第七節、直毘靈と禍津日神

                          一、惟神の道
 
 
  君主への絶対服従を臣道として説く以上、君主は絶対的な権威によって支えられている必要があります。それは日本の場合は、日の御子の血統である万世一系の天皇の権威を護持するということです。徳川幕藩体制の大義名分は、尊皇にあるのです。宣長によれば、朝廷を蔑ろにすれば支配体制も長続きしないのです。

   朝廷を蔑ろにして悪巧みをほしいままにし、武威をふるった北条・足利も大本を忘れているために長続きしないで衰亡してしまいました。そして朝廷を衰微させてしまったので天下は大いに乱れたのですが、織田・豊臣は朝廷の権威を再興し、崇敬をしめしたので、乱が鎮まり、世が治まる方向に動き出したのです。徳川氏はますます朝廷への崇敬を強めていますので、天照大神の大御心に適っています。それで武運ますます隆盛ですし、天下が久しく太平だと言うのです。

 朝廷を崇敬しているから、徳川氏の政権が安泰だという論理は、天皇を日の御子の子孫という宗教的権威として崇拝すればよいという論理に繋がります。天皇が天照大御神等の皇祖神を祭り、その天皇を将軍が崇敬し、祭る事によって、将軍の支配が安泰だということです。そうなりますと、天皇の地上における統治権は全く形式的なものでよいことになってしまいます。それで朝廷を蔑ろにしていないと言えるでしょうか?

 逆に考えれば、尊皇の意義を説けば、天皇の統治こそ日本本来の姿だということになり、「禁中並びに公家諸法度」で天皇の実際的な権能を否定している幕府の支配は、不法であり、纂奪だということにもなりかねません。ですから国学の主張は、幕府支配の根幹を脅かしかねない危険性を孕んでいたのです。そこで宣長は天皇の統治行為を宗教的なものとして表現しています。

  
「まして、天つ神の御心を大御心として、神代も今も隔てなく、神ながら安國と平らけく知ろしめしける大御國になもありければ、古の大御世には、『道』といふ言擧げも更に無かりき。」(『直毘靈』)この部分の注にはこうあります。「〔註六〕何わざも、己命の御心もてさかしらだち給はずして、ただ神代の古事のままに行ひ給ひ治め給ひて、疑ひ思ほす事しあるをりは、御卜事とて、天つ神の御心を問はして、物し給ふ。」

 天皇は自分の考えで、智恵を巡らせて政治を行うのではないのです。何事も伝統に則って行うのです。そ
して疑問があれば、占いによって神の意志に従って行います。これは〔註八〕でも
「『神の道に随ふ』とは、天の下治め給ふ御しわざは、ただ神代より在り來しまにまに物し給ひて、いささかもさかしらを加へ給ふこと無きをいふ。」と繰り返し強調しています。

  これでは現実の行政を行うことは不可能です。形式的な象徴的儀式を国事行為として司って、天つ神の御加護を願うだけのことになってしまいます。それで徳川氏の支配と両立可能なのです。それに徳川氏は武運が隆盛で日本を武力支配する力がありますが、朝廷には宗教的権威以外には何の力もないのですから、幕府から祭り上げられるしかなかったと言えるでしょう。それでは武家による権力纂奪を合理化しているだけだと非難されそうですね。

  しかし徳川氏に代わって朝廷が直接治めればうまくいくでしょうか?もし朝廷に権力を譲渡してもすぐに内乱に成ってしまうでしょう。やはり統治の最近の実績のある徳川氏の実質支配でないと治まらないのです。ということは、歴史の動きは、こうなるべきだからそうなると言うわけには行かないものなのです。人々は歴史を動かす力に操られて動かされているのです。

                         
二、顯事と幽事 

 宣長の解釈では、大國主命が天下を皇孫尊に国譲りした時に、天照大御神と高皇産靈大神の命令で、世の中の顯事(あらわごと)つまり天下万般の政治は皇孫尊が治め、大國主命は幽事(かみごと)つまり目に見えない神の御業を治める約束ができたのです。

   『古事記』では国譲りの条件として出雲大社を建てて祭ってもらえれば、神々の先頭になり、後押しになって、天つ神の御子の支配に陰ながらお仕えしましょうということになっています。『古事記』に忠実に解釈するなら、天皇は神々の力をも従えて、天下を統治できる筈です。

