第六節、宣長の反動的臣道論

                                                 一、宣長の仕官

 徳川幕府の官学は朱子学に限定されていました。幕府の昌平坂学問所では朱子学以外の学問を教えてはならないとされていたのです。そしてこの朱子学を中心とする儒学を宣長はかなり徹底的に排撃しようとしたのです。にもかかわらず宣長は、権力による思想的弾圧を受けていません。そればかりか著名な国学者として世の尊敬を集めました。晩年には六三歳の年、紀州藩から藩医として五人扶持の待遇で、召し抱えられているのです。もちろん漢方医として優秀さを認められてのことではなく、学問的業績が認められたからであり、彼の見識を治世に役立たせる為にです。

 実はこの一七九一年(寛政三年)には、加賀藩から藩校明倫館の国学学頭として二、三百石で招聘されていたのです。彼は江戸や加賀に住むのは年齢的に無理で、松坂在住のままの仕官が条件だとして断ったのです。それで紀州藩も放っておけなくなり、松坂在住だったので寛政四年、藩医待遇で召し抱えたということです。実はその数年前に古道を明らかにし、かつ治道経世策を論じた『秘本玉くしげ』を紀州藩主徳川治貞に提出していたのです。そんなゆかりのある学者が他の藩に取り立てられるのは、紀州藩にとっては面子が立たない事だったのです。

 「浴沂詠歸」のオリエンテーションから被治者の立場にこだわった宣長が、治道経世策を論じるのはあるいは筋違いかもしれません。おとなしく歌・物語の世界に遊んでいればよい筈です。それがどうして天下国家を論じるようになったのでしょう。しかもそれが朱子学を官学とする将軍家の御三家を成す紀州藩主徳川治貞に書を献じるのですから、首を傾げたくなりますね。

 でも被治者の立場へのこだわりと古道に基づく臣道論とはつながりがあります。被治者の立場に徹すると為政者の政道を批評すべきでないことになります。この立場は家臣は君主の政道に無闇に異を唱えるべきではないという立場と共通するのです。この点で儒学は仁義に基づく政治を強調し、君主の過ちを断固として改めるべきだと考えますから、臣道としては国学と対極的なのです。

                                         
二、孟子の暴君放伐論批判

 実は国学では、日本は皇国であり、万世一系の天皇が「惟神の道」に基づいて徳ではなく、血統で治めるのが本来の在り方だから、天子の徳に基づく統治で易姓革命(天子の血統を継いでいても徳が衰えれば、天が見離して、別の家系に天命が下る)を前提にする中国とは、国の在り方が根本的に異なると捉えています。

 
「『天の御心に合ふ者は賤夫も天下の主となり上りて』云々。君の國を奪ひ取りて、おのれ『天の御心に合へり』といひて、民を欺くは、漢國聖人の姦智邪術なり。皇御國は、天壌無窮の神勅のまにまに、幾萬代を經れども、君は君、臣は臣にして、御位の動くことなし。幸にかかるめでたき御國に生れながら、君臣の道も立たず、みだりなる外國の惡風俗を悦び尊むは、いかなる酔心ぞや。」(『葛花』)

 宣長は、『古事記』を中心に古道研究に励んだ結果、日本を天照大御神(日の神)の血統を引く万世一系の天皇を中心にする皇国(すめらみくに)であるという確信を持ちます。そして神の御心のままに行う天皇の政治は、人間の知恵や理念では批判できない絶対的で、神聖なものと受け止められます。この確信が支えになって、中国を見直しますと、中国には主神の血統を引く王統もなければ、神意による政治の伝統も殷代までです。支配イデオロギーであった儒教は、徳による政治を強調しますが、それでは天子に徳がなければ、倒してもよいということになります。常に革命の可能性を含み、反逆を誘う体制なのです。

 そこで儒教を日本でも統治の理論とするならば、万世一系の天皇の意義も無くなりますし、徳川氏の支配も徳が衰えれば転覆可能という理窟になり、安泰ではありません。この欠陥に気付いたからこそ、宣長は、国学を踏まえた支配イデオロギーの構築の必要性を痛感したわけです。

