第五節 商品性の危機とその超克


人間=商品の光と闇

 へーゲルの『法の哲学』}こ「ミネルヴァのふくろうは黄昏に飛び立つ」という有名なことばがありますが、我々が人間を商品として、その本質を価値として把握しえたのは、人間の商品性が、労働力の商品化として即且対自的になり、しかもそれが極点にまで達しつつあり、爛熟して、腐臭を帯びて来たからです。

 人間が商品性を得て、人間的段階に達し、主観・客観図式に基づく認識を成立させたことによって、自然を物的連関として捉え返し、そこに自己を対象化し、物化して、人間的自然を発達させ、様々な文明を興隆させ、文化の花を開いて来たのです。その歴史は光輝に満ちています。しかし、それは同時に、万人の万人に対する闘争・相互支配・弱肉強食の歴史であり、自然を破壊し、幾多の悲惨と狂気を生み、時折、凄惨な地獄絵を繰り広げた暗黒の歴史でもありました。

 我々の時代、二〇世紀は、自然エネルギーの未曽有の活用、機械技術の飛躍的進歩、社会管理組織の高度の発展の中で、物質的富の豊富化には目を見張るものがあります。自由の享受も比類がないと申せましょう。しかし、その反面、二度にわたる世界大戦の体験、そのなかでの様々な大虐殺、ヒロシマ・ナガサキ体験、朝鮮、イソドシナ、中東、アフリカにおける戦争、地球的規模での自然破壊の進行、核軍拡にともなう人類的危機の深化等、その暗黒面もしだいに人類の存続が可能かどうかという臨界点に近づきつつあります。この危機にもかかわらず、大多数の人びとは自らの商品性ゆえに、絶対的自已関心の殻に閉じ籠り、価値追求に汲々としています。しかも、この商品性そのものがしだいに、腐朽化するという危機に頻しています。

商品性の危機、或いは家族の解体

 健全な人間性は、商品としての存在構造から生じます。人びとは、自らの価値を社会に認められようとして勤勉に働き、冷酷ではあるがそれなりにある程度の価値を承認され、社会人として自らの家族を養い、そこに生きがいを見出して、自分を価値づけ、存在意義を見出します。ところが労働力の商品化が進展し、それにともなって、産業構造が高度化しました。すると労働カは、都市集住を余儀なくされ、単婚小家族が普遍化します。しかも、なおも高度化が進行すると、管理システムも高度になり、労働力を家族単位に掌握するのではなく、個々人に管理を細分化する傾向が生じます。これは婦人の社会進出を可能にする一方、家族を自分の力だけで扶養して来た男性労働力の価値低下を来たすことになります。しかも、教育の普及、社会保障の拡充等は、その掌握の対象を直接、個々の子供にまで向け、子の養育という最大の価値意識の源泉をあいまいにします。家族の自然的血縁的紐帯、その関係の必然性、不可分離性は次第にあいまいになっています。これが親に対する扶養問題にはね返り、単婚小家族からの老人の除外、年金、社会保障による老人の一人暮しとして集中的に現われています。

 このような情況下で、夫婦の結合の絶対性が希薄になり、離婚の急増、婚外交渉の増加、性交初体験の低年齢化がみられ、性的結合が夫婦の一体性を確認する神聖さを喪失しつつあります。単婚小家族での扶養能力の低下は子の人数を減らし、それにともなう避妊、堕胎を増加させるという形で、人々を卑小化し、精神的にも肉体的にもスポイルし、無力感を与えています。

 家族的価値観の衰退による現代人の孤独、無力感は、容易にペシミズムと結びつき、それを享楽へと逃避することで忘れようとするデカダンに追いやります。これに対応して、エ口・グ口・ナソセンスの文化が流行し、青少年の健全な精神までも蝕んでいます。性の商品化は行きつくところまで行きついた感があります。

 人間に生きる力を与えたのは、自分の価値が、社会的に承認されるか、そこで冷酷な評価を受けても、家族にとってかけがえのない存在として絶対的に承認されるかにかかっています。社会は今や大衆化され、しかも高度に管理されて、身動きがとれず、自己の能力を思うままに発揮して承認されることはむつかしいですし、家族にとってもその結合が絶対性を喪失しつつあるので、人ぴとは何を支えに生きれぱよいのか深刻な危機に直面しているのです。これが人間性の危機の精神的な内容であるといえましょう。人間性の危機は、実は商品性の危機なのであり、けっして商品化される危機ではありません。ももろん、すべては人間が商品であることに起因していますが、人間性そのものが商品の自己意識であることを忘れてはなりません。

