九、労働価値説の脱構築

  河口ーマルクスが労働価値説を守るためにフェティシズム批判を資本論で展開していることは確かでしょう。このフェティシズム批判を批判されるやすいさんは、結局労働価値説を批判されることになります。

やすいー『資本論』の労働価値説は、労働者の抽象的人間労働だけが価値を生むという考えです。これは価値の定義を抽象的人間労働のガレルテとしたことで、いわば同義反復的な真理になってしまいます。それで都合が悪くなると、倒錯だとフェティシズム論で切り抜けるのです。価値移転論だけじゃなく、特別剰余価値の源泉問題でも、改良された機械が特別の剰余価値を生むと思われるけれど、マルクスは改良された機械によって「強められた労働」が特別剰余価値を生むことにします。マルクスも現実をよく見ていますから、機械制生産では労働力は補助的な役割しか生産現場では果たしていないことを知っているんです。だから機械が生産の主役になっていて、労働条件が悪化し、資本のキャタピラに踏みにじられている労働の疎外を指摘しています。でも労働者の労働だけが労働の主体であることは、労働過程論で確定してあるわけです。それであたかも労働力が補助的に見えたり、機械が価値生産の主体に見えると倒錯的だということになります。

河口ーつまり機械も価値を生むということですね。しかしその価値生産量はどのように計測できるのですか。そのことと機械も人間に含めるという「人間観の転換」とはどうつながるのですか?

やすいー元々商品の価値は、交換が成立する以上両者に共通の何かが等量含まれている筈だということで、想定されたものです。価値はですから、各商品の交換に際しての社会的な支配力の大きさだと考えればいいんです。アダム・スミスは、自由競争で他の条件が均等になれば、その何かはその商品が交換される相手商品に含まれている労働時間にあたるとしました。また各商品の価値は投下された労働時間に比例する筈だとも考えたのです。 マルクスの場合は、価値を定義する段階で労働価値説は前提になっていますから、極めてドグマティックです。しかし現実の経済に即して考えますと、機械制商品生産の現場では、労働者が機械以上に主導的だとも能動的だとも言えません。労働者が自己の労働時間分の価値を生産物に対象化している間に、機械も自己の減価償却の分だけの価値を生産物に対象化していると捉えて一向に差し支えないのです。ついでに原材料も使用された分の価値を使用されることによって生産物に対象化しています。このように捉えても労働力や生産手段の価値が生産物に対象化される仕組みは説明がつきます。価値対象化論を使えば価値移転論は必要ないわけです。

河口ー価値対象化と言う場合、機械や原材料まで行うのなら、それらを生産の手段ではなく主体の位置に付けなければなりません。それに労働者の労働だけがどうして剰余価値を生産することができるのかも謎になります。

やすいー労働者が労働主体だという場合、労働者は目的意識的な対象変革活動を主体的に行うということですが、実際はマニュアル通りに機械を操作するだけです。しかもその操作を別の機械に代替できれば、そうしてもいいわけです。この選択は主としてコストの問題なのです。そしてこの生産における目的意識的連関は機械の連結によって、ベルトコンベアー・システムによって形成されていますから、個々の労働者より、機械システム全体の方がよっぽど主体的だと言えます。労働者が行う機械を補完する意識活動は、機械の付属物としての意識機能ですから、機械の中枢神経の部分に労働者が入って意識活動をすることになり、もはや機械とは別の独立した意識ではないのです。ですから労働者の意識内容も機械の意識として、生産機構全体の働きにによって生み出されるものなのです。

  そこで問題の剰余価値の生産ですが、生産手段は使用によって価値が減少する分、生産物に価値が対象化されると捉えばよいのですが、労働者は労働者階級だけではなく、不労所得を得ている階級の価値も産出しなければなりません。ですから労働力の再生産費としての労働力商品の価値は、自己が労働によって対象化する価値よりもだいぶ少ない額で我慢しなければならないのです。

 では生産手段が剰余価値を生むことは有り得ないかというと、それがあるんです。飛び抜けて生産性の高い機械を導入した場合の特別剰余価値は、当然その機械が生産していると言えます。その機械を操作している労働者の労働の複雑度は変わらないとすれば、労働力の価値生産力が強められることはないのです。マルクスの「強められた労働」説は、労働者の労働のみが価値を生むという証明抜きの前提に立ってのみ言えることです。

河口ーしかし機械も労働するという証明が無いかぎり、機械が価値を生むという議論も説得力がないでしょう。

やすいーですから生産における作業としては、労働者が作業するか、機械が作業するかはどちらがコスト面からみて器用に効率的に行えるかで決まるわけです。マルクスの立場からみればフェティシズムの極致でしょうが、近代経済学ではコブ・ダグラス生産関数等を使って労働と資本つまり労働力と生産財の代替関係を説明しています。ですから、殊更労働者の場合は価値を生むが、機械の場合は生まないということはあり得ません。ただ一億円分の価値を生み出す機械は、購入に一億円かかるが、月百万円の価値を生み出す労働者は月五十万円で労働力を販売するところが違うだけです。ただし一億円の経費で開発した機械が十億円分の価値を産出する場合があります。これが特別剰余価値です。でもその機械が普及しますと特別剰余価値はなくなりますが。

 

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