 儒教も統治の為のイデオロギーですから、殊更乱を薦めているわけではありません。『孟子』によれば、統治は仁義に基づく王道政治でなければ、人民の支持を得ることはできず、長続きできません。武力で統治しようとすると、強大な軍事力を持たざるを得ませんので、人民への苛政が酷くなります。それではそもそも何のために統治するのか分からなくなるのです。

 「齊宣王問曰。湯放桀。武王伐紂。有諸。孟子對曰。於傳有之。曰。臣弑其君可乎。曰。賊仁者謂之賊。賊義者謂之殘。殘賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弑君也。(齊宣王が尋ねて言うことに、湯は桀を追放し、武王は紂をやっつけました。本当ですか。そう伝えられています。王の言うことに、臣下が君主を弑してもよいのですか。孟子の言うことに、人道をやぶる者、それを賊と言い、正義をやぶる者、それを殘と言います。殘賊の人、これをごろつきと言います。ごろつきの紂を殺したとは聞きましたが、君主を弑したとは聞いていません。)」(岡田正三著『孟子講義』第一書房刊、参照)

 孟子は、王道政治を忘れた覇道政治を行う君主を、君主と認めません。ごろつきと変わらないから、放伐すべきだとしたのです。実際、一定地域に縄張りを張り、その中で身の安全と営業権を保証するから所場代を払えと要求するやくざと、一定地域を武力で威嚇して、そこから税を取り立てる覇王との違いはそれ程ありませんね。

 宣長にすれば、君主を臣下がたとえ正義に基づいてであろうとも、打倒しても良いということになれば、君臣関係それ自体の崩壊に繋がり、統治自体ができなくなると考えたのです。そうなれば行き着く先は戦国時代の争乱に他なりません。といいますのは、何が正義で何が正義でないかは、人によって判断が異なる以上、君主と臣下の認識の相違から、暴君のレッテルを貼って追放する事が正義だと判断されがちだからです。

 そこで宣長は、孔子はひたすら周室を尊んで、その威光の回復を周礼の復興をつうじて計ってきたので殊勝だけれど、
「聖人も同事に儒者の尊む彼の孟軻は、これとは大いに違ひて、王道を言ひ立てにして行く先々にて謀叛を薦め歩きしは、これまた湯武同前の大惡人なり。」なのです。 儒教から見れば、湯王は夏王朝最後の暴君桀王を打倒して、殷王朝を開いた英雄であり、武王は殷王朝最後の暴君紂王を打倒して、周王朝を開いた英雄です。しかし宣長にすれば、たとえ桀紂が暴君であったにしても、湯武の行為は明らかに逆賊なのです。何故なら、湯武は自分の子孫が王朝を継ぐようにし、背くことを厳しく禁じていました。でも纂奪が許されないのなら、暴君を打倒して自分が王朝を開くべきではなく、君主の血縁に継がせるべきだった筈なのです。

                                  
三、君君たらずとも臣臣たり

 孟子は五倫を強調しました。
「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」が五倫ですが、父子有親が君臣有義よりも先に述べられています。これは父に対する「孝」の気持ちを、勤めにおいては君主への「忠」の気持ちに転化するものだから、先に父子関係が論じられているのです。

 儒教では親子関係は絶対的です。たとえ父が間違ったことを命じても、子が諌めても聞かない場合は、仕方無く父に従わなければならないのです。親の犯罪行為を役所に届けても親不孝罪に問われるのです。ところが君臣関係は義で結ばれたものですから、君主が義に違えた場合には、臣下はこれに従ってはならないのです。ところが君臣関係は封禄で結ばれた雇用契約関係であり、縦の命令服従関係でもありますから、君命に従わなければ処罰されます。そこで義か不義かを問わずに、無条件に服従しがちです。孟子は義で結ばれているという原点に帰って、君主が義を行おうとしているのに対して、意気に感じてそれを補佐するのが臣下の役目だというわけです。