社会主義から共産主義への途の困難性

 現代の思潮で、人間の商品化を批判、克服しようとする思潮がヒューマニズムと呼ばれています。その意味ではコミュニズムこそヒューマニズムの最先峰に位置するといえます。コミュニズムは、諸矛盾の根本を資本・賃労働関係に求め、生産手段の私有制を廃棄することによって、労働力商品化を止揚し、生産手段の公有制によって商品生産そのものをなくしていく物質的土台をつくり上げようとします。現実に商品生産、市場経済を揚棄し、それに代わる共同体経済を建設するという課題を思想的に表明し、社会主義建設によってそれを実践しつつあると自負している点で、彼らのヒューマニズムは現実性を帯びています。

 しかし、残念なことに、社会主義建設は様々な困難に直面し、市場経済を止揚し、商品そのものを止揚するという理想へ向かう道程は必ずしも明確ではないし、その方向に向かっているとも判定しがたいのが現実です。建前では、労働カは商品ではないといいながら、賃金労働者の存在構造は、〔賃金労働者=生活手段の私有者=労働カ商品の所有者〕という三位一体構造にあり、彼ら自身の意識ではやはり労働力を企業に売っていることに変わりありません。

 社会主義でも、賃労働者は労働力を企業に売り、賃金を得てそれで生活手段を手に入れ私有する関係にある限り、商品経済、商品流通を止揚できないのであり、賃金を漸次的に減少し、生活手段の計画的、効率的かつ要求に叶った分配に変換しなけれぱなりません。それが容易に実行できないのは、要求を充分に充足させるだけの生産力がないからだとされてきました。また、社会の規模が大きいために、消費動向を的確につかみ、それに見合う生産、分配システムを管理、運営するだけの技術体系に欠けていることもあげられます。要するに科学・技術の進展、生産力の発展が共産主義社会を到来させるというわけです。

 ところで、生産力の発展は、欲求の肥大を生じ、文化水準の高度化をもたらしますから、その欲求や必要を充足させるに充分な生産力に到達することはありえないとも考えられます。また、科学技術の進歩による情報処理能力の向上が、生産、流通、消費の共同化のために不可欠だという議論は、一種の弁解にも受けとれます。地域や職場単位での消費組合的組織を積み上げて関数的に処理すれば、その時点の生産水準に見合った消費の共同化は可能だと思われます。むしろ、共産主義の実現を妨げているのは、人間の商品性であり、それに根ざした人間の意識のあり方、商品的な意識に基づく行動様式に求められる筈です。

社会主義社会での労働カの商品性

 社会主義革命は、生産手段を資本家階級の専有(ひとりじめ)にさせておくと、労働力が安く買いたたかれ、労働者階級が窮乏化するので、それに耐えられなくなって、資本家階級を一掃し、生産手段を労働者階級の総体としての国家や集団が所有することに変革する革命です。つまり、労働者は自らの労働力をより有利に、より安定的に買ってくれる主体として自分たちの権力を樹立したのです。だから労働カ商品としての要求に基づく革命であり、個々の労働者は革命の前後で、〔賃労働者=生活手段の私有者=労働力商品の所有者〕としての三位一体をやめたわけではありません。ただし、同時に自己の労働力商品の買い手としての権カを握ったのですから、売り手・買い手という二面性を背負います。買い手としての権力は、個人に分有されるのではなく、労働者階級の全体の利害に立つ権力として、個人から相対的に自立しています。諸個人は権力としての自己の総体性に関与し、それを自己の主体性にする権利があるのですが、もともと、労働力商品としての存在構造、絶対的な自己関心、排他的、利己的なアトム的存在構造をもっており、革命の熱狂のなかではそれを忘れていても、日常生活に戻れば、日々の糧、家族の生活の安定、そこでの自己確証が最も肝腎な問題です。そこで、自己の階級的総体性は、権力機構を実際に日常的に維持、管理する官僚機構にまかせる形になります。実際、権力を常に主体化し、そこに意識的に参画し、自己の意志を貫徹させるには、情況を的確に把握し、自己の主張を明確にし、意志決定をめぐる闘争を闘い抜くだけの決意と力量が必要です。しだいに権力の実質的な支配者、采配者が少数のエリート官僚に限られるようになるのは自然の勢いです。

 そうなると、労働力商品としての性格を強くもったままの労働者を働かせ、生産力を向上させるには、自分たちの再生産費、即ち最低限の生活費を得るために、熱心に働く彼らの存在構造に見合った生産システムを当面維持しなければなりません。労働力の生産性を上げるためには、労働の複雑度を評定し、それに見合った賃金体系になります。当然、商品生産、市場経済を重視することにもつながります。そうすることが妥協として必要ですが、他方で、労働カの商品性を減少させ、労働者の総体性への自覚を促し、積極的に権力主体へと自己変革する途を与えなけれぱなりません。そうでない限り、妥協はついには妥協として捉えられず、共産主義への途は、商品経済を盛んにして、生産力を上昇させれば拓かれるような錯覚に陥るでしょう。

