四、現象学と客観的真理

  河口ー自分達だけが正しく、他の連中が間違っていると思ったら、何としても正義を貫きたいと思って、他人の意見を無視したり、人権を軽んじたりしてしまうものですよ。そしてそうすることが結局みんなの幸福に繋がると思ってしまうのです。その極端な例がオウム真理教で、邪魔になれば殺しておいて、それをポアしてあげたと相手に対する慈悲だと強弁する。

やすいーそうだからこそ民主主義のルールを厳格に守らないといけないのです。ところでたとえばここにりんごがありますね。それを私は「ここにりんごがある。」ということを客観的真理として主張することは原理的に誤りですか。

河口ーそれは実はあなたがそう思われただけです。ですから正しくは「ここにりんごが見える。」と主張すべきなのです。実際わたしも「ここにりんごが見える。」ので二人の意見が一致して、それで「ここにりんごがある。」という推論が正しいとの確信が強まります。しかしそれも二人が確信しているに過ぎないわけで、共同主観的な妥当性なのです。

やすいー何もそういう現象学的な議論が間違っていると言っているわけではないんです。現象学では「ここにりんごが見える。」のは、りんごが客観的に実在するからどうかという問題はエポケー(判断停止)しておくんですね。その上で実際に意識にりんごが現象しているという事態そのものに即して議論するわけです。でも実際生活する上で我々は普通見えていればあると考えて、生活していけるわけで、いちいち疑っていたらノイローゼになってしまう。だから自然的態度としては客観的真理と見なしていいわけです。フッサールも厳密な学としては自然的態度では駄目だと言っているだけです。

河口ーでもそれでは客観的真理を哲学的に弁護したことにならないでしょう。

やすいーもちろんそうです。わたしが言いたいのは、世界観は推論だということです。現象の根拠に客観的事物を置くか、神を置くか、実践概念に還元するかは推論の違いです。人生全体がバーチャル・リアリティだという説明もあるいは可能かもしれないでしょう。その意味では客観的事物があるという考えは、完全には実証できないわけです。でも我々は生活上の経験や実験・観察の結果、その他さまざまなデータから客観的な事物が存在していること、従って客観的真理があることを体験的にも推論的にも確信しています。だから自分たちが帰納的・演繹的・弁証法的に考えて得た認識を、誤謬の可能性を認めながらも、客観的な対象と合致すると主張してもいいわけです。

河口ーその客観的なデータ自体が、意識現象でしかないという問題が根本的にあるでしょう。我々は客観的事物というものを主観的な感覚によって構成する以上、主観的あるいは共同主観的なものでしかありえないという限界は、原理的に突破できないのです。

やすいーそこでですね。ここが肝心で、わたしは「パース『人間記号論の試み』について」(『月刊状況と主体』一九九三年六月号)でパースと共に主張しているのですが、りんごを見るという活動は、同時にりんごがわたしの意識に現れるりんご自身の活動でもあると捉え返すべきだと思うのです。

河口ー非常に素朴な捉え方ですね。アニミズム(物活論)的な発想です。その意味ではポスト・モダンな考え方かもしれません。普通ならりんご自身には主体性も意識もないわけだから、りんごが意識に現れようと思って現れるわけではないんで、りんご自身がそんな活動はしないと考えますよ。

やすいー反映論の欠陥は客観的事物や法則があって、それを主観の認識が反映すると考えていた。認識活動を主観的に捉えていたことには違いないんです。これでは正しく反映しているかどうかは検証の問題になってしまい、どうして反映するのかは説けません。

河口ーしかしりんごに意識活動に対する主体性を認めてしまうと、「主体性」という言葉の意味が全く違った意味になりますよ。

やすいーもともと「対立物の闘争」や「相互浸透」という弁証法の原理でも、意志的な主体性までいかなくても、互いに働き掛け合い、支え合い、前提し合う存在として事物は扱われていました。りんごは食べて欲しいとは思っていなくても、そのサクッとした歯応えや上品で控え目な甘さで我々の嗜好を魅了し、食欲をかき立てるような属性を持っているのです。

河口ーしかし人によって好き好きですし、満腹だと欲しいとは思いません。あくまでも人間の主体性に依存しているのでしょう。

やすいー事物は客体であると同時に主体なわけです。舩山信一は主体即客体、客体即主体とこの関係を規定しています。つまり客体でしかない事物なんてないんで、りんごの方では、主体として同じ色や香りや形、そして味覚を引き起こす物質で働き掛けているんですが、働き掛ける対象の個人の状態によって引き起こす反応は様々なのです。そして働き掛けられている過程に注目しますと、それは主観がりんごを意識に現象させている過程と同一だといわざるを得ません。つまり意識現象はりんごが自らを意識として対象化させる現象なのです。そう考えますと、不可知論に陥るのも防げます。主観の能力や状態で誤謬や認識内容にずれが生じるとしても、客体が主体に自己を定立している以上、対象が意識に現れていることは確かで、その意味で真理性は保証されますから。

河口ーそれは現象学からみれば、客観的事物や真理が先ず有るという独断論に立っていることになりますね。

やすいー一つの推論であることは認めます。ひょっとしたらこのりんごはないかもしれない。仮に食べてみて、りんごの味がしても、それも感覚のリアリティでしかないと言えます。でも人生が全てバーチャル・リアリティや、一睡の夢だと決めてかかって生活すること程危険な独断はありません。我々は常に本物の事物や人々との交わりや働き掛け合いに生きているのであり、意識に現れてくる物たちを本物だと思って、真剣に係わらざるを得ないのです。

河口ーでも自分がそう思うのはいいとしても、自分が勝手に思い込んだ真理を他人に客観的真理だと押しつけるのはいけないでしょう。やはり主観的で相対的な認識でしかありえないのですから。

やすいー主観的で相対的であると同時に、我々は推論による確信で自分の信念を固めて、自分の掴んだ真理を客観的な真理として主張しています。その根拠は、意識が客体の側の働きかけで構成されており、「認識は主観の認識であるだけでなく、対象自体の認識でもあるという面を持っている」(『歴史の危機』一七七頁)からです。ただしこれを暴力的あるいは非民主的に主張するのは慎まなければなりません。

       ●次のページに進む    ●前のページに戻る    ●目次に戻る