第二節  商品としての人間の本質・価値

人間の本質としての思惟

 人間性とは何かという問いは、人間観によって様々な異なった解答を与えられます。この問いは人間の本質をいかに把握すべきかという問いとして受け止められるべきでしょう。人間の本質は、他の動物、或いは他の物から人間が区別される所以ははたして何であるかによって規定されます。思惟、言語、労働、社会的存在、実存等々、それぞれ解答者の人間観、世界観によって異なった解答が用意されます。それらは互いに相容れない面をもちますが、根本的には思惟に帰着しているといえましょう。言語は思惟を形式的に表現したものですし、労働も思惟を媒介にした目的意識的対象変革活動、或いは自己対象化活動です。動物の自然に対する働きかけとの根本的相違は結局思惟が介在しているか否かにかかっているのです。社会的存在も動物社会と区別する観点は、人間が思惟主体であることによって人間社会の特性が生じることに基づきます。実存も結局、人間が思准によって存在の意味を問いかけることによって生起するといえます。

認識の主観・客観図式と言語の主語・述語構造

  ところで思惟も動物的な意識からいかに区別されるのかが問題です。思惟の形式は言語ですから、言語と動物信号の相違がはっきりしなけれぱなりません。それは要するに主語・述語構造をもつという点にあります。「Aは〜である」「Aは〜する」等、主語が事物として把握され、述語がその事物の性質、状態、運動等を説明したり、主語についての発話者の気分を説明したりします。

 事物は発話者にとって、外的に存在していると了解されています。たとえ自分の事でも自分を客観化して表現します。言語でも主・述構造をもたない場合は、例えぽ「熱い!」と叫ぶ時は客観化していませんが、「〜は熱い」となると、それはもう自分の感覚の表現ではなく対象の表現になっていま
す。また、それぞれの事物は互いに区別され別物として措定され、同一性の有無によって分類されます。世界は事物によって構成されていると把握されているのです。いわゆる主観.客観図式が言語の主・述構造の前提になっています。

 動物は、主・客未分化な表象を信号化しますので、主語・述語の形での言語構造をもたないのです。動物といえどもそれ自身、主体であり、他者から自己を区別し、他者、即ぢ自然との相互前提、対立の関係にあります。それぞれの事物の区別を識っているともいえます。ただし、その識り方が
主・客対立を自己の生理の中に止揚する仕方をとっているのです。つまり諸事物は生理的な表象であり、それが自己のその時々の状態であるのです。生理的な状態の変化に対応して、体験知(これは個体の体験だけでなく種族の体験も含みますが)から反応するわけです。動物は主.客未分化であるというのはそういう意味なのです。

商品交換の発生と自己意識の成立

 では人間はどうして、表象を自己の生理状態としてでなく、事物として把握することができるのでしょう。それは商品交換が発生して、自他の区別が明確になり、自己から諸事物が区別されたからです。いい換えれぽ、自己意識が成立したからです。自己意識の成立を商品交換に求めるのにはそれなりの論証が必要です。労働や言語がその契機とも考えられますが、それらは既に自己意識に前提されています。交換も自他の区別がなけれぱできないともいえますが、その発生過程を推理することによって謎が解けます。

 群婚、世代婚時代には共同体は血縁的一体性が強固で他者性の契機はありません。やがて氏族が発展し、フラトリア(母氏族)内での氏族間の交わりに対応してプナルア婚の時代に入ります。そこでも血縁的一体性に支えられています。そこでは氏族間の送り合いの形での分業が発生し、それが経済的重要性を増しますと、相手の氏族が移動し、そこに流れて来た全く異縁の共同体との交わりの必要が生じます。彼らは全くの他者ですから、安易に血縁的一体性を創出することができません。そこでまず物と物の関係、人のいない物々交換が始まります。こうして他者との関係が成立するというわけです。

 交換は、自己の不可分な一部であった生産物を他者化し、他者のそれを自己化します。生産物に他者性が入りこみ、自己と,切り離された、もはや単たる生理的表象ではない外的事物が登場します。最初の他者は他人およびその生産物であったのです。他者の定立は、表象の他者化ですから自己は表象の外に定立されることになります。動物的知覚では自己と表象は未分化であったのが、人間にいたって分化し、表象は自己で対外的事物となり、自己はその外に立つなにかある物となります。それは表象を事物として見ている意識、自己意識にほかなりません。

 表象を外的事物として措定し、性格づける意識によって言語、つまり主・述構造をもった意識が発生するのです。かくして世界は事物から構成されることになり、事物と事物の区別、その相互連関、事物の運動が把握されます。そうして成立した認識を媒介して、事物に働きかけることが労働です。動物的表象のコピー、事物化は絵画ですが、言語的連関にそれを並べ、その絵を記号化、定型化すれぱ文字になります。かくして文明が開かれることになるのです。

