第三節 文学的価値の自立
 

   一、たをやめぶり

  賀茂真淵(1697〜1769) は、偽りや技巧をもてあそばないで、心の「うれしみ」「かなしみ」「にくしみ」を素直に歌った『万葉集』を高く評価しました。『万葉集』から彼は古代人の「高き直き心」を受け止めました。古代人は作為的な漢心で歪められていませんので、「自然」のままなる「まこと」が迸っているのです。そして「高き中にみやび」が、「直き中に雄々しき心」があるとしました。「雄々しき心」は「荒益男振(ますらをぶり)」つまりおおらかで男性的な歌風に現れているのです。それに対して『古今和歌集』『新古今和歌集』は、優雅で技巧的であり、愚かで未練がましい女々しい女性的な歌風なので、これを「手弱女振(たをやめぶり)」と呼んで退けています。

 ところが本居宣長(1730〜1801) は「ますらをぶり」よりも「たをやめぶり」の方が真情に近いとし、人の情に深く訴える力があるとしているのです。特に「雄々しき心」が真情であるということには「さて人情と云ものは、はかなく兒女子のようなるかたなるもの也、すべて男らしく正しくきつとしたる事は、みな人情のうちにはなきもの也」(「あし
わけをぶね」原文の仮名はカタカナ)
と『排蘆小船』や『紫文要領』で疑問を呈しています。元々人情というものは真っ直ぐに、はかなく、拙く、しどけなく、愚かなものだというのです。兒女子は心を制することが拙いので、涙もろく人情深いように見えます。ところが男子丈夫たるもの心を制して、形を繕って本情を隠さなければ武士は勤まりません。

   戦場で怖がって泣きわめいたり、妻子を愛(かな)しがったり、父母を心配して涙に暮れ惑ったりしていると戦ができません。そこで本情を隠すのが上手くなるのです。でもいよいよ戦場で最期を迎える段になると
「〔父母にも相見ず、愛しき妻子(めこ)の顔をも見で死ぬへき事と嘆く〕は千人萬人人情の本然、聖人凡人かはる事なし」(同上)なのです。それをそのまま素直に「哀れをもよほすは、拙く卑怯にて、女兒のわざ」だと感情を面に出しません。「潔く死するは男らしくきつとして」いるのです。

 武士は
「恥を知り、名を惜しむ」と言い、戦場で女々しく振る舞いますと、末代の恥で、家名を汚す結果となります。ですから「正しくきつとしたる事は、みな世間の風をならひ、或は書物に化せられ、人のつきあひ世のまじわりなどにつきて、をのつから出來、又は心を制してこしらへたるつけ物也」(同上)と「ますらをぶり」を本情と認めないのです。

 「ますらをぶり」と「たをやめぶり」の対置は単に『万葉集』と『古今和歌集』『新古今和歌集』との対置に止まりません。それは同時に武士(もののふ)階級と貴族階級の心情の対置でもあります。宣長の時代に引きつけてみますと、「ますらを」の立場は、もちろん武士階級の立場ですが、朱子学という最もリゴリスティク(厳格主義)的な教説が公式のイデオロギーとして君臨していたのです。それに対して「たをやめぶり」は、貴族階級が皆無に近かった当時では豪商階級がその担い手でした。そして朱子学に対抗しうる学問は「国学」だと主張されたのです。

 しかし国学の中でも神官出身の賀茂真淵は、古代英雄時代の「ますらをぶり」への憧憬が強く、武士階級の精神的支柱として国学を捉えていました。宣長も後に絶対服従的な臣道を説き、徳川幕藩体制を擁護するイデオローグを買って出ますが、国学者としての出発点では、武士階級の偽善的強がりに反発して、庶民の素直な真情をそれに対置するオリエンテーション(構え)を取ったのです。

                           二、儒・仏的価値と「もののあはれ」

  本居宣長は『古事記』や『日本書紀』の研究を通して、儒教や仏教を退け、それらに影響されない日本古来の神道に自己の思想を純化していきますが、国学研究開始時に信仰を一本化していたわけではありません。世俗的には儒教や仏教の教えにも価値を認め、尊重すべきだと考えていました。しかし人間にとって大切なことは、儒教や仏教に尽くされているとは言えません。それを宣長は歌・物語の世界に見出したのです。

