第四節  自然法について
 

             一、自然権の定義は自己保存権

 ドイツ語でレヒトと言えば「法」であり「権利」であり「正しさ」なのですが、ホッブズはレクス・ナトゥラリス(自然法)とユス・ナトゥラレ(自然権)を区別しています。法は当為として拘束する性格を持っていますが、権利はある行為をしたりしなかったりする自由であると考えたからです。自然法は、生命を破壊したり、生命維持の手段を奪ったり、生命を最良に維持する努力を怠ったりすることを禁じるものです。それは理性が発見した戒律であり一般法則であるとしています。これに対して自然権は、自然法に基づいたあらゆる事を行う自由です。「自然権とは、各人が自分自身の自然即ち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用い得るように各人が持っている自由である。従ってそれは自分自身の判断と理性とにおいて、その為に最も適当な手段であると考えられるあらゆる事を行う自由である」(第十四章、159)と定義されます。人間は生きようとするように造られた自己保存装置=欲望機械なのですから、人間である限り生きようと最大限の努力をするのは当然の権利だということです。

 古代ストア派では自然権は何よりも理性の神聖不可侵を意味していました。人間の本質は理性と欲望に分けた場合、理性だからです。欲望の方は身体と共に可死であり、滅びますが、理性は不死であり、永遠不滅ですから神聖にして不可侵であると捉えたのです。他人は自分の身体や行動の自由を束縛することはできても、私自身である理性には指一本触れることはできないのだ、と精神的自由を主張したのです。これに対してホッブズは自己を身体としての欲望機械と考えていますから、生きようとする権利つまり自己保存権を自然権の定義にしたのです。ホッブズは最も基本的な権利を確認したのですが、これを絶対視させることによって、権力者は人民の生命さえ保障すれば他はどんなに人権を制限してもよいという主張の根拠にするのです。

  二、「平和への努力義務」と「万人の法」―「基本的自然法」と「第二の自然法」―

 自分が生きる為だといって自分勝手に自己保存活動を行いますと、限られた富の奪い合いになり、戦争状態に陥ります。それでは反って自己保存ができなくなり、自然権が否定されてしまいます。そこで次の「基本的自然法」が確認されるのです。「各人は平和を獲得する望みが彼にとって存在する限り、それに向かって努力するべきであり、そして彼がそれを獲得できないときには、戦争のあらゆる援助と利益を求めかつ用いてもよい」(第十四章、160頁)。平和への努力が実らなければ戦争をしてもよいというのでは、互いに相手の意図を警戒して戦争の準傭を怠るわけにはいかず、それが余計に不信を募らせてうまくいきません。

 そこで第二の自然法はこうです。「平和の為に、また自己防衛の為に必要と考えられる限りにおいて、人は他の人々も同意するならば、万物に対するこの権利を進んで放棄すべきである。そして自分が他の人々に対して持つ自由は、他の人々が自分に対して持つことを自分が進んで認めることができる範囲で満足すべきである」(第十四章、160161)。これはお互いに敵意のないことを確認し合い自分がされたくないことを人にしないと約束しあうことです。これをいわゆる「万人の法」で『論語』では「己れの欲せざるところ人に施すこと勿れ」と教えています。

 第二の自然法では互いに侵し合わないことの約束ですから、これだけでは平和をもたらすには不充分です。何故なら困ったときに助けてくれなければ、自己保存の為に第二の自然法をやむを得ず蹂躙してしまうからです。「バイブルの黄金律」である「すべて自分にして欲しいことは、あなた方もそのようにせよ」まで含まなければなりません。ホッブズは、第二の自然法の説明にこれを入れています。これは第三の自然法として独立させるか、第二の自然法に書き込むべきだったのです。
  
        
三、「正義」の定義は「契約の履行」である

 コモンウェルス(共同団体=国家)が設立される以前の自然状態でも、平和で友好的な人間関係が成立していれば、それは「万人の法」と「バイブルの黄金律」が曲がりなりにも慣行的に人々の生活を律していたことになります。ロックは、理性との働きを重視していましたから、自然状態でも互いに人格を尊重し合い、私有財産を尊重し合う人間関係が成り立っていたと主張します。しかしホッブズは、第二の自然法はコモンウェルスの設立以前には守られなかったと言うのです。