 人間の人間たる所以は、交換を契機にして発生した自己意識の成立にあります。交換とは物を商品化することですから、人間は自己を物化、商品化することによって人間に成ったといえます。それ以前の人間は、他の動物とは論理的に同一の地平にあったのであり、未だ人間の人間的段階に達していたとはいい難いのです。これまでの学説ではサルからヒトに進化した段階で人間に論理的にも到達したと考えていました。梯明秀『社会の起源』(青木書店)などを参照してください。

価値の意味は交換カである

 交換発生による商品性の付与により人間が人間に成ったと考えると、商品の本質である価値が人間の本質であることになります。価値とは何かを考えることによって、人間とは何かを考えることにしましょう。ここで価値というのは差し当たり、商品価値のことです。いわゆる使用価値、真善美、かけがえのない間柄、最高価値としての神などは含みません。それらが価値に含まれることになった経緯や、その意義づけは後に詳しく検討します。

 マルクスは周知のように『資本論』の冒頭の第一章、第一・二節で「価値は抽象的人間労働の膠質物(Gallerte)である。」と規定しています。これ以外の明確な規定がないので、あたかもこれが価値の定義であるかに思われがちです。しかしこの規定は価値というものは、抽象的人間労働の膠質物によってできているという実体に則した規定です。決して価値とはどういうものかという価値の意味を表現しているのではないのです。

 価値は、ある商品が他の商品のどれだけに当たるかを表現しています。交換において、ある商品が、他のある商品のどれだけの量と取引できるかということは、結局、他の商品に対する交換力、社会的物的支配力が価値だということです。それは交換価値のことであって、商品の本質としての価値ではないと思われるかもしれません。

 マルクスは、価値を抽象的人間労働の凝結量として捉えたので、交換においては、それに比例する形で交換力をもっている筈だが、実際には、商品所持者の恣意やその他の市場の諸条件で、個々の取り引きでは必ずしも比例しません。それでも法則的には、市場全体の平均としては結局は比例する傾向にあることを主張します。それで、具体的な個々の取引で発揮される交換価値と元来投下労働量としてもっている交換力としての価値を区別したのです。ですから、やはり価値の意味は交換力として捉えるのが正しいのです。

生産物の属性としての価値

 交換力としての価値は、あくまで生産物としての商品に備わっているカであって、.それを所持している人間の力ではないように思われます。しかし商品を手に入れるのは所持者の方ですから、その力は逆に商品のカではなくて人間の力であるようにも思われます。このため、価値は商品としての生産物の属性かそれとも人間の社会関係が商品に投映して、人間の力である価値を物に仮託しているだけなのかという論争を生じます。マルクスは「真珠やダイヤモンドの中に交換価値を発見した化学者はこれまでいなかった」と第一章の末尾近くで主張し、『経済学批判要綱』でも価値は物の属性でない旨明言しています。

 しかし、ではマルクスは価値は所持者の力だと考えていたのかというとそうでもありません。例えば磁石を手にしている人は鉄分を吸い寄せますが、それは磁石の磁力によるのですから、人に備わっている力とはいえません。マルクスはあくまで投下凝結している労働の力として捉えていたのです。.ここに彼の価値論の特色があります。投下凝結して物に含まれているなら価値は物の属性であると考えるのが常識的です。でもマルクスは、物でなく労働が価値だという主張をもっていますから、物のもとに投下凝結した労働は必ずしも物になっているのではないと考えます。具体的有用労働は使用価値という物の属性になるが、抽象的人間労働は凝結して価値になるのであって物にはならないとするのです。これが価値は生産物に付着しているだけであって、物から物へ移転するのだという価値移転論の根拠になり、後の「不変資本と可変資本」章の前提になります。

 抽象的人間労働は具体的有用労働としてしか現存せず、その抽象でしかないのですから、それぞれ別々に存在するわけでありません。だから一方が物の属性になり、他方はならないとする議論は説得力を欠きます。価値は、生産物の具体的有用性の捨象によって成立しますが、それは生産物でなくなるわけではありません。価値は、あの生産物もこの生産物も価値としては何ら区別がないという意味で、生産物の抽象的存在性格です。生産物が価値でなく、価値が生産物でないとすると、価値は存在することはないでしょう。立派に生産物であってはじめて価値なのです。労働そのものはたとえ抽象的人間労働として捉えられても価値ではありません。「凝結して価値になる。」ということは生産物になることでなければなりません。何物でもない価値などだれも価値とは認めようがないのです。