 先程の戦場で雄々しくきつとして女々しいところを見せない武士の態度も、それを本情ではないとしていますが、かといって女々しく愚かに未練がましく泣く方が良いと言っているのではないのです。そのような「たをやめぶり」の方が人間の真情に正直だとしているだけです。やはり儒教的な価値観から見れば、「ますらをぶり」が戦場での武士のとるべき態度なのです。宣長が言いたいのは、儒教的価値観でしか物事を判断できなくなってしまうと、人間としての情を忘れてしまう、それでは人間失格だということです。

 雄々しくきつとして潔く死んでいくのが武士の道だとしても、それは命が惜しくて堪らない、妻子が愛しくて堪らない、父母に逢いたくて堪らない、そんな心が溢れてくるのを必死に堪えているからこそ、その真情を酌んで人はその気高さに打たれるのです。武士道を貫いて死ぬのが恰好良く見えるので、ナルシシズムで切腹などして見せても、グロテスクなだけです。かつてアイ・ジョージが『戦友』という軍歌を労音で歌って話題を呼んだことがあります。

   「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて、友は野ずえの石の下。ああ戦いの最中に、真先駆けて突進し、敵をさんざん懲らしたる、友はここに眠れるか。」哀切なメロディーで歌われますと、兵士の真情が抑制の効いた歌詞によって、かえって切実に迫ってきますね。

 人間社会で責任を分担して生きている以上、忍び難きを忍び、耐え難きを耐える、真情を押し殺して、責任を全うする事が大切です。しかし真情を責任を全うする場合の障害とだけ捉えて、いかにもそういう感情を抱くことが下らない、唾棄すべき事のように捉えてはならないのです。元々、社会的責任を引き受けたのは、父母が恋しい、妻子が愛しい、友がいとおしいから、家族や朋友との好ましい関係を維持できるようにと考えてのことです。その思いが深いので、その為に社会的責任を引き受けた筈です。もしもそのような真情がなければ、社会的な責任感もひとりよがりで英雄主義的なナルシシズムでしかありません。宣長はこの真情の部分をそれ自体で感動によって受け止めて、大切にする世界を歌・物語の中に見出したのです。

 儒教の教えや、仏教の教えをしっかり守って、それに基づいて、私情を抑制して生きていますと、そこに大変な無理がありますから、時に抑えきれなくなって、情に棹さして流されてしまうことがあります。つまり建前の儒教的・仏教的な価値意識が破綻し、背徳的、破戒的な行動に迸ってしまうのです。戦前、治安維持法により夥しい数の社会主義者や民主主義者が弾圧されましたが、そのほとんどが思想的な転向を強いられ、権力に屈しました。弾圧の初期には小林多喜二や野呂栄太郎のように激しい肉体的拷問で死に追いやられた事が多かったのですが、世論の反発を恐れたからでしょうか、やがて主として説得して転向させるようになったのです。その際、一番効果的だったのは家族の情に訴えて、口説き落とすやり方だったのです。   

 活動家達は過酷な近代天皇制権力の弾圧の下で、貧しい労働者や農民の為に、まさしく命懸けで戦っていました。家族への情や未練を断ち切って、家族に迷惑が掛からないように連絡も取らずに、ひたすら実践に励んでいたそうです。ところが家族の泣き落としにあって、いままで必死に押し殺してきた家族への思いが堰を切ったのでしょう。こんなに大切な家族に迷惑や心配を掛けてまで、権力に反抗することに疑問を感じてしまったのです。そして自分たちの家族を含めてほとんどすべての日本人が、父親のように敬愛している天皇へ反抗するのは、独善的な思い上がりではないかと反省させられたのです。社会を改革するのならむしろ皇国の家族的結合を利用して、天皇権力を梃子にして行うべきではなかったかと考えるようになり、結局思想的転向を遂げざるを得なかったのです。反権力の闘いの一番原点にあった筈の家族への情が、家族が権力構造の底辺を担う役割をしていたので、権力に取り込まれる最大の落とし穴だったのです。

