第七節 巨大な人工機械人間としての国家
 

        一、主権者の取り換えはコモンウェルスの死を意味する

 政体はホッブズに言わせれば、いまさら選び直せるものではないのでどれでもよいのです、主権が絶対性を持ち、国民を護るために充分な力を備えているのなら。ただ、よその国民や古代ギリシアの政体等に憧れて、政治体制を変更しようとすることが最もいけないことなのです。

 コモンウェルスの頭脳にあたり、唯一の意志決定機関である主権者は取り換え不能なのです。個体の場合、頭脳の取替えは確かに個体の死をもたらしますが、人工機械人間であるコモンウェルスの場合も同様だとホッブズは言いたいのでしょう。古来政治体制の変更は数多く為されてきましたが、そのためにコモンウェルス全体が崩壊するとは限りません。主権者が打倒され、新しい体制に生まれ変わってコモンウェルス全体が活性化することも大いに考えられます。コモンウェルスを人体に譬えるのは、発想は斬新ですが、ここまでやればこじつけです。

それにあくまで主権者の取替えに反対するなら、共和政下のイギリスに亡命先から舞い戻ったのは矛盾した行動です。彼はピューリタン革命以前のイギリスの制限王政が、主権者がだれか明確でない点で不満をもっていたようです。彼自身王党派と行動を共にしていましたが、彼の人間論が王党派内部から無神論だと非難されて、亡命先フランスでも追い詰められていたわけです。そこで革命後のイギリスがクロムウェルの下で主権が明確な国家に生まれ変わることを期待していたとも考えられます。ともかく首をすげ替えても死ななかったのですから、その点ではホッブズの論理は破綻しているのです。

    
     二、国家は生きた人工のジャイアント(巨人)である


 人間は技術によって時計のような自動機械を造りますが、これは人工的な生命を持つ物だ、とホッブズは捉えています。人間の技術はさらに「人間」すら模倣してコモンウェルスとか国家(ステイト)と呼ばれる人工機械人間を造ったというのです。これを彼は「リヴァイアサン」と名付けたのです。

 リヴァイアサンは地上で最大、最強の怪物という意味ですが、人間ですからジャイアントです。「コモンウェルス」は共同団体という意味ですから、専制的な主権者による絶対的な支配のイメージは浮かびません。これは国家というものは、全人民が本人であり全人民の社会契約によって身体が構成されている一人の人工機械人間である面を強調しているのです。これに対して、国家が強大なジャイアントであり、絶対的な主権の支配の下で統一された意思を形成している面を表現したのが「リヴァイアサン」です。「コモンウェルス」というような言葉づかいで元々はもっと民主的だった既成の社会契約論の論点を取り込み、「リヴァイアサン」的な言葉づかいで国家の専制的構造を明らかにしようとしたのです。

 「人工人間にあっては、『主権』が人工の『魂』であり、それが全身に生命と運動を与える。『施政官』とその他の司法行政上の『役人たち』は人工の『関節』である。また『賞罰』〔これによってあらゆる関節や器官か主権の座に結び付けられ、それぞれの義務を遂行させられるのは『神経』あり、それは自然的肉体における神経と同じ働きをする。また個々の成員が所有する『富』と『財宝』は『体力』であり、『人民の安全』が人工人間の仕事である。さらに人工人間にとって知る必要があるあらゆる事柄を提示してくれる『顧問官たち』は『記憶』であり、『公平』と『法律』は、人工の『理性』と『意思』、『和合』は『健康』、『暴動』は『病い』、『内乱』は『死』である」(序説、53頁)

               三、コギト的・身体主義的人間観の超克一

 ホッブズは国家を人間に譬えているのではないのです。本気で国家を人工機械人間だと主張しているのです。自己保存の為のセルフ・コントロールシステムを持ち、この装置を人格的に代表する意思決定機能をもっているので、身体的個人ばかりではなく、コモンウェルスも人間なのです。同じ論理で言えば、企業等の社会団体も人間だと言えるでしょう。実際、現代では法人という言葉が抵抗感なく使われています。最近の法人資本主義論などはその典型です。

 プロタゴラスはプロメテウス(構想カ)だけでは、人間はサバイバルできないので、ポリスを不可欠な契機として人間を捉えました。アリストテレスも人間はポリス的動物だと指摘したのです。それでも彼らはポリス自体を人間だと考えていたわけではありません。近代ではマルクスが『フォイエルバッハ・テーゼ』で「人間の本質は現実的には社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」と規定しています。マルクスにしても、商品や資本や企業や市民社会や国家を人間として捉え返したわけではないのです。反対に、社会的な事物が人間的な諸関係を取り結ぶ主体であるかのように現われる事態を、物神性的倒錯として暴露しました。つまり社会関係や事物の社会的規定を現実的諸個人の相互関係として捉え返しました。マルクスにとっても人間は現実的諸個人として捉えられていたのです。

