五、事物の述語としての感覚

  河口ー客観的真理を主張するのは、真理が客観的で唯一のものでなければならないという思い込みがあるのではないですか。王陽明は庭前の竹を切って七日間その切り口をじっと見つめていたけれど、結局事物内の理に至ることはできなかったという話があります。心とは主となり、客とならざるものだから、心の理は心の中に見出される筈だと考えて「心即理」を唱えたのです。そして「心即理」ならば天下に心外の事、心外の理などある筈がないと、すべての事物や人々の心と一つになって万民救済を行おうとしたのです。これが「万物一体の仁」で、これは明らかに本居宣長の「もののあはれ」論にも繋がっていると思われます。ハートで捉えた真実や共感みたいなものを基礎すれば、真理論も客観的真理論を脱皮できるんじゃないですか?

やすいー真理が人それぞれでしかないというと、どうして共通の認識や共感が得られるのかが分かりません。民族や宗教の違いで文明間の衝突が避けられないから、軍事的に備えるべきだというハンティントンのような怖い議論もあります。だから心を単に主観的にだけ捉えるのではなく、様々な事象や事物が登場する場としても捉えるべきなんです。そうすれば認識に共通性や客観性の根拠が与えられますし、認識が一致しうるものという希望も持てます。

 先程事物を捉える内容自体が感覚に過ぎないという指摘がありましたが、感覚は主観の表象であるにも係わらず、客観的な事物の述語として機能しています。例えば「この玉は赤い。」という場合、「赤い」という感覚は「玉」という事物の述語なのです。つまり単に私の感覚に止まらず、客観的事物の属性として捉えられているんです。

河口ーでも色盲の人が見たら、青く見えるでしょう。どちらの色が本当とは言えません。つまり客観的事物の属性と言われているものも主観の感覚に過ぎないんです。

やすいーそれでもこの玉は九十九人には赤く、一人には青く見せる色をした玉であることは否定できません。またこれが玉だというのは球形に見えるからですね。球形というのも表象にすぎません。形も感覚の一種です。これがゴム毬だとしますと。ゴムの柔らかい感触があります。これも感覚です。こうした感覚を統合して私は赤いゴム毬という事物が、私の肉体の外部に、掌の中に存在すると判断します。つまりこのゴム毬は私の感覚の集合でしかないのに、私の外部の事物でもあると思われるのです。その場合、様々な感覚はゴム毬という事物の述語になっています。つまりこのゴム毬なる事物は、私の感覚を述語にして、私の心に現れているわけです。

河口ー私の外部と言われましたが、それは肉体の外部であっても、感覚の外部ではあり得ません。感覚や表象の外部は原理的に体験できないのです。

やすいーそうですよね。肉体の外部と感覚の外部は峻別すべきです。よく主観・客観図式の超克といいますが、主観・客観図式は肉体の外部にある感覚対象を感覚を素材に構成する図式なんです。ところがこの図式を感覚の外部にある事物を感覚を素材に認識する図式だと受け止めて、誤った図式だから超克すべきだと主張する。これでは水掛け論になってしまいます。

河口ー実際に主観・客観図式を説く人は、感覚の彼岸に事物を立てる議論を展開しているように思いますが。

やすいーそれは肉体の外部にある事物が肉体に刺激を与えて感覚表象を引き起こし、一定の像を結ぶので、そのような生理現象が起こっている体内の部位のことを感覚表象と考えて、その外部に事物の存在を立てているのです。つまりそれは肉体の外部に他の事物を想定しているわけです。肉体の外部の数万光年先に在る星だって、感覚の内部には違いないですよね。だって星の色も明るさも私の感覚には違いないんですから。

河口ーそういう言い方をすると、星があなたの内部に存在することになりませんか。

やすいー視覚で星を見る限り、星が私の感覚であることは確かです。でもそれは肉体の内部に見ているのではなく、外部に見ているわけです。事物の肉体からの距離感は肉体の運動や学習によって、視覚が訓練されますからね。わたしが言いたいのは、主観的には外的事物は感覚によって捉えられ、感覚を素材に構成されますが、だからといって外的事物が感覚に還元されたから客観的実在でなくなるのではないということです。逆にその過程を事物の働きから見ますと、外的事物が感覚の統合として自己の客観的実在性を示しているのです。

 それに外的事物が感覚の外部に実在するという意味は、感覚に実在が現れるとしても、一度に全てが現れるのではないということです。あなたが今ここで見える事物は、これだけに限られているでしょう。ほとんどの外的事物はあなたの感覚の外部に実在すると推論されます。もちろんこの部屋の外部は実は存在しないかもしれません。でもそういう推論は全く頭の中だけの形而上学的な意味しかないのです。そういう推論を採用していては暮らしていけません。        

河口ーすると、感覚の外部がこの部屋の外と同じ意味だということですね。でもね、この部屋の外部の事物だって、我々は感覚によって捉えるしかないのですから、その意味は感覚の外部ではないでしょう。

やすいーですから外的事物が感覚を述語に捉えられても、外的事物ではなくならないのです。つまり外的事物だと言いますと、感覚以外のもので構成しなければならないと誤解されがちですが、肉体の外部だとか、この部屋の外という意味での感覚の外部に存在する事物という意味でも使えます。「このゴム毬は赤い。」では、客観的事物としてのゴム毬が赤いという感覚的刺激で現れているわけです。

河口ー感覚で捉えられる事物は、感覚に還元されているのでしたら、客観的実在だというのはやはりおかしい気がします。やすいさんの議論では感覚が客観的実在だと言われているのと同じです。だから元来主観でしかない感覚が客観だというので変なんです。それも主観・客観図式を超克される議論なら分かるのですが、主・客図式の超克論を批判されながら、そう主張されるのですから釈然としませんね。

やすいー我々は事物を感覚によって知覚するわけでして、感覚以外のもので知覚することはできません。ですから事物は感覚で規定されるわけです。逆に言えば事物は我々の感覚を刺激して、感覚を通して現れます。感覚以外のもので現れなかったら、客観的実在ではないということになれば、事物は超感覚的存在だということになります。そういう議論は真実在をイデアと考える議論になります。わたしが強調しているのは、わたしの意識は、わたしの身体機能であるだけでなく、外部からセンス・データとして外的事物が自分を示している過程でもあるということです。

河口ー外的事物はセンス・データを与えるまではしても、意識を形成するのはあくまで脳髄の働きではないのですか。

やすいーだから考えているのは脳髄か、身体全体か、それともそういう人間の思考を生み出す自然や社会のシステムかという問題になります。そしてそれぞれのレベルで解答が可能なのです。意識は意識している人の側からはあくまで私だけの意識でしかないけれど、それは対象の働きかけが生み出した意識であり、この意識を通して対象は人間的世界を構成して、人間界に存在するわけです。

 

 

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