                              
三、歌わずにはいられない

 僧侶が恋歌を作る事について、色欲は殊に深き仏の戒めで、あるまじき事の第一に挙げられるのに、これを褒めちぎるのはけしからんという無粋な批判がありました。でも宣長によれば、色欲は避けることも捨てることもできない離れ難いものだから、それだけ世尊が深く戒めたのです。「されは僧などは、いかにもつつしみとをざけて、戀すまじきものなれば、いよいよ心には思ひむすぼれて、情の積鬱すへき理(この心なきは岩木のたくひ也)なれは、せめて思ひを和歌にはらさん事、いと哀なる事にあらすや」(『排蘆小船』)と弁護しています。悶々と鬱積した恋情をせめて歌に託し、昇華する、そこに歌・物語誕生の原点を見出しているのです。これは精神分析学の昇華理論を先取りしていますね。

 宣長がとても心打たれた逸話が『太平記』に出てくる、志賀寺の上人の話です。齢八十を越えた上人が偶然見かけた京極の御息所の美しさに魂を奪われて、都の館まで来て庭前に佇んでいたのです。それと知った御息所は上人に手を握らせてあげます。『太平記』ではそれだけで上人の妄執が晴れたことになっていますが、宣長の解釈では次の「玉箒の歌」を詠じたことで晴れたことになっています。 

 
「初春の初子の今日の玉箒手にとるからにゆらぐ玉の緒(正月の初子の日に賜った玉箒は手に取るだけで、飾り玉を通した紐が揺れて、自分の心もときめく)」(大伴家持)(日野龍夫校注『本居宣長集』新潮日本古典集成四三二頁の注を参照)

 「初春の初子の今日の玉箒」から推察しますと、この上人にとっては、これが初恋だったのでしょう。素晴らしいものに手を触れることができた幸せに心がときめいている様子がよく分かります。もし上人がこの思いを遂げることができなかったら、妄執が募ったままで死んでも死に切れないまま最期を迎えなければならなかったでしょう。情を交わす、思いを晴らすということは、たとえどんな形であっても、遂げておかなければ
「心に思ひのむすぼほる(鬱屈して晴れない)」ものなのです。

 御息所の手を握ることも心晴れる行為ですが、想いの丈を歌に託して叙べるのもそれに劣らず心晴れるものだというのです。上人にとっては手を握ったり、歌を詠じたりすることが、彼なりの快楽であり、セックスそれ自体なのです。古代の男と女は歌垣で想いを歌いあげ、交わし合ってから、顔を合わせてセックスをしたと伝えられています。でも肉体的な交合だけがセックスや快楽ではなく、想いを歌いあげる事自体に既にエクスタシーがあったのかもしれません。

 宣長によれば鳥獣虫魚にいたるまで、有情のものは皆、それぞれ曲節のある音を出して自分なりの歌謡をなすものなのです。それなのに人間でありながら、一向に歌を詠めないのは、動物にも劣る極めて恥ずかしいことなのです。歌など詠まなくても事足りるというのでは味気ない限りです。自分が歌を詠めないものだから他人が詠んでいるのを譏る人がいますが、そういう人は風雅を知らない、木石の類いで、人情に疎いのには言う言葉もありません。そこで宣長は歌の効用を次のように述べています。

 
「人情に通し、物のこころをわきまへ、恕心を生し、心ばせ(気立て)をやはらくるに、歌よりよきはなし、春たつ朝より、雪の中に歳のくれゆくまて、何につけても、歌の趣向にあらさる事なし、かくのことき風雅のおもむき、面白きりさまを、朝夕眼前に見つつ、一首の詠もなくして、むなしく月日を送るは、此世にこれほと惜き事はなき也、見るもの聞くものにつけて、思ひをのへ、うつりかはる折々の景色を、興あるさまによみつつけたる、此世のありさま、何事かはおもしろからさらん、いとたけき猪のたくひも、ふすゐのとこ(臥す猪の床)といへは、哀になつかしきといへる、古めかしき事なれと、まことに此歌の徳ならては、いかてかかくゆうにやさしくは言ひなされむ、いはむやうへなき花月のなかめ、心にあまる風情、ふつつかなる口にも、一首につつりて言ひのへたらむは、いひしらす哀にえんなる事、何ことかはこれに及はむ」(『排蘆小船』)