現代の危機を自己自身として捉える主体性

 社会主義の現実、経済改革の方向は、はしなくも人間の商品性を如実に示し、その止揚の困難性、商品性の根深さを思い知らせています。そして世界の現実は、商品性を極限にまで開花させ、その光明も暗黒も極限に達しようとし、その果てにあるのは商品性を止揚した新しい人間の共同体なのか、それとも人類は商品であるがゆえの矛盾によって滅亡するのかという問いを発しています。しかも、人間の商品性は爛熟とともに腐朽し始めており、商品性としての人間性が衰退し、価値喪失、ペシミズム、退廃が蔽い始めています。

 我々は既成の商品性に基づく価値観を頭から否定し、拒否して、徹底的に家庭を解体し、価値追求をやめて、退廃を深化させれぱ、新しい時代がやってくるとは考えません。そのような行動は商品としての価値を認められていないことへの欲求不満の暴発でしかなく、かえって商品性への希求の表明に他なりません。

 我々は商品として存在している以上、その商品性としての人間性を生き抜く他ないでしょう。社会での価値評価を求め、社会的物的支配カとして一人前になろうとし、家庭での絶対的な自己関係を大切にすることなしに、精神の安定はありません。しかも、商品であることのもつ意味、それに由来
する様々な光明と暗黒を自己自身の矛盾として自覚し、それを背負うことが必要です。我々は自己の責任において、様々な危機に立ち向かい、それを克服すべく努力しなけれぱなりません。我々は今や、自已の商品性を守るためには、それに由来する事柄に責任を取ることが必要な段階に来ています。我々は商品である以上、自己の利害にこだわり、個にとじこもりがちで大変腰が重い大衆ですが、それでも、危機は相当身近に迫まり、「泰山は崩れむか」という状況になっています。実際、山が崩され、海が油ぎって黒光りし、狂気の核軍拡が続き、発癌食品が横行し、家庭の崩壊が進み、子供たちが精神的に追いっめられているという状況を前にして、この苦悩を見つめ直さざるを得ないのです。

商品性克服の論理への模索

 一方で、管理体系の高度化による無カ感、機械のオートメ化の極点としてのロポット化等によって、機械をいつまでも単なる手段、人間の他者として扱うわけにはいかなくなり、身体と共生する人間の一部として措定する必要が生じています。身体自身も生産物にほかならず、自然も人間の身体であるという観点に立つことを自然破壊の進行や、核兵器の出現は教えています。人間は物であり、物が人間であること、人間=商品であり、商品=人間であること、これらのことを確認した上で、はじめて危機の全体を自己自身の問題として把握することができます。いい換えれぱ、我々が物にとらわれ、物に束縛されている状況に対して、物質文明を離れて、精神文明をとるという形では解決できないのです。精神自身がそれら物質の精神であり、関係であります。まさに我々の精神の苦悩は、物質自身の苦悩であり、自然の怒りとして聞かなけれぱなりません。そうでなければ、我々は、この怒りに触れて減びるほかないでしょう。

 しかし、一体、いかにすれば、我々は商品として生きながら、商品であるがゆえの矛盾を克服できるのでしょう。それは、この危機に立ち向かうなかで自己の存在意義を見出し、自己の力を確証し、それに向けて他人や自然との連帯に自分の位置を確認することの他にないでしょう。この人間の自然史的使命を自覚するとき、自然の主体としての自己意識が形成され始めることになります。しかも、それが自己の商品性を守り、価値実現ともなる形での実践形態が模索されなければなりません。

その場合に、はじめて、商品性を守りながらも、同時にそれの止揚への途を拓くことが展望されるでしょう。それはたしかに矛盾した論理ですが、過渡期や変革期には、矛盾した論理が必要なのです。


まとめにかえて

  本章は、「人間学的商品論」をまとめ上げるための序論的役割を担うものです。経済学の観点からの人間学をという編者からの要請でしたが、経済学というよりも、経済哲学、或いは倫理学に近いものになったかもしれません。内容はまだ充分仕上げられ、練り上げられたものとはいえませんが、「人間」を見直すという本書の課題に沿った問題提起にはなっているという自負はあります。

 もちろん、人間を商品性を通して理解するという視角には一定の意義は認めても、人間を商品としてしか把握しないのは一面的ではないかという批判に対しては充分説得的ではないかもしれません。