  ところが宣長の解釈では主従関係が逆転しています。つまり顯事は操られる人形である天つ神の御子の支配を継いだ天皇の行いであり、幽事は人形を操る人形使いである神々の行いになっています。そしてこの両者のはたらきで支配的なのはどうみても幽事の方です。人形のはたらきはその出来によっては、人形使いの思い通りにもなれば、上手く動かない場合もあります。人形は人形できちんと機能しなければならないのです。その程度の主
体性しかありません。(『玉くしげ』)

  このように「国譲り神話」の逆転的な解釈によって、
「御自分の御かしこだての料簡をば用ひたまはざりし」で、神意に随う「惟神の道」が、天皇のまつりごとの正しい在り方だということになったのです。しかし、『古事記』が神話を含んでいるのは、元来、日の御子の子孫として天皇の家系を神聖化する為のものだった筈です。そして八百万の神々をも天皇の支配の下に統率しようとしたものだったのです。ところが宣長の発想では隠れてしまった神々までもが影で天皇を操っていて、天皇の力では統御しきれないから、結局は善神の力に任せるしかないのです。これは神代から人代へと発展、展開する『古事記』の歴史書としての意義を無視して、人代を神代に還元する極めて宗教的な解釈だと評さざるを得ません。天皇が無力で宗教的な存在でしか有り得なかった時代の反映かもしれません。

  宣長はこの「惟神の道」の論拠を『日本書紀』の「第三十六代孝徳天皇」の記事からとっています。そこに「詔曰、惟神我子應治故寄、是以、與天地之初、君臨之國也(詔して曰く、惟神も我が子治らさむとこと寄させき。是を以て天地の初めより、君としらす國なり。)」とあります。またその注には「惟神者謂随神道亦自有神道也(惟神は神の道に随ふを謂ふ。またおのずからに神の道有るを謂ふ。)」とありますが、孝徳天皇のいう意味は「いささかもさかしらを加へ給ふこと無き」のまるで正反対なのです。

 孝徳天皇の時代はいわゆる「大化の改新」の大変革期に当たります。この時期に神に随う政治とは、天照大御神が「豐葦原水穂國は我が御子の知らす國ぞ」と命じた意志に随う政治を意味します。つまり復古的な「天に二日なく、國に二君なし」というスローガンの下に一元的な天皇による支配体制、つまり王土王民思想に基づく律令体制を整えていこうという改新政治です。その内容たるや大いに智恵を絞り、中国の先進的な制度に見習おうとしたものです。その為には仏教の振興につくしていますし、「人となりめぐみましまして儒(はかせ)を好みたまふ」とあります。管子の故事に倣った投書制度も設けています。「さかしらだちせず」といった宣長の「惟神の道」とはおよそ正反対なのです。それに生國魂社の樹木を切るなど「神道を輕りたまふ」とされています。

                     
三、直毘靈と禍津日神

 宣長は、
「かの産靈大神の産靈のみたまによりて、人のつとめおこなふべきほどの限は、もとより具足して生れたるものなれば、面々のかならずつとめ行べきほどの事は、教をまたずして、よく務め行ふものなり。」(『玉くしげ』)としています。君主に仕え、父母を大切にし、祖先を祭り、妻子・奴僕をあわれみ、人と交わり、家業に務める事などは、どれもできないことには生活が成り立ちませんから、だれでもできるだけの素質は、生まれつき持っているのです。これも「産靈大神の産靈のみたま」なのです。

  しかし悪い性質も「惡神」のはたらきとして人も万物も持っているので、悪いことをする人も出るのです。その悪いところを捨てたり、直したりしようとする人のはたらきもありますが、それは善神のはたらきなのです。このように善神も悪神も人や物に働き掛け、人や物の善い行いや、悪い行いとして現れる神のようです。

  『古事記』では、悪い事をさせたり、根性をひねくれさせる神を
「禍津日神(まがつびのかみ)」と呼び、それを止めさせ、矯正してくれる神を「直毘神(なおびのかみ)」と呼びます。これらの神が誕生したのは、黄泉の国から伊邪那伎命が逃げ帰って、日向の橘の小門(おど)という河口で禊をした時の事です。その汚れが「禍津日神」となり、それを清める様子が「直毘神」と成ったのです。

