八、マルクスの憑もの信仰

  やすいーたしかにマルクスのフェティシズム論は、社会的諸事物の主体的な社会活動を認めていませんから、社会的諸事物が様々な社会的属性を持ち、社会関係を取り結んでいるように見えること自体を倒錯だと決めつけています。上着はあくまで上着という使用価値でしかないのに、商品としては価値物と見なされる。これは倒錯だというわけです。

 つまり労働の社会関係は人間関係であり、物の関係じゃない筈だ。ところが商品では労働の固まりである価値が上着に取りついて、上着の属性と見なされるから、上着が商品という物神になっているという理屈です。上着は人間労働の体化物だから、社会関係を取り結ぶ主体になる資格があるとは考えていないのです。

河口ーマルクスも社会的事物が社会的な属性をもって、社会的な関係に組み込まれていることは認めているでしょう。たとえば交通信号は社会的な役目を果たしています。機械も生産という社会的役割を果たしているわけです。ただマルクスは価値関係については、実体的には人間の抽象的人間労働の関係だとして捉えているわけです。ところがそれが商品関係ではこの労働時間の凝結の比が交換比となって現れるものだから、あたかも事物の属性のように見なされてしまう。だからこの置き換えは倒錯だというのです。労働の固まりである価値が上着に取りつくなんて考えていませんよ。

やすいーこれは『人間観の転換・マルクス物神性論批判』の重要な論点だったのですが、全く無視された論点です。マルクスは価値を抽象的人間労働の凝結だと定義しているわけですが、この凝結というのは実はドイツ語では「ガレルテ」なんです。つまり「膠質物」という意味なんです。有機物がドロドロに融けて、そのまま固まった状態を意味するわけです。ですから価値は抽象的人間労働自体の固まりとして表象されています。これは膠だから付着するわけです。それで生産物それ自体は使用価値でしかないけれど、価値が付着して商品となり、価値を属性として社会関係を取り結んでいるように見える、だから机が踊り出すわけです。

河口ーアッハッハッハ、こりゃあおもしろい。なるほどね。そういう解釈も可能かもしれない。でもそりゃあ比喩でしょう、いくらなんでも。マルクスは科学的な思考をする唯物論者ですよ。あたかも抽象的人間労働の固まりがくっついたもののように事物の属性と価値が見なされるといいたいのだと思いますよ。だって目に見えない抽象的人間労働の固まりが商品に実際にくっついているなんて、とんでもない憑もの信仰ですよ。そんなマルクス解釈をしたってだれも相手にしませんよ。

やすいーおもしろいでしょう。この解釈を思いついた時は、私も笑いました。そして比喩だとも思ったのです。でもマルクスの資本論での生物学的用語は、単なる比喩じゃないんです。「蛹化」や「骨化」でもそうですが、価値実体である抽象的人間労働が見えなくなって、事物としての金属や機械が商品や資本となり社会関係を支配している「倒錯的事態」を示す用語になっています。ガレルテとしての価値が付着したものであることは、実は「可変資本と不変資本」での価値移転論の形で表面化します。具体的有用労働が不変資本である生産手段のガレルテとしての価値を労働の熱で溶かして、新しい生産物に移転して付着し直す論理になっています。これは生産手段は価値を生まないことにするために、生産手段は生産過程で自己の価値を生産物に対象化すると解釈されないように、踏ん張って労働力だけが価値を生むという労働価値説を守っているのです。

河口ー価値移転といっても結果的に、生産を通して生産手段の価値が完成品に含まれて、移転したことになるとしたまでです。ですから「移転」も比喩だと言えます。価値移転の担い手が具体的有用労働だとしたのも、生産手段を完成品にするのは具体的有用労働だからです。それを憑もの信仰のように実体的に解釈してしまっては、マルクスを迷信家に仕立てあげる議論になってしまいます。

やすいーマルクスは比喩だとは断っていません。自分と違うマルクスに出会うと比喩だと解釈してしまう。そういう解釈法では我田引水になっしまいます。人間関係である労働関係が生産物の関係を包み込み、規制する構造を説明するのに、抽象的人間労働が実体的にガレルテとして生産物に付着し、商品物神を作る、そして必要に応じて価値移転するという展開になっているわけですが、これを河口さんは憑もの信仰だと言われる。だからマルクスのような科学的な唯物論者がそういう表現をしても比喩だと解釈すべきだということでしょう。科学者が手かざしをしたり、唯物論者が四柱推命の卦を気にしたりするのは確かにおかしいですね。でも実際にはよくあることです。マルクスも宗教的な論理を使ってしまうことはあるかもしれない。頭からないとは決めつけられません。

 では宗教的に考えますと、憑もの信仰というのは、神や霊と事物を絶対的に区別した上で、神や霊が霊験を示すために事物に付着するという構造になっています。つまり憑もの信仰というのは素朴に物を神と考える物神信仰を批判する啓蒙的な信仰なんです。だからついマルクスも物神信仰を批判するのに憑もの信仰を使ってしまったのです。人間は物でない、しかし生産物交換という形で労働交換を行わなければならない、この置き換えを実体的に労働ガレルテの物へのとりつきとして展開したわけです。マルクス解釈として労働の凝結という実体的表現を「叙述の便法」とする廣松式解釈がありますが、マルクスの実体的な叙述は一貫しており、とても資本論に内在した解釈とは言えません。 

 

    ●次のページに進む      ●前のページに戻る     ●目次に戻る