六、フェティシズムとは何か?

  河口ーどうも納得いきませんね。意識が事物の自己定立であり、認識が事物の認識だとしますと、人間の喜怒哀楽や精神的活動もすべて事物の活動だということになり、事物の人間の差異が全く消失してしまいませんか。それこそマルクスが指摘した資本主義の精神病理である「机が踊り出す」物神崇拝(フェティシズム)そのものじゃないですか。

やすいーなかなか鋭い批評眼をお持ちですね。マルクスのフェティシズム論こそ近代的人間観の典型であり、この超克なくしては真の近代思想の超克はありえないというので、全力で『資本論』をフェティシズム論の体系として大上段から批判したのが、『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓社)なんです。マルクスのフェティシズム論および『資本論』全体を総括的に批判したほとんど唯一の著作と自負していたのですが、ごく一部の人にしか注目されず、断裁の憂き目に遭ったのです。

 人間の喜怒哀楽や精神活動が事物の活動だという発想は、例えば先程の本居宣長では「物の哀れを知る心」や「物の心を知る心」という形で出ています。

河口ー宣長の「ものの〜」は、具体的な事物のという意味ではなく、「ものごころ」とか「ものの本」とかいうようなつかい方と同じです。ですから「もののあはれ」は「あはれ」とは同じ意味なんです。

やすいーいや私の解釈では、「対象から受ける感動」という意味で「もののあはれ」と言うのだと思います。元々情感は何の原因もなく起こるのではなく、「もの=対象」に接して引き起こされるわけです。その意味で「もののあはれ」と「あはれ」は同じ意味です。でも宣長の場合、主体の側の喜怒哀楽が対象自身の「心」として捉えられていて、主観・客観が合一しているのです。小林秀雄はこれを「情感による認識」と評しています。

 つまり人間の情感が物の述語となって、物に帰属しているのです。たとえば薔薇が栽培されたり、桜並木が保存されたりするのは、薔薇や桜が人々の情感を支配しているからです。薔薇や桜とそれらに感動する心は他者じゃないんです。もしそういう感じる心がなくなりますと、自然が破壊され、人類の存続(サバイバル)の危機になるでしょう。一般に社会的諸事物が心を持つという意味もそこから類推できるでしょう。

河口ー文学的発想と哲学的発想を混同していませんか。やすいさんは『歴史の危機』を読んでいると、わりと常識的な議論をする人だと感じたのですが、人間論になると逆に全く非常識というか、極端な議論をされているのですね。フェティシズムは立派に精神病に分類されますよ。女性の肉体を愛せなくて、下着や靴下・ハンカチなどを愛好したり、人形愛に耽ったりする異常性愛をフェティシズムと言います。また石化症といって他人がみんな石に見えたり、自分が石のように動かなくなる病気があるんです。つまり対人恐怖症が嵩じて、人格性を否定して石化するそうです。やすいさんも対人恐怖症か何か深い人間嫌いが嵩じて、フェティシズムに陥られたのではないですか?

やすいー確かにマルクスのフェティシズム論を基準にしますと、私の議論は典型的なフェティシズムに含まれるのです。でもマルクスも資本主義をフェティシズムの体系だと診断することによって、社会的な事物が人間として社会関係を取り結び、人間として機能している事を認めているのです。ただしそういう倒錯が罷り通っている狂った社会だという批判の形ですが。

河口ーじゃあ、やすいさんはリンネルと上着が商品として関係し合って、価値関係を取り結び、労働の社会関係が事物相互の関係に置き換えられたり、貨幣が物神として崇拝されたり、資本が自己増殖して人間や自然がその中に飲み込まれ搾取・開発されるという事態を倒錯的ではないと考えるのですね。

やすい社会的事物が社会的性質を持ち、社会関係を取り結ぶこと自体にはなんら倒錯性はないんです。また商品交換社会では生産物が商品としての社会的性質を持ちます。再生産に必要な労働時間の体現物として価値物として扱われます。諸個人は商品交換を通して社会的分業に組織されますから、諸個人の人間関係は、商品間の価値関係に置き換えられてしまいます。この置き換えをマルクスは倒錯だと考えます。しかし身内的な共同体内の物資の交流ではなく、他者として物資を交流し合う市場経済の場合は、商品間の価値関係として人間関係が取り結ばれることは別段倒錯とは言えません。

河口ーマルクスは、物と物の関係のように商品関係を捉えていますが、それは基底にある労働交換の倒錯的な表現に過ぎないとしているんです。たとえば机と上着が交換されるとすると、その社会関係は机と上着が取り結ぶ物同士の関係のように見えるけれど、本当は机を作った労働と上着を作った労働の交換関係なんだと言うわけなんです。だって、机も上着も社会的な事物に過ぎないわけでして、それらが関係を取り結ぶなんてことは「机や上着が踊り出す」ことであり、「おもちゃの兵隊」の軍楽行進のようにありえないことなんです。

やすいー「おもちゃの兵隊」の軍楽行進はおもちゃが精巧なからくり人形で、本当にラッパを吹き鳴らして行進できるように作られていないのなら有り得ないのは当然です。商品関係の場合は双方の商品に価値が含まれている以上、むしろ商品関係を取り結べない方が不自然です。商品は自らの価値を実現する為に商品所持者の欲望や需給関係を通して他の商品との関係を取り結んでいるのです。商品所持者の意識は商品の意識の代弁者であり、市場全体としては商品所持者の意識は商品の価値意識として機能しているのです。

河口ーやすいさんは商品所持者が商品の意識を代弁すると言われながら、つまり商品には意識がないことを認めながら、その人間の意識を商品の意識だとされて、フェティシズムに陥っているのです。

 

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