七、事物の意識と事物の主体性

やすいー『資本論』では個々の商品交換にあたって、所持者は所持者として意識で交換するけれど、市場全体を見れば平均としては、所持者の意識は商品の価値に従っていることになります。それで商品同士があたかも価値語を語り合って、関係していることになるわけです。これが倒錯的だというのは、所持者の意識と商品の論理の区別に固執するからです。私は個々の所持者の意識は法則的には価値法則を反映せざるを得ないのだから、所持者の意識は商品の意識の現れだとみなすべきだと思うのです。

河口ーマルクスの場合、商品語という表現は商品があたかも語るようにということです。実際語ったら妖怪です。語らないけれど語るように関係が生じる、だからフェティシズムの体系なのです。

やすいーそういうように意識を身体的な諸個人に独占させて、商品の働きで生じたように考えない。そこが近代主観主義の欠陥だというのです。この私のスーツはだいぶくたびれてきましたので、そろそろ買い換えないといけません。この靴も買い換えるように私に意識させています。そしてバーゲン・セールかなにかで買うことになります。各商品や市場の動きで私の意識が刻々と生産され、変化させられているのです。こういう私の意識を市場は取り込んで、商品の意識を形成し、商品相互の社会関係を作り出しているのです。

河口ーほら又言い換えて誤魔化す。商品関係が生み出した意識だとしても、意識しているのはあなた自身であって、商品ではないでしょう。あなたと商品はあくまで別物なのですよ。

やすいーあくまで別物という発想は弁証法的ではありません。現実的諸個人は自然的諸事物や社会的諸事物との関係・様々な人間関係・社会的関係を担っている存在です。それらの総和(アンサンブル)なんです。もちろんそれらの総和であり得るのは身体的な個人として存在しているからですが、それは身体が意識として諸関係が現象する場だからです。社会的な諸事物はこの場に働き掛けて、自己の存在を対象化つまり意識化することで存続しているのです。ところが諸個人は自己の意識内容を私物化して、あたかも自分だけで作り出した意識のごとく考えているのです。

河口ー確かに意識形成に意識対象が関係することは否定できません。でも諸事物の方には感覚器官や意識中枢がないのですから、諸事物が意識させるというならともかく、諸事物自体が意識するというのは事実に反するでしょう。

やすいーそれは意識を身体の機能としてのみ捉えるからです。意識しているのは身体全体ですか、それとも中枢神経としての脳ですか?鳥肌が立つとか、全身で神経を集中するとかいいますが、部位によって意識に係わる程度は随分差があるようです。裸でいる時の意識と衣服を付けている時の意識はかなり違います。衣服もパジャマ姿とジーパン姿と背広姿とでは意識内容に影響がでますね。でも影響を与えることと意識することはまた別だといわれるでしょう。そうすると衣服は関係ないとすると、身体部位でも意識を感じている部位に限定しないといけない。そこで大脳の一部に、電気的・化学的変化が起こっている局所に逆に集約されてしまいますが、じゃあ電気的・化学的変化が意識なのかということになります。

河口ー電気的・化学的変化は意識を実体化した外見です。たとえヘーゲルの哲学的思惟であっても、それを脳波の変化で表現すれば波線になってしまいます。この問題は意識を主体の実践活動の一環として捉えないと議論がこんがらがるだけです。人間的実践はその基礎を身体の自己保存活動に置いていますから、身体的な営みとして捉えてよいのです。

やすいー意識活動には身体の自己保存に基礎を置くものもあれば、身体を超越した社会的・精神的な活動に基礎を置いているものもあります。生産・流通・消費に関する経済的活動での意識は、経済システム全体の再生産構造から生み出される意識なのです。マスメディアや書籍なども意識を生み出す重要な活動をしています。それらは映像・音声・文章などの形でパックされた意識・思想であり、見られたり、聞かれたり、読まれたりすることで確実に意識を受け手の中に再生しているわけです。

河口ーそれじゃあ、本を読んでいるというより、本に読んでもらっていることになってしまうでしょう。やすいさんは読書という読み手の活動を、読まれる本の活動にすり替えてしまう。こうやって私がお茶を飲みますと、それは私の活動だけど、やすいさんの言い方だと、お茶が主体的に飲ませているということになりますよ。

やすいーそうなんです。そういう面もちゃんと見ないといけないと思うのです。この煎茶は香りが良くて、濃く入れるといい渋味が出ます。体にもすごくいいそうですよ。そういう属性で我々に飲ませているわけです。お茶を飲むのは飲む側の活動であると共に、飲ませるお茶の活動でもある。近代人は人間を主観的に捉え、身体的個人だけを実践主体にしてしまった。自然的・社会的諸事物に働き掛けられ、意識させられ、生命を再生産させられているという面を忘れていたと言えます。たとえば蜜蜂は蓮華の蜜を吸います。これは同時に蓮華が蜜蜂に蜜を吸わせる活動であり、こうして受粉をさせているわけです。

 

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