 
「臥す猪の床」の話は、『徒然草』に「和歌こそなほをかしきものなれ。−中略−恐ろしき猪も臥す猪の床といへばやさしくなりぬ」とあるものです。肝心の和歌は『後拾遺和歌集』の「かるもかき臥す猪の床の寝を安み、さこそ寝ざれめ、かからずもがな(すやすや寝込んでいる猪のようには眠れないにしても、人恋しさに眠れないこの状態ではなくありたいものだ)」のことです。この和歌の御陰で風流や哀れとは全く無縁に思えた猪が、「もののあはれ」を誘うようになるのです。こうして歌は様々な物事を感動と快楽に艶やかに彩り、生活を心豊かにしてくれるものなのです。

                      四、歌・物語のよき人

 仏教では、惑いを離れて悟りに入ることをよしとし、儒教では、身を修め、家を斉え、国を立派に治めることをよしとします。人々を教え導いて、道に違えないようにさせるのです。その際、人情からは忍びない事でも、それらの道に違えば、悪として厳しく戒めます。これに対し、歌・物語は儒仏の善悪には関係なく、人情に合致することをよしとし、合致しないことを悪しとするのです。とはいえ、決して儒仏の善悪の基準を投げ捨てて、人情にのみ従って行動せよと薦めているわけでもないのです。歌・物語は何々せよと諭す教戒の書ではありませんから。ただ人情というものはこういうものだと、人情のありのままを書き記して、物の哀れを感じて心動かされ、行動する人をよき人とし、物の哀れをに心動かされず、教条や利害だけで行動する人を悪しき人として表現するのが歌・物語なの
です。 

 儒教では不義密通や淫乱を悪として厳しく斥けます。ところがむしろロマンティズムの世界では禁断の恋こそ、抑えても抑えても抑えきれない想いが燃えあがるので、恰好の題材なのです。『源氏物語』で抜きんでてよき人は、光源氏その人です。彼は、紀伊守の父、伊予介の後妻であった空蝉と強引に契りを結び、朱雀院の妃である朧月夜と密通し、父桐壺帝の中宮であった藤壺とも密通、不義の子を設けています。特に藤壺との密通は、儒教文化圏では強盗殺人よりも遙かに悪い無類の極悪です。不孝の罪や逆賊の罪に問われても申し開きできないのですから。
     
 ところが朧月夜とのスキャンダルで須磨に流される際、
「世ゆすりて惜しみ聞え、下には朝廷をそしり奉る」(須磨の巻)有り様です。流罪にした中心人物の弘徽殿の大后は物の怪に悩まされますし、神仏も味方して都に帰還が叶います。「都に帰り給ふと、天の下の喜びて立ち騒ぐ」(蓬生の巻)のです。紫式部がこのように「不義淫乱をうち棄ててかかはらず、源氏の君をよき人にしたるは、人情にかなひて物の哀れを知る人のゆゑなり。」と、宣長は評しています。

 源氏の正妻、女三の宮と密通して不義の子、薫を身籠もらせた柏木の衛門の督は、源氏に秘密を知られたので、懊悩のあまりに病死してしまいます。情愛深かった柏木が、その情愛の故に死ぬほど苦しんだことをだれもが哀れみました。間男された源氏ですら、柏木のことを深く惜しみ憐れんだのでした。紫の上の病気に気を取られるあまり、女三の宮への源氏の想いが薄れて、彼女が虚しい気持ちになっていたのです。憧れの女三の宮の不幸
を見兼ねて、柏木の想いが余計に募った挙げ句の出来事だったのです。

 この源氏の柏木への憐憫も、物の哀れを優先して、自分の恨みや怒りを差し置くので、よき心ばえなのです。また藤壺についても、作者は少しも不義を貶さないのです。彼女は「世のためにもあまねく哀れにおはしまして」と作者に褒められますが、その中には、もちろん母親への憧憬と重なって執着してしまった源氏の情に絆されたことも含まれているのです。

                      五、主情主義の立場 

  儒仏の教えや世の中の義理に縛られ、素直な本情に基づく物の哀れを感じるままに行動することは厳しく抑制されがちです。情に流されると大切な人倫が破壊され、破滅せざるを得ない場合も多いでしょう。でも痛切な抑え難い情念があれば、何らかの形でその想いを遂げないと、どうしてもはかない一度切りの人生が納得できません。こうして義理と人情の板挟みに懊悩せざるを得ないのです。「義理が廃れば、この世は闇さ」ですが、人情の通わない人生は味気なくて、砂を噛むようなもので耐えられません。
  