 マルクスは、価値が物の属性でないことを論証しようとして、超感性的である、物としては捉えられない、幽霊のような対象性等々と特徴づけようとしますが、生産物が価値である以上、我々は交換によって生産物を価値として見ています。生産物が価値なら、価値はどの商品をつかんでも捉えていることになります。ともかく我々は価値をまず生産物の属性、抽象的存在性格、生産物の支配力として了解すべきです。

生産物を自己自身だと主張する所有

 では、生産物の属性である価値がどうして人間の本質であるといえるのでしょう。商品社会においては、人間は自己の生産、消費に必要な物資を商品の形で手に入れなければなりません。商品社会の人間は、霞を食う仙人でもなければ自給自足の農夫でもありません。商品を支配する力を失えぽ一日たりとも生存できません。したがって、人間は、なによりもまず、第一義的に商品に対する支配力、即ち価値として存在しなければなりません。人間の本質が価値であるとはそういう意味です。しかし、価値は生産物の属性であって、人間の属性ではない筈です。さあどうしたらよいのでしょう。

 そこで、人間は生産物の属性である価値を自己自身だと主張しなければなりません。価値は生産物の存在性格ですから、価値を自己自身だとすることは、生産物を自己自身だとすることも意味します。この関係が所有です。所有は、生産物自身には欠けている意志を置き入れて、生産物を意志ある存在に変え、かくして、生産物に備わっている能力をひき出す役割をします。この意志の置き入れに際しても、生産物はその効用、或いは価値によってそうさせるのであり、生産物の側にまったく能動性がないというわけではありません。この意志の置き入れに成功すれば、意志は他者の意志の置き入れを阻止して、排他的な占有取得になります。

 占有は、生産物を意志の統御の下に置くことによって、生産物が意志に従って自己の能力を発揮する使用になります。占有によって占有者は自己の意志を生産物に置き入れ、生産物の意志となっており、自己は生産物を現存在の圏、自己の定在にしていますから、使用によって発揮される生産物の能力は、自己の能力の発揮であることになります。例えぱ、包丁(料理の名人)は自在に包丁を扱って牛をさぱきます。その際、牛をさぱいているのは包丁の方ですが、それは同時に包丁の能カの発揮でもあります(『荘子』参照)。この使用によって、使用者は自己の意志が生産物に置き入れられ、自己が生産物の主体となったことを確証し、占有の実を示します。

 ところで、使用では、使用者は使用物によって自己を限定され、他の物を使用できなくなり、特に一種類しかもっていない者は、それによって自己を保つことはできません。ですから、自己は、物の使用による物の形成が、つまり労働がどの場合も同じであることを主張し、どの物もこの同じ抽象的人間労働の形成物としては同じ物、即ち価値であることを主張しなけれぱなりません。そのことによって、意志は、この物にとらわれないこと、どの物に対しても同じ意志であることを示さなけれぱならないのです。彼は、この物という特殊性を自己の他者と見なし、放棄しようとします。これが譲渡
です。

 この譲渡によって、所有が生産物の他者性を止揚した関係であったことを再確認し、意志の生産物に対する支配が所有であることを実証します。そして意志はその所有対象の効用にとらわれない主体として効用から自由であることを宣言します。しかし、一方的な譲渡は、意志の現存在の圏の縮小として現われますから、この譲渡は、同時に他の意志からその生産物を受けとる獲得でなげれぱなりません。これが交換であり、意志間の契約です。交換は、所有が価値に対する支配であったことを実証します。交換は生産物が価値としては同じであるから成立します。ところで、自己の生産物の譲渡によって、他者の生産物を獲得する力は、生産物の力、即ち価値です。ですから、所有者は自己の力を生産物から得ていることになります。かくして、交換によって、自己が生産物の価値であることが示されます。彼は自己のもとに集められた生産物の価値とLて自已を主張し、交換によってその力を示し、維持します。同時に彼は、生産物の使用によって、生産物自身を、したがってその価値も消費しますから、この使用が、新たな生産物の形成、価値の形成をともなう必要があります。このように人間は自己を商品として、またその本質である価値として常に再生産することになります(所有の論理についてはへーゲル『法の哲学』第一部、第一章参照)。

市民社会のモナドとしての商品

 市民社会では人間は、価値、即ち社会的な物的支配力として存在します。人間はこの力をなくしては物質的生活を営むことができませんから、常にこれを維持するために、物に束縛され、物から支配されています。物を得るためには、物を譲渡しなければならず、譲渡する物を常に再生産しておかなければなりません。これは、物を介して、他の人間によって支配されることであり、同時に物によって他の人間を支配することでもあります。このように、商品社会(市民社会)は物を媒介にした相互支配の関係になります。まさしく「万人の万人に対する闘争」(ホッブズ)の世界として市民社会は特徴づげられます。互いに自己を価値・物的支配力として主張し合い、物を奪い合い、そのことによって物を作る労働を支配し合うのです。

