第三節 パワー()への意志


        一、オリジナルなパワーとインストルメンタルなパワー

 
意欲や欲求の対象をホッブズは善だとしました。生きていくには善をできるだけ多く手に入れる必要があります。そこでホッブズはパワー()を「近い将来に善となるものを獲得するために現在所有している手段」と定義したのです(第十章、122)。彼はパワーをオリジナルな(自前の)パワーとインストルメンタルな(道具的な)パワーに分類します。オリジナルなパワーには、精神的肉体的能力の優秀さ、例えば異常な強さ・優れた容姿・深慮・技芸・雄弁・気前の良さ・高貴等があげられます。そしてインストルメンタルなパワーには富・評判・友人・幸運等があげられます。

 パワーは更にバワーを手に入れる手段にもなります。たとえオリジナルなパワーは少なくても、インストルメンタルなバワーで多くの人々のパワーを結集させて、支配することも可能になります。インストルメンタルなパワーをあまり持っていない人は、オリジナルなパワーを磨いて、それで欲求充足のための糧を手に入れなければなりません。ただしどんなオリジナルな能力が社会的な力を発揮できるのかは、時代の二―ズに応えられるかどうかにかかっているのです。オリジナルなパワーはインストルメンタルなパワーとセットになって、始めて発揮できる場合が多いのです。労働者は、労働カは持っていても、生産手段を持っていなければ労働できませんから、労働力を資本家に売って、資本家の支配の下で労働せざるを得ないのです。

 逆に言えばインストルメンタルなパワーさえあれば、オリジナルなパワーはなくても、強力な社会的支配力を誇ることができることにもなります。つまりオリジナルなパワーはインストルメンタルなパワーで代替可能なのです。それに個人が持てるオリジナルなパワーは身体的な能力ですから極めて限定されています。これに対してインストルメンタルなパワーは無制限に所有可能なのです。

              二、バリューとプライス

 パワーは客観的にプライス(価格)によって評価されます。主観的にいくらバリュー(価値)があると思っていても、プライスが付かなければパワーになりません。ホッブズは「人間のバリューは、他のすべてのものと同様に彼のプライスである。すなわちそれは彼の力の使用に対して支払われるであろう額である。したがってそれは絶対的なものではなく、他人の必要と判断に依存している」(第十章、123)
と述べています。カントはプライスでは測れない人格的な尊厳を強調しましたが、ホッブズのこの議論に反撥しているのです。『論語』にも「人知れずして慍みず、亦君子ならずや」とあります。ホッブズはオリジナルなパワーがインストルメンタルなパワーに代替され、バリューがプライスに還元される近代市民社会の原理をクールに捉え返しているのです。

       
      三、悪無限的パワー獲得競争

 根底的にはパワーは生きるパワーです。生きようとする限りパワーを獲得し、増大させなければなりません。自分の能力や地位に応じた分相応の社会的パワーに甘んじたり、パワー獲得競争から身を引いて、魂のアタラクシア(平静)やアパティア(情念没却)を求めたりするべきではないのです。

 ホヅブズは、意欲は次から次にパワーを求め、死ぬまで止むことがないとしています。その理由は、現在保有しているパワーを確保する為には、さらにそれ以上のパワーを獲得しなければならないからです。何故ならライバルよりも強い社会的パワーを持たなければ、ライバルのパワーで排除され、屈服させられてしまうからです。競争社会では互いに凌駕しようとし合うので、滅ぼされない為には、どうしても自分のパワー拡大に血道をあげざるを得ないのです。これは社会的な力関係からくるものでして、人間の強欲や性悪のせいではないんです。

 よく人間の欲望が無制限に肥大していくことが競争社会を産み出し、人間同志の闘争や搾取等の社会矛盾を齎したと性悪説で説明する人がいます。ホッブズは、人間が本性的に欲求充足の拡大を求めて、脂ぎって活動することをむしろ生命力の発現として、社会の活力として大いに肯定しているのです。「至福とは一つの対象から、他の対象への意欲の継続的な進行であり、一つの対象の獲得は更にもう一つの対象の獲得への過程に過ぎないのである。」(第十一章、133)と述べています。

