十、機械の意識としての身体の意識

  河口ーやすいさんの場合は、機械が人間同様の作業をするばかりじゃなく、人間として意識活動もするということなんでしょう。

やすいー身体が労働をする場合は、機械や道具を使って物を作るわけです。つまり機械や道具と共同で作っているわけです。ところがマルクスは労働過程論で、労働主体は労働力であり、機械や道具は労働手段であり、原材料や燃料は労働対象だと定義づけます。

 そうするといかに機械が目的連関を構成していて主体的に見えて、労働力の作業が単純で補助的に見えても、労働主体は労働力、機械は労働手段という図式は崩れないことになってしまい、機械の補助をするだけの労働は非人間的だとされてしまいます。

 たとえば自動車の組立システムがありますと、これは自動車を組み立てようとする意志が装置連関になって物化しているわけです。それはだれの意志かと言いますと、例えば日産という企業の意志ですね。それが貫徹しています。まあ企業が一つの人間体になっていて、機械は内臓器官に当たるといっていい。そこで働く労働者は血液やリンパ液かもしれない。そこでうんちならぬ製品を生産しているわけです。目的意識的にね。ですから労働しているのは労働者だけでなくて、機械もだと分かります。

河口ーそれじゃあ意識しているのは経営者や資本家であって、機械とは言えません。だから機械も人間だってことにはならないでしょう。

やすいー機械や機械システムが目的意識的に生産しているのですから、その意志は機械という装置に体現されているわけです。でも実際に機械が稼働するには機械を生産計画に沿って稼働させる意志決定が必要で、それは企業中枢から指令として送信されるわけです。ただしこの意志は機械装置から完全には独立していません。工場を建てておいて稼働させないと、企業はたちまち麻痺してしまいます。設備に合わせた指令がくるわけで、その意味では、食欲は大脳の欲望であるだけでなく、胃腸の欲望であり、全身の欲望です。 

 もちろん何百万円も出して乗用車を買っておいてまったく運転しない人もいるでしょうが、それは無駄遣いという損失を伴います。つまりそれだけ乗用車は運転する意志を運転者に持たせるわけです。こうして乗用車は、自分の意識活動を人に補完させ、運転者を自己の意識中枢にすることで、自己実現するわけです。乗用車を運転者なしで存在する独立した事物と見なすと、走らなくても車は車ですが、走ってこそ車という意味では、運転者も含めて活きた全体なのです。

 同様に機械や機械システムもマン・マシンシステムとして活きた全体になれるわけです。その場合機械では身体の延長の道具と違って、身体が機械の部品化しています。だから身体の意識は機械の意識と言えるのです。

河口ーそのように無理に人間の意識を機械の意識だとするから、人間性が否定されてしまい、機械的にしか考えられないようになるのでしょう。機械を使っている時には、機械が安全に正確に稼働するように気を配らなければなりませんが、人間の意識は機械ばかり動かしているわけではなくて、様々な精神的な活動をしているわけです。

 やすいさんは豊かな人間の精神生活を無視して論じるので、人間性を否定する議論だと思われます。

やすいーいやそれは誤解です。乗用車と運転者の関係で走行においては、運転者の意識は乗用車の意識でもなければならないと述べているだけです。運転中は運転に集中しないといけません。まさか哲学の込み入った問題を考えながら、運転されるわけではないでしょう。生産活動でも、工芸品の創造でもその物の心になって作ることが大切なんです。

 もっともこれは『幕の内弁当の美学』(ごま書房)の栄久庵憲司に啓発されたことですが。豊かな心は物と断絶した抽象的で貧しい人間の心ではなく、物に触れ感動して物の心になった人間の心なんです。物・道具・機械というとなにか大変非人間的で冷血で心が無いように思われがちですが、それは労働の疎外の現実なんです。元々は物・道具・機械と取り組む人達と熱く心を通い合わせて、人間の豊かな姿を展開してくれるものなんです。

 現代ヒューマニズムによって貶められた「物」の人間としての人権宣言が今こそ必要なんです。

 

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