三、現代ヒューマニズムと唯物論

やすいー私が人間だって事物に違いないというのはわけがあります。マルクスは労働力は商品だとしながらも、それを人間を事物と規定することだと反発していますね。本来物でない人間を物化することだと。サルトルは、実存主義はヒューマニズムだと言いました。その理由はこうです。『存在と無』での「存在」はハイデガーとはずれていて、サルトルでは事物存在です。そして「無」は事物存在でないので無なのです。つまり意識存在を表しています。人間は本質として規定される事物ではなく、先ずあらゆる規定から自由な意識だというのです。そして自らの自由な決断によって自分を選択する実存として人間を捉えます。このように事物と意識の対置図式を置いて、その上で意識を選ぶのですから、サルトルは端的に人間は物ではないという立場です。

 エーリッヒ・フロムは、物は本質存在だから完成だが、人間は生成・過程だとします。死んだ物を所有すること、つまり「持つこと」は、物に依存し、それだけ自分の生命を喪失することであり、それに対して生命の充実を生きる「あること」こそ人間の本来のありかただと捉えています。

 このように現代ヒューマニズムは事物存在を非主体的で、能動性の無い死物として捉えているのです。それに対して人間存在だけが主体的で、能動的で、活きた存在として捉えられています。そして人間が事物存在に頽落することを「物化」として最も忌嫌っているのです。つまり現代ヒューマニズムは「物」を人格や心の対極に固定して捉えるのです。私は、逆に「社会的な物」こそ人格や心が形をとって現れたものであるし、人間身体もそれらの社会的物と切り離されたら、抽象的な単なる新陳代謝する蛋白質の固まりにすぎないことになってしまうと考えるのです。

河口ーそれじゃあ、やすいさんは伊藤仁齊のように物を活物として捉える立場ですか。朱子学では理と気を対置しているので、理つまり論理(ロゴス)を差し引いた気自体は死物になってしまうと仁齊は朱子学を批判したのでしょう。

やすいーいい例えですね。現代ヒューマニズムは実践哲学になっていますから、どうしても物それ自体を活きた主体として捉え切れません。主体性を独占する人間の側が理を物に与えるかっこうになってしまうんです。そうすると物質=気は単なるマテリーでしかなくて、自然それ自体はカオスだと主張されます。そこから帰結するのが、自然の客観的な法則性や認識の反映性の全面否定です。つまり認識をあくまで実践主体の主観的あるいは共同主観的な営みだと決めつけて、だから客観的な真理だと主張すること自体を原理的に誤謬だと見なすことになります。

河口ーやすいさんはスターリン主義的な反映論に未だに立って、自らの相対的でしか有り得ない認識を客観的真理だと独善的に主張されているのですか。

やすいーここは党派的な議論の場じゃないですから、レッテル貼り的な言い方はやめしましょう。例えあの恐ろしいスターリンであろうが、麻原であろうが、もし言ってる内容が正しければ問題はないのです。スターリンや麻原と同じことを主張しても、それだけで誤りだと決めつけるなら、哲学や科学は発達しません。私が認識の反映性を完全には否定しないのは、認識を主観の働きにだけ還元することはできないと考えるからです。

 確かに認識は相対的なものであり、純粋に客観的な真理が主観に簡単に映し出せるわけではありません。でも逆に客観的な世界について物事の諸性質や運動や変化を映像や法則の形に反映しないでも、この世界の中で生きていけると考えるのもおかしな話でしょう。

河口ーしかし客観的世界というのも、実は共同主観的に形成されたものに過ぎないんではないですか。我々が客観的だと考えている世界自体が、我々の五感によって構成された意識界の現象に過ぎません。ロックは「あらゆる観念は経験から」としましたし、バークレーはすべてを意識に還元しました。マッハは感覚に還元したんでしょう。これらに対してレーニンは『唯物論と経験批判論』で客観主義的な弁証法的唯物論を対置したわけだけれど、最近は唯物論者の間でも、自然弁証法を唱えたり、反映論を唱えるのは独断的で独善的な党派主義として評判が悪いんでしょう。むしろ世界をカオス的なマテリーと捉えて、それぞれが相対的な体験に基づいて、相対的な真理を唱えます。認識対象がカオス的なマテリーなので、相対的真理が並立できると考えます。そこが世界を根源的にマテリーと捉えるマテリアリスムス(唯物論)の良さだとされているんじゃないですか。

やすいー実際そういう主張がかなり幅を効かせてきたようですね。それでもう決着がついたと思い込んでいる御仁も多いようです。でもね哲学的論争というものは、唯物論か観念論かの論争だけでなく、一般にきっちり決着がついた論争なんて一つもありません。はやりすたりがあり、勢いづいているのが勝ったように思い込んでいるだけです。

河口ーそれこそ真理が相対的でしか有り得ない証じゃないですか。『歴史の危機』でもヤスパースの「全体知」を批判する議論に対して、「全体知」を擁護する立場を対置されていますね。確かに総合的全般的認識が必要だとされるところは共鳴しますが、客観的な真理が認識可能で、客観的な真理だと主張すべきだとされているところはボリシェビキ的な党派主義、いわゆるレーニン的段階の立場ではないですか。

やすいー河口さんの批判の仕方こそが党派的なんです。確かにボリシェビキもレーニンも客観的真理を主張したかもしれない。だがそれだけで誤っているわけではないでしょう。自己の主張する真理を客観的な真理だと言うだけで終わらず、それを民主主義のルールによらずに暴力的に押しつけようとしたことが誤っているのです。真理だと確信すれば、後は手段を選ばず、その実現に邁進するというやり方が一般にラジカリズムの欠陥だったわけです。

   

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