 せっかく第二の自然法を守る約束をお互いに交しても、その約束を履行する保証がしっかりしていなければ、いつ約束が破られて戦争状態に逆戻りするかもしれないという不安に取り付かれて、警戒を怠ることができません。結局互いに機先を制しないとやられると考えて、自分から約束を破ることになるのです。そこで「結ばれた契約は履行すべし」という第三の自然法が生まれます。彼は「正義」の定義を「契約の履行」とし、「不正」の定義を「契約の不履行」としました。正義と所有権は契約の履行を強制するコモンウェルス無しでは守られない、と指摘します(第十五章、172)

 コモンウェルスがなければ正義もないのですから、約束を守らないことは自己保存権から擁護される場合もあり得ます。しかしコモンウェルスがあれば第三の自然法に従うことは正義であると共に絶対的な義務です。あらゆる契約の破棄は不正であるばかりでなく、コモンウェルスの権威に対する無視であり、コモンウェルスの解体に繋がります。その結果戦争状態への逆戻りになってしまうのです。

 彼は契約に従うメリットと従わない場合のメリットを天秤に掛けるような考えに反対しているのです。そしてたとえ契約の相手が悪人であっても、また宗教上の信念からであっても、契約の不履行は許さないとして.います。

    
  四、服従契約は子子孫孫、永久に破棄すべきではない

 支配・服従契約のように不平等な契約でも、履行しないのは不正なのです。もし服従を誓わなければ、強者は弱者を敵として抹殺するか鎖に繋げておくしかありません。服従契約によって安全に生活をすることができているのですから、服従契約は理性的な契約であり、有効なのです。しかしこのような論理を認めますと、いったん成立した服従契約には有効期間に制限がありませんから、たとえ弱者が自己の努力によってパワーを強めても、いつまで経っても支配から脱出できなくなってしまいます。契約を絶対視する思想はヘブライズムの伝統から由来していますので、説得力があったかもしれませんが、力関係の変動を無視した保守的な議論です。

 ホッブズは、第四の自然法を「報恩」とします。これに対して忘恩は自然法の侵害です。被支配者が支配者の隙を窺ってやっつけることも可能です。そんなことになればまた戦争状態に逆戻りですから、こんな命乞いを認めてもらい、生存を保障されたことに対する忘恩は最も不正な事に当たるのです。一般的には「報恩」は、他人から恩恵を受けた者は、相手にその行為を後悔させないように努力しなければならない、という意味です。そうしないと結局自分の身が危うくなります。ホッブズは「あらゆる意志的行為の目的は万人にとって自分自身の利益である」(第十五章、178)と断言しています。ここからも人間を自己保存装置=欲望機械として捉える立場が窺えます。


    五、自然法に適っているかどうかは「万人の法」によって判定
 

 第五の自然法は、「相互順応、従順」です。契約を守り、平和な社会を維持するためには互いに協調し合い、掟や支配者の命令に対して従順でなければならないのです。

  第六は「許容」です。過去の罪を悔い改めた者に対としては、平和を堅固にするためにはいたずらに敵視することを止め、許容してやるべきです。

  第七は「報復においては将来の善だけを尊重すること」。

  第八「傲慢であるな」、第九「自惚れるな」、第十「尊大であるな」、第十一「公平」、第十二「公共の物を平等に用いること」等が続きます。

 一つ一つの自然法を暗記していなくてもいいのです。ある行いが自然法に叶っているかどうかは、「自分自身にして欲しくないことを、他人にもしてはいけない」という「万人の法」によって判定さます。彼は、人格的対等の原理に基づく倫理を強調します。「他の人々の行為と自分自身の行為とを比較考量し、もしも前者が余りに重いように思えたならば、前者を秤の反対側にかけ直し、自分自身の行為を前者の代わりにかける。そして自分自身の情念や自己愛が、全く秤にかからないようにする。こうしてみれば、これまで述べた自然法のうち、一つとして極めて当然でないものはないことが明らかになる」(第十五章、184)

 互いに相手を尊重し合い、融和し合う事がなげれば争いが絶えず、戦争状態に戻ってしまいます。ですからこれらの自然法は永遠なのです。しっかりしたコモンウェルスの下では、平和を求める気持ちさえあれば、その遵守は易しい筈だというのです。ホッブズが道徳哲学だとするのはこのような自然法についての学問なのです。

 

 

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