 市民は価値であるという第一義的な規定性にとっては、互いに無差別な抽象的な存在です。彼にとっては、価値であるためには何であってもよく、価値であるために何であるかは、第二義的な問題なのです。職業的な差別は、まったく無意味だといえます。価値追求の自由が彼らにとっては最大の関心事であり、すべての市民間での交換、全商品間の自由な等価交換こそが博愛です。したがって市民革命が「自由・平等・博愛」を旗印にしたことは、市民社会の倫理を鮮明に示したといえるでしよう。

 市民社会は、アトミックな商品の集成として形成されます。人間は自己をアトミックな商品として存在させることによって市民社会の主体となります。彼らは価値としての自己にのみ絶対的な関心を示す閉ざされた無窓のモナドです。彼らは破壊しがたい利己の殻に固執したアトムです。若きマルク
スは『ユダヤ人問題について』で市民を無窓のモナド、不可破壊のアトムとして特色づけ、その典型を利己主義の権化としてのユダヤ人に求めています。『資本論』の冒頭では「資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、富のエレメンタル形態として現われる」としています。

マルクスの人間的自然の思想の限界

 ただし、マルクスは商品を富の細胞形態として捉えてはいたものの、商品を人間自身として把握していたわけではありません。商品が富の要素になったため、人間の労働力までも商品化することを批判する構えをとっています。人間と商品としての生産物との抽象的区別に固執したままです。人間を商品として、その本質を価値として把握できていません。一方、マルクスには人間的自然の思想があります。人間を身体に限定して捉えるのではなく、人間と代謝関係にある自然を人間化した自然、非有機的身体とみなします。その意味では、生産物、商品などは人間に含まれることになります(『経済学・哲学手稿』)。そのマルクスが、人間の物化、商品化を問題にし、人間が物として扱われるのは非人間的であるとか、経済関係は、物と物の関係として現われているが実は人間関係なのだと論じ、人と物の抽象的区別に固執する論陣を張っているのです。しかも、この物神性論は、同じ『経・哲手稿』の中にも原型がみられますから、いわゆるマルクスの思想の前後期の間の断絶によるものではないようです。

 マルクスは『経・哲手稿』のなかで、自然の人間化を強調し、人間的自然の思想を「貫徹されたヒューマニズムは貫徹されたナチュラリズムであり、貫徹されたナチュラリズムは貫徹されたヒューマニズムである」と表現しています。まさしく、人間と自然を一体的に把握する立場だといえましょう。しかし、よく注意して読みますと、彼はGegenstand(対象、事物と訳すこともある)の人間化は説いていますが、Ding(物)の人間化には言及していません。もともと、物自体という発想をしりぞける立場であれば、対象のみが問題であったともいえます。自然もしたがって、人間の感性の対象でしかな
く、最初から人間的な存在であったといえるでしょう。人間的自然を人間感性の対象として捉えていれぱ、人間感性にふさわしい、或いは人間感性を豊かにする自然にすることが、貫徹された自然主義=貫徹された人間主義ということになります。ですから、彼の自然主義も人間本位に考えられた自然主義だったといえるでしょう。もちろん、人間自身が自然として捉えられているのですから、自然主義には違いありませんが。

 ともかく彼は、物の対象性は人間化されるが、物そのものは人間化されないと考えていたと推察されます。彼は『資本論』の物神性論では、生産物と使用価値の区別は明確ではなく、使用価値については、目に見えること、だから物理的、化学的関係、即ち物的関係をもっていることを認める一方、価値に関しては何ら物的関係はもたないとします。つまり、価値はあくまで物の属性でない、ただ労働の社会関係が物に投映して価値対象性を付与Lているにすぎないとするのです。

 では価値は人間の規定でしょうか。マルクスは労働の社会的関係、抽象的人間労働の膠質物と規定Lているのですから、たしかに人間的規定です。しかし、価値はやはり、生産物の対象性であって、その実体が抽象的人間労働であるとされています。いい換えれぱ、人間はあくまで労働主体とLて措定され、彼の働きや、彼の取り結ぶ社会関係が、生産物に価値という、特定の歴史的な規定性を付与するのですから、人間そのものは価値ではなく、したがって商品ではないことになるのです。価値は、あくまで、人間が生産物をそう見なし、そう取り扱う、生産物に与えた対象性であるといわんとしているのです。

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