第一節 人間の物化・商品化

人間の物化・商品化

 現代ヒューマニズムの最大の特色は、人間の物化・商品化を人間性に反するとして批判するところにあります。「人間は考える葦である」(パスカル)、自ら思考し、自らの判断に従って行動する主体的な存在、これが人間です。人間は自らの意志に反して、他人の意志によって動かされるのを好みません。

 意志や感情のない品物と同じ様に扱われたとき、人々は自分が物化されていると感じます。つまり、奴隷のように人間の身体が直接売買の対象になったり、労働カが商品化される時に、人間は自分が他の品物と同様に商品化され、物化されていると感じます。資本主義社会では、労働力が商品化されることが人間の商品化を主に意味していると受げ止められています。これが資本主義的な物化の一般的、抽象的な在り様と見られていますので、人間物化の根本原因、アトミックな事態が労働力商品化にあると考えられているようです。

 一方、物化は分業の発展、それも大工業の発展により生じた工場内分業の発展により、機械という物の補助役にされたり、単純作業の繰り返しでしかない機械的運動が労働の常態とされたりすることで強く感じられます。企業や行政の機構の高度化、複雑化にともない、上意下達の官僚機構に組み込まれてしまうと、ほとんど主体性を発揮したり、独創性を発揮したりできなくなり、いよいよ組織の単なる部分品としての自己を見出し、淋しくなるのです。そして、様々な政治問題、社会間題、経済上の困難が噴き出し、危機が進行しても、諸個人は自分たちの手に負えない事とLて、傍観してしまうことになります。

現代ヒューマニズムの物化・商品化批判

 このような情況を現代ヒューマニズムは、物化、商品化として捉え、非難します。諸個人の主体性を復権し、人間を品物としてでなく、自己の意志に基づいて行動する主体として、自由を取り戻そうと叫んでいます。機械や組織はあくまで人間にとって手段にすぎない筈で、人間こそが目的であり、人間が逆に機械の補助や、組織の道具におとしめられているのは、何としても不当だと主張しています。

 人間が考える主体であり、意志や感情を持つ動物であること、したがってその自由が最大限尊重されるべきことはいうまでもありません。諸個人が自己の意志に反して働かされたり、諸個人の意志が実現しにくい体制はできる限り変革されるべきでしょう。その意味では現代ヒューマニズムの主張の意とするところを汲みとり、その実現に積極的に取り組むべきです。

 ただし、現代ヒューマニズムの物事に対する捉え方、考え方に対しては再検討の要があります。現代ヒューマニズムは、物化に反対します。人間は物ではない、だから物とLて取り扱われるのはけしからんと強調します。その場合、物でないとはどういう意味でしょう。人間は物でないことはありま
せん。人間の身体は立派に物であります。いや、人間は他の物とは違って、思惟し、意志や感情をもっている、だから他の物とは違うのだといいたいのでしょう。他の物と違う物であっても、物には違いありません。それは揚げ足とりだ、この場合の物は、人間のように、考えたり、悩んだり、意志や感情をもたない物を指しているのだ、そのような物と同様に、人間の特性を無視して扱われることが物化なのだ、こうヒューマニストは反論します。

物的関係としての経済関係

 ところで、人間は労働し、様々な物を創造します。創造した物の中に自己を表現します。人びとは必要に応じて互いに創造した物を取り換え、互いの生活を成り立たせます。これは分業と呼ぼれています。そこでは、経済的には、諸個人は彼らが創造した生産物によって評価され、社会的な存在価値を与えられます。経済的見地からは、生産物以外の彼らの身体的特性や、人格的特性は評価されません。したがって、人びとは専ら生産物によって自己を代表させていといえるでしょう。つまり、諸個人は生産物として評価されます。これは物化ではないでしょうか。マルクスは『資本論』「第一章 商品、第四節 商品の物神的性格とその秘密」で、人と人の関係が、物と物の関係として現われる物象化を指摘しています。

 人と人の関係は、経済関係としては、彼らが作り出す物と物の関係として現われる他ありません。物と物の関係として現われても、それが人と人の関係でなくなるわげではありません。このような物化、物象化においては、人はその作り出した物として扱われます。商品社会では、生産物は商品ですから、人は商品として扱われます。ここに人間の商品化の原点があります。