 実は、この問題は会社人間においても未だに深刻な問題です。企業はたとえ資本主義企業であろうとも、それなりの社会的役割を担っていて、そこに勤める労働者は、社会的役割を果たすことに使命感と誇りを持って働きます。ところがその企業が公害を撒き散らしたり、社会的に有害な様々な悪徳行為を行う場合もあります。そこに勤めている以上、上司の命令とあれば、たとえ社会的に有害となる行為であっても、行わないと勤務成績が悪
いとされたり、左遷されたり、酷い場合には解雇され、路頭に迷うことになります。

 一旦、その企業の社会的責任が問われ、及ぼした社会的な害悪に対して償わなければならなくなりますと、結局、現場の責任者が刑事責任を負わされることになるのです。企業の中枢幹部は現場からの報告を受けていなかったと偽って、責任逃れをするものです。たとえ誰の命令であろうと悪徳行為を働けば、直接手を下した現場の人間が罰せられるのは避けられないのです。特に悪い事と分かっていながら、自分の社会的地位や経済的事情に
よって命令に従わざるを得なかった場合には、共犯的関係を会社と持ってしまっているのです。そんな場合には消極的には
「臣、君を三度諌しめて、聴かざる時は、去る」か、積極的には内部告発して戦い、企業の犯罪性を堂々と告発すべきなのです。

 ところが宣長は、日本では君臣関係は動かないから、諌めても聴かなければ、泣いて従うべきだとするのです。孔孟の立場では、統治は仁義の実践です。あくまで人民本位の政治を行うべきなのです。それは君主が仁義の人でなければできないことで、徳によって統治すべきなのです。徳の無い人が政治を行えば、悲惨な結果になります。こう考えますと暴君の放伐は当然です。ですから国家の存在自体は君主次第で善ともなれば悪とも成り得
ると言えます。 

 宣長の場合は日本の国家自体を日の神の生まれた国として、特別視していますから、国が保たれ、続くこと自体が善いことなのです。君臣関係は国が存続している何よりの証ですから、個々の君主の善悪より、臣下が君主に従って国家を維持する事自体が有意義なのです。臣下が君主の善悪を吟味し、悪ければ替えてもよいとなります
造反有理ということになり、国家の支配が相対化し、不安定になります。

                                           
四、宣長の不可知論

 宣長は「漢意(からごごろ)」の「さかしら(賢こぶること)」を嫌います。義を尊ぶという姿勢はいかにも正義を気取っていますが、本音は君主に取って変わろうとする反逆心から来ているというのです。我こそは「正義の味方」とばかり鞍馬天狗が登場しますが、天狗が味方するのは武市半平太、桂小五郎等の尊攘激派の志士達です。尊皇攘夷派が正義で佐幕派が悪であるという図式は、明治の薩長藩閥政府の立場を是とする特殊なイデオロギーに基づいています。尊攘激派の行動は京の治安を攪乱して、政局のイニシアチブを握ろうとするもので、自らの政治的野望の為に多くの無辜の民の生命を危険に晒す行動でした。これに対して治安維持の為に強権的な措置をとった新鮮組のテロ活動は、一方的に責められるべきものではありません。ところが単純な東映時代劇では、正義と悪に単純に色分けしていたような気がします。              

 正義か悪かは、ある特定のイデオロギーに立って初めて言える事です。対立するイデオロギーに基づいて行動
する連中は悪で、同じイデオロギーに基づいて行動する者は善だということになります。君主のとっている政策が、臣下の抱くイデオロギーから見れば悪である場合は、臣下はその君主を排除することが正義なのです。逆に君主の立場からは、自分の治政は正義であって、それに反対する臣下の態度は不正義なのです。

  ところである個人が特定のイデオロギーを正しいと信じ込むのは、宣長的に言えば「好信樂」によるのです。洒落た歌謡番組に「うれし、たのし、だいすき」というのがありますが、うれしくなったり、楽しくなったりするから、大好きなように、好きだから信じて、楽しむのです。何故特定のイデオロギーが好きになるかと言えば、結局、その人の生活にとってそのイデオロギーが一番馴染みやすく、好都合だからなのです。