 実存主義者のコギト中心主義に反撥して、構造主義者フ一コーは「人間の死、言語の支配」を語りました。彼は言語体系として現われる権力的な社会システムによって、諸個人の意識が規制されていることをシビアに説得したのです。それでも構造主義者は社会システムを人間として捉え返し、それを主体的に引き受ける思想的立場に到達したわけではありません。いわゆるフランス現代思想の限界は社会を貫くコードを対象化するものの、それを自己自身として人間として捉え返すのではなく、むしろ人間の否定として捉え、そこからのゴダール監督『気違いピエロ』のような狂気による包摂拒否や、「砂漠への逃走」にはしってしまうところにあるのです。

 それは高度に管理された情報化社会の気分を反映しているだけに、ある程度の共感を得る事はできます。しかし現代社会を自己自身として引き受け、システムの主体としてシステムを変革して成長しなければならない時代の課題に応えることはできません。

 〈身体あるいは身体に内在する自我>を人間と捉える人間観を身体主義的人間観と規定しますと、身体主義的人間観の枠を突破できたのは、ホッブズの他にはパースが挙げられるだけです。パースは「人間=記号」論を展開しました。彼は記号を事物が他の事物を指し示す性質として規定しましたから、記号的性質を持つ事物の関係として人間を規定していたことになります。ホッブズとパースの人間観の再評価が、二千年代の新しい人間観を構想する際の出発点になるのです。

    
        四、恐怖による強制的な服従も自由である

   ホッブズの「自由人」の定義はこうです。「自らの強さと知力において、自分でやろうとすることを妨げられていない人間」です。ですから恐怖から行う行為も自由だと言います。コモンウェルスにおいて法に対する恐怖から為される行為も、すべてそれをしないで刑罰に服する自由をも含んだ行為ですから、自由なのです。必然性と自由も両立します。人間の行為はそれをしなければならない諸事情によって行われる必然的な行為ですが、そのような事情を理解した人間の自発的な自由な行為なのです。ホッブズは権力的な強制を伴わないことを自由と受け止めていません。権力的に強制されていても、それに従うか従わないかは、自分の理性の判断だから自由だというわけです。これでは自由と不自由が混同されています。基本的人権としてどのような権利が権力の干渉から護られるべきか明確に打出さない限り、近代的な自由論としては失格です。

 ホッブズの自由論は、人間は自由の刑に処せられているとしたサルトルと一見似ていますが、実は正反対です。サルトルの場合は、権力による自由の圧殺に対して、人間は本質的に自由な意識なのだから、これに嘔吐し、自由回復のために立ち上がらざるを得ないとしました。これが自由の刑に処せられているという意味です。ホッブズの場合は、服従契約はそれを結ばないで玉砕する自由も含んでいる理性的な契約であり、いったんこれを結ぶと、生命を奪われるようなことがない限り、半永久的に支配者に絶対服従すべきだとしたのです。

 ホッブズによりますと、人間は契約によって自分達の行為を制約しますが、そのことによって平和に生きる事ができるのです。だから契約は理性的な自由な行為なのです。社会契約に基づいて作られる市民法は人工の鎖であり、これによって不問に付されたことについて自分の判断で行う自由を持っています。例示されているのは、売買、契約を結ぶ自由、住居・食事・生業の選択、子どもの教育などです。もちろん市民法の内容は主権者が制定しますので、いくらでも市民の自由を制約できます。その上、主権者は自分の制定した市民法によって拘束される義務はないのです。とはいえ余りに厳しく経済面での市民的自由を制約しすぎますと、萎縮して産業が発達しませんから、自ずから限界があります。

      
        五、モナルコマキに対する反駁

 ホッブズはモナルコマキ(暴君放伐論)に反対しています。彼は暴政には限界があるという立場です。主権者はリヴァイアサンの指令中枢に当たる地位を占めていますから、リヴァイアサンが強大でなければ主権者の権力も小さくなってしまいます。リヴァイアサンが強大であるためには、国民が豊かで富を蓄えていなければいけません。でないといざ戦争の際に、強力な軍隊も造れないし、豊かな生活を護ろうとする積極的な国防意識を植え付けることもできません。ですから国内での収奪を強めて私腹を肥やし、贅沢三昧をして国力を衰退させるということは君主にとって自分の首を締めるようなものなのです。

 しかし現実にモナルコマキの議論が絶えなかったのは、国家の指令中枢というよりは、国家に巣くう寄生虫のような暴君がいたからなのです。彼らは自分のきらびやかな放蕩生活を続ける為には、国力の衰退など気にならないとばかり、課税や賦役を強化したのです。そこでモナルコマキに反対する最後の論拠として、コモンウェルス自体が人工人間なのだから、人体においては首のすげ替えは不可能なように、コモンウェルスの首のすげ替えも不可能だ、コモンウェルス自体の死を意味するぞと強迫じみた強引な理屈を、ホッブズは考えていたようです。

            
六、内心で何を考えても自由だが、表現は取り締まる

 思想信条の自由については何を考えても、考えること自体は禁じようがありません。その意味では内心の自由は不可侵なのです。しかし宗教的な教義や守るべき道徳や賞揚すべき正義の内容は、主権者が決定することができるのです。ですからそれに反する意見の表明や行動を取り締まることができます。この論理は自然法思想の精神とは逆行しています(第二十一章「国民の自由について」)