 ヒューマニストは、人間は人間として扱われるべきであり、物や商品として扱われるべきではないといいます。でも、人間は自分たちが作り出した物や商品とLて扱われなけれぱ、どのようにして経済関係を取り結べぱよいのでしょう。

共同社会と物的関係

 コミュニストたちは、共同社会を構想し、共同生産、共同消費の社会機構をつくれば、人間関係は生産、消費の共同関係になるから、物と物の関係として自分たちの関係を表現する必要はなくなるだろうといいます。しかし、共同社会も、共同でつくり出す物と物の関係によって労働を配分し、生産物を分配する社会です。諸個人の必要や欲求は、米何キログラム、魚何匹、机何台等として表現される他ないので結局、人間関係はそれに対応する労働関係になります。農民は自分を米いくら、漁師は魚いくら、指物師は机いくらとして自分を表現します。社会関係がそれらの物と物の関係になるのは超歴史的な、一般的な関係です。

 人間は自分を物にし、物となって社会関係を取り結ぶのであり、物にならず、物として評価されなけれぱ、物の数に入れられないので、一人前の社会人とLて認められません。その意味では物化こそ、人間にとって人間であるために最重要な人間的な事だといえるのです。

良い意味の物化と悪い意味の物化

  これに対して、ヒューマニストは、農民を米としか考えないのはけしからんと反発するか、農民は米をつくっても、米になるのではない。人間としてはあくまで人間であって、その人間性が重要である、米をつくる物化がいけないのではなく、人間性を否定される物化がいけないのだと二通りの反論を用意するでしょう。

 もちろん、米作農民は米しか作らないにしても、その他の食糧品や住居、衣料が必要ですから、彼らの作り出した米は、他の品物と取り換えられて彼らの下には生活物資が必要ただげ入ってこなけれぽなりません。その意味では、米作農民は米だけでなく、他の必要な物資の全体として自己を主張します。いかなる社会体制もこれに応えうるものでなけれぱなりません。いや、人間は彼が必要とする物資の総計ではなく、彼の主体性、彼の思考、意志、感情なのだといわれるしよう。まことにその通りですが、ここではその議論は止めましょう。少なくとも人間は自己をそのような物資として主張し、表現しなければならないこと、その意味で人間は自己を物化しなければならないことはたしかです。

 そこで、そのような物化ならいいが、人間性を否定する物化、つまり、人間の意志や感情を無視して、物として扱う物化がいけないという議論を吟味しましょう。この議論に、無論、異議があろう筈はありません。しかし、往々にLて、両方の物化は混同されるきらいがあります。なぜなら、人と人の
関係が物と物の関係となってしまうと、もう、人間の意志や感情は無視され、物としてしかみられていないからです。いい換えれぱ、人間の意志や感情というものも結局、彼らが作り出した物としてしか自己を表現することができないということです。

 我々は、農民の労苦を偲びながら、感謝の気持をこめて「いただきます」といってごはんを食べる時、農民の意志や感情を汲みとろうとしますが、往々にして、無頓着に食べてしまい勝ちです。その場合、米だけがあって農民はいません。彼らの存在、意志や感情は無視されます。このように良い意味の物化は、悪い意味の物化に転化し易いのです。

必要悪としての悪い意味の物化

 また、我々は、自分の意志や感情に常に忠実に生きることはできません。諸個人は、社会的分業に固定的に縛りつけられており、各人の恣意で転職できるわけではありません。不本意な仕事、あきあきした仕事、極端な単純作業、肉体や神経の酷使にも耐えなければなりません。ですから、自己の意志や感情を押し殺しても働かなければなりません。充実した、生きがいのある仕事、自己の能力を最大限に発揮できる仕事というのも相対的なもので、そのなかでの忍耐があってはじめて見出せる事です。ですから労働には常に意志や感情を抑制して、組織や技術体系のねじ・くぎに自己を物化して働くという契機がともないます。その意味では、悪い意味の物化も一概に悪いのではなく、ある程度必要悪として辛抱すべきであり、その極端化に低抗すべきだといえるでしょう。悪い意味の物化を良い意味の物化に転化させる努力が人間性を豊かにし、成長させるともいえるのです。

