第四節、「好・信・樂」と「私有自樂」

    一、「好・信・樂」の構え

 本居宣長が歌論ノート『あしわけおぶね』を書いたのは宝暦六年、宣長二十七歳の年でした。彼は翌年には京での遊学を終え、郷里松坂で医業を開業することになります。彼は漢方医学の勉強をしていたんです。漢方医学は儒教の教養に基づいていますから、儒学を学ぶために堀景山の塾に入門していました。

 堀景山を師に選んだことは正解だったようです。彼は本山幸彦に紹介によれば
「儒学の師でありながら契沖の著作を宣長に貸し、宣長が歌学に開眼する機会を作った」のです。そして「本来は朱子学者だが、心の広い趣味に富んだ人物で、荻生徂徠とも交わりがあり、学風はむしろ徂徠学に近く、古文辞の研究を重んじ、道徳論でも人欲を悪とみる朱子学者的な道学先生ではなかった。景山は詩文、和歌にも造詣深く、人間の情緒性を尊重していた。堀家に寄宿していた宣長が、景山のこうした側面から影響を受けたのは当然のことだった。」(本山幸彦『人と思想 本居宣長』)清水書院)そうです。

 彼は大変意欲的な読書家であり、良く勉学に励んだようですが、決して武骨者ではありませんでした。元々和歌には十七・八から愛着を持っていましたから、名歌の題材に溢れた京には強い憧れを抱いていたようです。ですから宣長は京での遊学生活を満喫したのです。神社・仏閣への物見遊山や乗馬はもちろん、祭り見物、芸者遊びと酒色に浮かれて風流を楽しみ、青春を大いに謳歌していたのです。 彼はたぶんに主情的で、享楽的な感性で生きていたのです。無類の学問好き、読書好きだったのですが、医学書はどうだったか分かりませんが、それ以外の日本の古典や歌道の本はもちろん漢籍や仏典なども、好奇心や興味や趣味で、享楽的に読書していたのです。それは遊興の楽しみと共通していたのでしょう。

 私も若い頃は京都・奈良・大和の古寺を訪ねて、仏像を鑑賞して心洗われる思いに浸るのが、とても好きだった時期があります。彼も仏像鑑賞が好きだった事が窺えます。もちろん仏教にも興味を持ち、仏典も読んでいて共感を覚える事もあったようです。堀門下の友人の 上柳敬基から、宣長が仏教の下らない迷信を信じていると非難されたことがありました。それにはこういう事情があったのです。西山の法輪寺で昔、左氏とありますから左甚五郎 のことでしょうか。その左氏が龍を彫刻する為に、祈願したら龍が現れたという霊現のある虚空藏大士像を公開するというので、是非拝観したい、一緒にどうかと上柳敬基を誘ったのです。宣長にすれば謂われが興味深かったのでしょう。ところが風流を解さない 上柳敬基は、宣長を迷信家だと受け止めて迷蒙を諭したのです。そこで宣長は呆れてしまいます。
「嗟呼足下(ああ、あなたは)道学先生なる哉。経儒先生なる哉。何ぞ其言の固きや。何其言の険なるや。」といなしました。そしてこうに反論したのです。

 「不侫之於佛氏之言(私は仏教の言葉については)、好之信之且樂之(これを好みこれを信じこれを楽しみますよ)。不啻佛氏之言而好信樂之(ただ仏教の言葉だからというので、これを好み信じ楽しむのではありません)。儒墨老荘諸子百家之言亦皆好信樂之(儒墨老荘諸子百家の言葉であっても、また皆これを好み信じ楽しむのです)。不啻儒墨老荘諸子百家之言而好信樂之(ただ儒墨老荘諸子百家の言葉だからということで、これを好み信じ楽しんでいるのではありません)。凡百雑技歌舞燕游(凡そもろもろの習い事、楽しみ事)、及山川草木禽獣蟲魚風雲雪日月星辰(及び目に触れ舌に味わい膚や嗅覚に反応するすべての自然物)、宇宙所有(宇宙に有る所のもの)、無適而不好信樂矣(ゆきて好み信じ楽しまないことはないのです)、天地萬物、皆吾賞樂之具已(みんな私が愛で楽しむ為の道具に過ぎないのです)。」(『本居宣長全集』第十七巻十六頁)