 情愛を原理にした主情主義が本居宣長の立場ですが、それは仁愛に還元し、私心なき心で仁愛を貫ぬく誠を強調した伊藤仁斎の立場ともまた別です。仁斎も人欲を肯定していましたが、それは人欲を知って始めて、互いの気持ちが理解し合え、為政者も人心に則った政治が出来るようになるからです。自己の欲望のまま素直に行動することを肯定しているのではないのです。

 宣長の場合は物事に触れて起こる感動や、欲情に素直に生きることが「物の哀れを知れるよき人」の生き方なのです。仁愛も情愛ですが、多分に未だ道徳的な情感です。それに対して宣長は物の哀れにより、「心の赴くままに」真情を貫く中には、当然「心にむすぼれるものを晴らす」という快楽の原理が含まれているのです。

 儒仏の教えに従ったり、何らかのイデオロギーに基づく社会変革の運動に挺身したりする人々は、どうしても信条や教条に基づき、感情を規制し、厳しく行動を律しなければなりません。平凡に社会人や家庭人として生きる上でも様々な道徳的規制を守らなければならないのです。その為に素直な真情が押し殺され、心にやり切れなさが鬱積するのです。だからといって、一切のイデオロギーと無縁に生きるわけにはいきません。特定のイデオロギーに基づく活動が、同時に瑞々しい情感の発露であり、その事によって鬱屈した気持ちが晴れ、回りの人々や、世界の人々、回りの事物や自然全体とも常に瑞々しく和やかな関係が結べるような活動にしなければなりません。

 情勢が厳しいこともあるかもしれませんが、運動に参加すればする程、人間が冷血になり、他人を陥れたり、思いやりの心や明るさを無くしがちです。元々素直な真情で愛し合える社会を作ることが目的なのですから、その運動の仕方も情愛に満ち、物の哀れに素直に感応できる柔軟性を持つべきです。そして運動に参加することが文化的な創造活動であり、その活動で心も体も健康になり、人間的にも社会的能力面でも成長し、参加者相互が和やかな友愛を結べるような暖かい運動でなければなりません。

 職場や地域社会や家庭も、そこに帰属することで精神的にも肉体的にも消耗して、逃げ出したくなるようなものであってはなりません。義務や規則や道徳だけで縛り上げ、それぞれの役割を果たさせればそれでよいというのでは、余りに味気ないものです。そこに互いに暖かく楽しい関係を作り上げる工夫が必要です。互いの価値を認め合い、尊重し合い、励まし合い、助け合う気持ちが大切なのです。自分の帰属する場所を楽しくする最大のポイントは「物の哀れを知る心」を持って、仕事の上でも人間関係の上でも常に感動と発見を大切にし、リフレッシュするよう努めることではないでしょうか?

 主情主義が日本主義と結びつきますと、大変危険です。日本は情で結びついた真情の共同体だとされ、その和の象徴が天皇であるとされます。ですから親兄弟・朋友への心情が深ければ、その想いが天皇への敬愛の気持ちを深くするという理屈です。この心情共同体の結合の論理は、心情的なだけに権力の命令に理性的合理的に批判しても擦れ違いに終わります。

 『源氏物語』は「物の哀れ」をテーマに真情のユートピアを描いたものです。現実には主情主義の原理だけで行動されたら、痴情怨恨の殺傷沙汰が絶えませんし、はた迷惑でたまったものではありません。情に訴えて自己の行動を合理化し、責任を逃れようとする傾向や、情や和を保つためにはたとえ理不尽な事でも大目に見る傾向が見られますが、そんなことを放置していると、後で問題が拡大して、取り返しがつかなくなるものです。主情主義をオールマイティのように振り回し、激情や過激なパフォーマンスに訴えて、バイオレンスに決着をつけようとするのは困りものです。主情主義は、反省の契機であり、初心に帰り、リフレッシュして硬直性を打破する原理なのです。
 義理と人情の板挟み、制度や教条と心情の対立が続く限り、真情の解放を説く「主情主義」の原理は歴史を越えた普遍的な妥当性があります。西暦二千年代も常に忘れられてはならない人間の原点です。二千年代の千年間も高度に発達した科学技術文明の中で、益々情愛の持つ意義は大きくなると思われます。

 

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