 ねじ・くぎがなけれぱ機械はこわれてしまいます。油を差さなけれぱ機械は止まります。ねじ・.くぎ・油の大切さを知れば、自己がねじ・くぎ・油として存在していることの意義が理解できます。.機械に圧倒され、機械の手段にされ、機械の指令の下で動かされ、機械的な運動を強制されるのは確か
に苦痛ですが、機械自体が人間の物化であり、それを作り出した人びとが機械の姿をして物になっていると考えれぱ、それらの人びととの共同作業とLて把握されます。

 人間の主体性、意志や感晴を大切にすべきであることはもちろんそうですが、大切にするということは逆にある程度、かまっていられない事態と表裏一体です。大切にするということは同時に無視し、切って捨てることによって可能であることも悟っておかなければなりません。ですから、ヒューマニズムが人間性を主体性、意志、感情に求め、これを無視することは人間的ではないと主張する際、それを無視しないのも人間的ではないということを忘れています。人間性というものは、同時に主体性、意志、感情を押し殺すところにもあるのですから。『論語』で孔丘は顔回に克己復礼が仁で
あると教えています。

人間の物化=物の人間化

 人間の物化の情況を暴露し、物でない人間が物にされ、物として扱われていることを非難する現代ヒューマニズムの発想は、いきおい物化されていることを指摘すれば、それが批判として成立しているかに憶い込む弱点をもっています。物化には当然良いところも悪いところもあるのです。物化そのものがいけないとなると、人間は何もできなくなります。一般に人間の行動では、常に善悪、良し悪しは表裏一体であって、人間存在自体が善でもあれば悪でもあるのです。

 物化は人間が物であることの証しです。人間は身体としてまず物であり、それゆえ、物によって措定され、物の中に自己を措定し、相互に前提し合って存在しています。人間は身体としてだけ物であることはできず、物の中に自己を表現し、物を自己の現存としなければなりません。あらゆる生産物は人間の現存であり、人間化した自然です。物は今や人間となっており、人間は物として定在しているのです。つまり、人間の物化は、同時に物の人間化に他なりません。組織や機械は、したがって人間の単なる手段、道具ではなく、人間自身の現存なのです。そして諸個人は、組織や機械を自己の目的のための手段、道具としてしか把握できないとき、自分たちが組織や機械の手段、道具にされている事を一方的に不当と感じるのです。

 組織や機械を自己の物化、身体的自己からの脱皮、拡張された自己として捉え返すとき、つまり、自己を組織や機械に合体させることに成功したとき、はじめて、組織や機械の中で自己が発揮され、組織や機械が自己のために存在するものであることができるのです。

 はじめから組織や機械が自己と馴染んで、そこで自己が組織や機械の主体として存在できるわけではありません。互いに相手を自己の手段、道具として措定し合おうと外的に対峙し、圧迫し合っています。お互いに使いこなすのは難しいのです。そこで自己を組織や機械に習熟した者に成長させること、組織や機械が諸個人に適合した物に改良されることによって、両者の関係を改善しなけれぱなりません。こうして両者は互いに他者を自己の契機、規定性にするようになり、身体的な自己から脱皮し、組織や機械の主体としての自己に成長します。自己の意志や感情も、組織や機械のそれへと成長します。こうなれぱ、組織や機械は意志や感情をもった人間として現存することになります。組織や機械はそれによく習熟した人びとによって運営され動かされれば、その人びとの手足のようになり、その人びとの意志や感庸を体現するようになるのです。

人間の商品化の自覚

 これまで「人間の商品化」は、主として「労働力の商品化」を指す言葉と解されてきたようです。もちろん人間の身体が直接売買される奴隷化も人間の商品化です。しかし、物化とは人間が物を創造して、その物に自己を代表させたり、自己を表現したりすることですから、商品化も、人間が商品を創造して自己を表出することと捉えるべきだと思われます。