    二、若き宣長の包括的精神

 お寺が甍を並べ多くの仏像が慈悲の眼差しを向け、沢山の坊様が修行をされ、ありがたい読経が響く仏教文化溢れる京に居ますと、御仏の教えが馴染み深く、親しみ易いものに思えてくるものです。でもそれは仏教を体系的に教義として信仰しているのとは違います。世の無常を感じ、御仏の慈悲にすがりたいと願う気持ちは、素直な真情としてだれしも持っているものです。仏教など理性的に考えれば迷信だと承知している人でも、仏教文化の中に居れば多少なりとも洗脳されるのです。

  五倫五常を説いた儒教、兼愛非攻の博愛平和を説いた墨家、その他様々な諸子百家の思想もそれぞれにもっともな真理、大切な生き方を説いていますから、それぞれに魅かれるところがあります。まだ自己の思想的立場を体系的に打ち固めていない青年の段階では、様々な宗教や思想の諸々の気に入った面を、全体から切り取って愛好するものなのです。

 それにこうした様々な異質な思想の共存している社会の中では、相互理解によって和を計っていかなければなりません。だから互いに良いと感じるところを素直に評価し合い、学び合う態度が大切です。林羅山のように、朱子学と矛盾するから誤りであるとして、他の学派や宗教を全く排斥しようとする弁別的精神では、結局は嫌われて、孤立してしまいます。その意味では若き宣長の学問や宗教に対する受容の仕方は柔軟で好感が持てます。

    三、思想の感覚的消費

 驚くのは、思想に対する気に入り方です。趣味や娯楽、快楽や消費の対象と同列に置いて愛好しようという構えなのです。そうなりますと、ある思想が好信樂される基準は、その思想が真理を語っていると思われるからではなくなります。逆です。その思想が好信樂されるから、その思想が真理だと思われるのです。好きになる動機は趣味や娯楽、快楽や消費の対象と同じく、感覚的に美味しいから、好ましいからなのです。このように思想までも感覚的な消費の対象にしようとする態度は、やはり同様の感覚的な消費の立場から新商品を開発するように目先の変わった思想を提供しようとする「現代思想」のセンスに通じるところがあります。

 ある思想を正しいと確信するのは、その思想を予め真理であると信じ込ませるような、繰り返し学習がなされた上で、それが間違いであることを確信するような体験をしていないからです。儒教はそのように学ばれました。武士は平和な時でも乱を忘れず、常に魂と剣を磨いておかなければなりません。克己復礼や持敬に心掛けなければなりません。思想を享楽的・消費的に捉えることなど不謹慎です。その点、宣長は天下泰平の世にあって、町人たちが築き上げた文化を享楽する豪商階級の気分を持っていたのです。この擦れが柳
敬基と本居宣長の思想的断絶の原因になっているようです。

 思想までも好信樂する構えは、軽薄な感覚主義的発想に陥りがちです。現代の管理社会に中で人々は理性的な判断力をなくし、非主体的に流行の波に身を任せ、ステロタイプ化された感性を自分らしさと取り違えているようです。次々に新しい欲望とそれを満たす商品が生み出されていくのです。自分の好みに合わせて商品を選んでいるつもりでいるのですが、実はその好み自体が商品供給によって生み出されたものなのです。

 非主体的に高度資本主義管理体制に組み込まれて、好みまで押しつけられていると分かったからといって、この体制を破壊することも、逃げ出すこともできません。この体制の境界に見えるのは砂漠であり、精神病棟でしかないのです。このシステムはそれ自体巨大なリヴァイアサンですから、個々人の思いと断絶したところで動いています。

 でもその事を承知の上でなら、開き直って我々は現代社会の中で、限定的ではあっても、自由な自己表現や自己実現を試みる事はできるのです。自分の好みを氾濫する商品の渦から、選び取ることができるのです。それは確かに商品生産体系によって生み出されたものでしかなでしょう。でもその体系自体が矛盾した対立的諸要素の統合でしかない面を持っていますから、我々の選択自体がシステムを稼働させ、変形させ、方向づける性格を持っているのです。