  
「初於中瀬随迦豆伎而。滌時。所成坐神名。八十禍津日神。次大禍津日神。此二神者。所到其穢繁國之時因汚垢而所成之神者也。次爲直其禍而所成神名。神直毘神。次大直毘神。次伊豆能賣神〔初めて中つ瀬に降りかづきて、そそぎ給ふ時、成りませる神の名は、八十禍津日神(やそまがつびのかみ)。次に大禍津日神。この二神(ふたばしら)は、その穢らわしき国に到りし時の汚垢(けがれ)によりて成れる神なり。次にその禍(まが)を直さむとして、成れる神の名は神直毘神(かむなほびのかみ)。次に大直毘神。伊豆能賣神(いづのめのかみ)。〕」(『古事記傳六之巻』「神代四之巻」)

 宣長によりますと、禍津日神が活躍すると、人間の心も汚れ、腹黒い企みや様々な争い事が生じます。直毘神が活躍しますと、その直毘靈のはたらきで二心の無い真情のままの清く明るき心が復活し、真心が通じ合って和が生じるのです。ところで日本は天照大御神が生まれた国です。それで大御心に叶わない禍津日神には居心地が悪かったのです。大御心に叶っている直毘神はのびのびと活躍しましたので、初めの内は平和に治まっていました。
天皇は大御神の大御心を自分の大御心として、人民も天皇の大御心を自分の心として逆らわなかったからです。

 そこで禍津日神は大陸の方に逃げて行き、そこでさかしら立った考えを持って様々な道を説き、様々に理屈を付けて権力を争奪し合う聖人達を活躍させたそうです。いかにもかしこげで、正義を説くので、素直で単純で免疫のない日本の知識人には、これが禍津日神の仕業とは見抜けなかったのです。そこで仏教や儒教は日本でも支配的な思想となり、その所為で惟神の道は廃れ、天皇は実権を失って、日本は中心軸を失って、乱れに乱れ、混迷に陥ってしまったということです。

  直毘神は、宣長がいうには、この禍津日神の汚れを取り除くために、朝廷を崇敬する徳川氏に力を与え、天皇の惟神のまつりごとを再興しました。そして儒教など漢意(からごころ)に惑わされた日本の汚れに対して、本居宣長達に古道を研究させ、国学によって洗い清めようとしているのです。宣長にとっては自分の仕事は、単に人間としての国学研究であるだけでなく、幽事としては直毘神のはたらきでもあるのです。宣長自身が直毘神の直毘靈に憑れて、古道を研究していたと実感していたことは、彼の超人的な業績からも充分窺えます。

 宣長は素朴に産靈神や直毘神を信仰しているようです。彼自身を歌・物語や古道の研究に駆り立てる衝動が、強いリアリティを持っていたので、それを産靈神や直毘神だと実感せざるを得なかったのです。  産靈神や直毘神を信仰するのは勝手だとしても、それは実証可能な存在ではありません。顕事と幽事、直毘神と禍津日神等で歴史を説明しても原理的に実証できないのですから、こじつけの説明にしかならないのです。時代の混迷や閉塞を打破して新たな原理を生み出す創造の原理や、鬱々と抑圧された精神から真情を解き放してくれる発想転換の原理を自分自身の状況との対峙から導き出さなければならないのです。それができないと宗教的説明に依存してしまうのです。

 今や戦争と革命の世紀といわれた二十世紀は幕を閉じようとしています。しかし古い思想の限界は厳しく露呈されました。我々はその中に克服すべきものと、生き続けさせなければならないものを大胆に分け、新しい時代の思想原理を創造的に生み出さなければなりません。それにしてももし産靈神や直毘神がいるのなら、我々に力を与えて欲しいものですね。

                       
むすびにかえて

 宣長の臣道は保守反動の典型で、やたら君主に対する臣下の、上司に対する下司の、支配者に対する被支配者の絶対服従を説いています。ですからそれでいくと、お上に逆らって一揆を起こすのはとんでもない事ですね。でも、彼は百姓貧民の一揆に対しては同情的なんです。だって彼は元々「物の哀れ」を感じる人ですから、百姓貧民がどんな苦しい思いで生活をしているかを良く知っていました。それに対して大名や上級武士が質素や倹約を忘れ華美や贅沢に流れ、その為に藩財政が逼迫し、その結果、苛政誅求が厳しくなっている様をつぶさに観察していたのです。

