第六節 コモンウェルスの設立


 一、コモンウェルスの設立は総べての人々のあらゆるカを主権者に譲渡して可能になる

 コモンウェルスの目的は、ホッブズによれば戦争状態を脱して人間生活の安全を保障することにあります。人間は互いに自然法を尊重して助け合い、「己れの欲するところを人にも為せ」というバイブルの黄金律を実践していれば、平和に幸福に暮せるのです。実際には、自然法は他の人々が自分と同様に自然法を守るという保障があるときだけしか拘束力を持ちません。というのは他の人々が自分に敵意を持ち、攻撃しようと待ち構えているところに丸腰で出て行けば、自己破壊であって、自然法の目的に背きます。また反対に他の人々が自然法を遵守する十分な保障があるのに法を守らないのなら、その人は平和でなく戦争を求めていることになります。

 では少数者が結合することで安全が保障されるでしょうか。元々戦争状態にあるのですから、相対的に優位な集団ができれば、侵略に乗り出す事になってしまいます。また多数の人々が結合する場合でも、同一判断によって、つまり一つの意思によって統御されていない限り、安全保障は得られません。同じ集団でもばらばらの判断や欲求によって動かされるならば、互いに内部対立を深刻化させることになり、全く無力になります。

 コモンウェルスの生成は、すべての人の意思を一個人あるいは合議体に結集することによって可能になります。その為にはすべての人はあらゆる力と強さを譲り渡してしまうことが必要です。多数の人々が一個の人格に結合し、統合されるのです。コモンウェルスにおいては、彼らは自分達が、自発的かどうかにはかかわらず、承認した主権者の行為・判断の総べてを承認し、自己の行為・判断と見なさなければならないのです。つまり主権者に対して絶対服従の義務があるのです。

    二、「設立されたコモンウェルス」と「獲得されたコモンウェルス」

 ホッブズはコモンウェルスの形成の仕方を二つに分けています。一つは全ての人の意思を多数決によって一つの意思に結集する仕方です(第十八章、197頁)。これは地縁的な繋がりで人々が国家形成を行う場合で、「設立されたコモンウェルス」と呼ぼれます。もう一つは、有力な個人や団体が一定の地域に軍事的な覇権を確立して、その地域の人々を服従させることによる場合で、これを「獲得されたコモンウェルス」と呼びます。自分たちの多数決で主権者を選んでも、武力による強制を背景に主権者として承認させられても、どちらでも主権者に対して人民が絶対服従の義務を負うことには違いはないのです。「多数決で」という表現からいかにも人民主権論と紛らわしいわけですが、これはたとえ「総意で」となっていても同じ事です。主権者というのは人民の意思を無制限に代理する権限を与えられた者のことなのです。しかもこの主権者の絶対的な地位は変更してはならないというのがホッブズの立場なのです。

      
       三、主権者と人民の代理関係

 繰返しますが、ホッブズは、人格は代理され得ると考えています。主権者は人民の意思の代理人ですから、主権者の行為や意思の本人は人民自身です(第十六章、190)。ということは人民自身の意思に反した行為や意思決定を、主権者が行ってはならない事ではないのです。その反対に、一度主権者を自分達の代理人として承認した以上、主権者の行為・判断を作り出した本人としての義務や責任を、人民自身が負わなければならないということなのです(第十七章、196)

 ホッブズは国民が主権者に、生命に関わること以外では、一切反抗してはならないことを熱弁しています。たとえ主権者が異教徒であっても、カエサル(皇帝)に従えとバイブルにもあるのですから。ましてキリスト教国ならば、神は神の代理人契約を国民の代理人である主権者をさしおいて、主権者以外と結ぶわけがないのです。ですから主権者が、教義解釈権を持っており、教会に対する支配権も持つべきだというのです(第三部「キリスト教的コモンウェルスについて」、第四十二章「教会の権力について」478)

 いったん譲り渡した自然権は戦争状態に戻る以外に取り戻すことはできません。ですから主権者がどんなに横暴な政治を行ったり、犯罪的な行為をしても、国民はそれを処罰することも、非難することすら正当ではないのです。だってその行為や判断の本人は自分達自身なのですから、あたかも他人に対するような態度は取れないのです。

          
四、如何なる暴君といえども戦争状態よりはましである

 ではコモンウェルスの設立に同意していなかった人は、コモンウェルスの主権者に反抗してもよいのでしょうか。ホッブズによれば戦争状態が最悪なのですから、コモンウェルスの設立に反対することは不正です。ある人を主権者として認めないという態度もやはり不正です。誰かが主権者にならなければコモンウェルスを設立できないのですから、いったん主権者になった人を認めないのなら、また戦争状態に逆戻りだからです。

 また彼は、主権がばらばらに分解して統一性を失い弱くなることを警戒していますから、主権は分割できないというボーダンの主権論に立っています。主権者は軍事統帥権、イデオロギー統合・支配権、市民法制定権、裁判権、報償・処罰権を一手に握るべきだというのです。市民法とは主権者に第一次所有権があることを前提に、所有権および善・悪、合法・非合法に関する諸規則のことです。

 では無制限に近い主権者の強大な権力を認めることは、コモンウェルスの目的である平和の維持と国民の安寧を危うくするのではないでしょうか。古来様々な暴君の存在がそのことを示唆しているように思われます。ところがホッブズは如何なる暴君といえども、戦争状態よりはましだと考えています。といいますのは、専制君主の強大な権力は国民が悲惨で貧しい生活をすることによって維持されるのではないからだとします。国民が産業を発達させ、豊かな暮らしをしていればこそ、コモンウェルス全体の健康が保たれ、その上に強大な権力を築くことができるというのです。苛政誅求によって国民を疲弊させますとコモンウェルスの体力が弱ってしまうので、専制君主にとっても都合が悪いという論理です。むしろ君主が強大な権力をもっていることは、国カの充実を示しており、国民の活力だそうです。国民の福利と君主の強権を矛盾対立させて捉え、国民の間に不満や反抗が起こりますが、それは国民が自分自身を護るために力を貸そうとしない御し難さを示しているそうです。国民は情念と利己心という二つの拡大鏡を持っていて、ほんの少しの支出でも大きた不満の種になり、将来の悲惨を見通すことができないというのです(第十八章、207)

 ボッブズは主権の絶対性に関する議論や国民の権利に関する否定的態度から、一般に専制君主政治の代表的なイデオローグと見なされています。しかし彼は表立って専制君主制が最良だと言ったわけではないのです。彼によるとコモンウェルスには三つの政体があります。代表者が一人の場合は君主政(モナキィ)、代表者が一部の者の合議体の場合は貴族政(アリストクラシィ)、代表者が総べての者の合議体の場合は民主政(デモクラシィ)です(第十九章「設立によるコモンウェルスの種類と主権の継承」208)

 

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