼らは自己を商品として交換させ、常に自己を消費しては、自己の価値を生産物に対象化し、そのことによって価値を取得して、物的支配力を得ます。そして、それを消費して、つまりそれらに再生産されて、再び価値としての自已を取り戻し、自己を商品化するという循環を体験します。自己の消費はそのまま自己の消滅ではないところが救いですが、人生全体をとってみればやがて価値再生産能力が衰え、本当に消滅してしまいます。

 彼の人生の価値はどれだけ価値を生産し、消費したかにあると見られます。それではあまりに悲しいと思う人は、価値を別のなにか精神的なよりどころに求めるのです。

 

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