 例えば、人間の人間的段階を商品交換に求めたり、人間が商品であるだけでなく、商品が人間だとしたり、人間の本質は社会的物的支配力としての価値だといい切る強引さにはかなりの論理の飛躍を感じられたかもしれません。

 本章にみられる論理の飛躍は、拙稿の序論的性格に由来するものですから、いずれそれを補なう所存であることはいうまでもありません。しかし、いかに精緻をきわめる論理展開であっても、拙論の主旨を納得されるかどうかは別問題です。書き手の論理は、あくまでも読者の側の問題意識、生活実感と感応し合ってこそ説得力をもちうるのです。いかに、論理が飛躍し、説明が省略されていても、読者に何か感応しうるものがあれぱ、むしろ論理の飛躍は読者にそれを埋める楽しみを与えるものです。老子『道徳経』のもつ強烈な説得力はそれを物語っています。

 本章は、現代ヒュ一マニズムの諸命題に対して、反対命題を対置しています。現代ヒューニズムの物化・商品化批判は、現代人の疎外感、無カ感に強烈に感応しており、これに対する本章の論理は多くの読者の神経を逆なですることになるでしょう。私から見れぱ現代ヒューマニズムは、人間が自己の商品性に気づき、鏡の中の自分にこんなものは本来の自分ではないと、自己否定の叫びをあげたものです。この自己否定は、やがて自己を商品として自覚し、商品性を現実に超克するための前梯となるものですから、本章に対する反発によって現代ヒューマニズムに立った自己否定の意識が強まることは、むしろ歓迎すべきことです。

 現代ヒューマニズムは、現代社会を批判する前衛的な意識としての役割を今暫く果たさなけれぱなりません。人類的危機に対する様々な警鐘を現代ヒューマニズムは打ち続けるべきです。オイディプス王が人民にふりかかった災難の原因を、他者のなかに糾明し、遂に自己自身が犯人であると突き止めたように、現代ヒュ一マニズムは、彼らが非人間的だとしているすべてを、やがては人間性として把握し、自分で自分の破産を突きとめることになるでしょう。

 マルクスを現代ヒューマニズムのなかに含めるかどうかは、マルクス主義をいかに把握するかという問題であり、マルクス解釈家たちは、自分が現代ヒューマニズムに対していかなる態度をとるかによって、それぞれ見解が岐れています。多くのマルクス解釈家は、マルクスの立場と自己の立場を峻別した上で、継承するという科学的な方法を採りきれないでいるようです。マルクス自身は、社会的諸関係の結節として人間を把握している点で、明確に理念主義的なヒューマニズムと一線を画していますが、人と物、人と商品の抽象的区別に固執するために、彼自身が意図していた、人間と自然の統一的把握を貫徹しえず、現代ヒューマニズムと共通の限界を共有したといえるでしょう。      

 本章は、マルクス物神性論を人間を物として、商品として把握し切れなかった弱点の現われと論断し、それに由来する彼の価値論の弱点、つまり、価値が物の属性として捉えられていないこと、価値を労働と生産物の区別の止揚として捉えられていないこと、また、価値自身の定義が社会的物的支配力として明確化されていないことを指摘しておきました。この価値論の弱点は、直接的には、価値移転論に現われており、間接的には生産の主体が、可変資本に限定されて、人間的自然全体の再生産として把握しきれていないところに現われています。つまり、人間が商品であるぱかりでなく、商品が人間であるという観点に到達していなかったといえます。したがって、拙稿が残している課題は、人間学的商品論に立って『資本論』を再検討し、修正することですが、一人では荷が重いので拙論の主旨に賛同する協力者が必要です。( この課題は『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』青弓社1985年刊 によって一応果された。)

 現代ヒューマニズムがヒューマニズムの課題の核心を物化、商品化として捉えたこと、特に商品性の問題を根本的な問題として提起したことは重要です。商品性を超克しない限り、根本的な危機の克服はありえないのです。しかし、この商品性は決して近代の特殊な問題ではなく、人間が人間に成ったことによって背負った最も射程の長い問題であり、人間は商品性を超克しようとする限り、既成の人間性の全体を包括的に捉え返し、新しい人間に生まれ変わるぐらいの覚悟が必要です。この天才的な予感は二-チェの『ツァラトストラはかく語りき』等で表明されていますが、二-チェの論理は非合理主義、貴族主義の典型であって、商品的な価値意識に対する単純な反発でしかありません。我々が求めなけれぱならないのは、現実に商品としての存在構造に生きている我々自身が、商品としての生を背負い、その光明と暗黒を自らの責任において生き抜きながら、なおかつ、価値追求が同時に価値止揚となり、価値止揚が価値追求に応えながらも成長していくような論理です。

 

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