 国家の危急存亡の危機に生まれた朱子学は天下泰平の世の中で煙たがられ、敬遠されましたが、それはもはや感覚的に食うに耐えなかったからです。現代においては、マルクス主義が食うに耐えない、不味い思想として敬遠されているようです。朱子学に対して伊藤仁斎は、古義学を通して人倫日用当行の路としての仁愛の中心にした儒教の革新を成し遂げました。それによって儒教は心情化され、活力を取り戻したのです。マルクス主義も自らの負の遺産を冷厳に見つめ直して自己否定的に脱皮するべきでしょう。

 冷戦脱却後の人類的危機を克服する為の国際新秩序の形成への人類的共同を先導する思想として、民主主義と人権を職場や地域から確立する運動として、美しい自然を取り戻し、心豊かな生活と素晴らしい文化を生み出す協同的な様々な創造的運動として再生することができたなら、マルクス主義も美味しくなります。それには主情主義的な感性を研くべきです。そうでないとたとえ瑞々しい味覚を取り戻して、素晴らしい消費対象に成っても、物の哀れ知らなければ、それを味わう能力もないのですから。

    四、「私有自樂」と「浴沂詠歸」

 思想をも好信樂する構え(オリエンテーション)は、商人の子で開業医を目指していた宣長自身の、被治者の立場の自覚に基づいています。彼は同門の清水吉太郎に儒学よりも和歌を愛好するのを非難された際に、私は医者になるのだから天下国家をいかに治めるべきかを論じる立場ではない。それより和歌でも作っていた方がよいのだ、と開き直ったのです。「是何則儒也聖人之道也(これはどういう事かというと儒教は聖人の道だということです)。聖人之道、爲國治天下安民之道也(聖人の道は、国家や天下を治め、民を安定させる道なのです)。非所以私有自樂也(ですから儒教をプライベートに自ら楽しむ所以はないのです。)」(『本居宣長全集』第十七巻、一八頁)

 このように儒学を礼樂刑政の道として理解したのは、荻生徂徠の影響です。
「孔子之道ハ先王之道也。先王之道ハ天下ヲ安ンズル道也。又曰ク道者統名也。礼樂刑政凡テ先王ノ建ル者ヲ挙ゲテ合シテ之ニ命也。礼樂刑政ヲ離レ、別ニ所謂道ナル者ノ非ル也。」(『弁道』)ここで「道者統名也」というのは「道はいろんな名をまとめたものです。」という意味です。その名というのが礼樂刑政等、先王の打ち立てたものの全てをまとめたものなのです。それをよく見習い参考にして、今日の礼樂刑政を確立するのが「聖人の道」であ
る儒教なのです。

 それにしても「礼樂刑政」を行う為政者の立場にないからといって、儒教より和歌を取るというのは説得力がありません。為政者は仁義に基づく「礼樂刑政」を行うべきです。しかし為政者の立場の仁義の精神を人民もよく学んでおかなければ施策は効果的に実行できないでしょう。それに仁義や仁愛に基づく生き方は為政者であっても、たとえ被治者であっても同じように大切なことなのです。宣長のように全て為政者に任せてしまうしまう分業の論理では困ります。

 宣長は儒教を捨てて、和歌を取るという彼の構えを、同じ清水吉太郎への手紙で、孔子自身の言動を使って合理化しようとしました。
「乃謂美矣哉道、大可以治天下、小可以爲國、然吾儕小人、雖達而明焉、亦何所施乎、孔子所與曾皙、可觀而見已、點也孔門之徒、而其所樂不在先王之道、而在浴沂詠歸矣、孔子之意、斯亦在此而不在彼矣、僕有取于茲而至好和歌、而獨爲是、僕之好和歌性也、又癖也(それでこう思うんです。美しいのですよ〔儒教のいう〕道は、大きいことではそれで天下を治めるべきだし、小さいことではそれで国を統治すべきです。それでも我々のような下々の人間では、たとえ道に達して明敏であっても、何も施すことはできません。孔子が与したのは曾皙だったことを観て見るべきです。點〔曾皙〕こそ孔子の意を体した弟子なのです。ということは楽しむところは『先王の道』にはなくて、『ひと風呂浴びて、歌いながら帰ろうか』というところにあるんです。孔子の心も後者に在って、前者には在りません。私も後者を取りましたので、和歌を好むことになったのです。ただこのせいばかりではなく、私が和歌を好むのは性分でして、またやみつきなんです。)」