 ではどうして朱子学のような堅苦しい息が詰まりそうな学説を信じるのでしょう。それはいざ鎌倉に備えて、不断に武芸に励み、精神の緊張を保っておかなければ、権力機構が維持できないからです。だから平和な時程、リゴリスティックな教説が求められたのです。朱子学によって使命感が与えられたからこそ、武士であることのアイデン
ティティが肯定され、ナルシシズムが充足される面があったのです。

 もちろん自己の属する階級に対する自己嫌悪感があったり、他の階級に対する憧れや、ルサンチマンがあれば、その人の直接的な経済的利害と深刻に対立するようなイデオロギーを抱く場合もあります。ともかく各人が抱くイデオロギーがその人の善悪判断を決定しますから、臣下が君主の施政を悪と判断する根拠は、確かに正義感に基づいてはいても、臣下の方が正しいという保障はないのです。

 それに例え客観的にも正しい思想的立場に立って行った事でも、かえって悪い結果を生む場合もあります。腹黒い為政者の政策でも人民にとってかえって好結果を生む場合もあるのです。宣長は人間の知恵は限りがあるのだから、自己の正義に固執するのは高慢だと諭しているのです。

 
「そもそも天地の理はしも、凡べて神の御所爲にして、いともいとも妙に奇しく靈しきものにしあれば、更に人の限り有る智りを以ては測り難きわざなるを、いかでか能く究め盡して知ることのあらむ。」(『直毘靈』)彼は記紀神話の国産み説話などが、信じられない荒唐無稽の話だという非難に対しては、天地は神秘に満ちていることをいろんな例を挙げて説明します。だから人智では知りえない不思議なことでも、神の御業と考えれば信じられるとしています。

 大地は天にぶら下がっているのでしょうか、それとも別の物に支えられているのでしょうか?地球が天空に浮かんでいるとすれば、取り囲む大気は無際限なのでしょうか?地球が凝集した物塊なら、凝集させた力は何物ですか?人の身についても、目が物を見、耳が物を聞き、口が物を言うのも不思議です。鳥虫が空を飛び、草木が咲き実るのもみんな不思議と言えば不思議です。だから「聖人」がわずかに自分が知ったことをハッキリさせたからといって、天地万物をみんな知っているかのように、人々が尊敬して信じるのは滑稽なのです。(『葛花』)

 政治の事も、何が善かを完全に決定するのは人智では無理なのです。
「人の智慧は、いかほどかしこくても限ありて、測り識がたきところは、測り識ことあたはざるものなれば、善しと思ひて爲ることも實には惡く、惡しと思ひて禁ずる事も、實には然らず、或は今善き事も、ゆくゆくのためにあしく、今惡き事も、後のために善き道理などあるを、人はえしらぬことも有て、すべての人の料簡にはおよびがたき事おほければ、とにかく世中の事は、神の御はからひならでは、かなはぬものなり。」(『玉くしげ』)とは言え、人は神任せで何もしなくてもよいということでは決してないのです。人としての行いをしっかり果たして、それが成るか成らないかは、人の力の及ばないところだと心得ておき、無理な事はしてはならないというのです。

 たしかに知の限界を認識し、独善を去って、謙虚に話し合って、互いに補い合い、より深い真理に到達する事は大切です。また真理は実践の結果から判定することにして、議論を尽くした後の決定は多数決か、場合によっては責任者または指導者が行う等、組織の行動原則が確立していなければなりません。

 ただしその決定の実践が決定的に義に反し、それによって自分が行う悪の責任を取り兼ねると考えた場合は、組織から離れることが必要です。その点、宣長は、日本的な君臣関係では君臣関係を離れる事自体が悪徳だというのですから極めて反動的です。真理を知りえないと言うことは、決して悪徳を行うことを許すわけでもなければ、悪徳の責任を取らなくてもよいことにもならないのです。たとえ君主の命令であっても、上司の命令であっても、それに従って行った行動の直接の責任は、当事者にあるのです。

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