 商品社会、これは交換社会あるいは市民社会といい換えてもよろしいが、商品社会では、諸個人は、商品を交換して人間関係を結びます。人と人の関係が物と物の関係、商品と商品の関係に置きかえられて現われるのです(カール・マルクス『資本論』 第一巻 第一章 第四節 参照)。人間は彼の内面的な意志、感情、個性などで経済的に関わり合うのではなく、彼らが創造した商品として関わり合うわけです。ここに既に人間の商品化があるといえます。人は他に交換できる商品を持たなくなってしまえば、やむをえず商品としての自己を保つために、自分の身体そのものを売ったり、身体の使用権を売ったりします。前者が奴隷化であり、後者が賃労働者化、労働力商品化です。

 奴隷になってしまえぱ、もう市民として、一人前の人格として認められません。そこで、奴隷でない者だけが人間であると捉えられるため、奴隷の出現は人間が商品であることの自覚に結びつかなかったのです。労働力商品化は、自己の身体的能力の使用権の売却であり、売り手の所有権は確保され、人格は保たれます。しかも、資本制の発展は、資本家階級と労働者階級への二極分化を極限まで推し進める傾向をもちます。大多数の人間の労働力商品化が現実のものとなりますから、人間の商品化が否応なく自覚されます。

 生産物だけが商品であったのに、人間の身体(といってもその使用権ですが)が商品化されると、人間が品物と同様に扱われることになります。だから商品化は物化として受け止められ、現代ヒューマニズムの批判の的になっているのです。しかも、労働力商品化は資本制の根本的な土台ですから、資本制にともなうあらゆる物化の基礎も商品化に基づいていることになります。

 我々は、生産物が商品化すること自体が人間の商品化を意味することを知っています。それが生産物ばかりでなく、身体にも及んでやっと人間の商品性が自覚されたということです。人間を身体に限定して捉え、生産物を人間の他者と考えていると、生産物が商品であっても人間は商品ではないように思ってしまいます。生産物としての商品が人間関係、社会関係を取り結ぶことを何か倒錯した事態であるかに憶い込みます(マルクス物神性論の立場、前掲個所及び『資本論』 第三巻 第七篇「収入とその源泉」、『剰余価値学説史皿』補録「収入とその諸源泉、俗流経済学」参照)。生産物を人間の現存として捉えれば、生産物が商品であることは、同時に人間が商品であることであり、したがって、生産物としての商品が人間関係を取り結ぶのはなんら倒錯した事態ではないことが理解できます。

労働カ商品と人間性

 人間は自己を身体として主張するだけでは経済関係は結べないのですから、生産物として、特に商品社会では商品として自己を提示しなげれぱなりません。ですから、人間は、いつまでも、自己を身体でしかないという立場に固執できません。積極的に自己を生産物として、商品として把握しなけれぱならないのです。

 労働力以外に生産手段をもたない労働者は、自己を労働力商品として商品化しなけれぱならない運命にあります。ところで、現代ヒューマニズムは、労働力商品化を人間の非人間化、物化として把握し、糾弾します(マルクス『経済学・哲学手稿』「私有財産と労働」参照)。しかし、労働者は労働力を売っても人間でなくなることはありません。もちろん、現代ヒューマニズムの立場からは、人間性が失われること、つまり、主体性、意志、感情、個性、諸能力等が失われることが非人間化であり、人間が商品として物扱いされることが非人間化なのだといいたいのでしょう。

 我々は既に人間は物であり、物とならなければならないこと、物化して自己を表現する他ないことを知っています。たとえ不本意であっても、労働力を商品化することによって、賃労働者は賃労働者としての人間になれるのです。その意味では自己を商品化するところにこそ賃労働者の人間性があるといえるでしょう。

 人間性といっても固定的ではありません。階級や身分、時代によって人間のあり方も変化し、人間性の内容も変わります。労働力が商品化していない時代の人間性は、労働力が商品化Lた時代には失われるでしょう。そこには労働カ商品にふさわしい人間性が形成されます。