 一揆は起こしたくて起こすのではありません。決して権力の打倒や纂奪を狙ったものでもないのです。やむにやまれぬ苦しみを為政者に訴えて、搾取を緩めるように命を張って圧力をかけるものです。もし権力者が「物の哀れを知る心」もって人民の生活の実情に同情を示し、自らも生活を切り詰めて、その上で政治を行うのなら、人民は生活の苦難に耐えて一揆など起こしはしないと宣長は考えます。

 宣長は身分制社会の枠組みの中で、それぞれの分を守って生きる生き方を肯定していました。たとえ自分に為政者としての才覚があったとしても、幕府や藩の政治を担当する立場には成れないと分かっていましたし、また成りたいとも思いませんでした。彼は「浴沂詠歸」の心情を楽しもうとしていたのです。治世の事は為政者に任せて、自分たちはそれぞれの感動を大切にして、自ら楽しむ事のできる世界を作って生きていこうとしていたのです。

 お上に楯突いて、御政道を言あげし、天下国家を論じるようになりますと、身近にある自分なりの幸福が見えなくなってしまうことを恐れたのです。「物の哀れを知る心」は賢しらだった議論の中で干からびてしまいます。宣長は政治的アパシーを逆手に取って、能動的に政治的アパシーを選択するのです。政治的世界を離れた自然や人々との真心での感動や交わりの中でこそ、「私有自樂」の世界が開けてくると宣長は言いたいのです。

 確かに党派的な対立が絡んだり、派閥的な利害がちらつきますと、素直な人間同士の付き合いができなくなってしまうものです。対立する側にいる人間を色眼鏡で見て、性格的にも欠陥があり、品位も下劣であるように、歪んで評価してしまいがちです。お互い仲間内には信頼されていて、性格的にも好まれ尊敬もされているのにです。そして互いいに憎み合い、蔑みあっているうちに、相手の気持ちを思いやる「物の哀れを知る心」が擦り減ってしまうのです。政治から解放されて裸で付き合えば、分かり合え、親密になれるとすれば、政治は極めて罪作りな世界ですね。

 もちろん現代は民主政治の時代ですから、被治者の立場に安住し、政治的アパシーの中で私的趣味をかこつ道楽に逃避すべきではありません。党派や派閥との関わりを避けようとしても、大なり小なり、党派的、派閥的に行動せざるを得ない場面も避けられません。そんな時こそ「物の哀れ」を知って、真情を貫けるか試されます。その意味で宣長の「物の哀れ」論は普遍的な意義があります。

 為政者が歌や物語に触れて人々の心の襞を知り、民衆の物の哀れを理解すれば、民の苦しみが自分の苦しみと感じられるから、苛政誅求など行える筈がないと宣長は確信していました。そうすれば禍津日神に煽られて民衆が一揆を起こすこともありません。ですから
「物の哀れを知る」事は世を和らげようとする直毘靈の働きなのです。

  しかも物の哀れを知る事から成り出ずる歌・物語は、
「物の哀れ」を深く感じさせて、人々をカタルシスに導いてくれます。人々だけではありません。荒ぶる神々の魂をも和らげるのです。「物の哀れ」に基づく文化は神々にも通じるんです。世を動かしているのが、結局禍津日神と直毘神の働きに帰着するとしますと、神の荒ぶる心を鎮め、和ませる主情主義的な文化創造こそ世の平和と民の幸福をもたらす上で、最も大切な営みだと宣長は言いたいのでしょう。                        

 禍津日神も直毘神も時代精神のシンボルだと受け止めますと、共感できますね。殺伐とした時代に潤いを与え、和やかで真情あふれる時代の雰囲気を生み出す彼の文化創造の立場は、スタンダードな価値を失っていません。宣長が言うように本当に日本人が主情的な性格なのか、また人間が本質的に主情的で歌わずにおれない存在なのか、それは大いに議論の余地はあるでしょう。でも「物の哀れ」に素直に感動する心を大切にしたいという気持ちは、次の千年間で廃れるようなことがあってはなりません。

  特に人間論として刮目すべきなのは、人間の情感を事物の述語とすることで、人と事物の抽象的区別を止揚する手掛かりを与えてくれていることです。
 

                          ◆参考文献◆
『本居宣長全集』筑摩書房版
『本居宣長』(日本思想体系四〇)岩波書店
『本居宣長集』(新潮日本古典集成)新潮社
 (本稿中の『紫文要領』『石上私淑言』の頁数は新潮社  版のもの)
『本居宣長』小林秀雄著 新潮社
『本居宣長』(人と思想)本山幸彦著 清水書院

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