 当時内面の信仰の純粋性を重要視するピューリタンはピューリタンによる教会と国家の支配を目指していた長老派と、政教分離による信教の自由を確立しようとしていた独立派に分かれていました。英国国教会はピューリタンのような内面信仰を重視しますと、教義解釈を巡って分裂抗争を繰り広げることになるのを危惧したのです。そこで英国国教会の礼拝に出席して、そのしきたりに従って祈りを捧げれば、内面の信仰の純粋性は問い詰めないで教会員として認めることにしたのです。ホッブズの立場は、この英国国教会の論理を合理化しているのです。

              
七、諸党派は禁止されるべきである

 国民が団体を形成して行動することには、ホッブズはかなり神経質です。国民の団体には主権者の権力によって作られるポリティカルな団体と、民間で作られるプライベイトな団体があります。その内コモンウェルスの承認がある合法団体と、承認のない非合法団体に分かれます。もちろんホッブズは、非合法団体は、悪い体液が不自然に合流した結果生じた膿瘍だとして認めません。

 政治団体の代表者の権力は、主権者の許可する範囲内に制限されています。秘密結社は主権のある合議体でイニシアチブを取るために仲間で協議する団体ですから、非合法な分派であり、陰謀の徒です。統治の為の諾党派をホッブズは不正だとします。「それらは人民の平和と安全に反し、主権者の手から剣を奪うものである」というのです。これに対して合法的な諸団体、諸集会はコモンウェルスの筋肉だとして重要視しているのです(第二十二章「公的および私的、従属団体について」253)

 ホッブズは国家を人工人間として捉えていますから、国家意思が幾つもに分かれれば、全体として一つの人格で行動できなくなります。あくまでも国家意思の決定は国家の主権者の専決に任せるべきだとしたのです。主権者が意思決定するための材料を提供し、主権者に意見を具申する機関は、主権者に下属する合法的団体でなければなりません。

 主権者から離れて国家の政策の是非を論じたりすれば、国論が二分し、主権者の意見はどちらかに属する相対的で党派的な意見だと受け取られてしまいます。そうしますと主権者は絶対的な主権者としての立場を保てなくなってしまいます。そこで統治のための諸党派を否定してしまったのです。

 仮に人体で脳髄以外のところでも様々な意思が形成されているとしますと、人体はどの意思に従えばよいのでしょう。やはり脳髄以外の意思は棚上げにして、脳髄だけの思考に基づかなければなりません。脳髄以外の意思は自分の代わりに好きなように決定してくれるように脳髄に任せることになります。ですから人工人間としてコモンウェルスを捉える限り、各人は政治的な意思の代理人を共同で立てて、その人の意思に統合されなければならないというのです。

   八、普遍的なコモンウェルスのモデルとしての「リヴァイアサン」
 

 このように主権者が専制的な権力を振うのが当然であることが、コモンウェルスをリヴァイアサンという、巨大な人工機械人間として説明することによって、とてもよく理解できるようになっています。ホッブズはこのリヴァイアサンモデルは、普遍的なコモンウェルスのモデルであると主張したのです。つまり君主制のみならず貴族制、民主制にも適応できるモデルだという意味です。しかし主権者と主権を持たない人民という対置で全編が構成されているので、とても民主制のモデルにはなれないものです。そしてリヴァイアサンの論理から見れば、最も君主制が理性的な制度に思われるように書かれています。そこでわれわれに残された課題は、民主制国家をリヴァイアサン(=人工機械人間)として捉える論理を構築することです。しかも二千年代を迎えようとしている今日では、民族国家の枠を超えた世界秩序の論理としても展開されなければならないのです。

      
        九、リヴァイアサンの獲得

 われわれは国家をも巨大な人間として捉えることの積極的な意義を理解する必要があります。われわれはややもすると個人的な身体的自己だけを自己と捉えがちです。しかしわれわれのアイデンティティは、決して個体的な身体の枠内に納まってはいないのです。家族、集団、職場、企業、地域、郷土、民族、国家、地球環境等様々な集団的意識、集合的意識を自己自身の意識として生活しています。国家も拡大された自己の一つの在り方なのです。リヴァイアサンは決して自分にとって他人ではないのです。リヴァイアサンの意志の本人は好むと好まざるに拘らずわれわれ自身なのです。

 ですからわれわれはリヴァイアサンを超越的な権力としての疎外された形態のままにしておくのではなく、自己の意志が同時にリヴァイアサンの意志であり、自己はたんに個体的個人であるだけではなくて、リヴァイアサンでもあるのだと実感できるようなものに獲得しなければなりません。

《参考文献》
『世界の大思想13 ホッブズ リヴァイアサン』水田洋・田中浩共訳、河出書房新社
『世界の名著28ホッブズ リヴァイアサン』永井道雄・宗片邦義共訳、中央公論社
田中浩著『ホッブズ研究序説ー近代国家論の生誕』お茶の水書房
田中浩著『近代国家と個人』NHK市民大学テキスト
保井温著「ホッブズと民主主義」季報唯物論研究3536合併号

 

 

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