 いや、人間性というのは人間の理念、あるべき姿であって、それに照らして我々は現実の人間を人間性を失っていると批判し、人間の理念への到達を促すのだ。人間は人間の理念に向いつつ、現実の中に理念がどれだけ宿り、どれだけ踏みにじられているかを常に反省し、理念の伸長を企るべきだ。人間性を現実の人間の姿そのままとすれぱ、そこには反省も、批判も、進歩もなくなる。ただ歴史の変遷の中で人間の変遷を傍観するだけになってしまう。現代ヒューマニズムはかく反論するでしょう。

マルクスと現代ヒューマニズム

 ところで、マルクス自身は、たしかに『経済学・哲学手稿』では自己疎外論に立ち、人間性を本来の人間のあり方とLて、疎外されていない労働、類的存在等から説き、現実の疎外を批判する構えをとっていました。しかし、『フォイエルバッハ・テーゼ』では人間の本質を社会的諸関係のアンサンブルとして捉え返す現実主義に立ち、ヒューマニズム的な理念主義から一線を画したようです。『資本論』などにみられる物神性論では、人間を物や商品でないとするところではヒューマニズムと見解を共にしますが、それはあくまで経済関係を人間関係として把握するという観点からであって、別段人間を理念によって規定する現代ヒューマニズムからとはいい切れません。とはいえ、人間と物の抽象的区別にとどまったという点においては、マルクスの人間観は現代ヒューマニズムと同じ限界内にあると判定して差しつかえありません。

 人間の理念に対する大言壮語が人間の現実を批判し、人間を革新するという妄想をきっぱり批判し、人間とは何であったか、現実に何であるか、また、どこへ行こうとしているかを物質的生の再生産を土台に据えて考察し直そうとしたのがマルクス、エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』でした。我々は、現代ヒューマニズムの人間の理念が間違っているとは考えませんが、しかし、その理念を抱かざるをえない、あるいは抱くことができる人間の現実の存在構造こそ人間として捉えるべきだと考えます。ですから、その理念と反対の在り方や行動もまた人間的であると理解すべきなのです。

現代ヒューマニズムの諸傾向

 務台理作氏の『現代のヒューマニズム』(岩波新書)は全体的人間の立場から人間性の疎外を追求する構えをとっています。氏はこれをアンリ・ルフェーブルの強い影響の下に書いたと述べています。ルフェーブルは商品・貨幣や様々な社会制度等の物神性を批判する立場を貫いています(アンリ・ルフェーブル『マルクス主義』クセジュ文庫、『日常生活批判』現代思潮社、一九六八年参照)。ルフェーブルの立場は、物象化の問題を本格的に追求した、ジョルジュ・ルカーチ『歴史と階級意識』(未来社)から影響を受けているようです。

 こうした疎外論的マルクス主義ヒューマニズムの系譜と共に、人間の物化をもっと単純な図式で捉える傾向は実存主義です。人間は物とは違って、存在を問う存在であることによって存在とかかわる現存在(ダーザイン)であり、そのことによって存在の明るみに立つ実存(エクジステンス)であるとするハイデッガー(『ヒューマニズムについて』角川文庫)や、人間は物のように単に措定された存在ではなく、自らを投企(アンガージュ)することによって実存する自由な存在であるとするサルトル(『実存主義とは何か』人文書院)がそれに当たります。実存主義は、物との対極において人間を捉えます。物になること、それは自由を失うことであり、人間でなくなることだと考えるのです。

 人間の理念から現実の人間を批判し、物化、商品化を人間性の喪失だと論難する傾向は良心的な知識人、ジャーナリストの一般的な傾向であり、機械文明、管理社会、官僚主義等に対して、精神文明、人間の主体性、自由を擁護する論調は、常套的に物化、商品化を指摘し、その非人間性を批判して事足れりとする傾向がみられます。しかし、このような批判は、現実に人間が物であり、商品であることに対する高踏的な批判に終わりがちです。

 むしろ、物であり、商品であることが、現実に人間であることなのであり、そこにこそ人間性があるという立場に我々は降りていかなければなりません。その上で、人間はいかなるものになりうるのか、いかにして商品であることの問題性を捉え返せばよいのかを考えてみるべきではないでしょうか。

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