 
      四、「万人の万人に対する戦争状態」と「平和的マナー」

 ところで皆が自己の社会的なパワーの拡大に血道をあげれば、どうしても「万人に対して万人が狼」の不安定な戦争状態になってしまいます。戦争をいつまでも継続すれば、人類は共倒れになるしかありません。そこで人類が一緒になって、平和な統一を持った生活をすることに関する諸々のマナー(態度)を必要とするのです。戦争から逃れる為にコモン・パワー(共通権力)に服従しようということになります。ですから「社会的服従の動機は安楽や感覚的快楽を求めることから、死と傷害に対する恐怖から逃れようとすることから、技芸に安心して熟達しようとすることから」生じます。

 戦争の緊張と危険はそのゆとりを与えないからです。このような平和的マナーと反対に、権力拡大競争に執着することから論争・反目・戦争が起こるわけです。争いに繋がるものとして返済不能な債務を負うことによる憎悪、自分の知力に対する劣等感、自惚れ、野心等が挙げられます。

 ホッブズは自然状態を分析して、戦争状態に陥らざるを得ない原因を詳しく検討しています(第十三章、人間の自然状態、その至福と悲惨について)。先ず人間が本来平等であることを指摘します。肉体的能力では個人的な差が認められますが、束になってかかったり、刃物を使えば必ずしも強い者が弱い者と戦って勝つとは限りません。精神的能力でも時間さえかければ誰でも学問や技芸が身につくとしています。ただ自惚れが人間の平等性を信じなくさせているのだそうです。「自分自身の知力は直ぐ手近く見ているのに、他人の知力は遠くに見ているから」(第十三章、155)、自分の知カが一番だと思ってしまうのです。でも皆がそう思っているのですから、大差がないのです。人間機械論から解釈しますと、人間は誰でも同じ機種の自動機械ですから、その性能に大差は無いということでしょう。

                  
五、能カの平等と闘争への本性

  
ホッブズはここで人間の平等を説いています。しかし民主主義思想とは直接繋がりません。むしろ人間の平等が戦争をもたらす原因だと説いているのです。民主主義思想の諸契機を分解すれば、人格の平等、権利の平等、権カの意思決定への参与の平等、基本的人権の保障等が挙げられますが、それらは有機的な全体を成しています。人の平等を指摘することは、ホッブズの思想の近代性を示してはいますが、それを専制権力擁護の論理に利用しているので、民主的だと評価するのは見当違いです。

 この能力の平等は、目標達成についての希望の平等を生みます。そこで皆が同じ事を意欲するのでどうしても奪い合いになってしまいます。そうなりますと互いにライバルが何人か手を組んで自分をやっつけに来るのではないか、寝込みを襲われるのではないかと、相互不信に陥り、機先を制しようと戦争を始めるのです。

 ボッブズは人間の本性の中に争いの三大要因を見出しました。@獲物を求める競争、A安全を求める余りの不信、B評判を求める誇りの三つです(第十三章、156頁)。この本性によって自然状態の間は、人間は「万人の万人に対する戦争状態」(同上)から脱け出せません。とはいえ常に戦闘状態にあったという意味ではないのです。彼の言う戦争とは戦闘や闘争行為だけではなく、闘争への明らかな志向の内にあるものなのです。戦争による欲求充足の可能性を断念させるコモン・パワー(共通権力)が成立するまでは、ですから戦争状態なのです。

 自然状態である戦争状態ではおちおち働いていられません。とても田畑を耕したり、建物を立てたり、便利な乗り物を造ることなどできません。様々な知識や技術を学んだり、発展させることもできないのです。「技術も文字も社会もない。継続的な恐怖と暴力による死の危険とが存在し、人間の生活は孤独で貧しく、険悪で残忍でしかも短いことである」(第十三章、157)このような戦争状態を終わらせ、平和に暮すために「自然法」があるのです。

 

              ●第四節に進む         ●第二節に戻る     ●目次に戻る