 士農工商がはっきり分かれていた身分制社会では、天下国家を論じること自体、被支配者階級には許されていません。幕府政治に関して批評する事は、たとえ御三家であっても御政道に口を差し挟む事として御法度だったのです。たとえ政治がいかに重大事であっても、特権的なエリートに政治は一切任せ、自分たちは
「ひと風呂浴びて、歌いながら帰える(浴沂詠歸)」の境地を楽しませてもらえばよいということです。

 儒教を為政者達に任せて、現実政治から出てくる価値判断から自由になったとき、素直な情感が取り戻されて、ひと風呂浴びてリフレッシュした後の解放感から歌が出てくるのです。物の哀れを建前で抑制して、情感を押し殺す必要はなくなりました。彼は被治者の立場に開き直って、そこに和歌の道を見出したのです。

 立場は違いますが、平安時代の貴族文化は、下級貴族である国司層が摂関家に取り入ろうとする社交的文化です。彼らは人民に対する統治を忘れ、歌舞音曲に浮かれていたのです。為政者の立場から離れたところにノウブル(貴族的)な文化が成立したのです。その点で江戸時代の豪商を中心とする文化はニューノウブルな文化だったのです。

    五、孔子は政治より歌をとったか?  

  ただしこの『論語』「先進二六」の記述に関する宣長の解釈は、自分の境遇に引きつけたものであり、文脈的に考えて正しいとは言えません。孔子は、諸君はいつも自分の真価を知ってくれないと嘆いているが、もし認められて取り立てられたら何をしたいかと、弟子たちの抱負を尋ねたのです。子路は、大国に挟まれた小国を治めさせてもらえれば、三年で勇敢で道をわきまえるようにしてみせる、と答えました。これを聞いて、孔子は笑いました。冉有は、小国ならば三年で人民を豊かにしてみせるが、礼樂まではできないから、それは君子に頼むと答えたのです。公西華は勉強させてもらい、小相と成って国家行事のいささかのお役にたてればうれしいと謙遜しました。次に曾皙の「五・六人の青年と、六・七人の少年を連れて、沂水で湯浴みをし、雨乞いに舞う台のあたりで涼みをして、歌いながら帰ってまいりましょう。」という解答があり、孔子はこれに感動し、「わたしは曾皙に与する」と言ったのです。

 国を治めるには礼を以てしなければなりません。それには謙虚でなければなりません。子路や冉有のように大風呂敷を広げるべきではないのです。公西華は謙遜しているようですが、やはり邦の相に成ろうと考えています。それに公西華が小相にしか成れないのに、だれが大相に成れるでしょう。だから曾皙にように一介の士としてその邦の青少年と親しく遊興できるようになりたいというのが、最も謙虚で、分を知った望みなのです。

 孔子は決して為政者に成るよりも、一介の士に成りたいと考えているわけでもなければ、被治者の立場に立って、政治よりも歌を取るとしているわけでもないのです。むしろいかなる身分に成るかが問題ではなく、いかなる身分に在っても仁を行おうとするかどうかが問題なのです。国家の富強や儀式よりも、心の交わりを望んだ曾皙の抱負こそ孔子の意に叶っているのです。

 孔子にとって、政治と歌舞音曲は不可分の関係にあります。正しい儀式を行う為にはそれに相応しい音楽が必要です。彼は古い時代の儀式とその際の芸能を復興させる為に塾を開いていたのです。孔子の塾では難しい五経の研究や編纂作業ばかりしていたのではないのです。むしろ歌舞音曲のお稽古が重要だったのです。そうすることによって儒家は、各国の国家的諸行事の様々な儀式から民間の冠婚葬祭まで取り仕切る礼樂巫祝集団として、社会的勢力を誇るようになったのです。政治か歌かの二者択一という発想は儒家にとっては全く考えつく筈のないものなのです。

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