第五節 アクター(代理人)とオーサー(本人)
 

   一、フェイント・パーソン(擬制人格)とナチュラル・パーソン(自然人格)

 彼は「欲望機械としての人間」論から「人工機械人間としての国家」論に移る繋ぎに、人格論を展開しています(第十六章、「人格、本人および人格化されたもの」187頁〜191)。実はこの繋ぎの人格論が『リヴァイアサン』解読の鍵を提供しているのです。ここで個人だけでなく、国家にも人格が成立する論理を説いているのです。その際、「人格」の意味は倫理的主体や「人となり」というよりも「代表」の意味で使っているのです。

 アクター(俳優=代理人)の言葉や行為は彼自身のものではありません。他人を演じて、代表しているわけです。これは一種の擬制人格(フェイント・パーソン)もしくは人為人格(アーティフィシャル・パーソン)です。自分自身を演じて、代表していると自然人格(ナチュラル・パーソン)なのです。パーソンの語源のペルソナは元来が舞台上での人間の「仮装」や「外観」を意味していて、そこから転じて法廷においても言葉や行為の代表者の意味で使われるようになったのです。アクターはオーサー(本人)の権眼に基づいて、権限を委任された範囲で行為します。アクターがその範囲で行為したことの責任はオーサーが負わなければならないのです。

 ナチュラル・パーソンを持っていない無生物でも擬制人格で代表されることができます。教会は教区長が代表するというように。また子どもは後見人によって人格化され、偶像は神官によって人格化されるのです。そして真の神はモーセやイエス・キリストによって人格化されたとしています。

 そしていよいよ群衆が一人の人間または人格によって代表されるとき「一つの人格」になります。もし群衆が代表者に無制限の代表権を与えてしまえば、代表者の為すすべての行為を自分たちのものと認めていることになります。

                     二、主権者の意志の本人は人民

   彼はこの「代理人」(アクター)と「本人」(オーサー)の関係を使って、後でコモンウェルスの論理を展開するのです。主権者が全人民の代理人であるから主権者の意志の本人は全人民であるとします。そして契約によって主権者は全人民の代理人になったのであるから、いったん代理人に意志決定を任せた以上、代理人の意志に本人として従わなければならないという論理です。その際代理人の意志が本人と異なることを理由に代理契約を取り消したり、代理人として認めないことは契約自体の破棄になって不正なのです。この論理を取り間違えて代理人である主権者の意思の本人は人民なのだから、人民主権の立場であると解釈すれば、専制体制を擁護しても人民主権の立場に立っていることになり、きっとホッブズもびっくりするでしょう。

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