第五章 名探偵廣松氏の見事な推理

                                                 ーマルクスの叙述の便法についてー

 『資本論の哲学』で最も注目に価し、最も感服させられるのは何と言っても、廣松氏の名探偵ぶりであって、氏の頭脳の明晰さは実に驚嘆させられるばかりである。

 廣松氏はマルクスが投下労働価値説に立って叙述している内容はすべて暫定的な立言であり、読者の常識に合わせたものであって、叙述を展開していくうちに、それが矛盾していることに気付かせ、再び規定し直されていると言うのである。

 我々何千万人に及ぶ『資本論』読者はすべてうかつにも投下労働価値説に立ったマルクスの叙述をそのままマルクス自身の見解と信じ込んできたのであるから、もし廣松氏の推理が正しいとすれば、これは画期的であり、マルクスの真意を汲み取れなかった我々は実に情けない読者であったことになる。それにしても、読者の水準もよく弁えず、手の込んだ叙述の便法を行ったマルクスを何と評すべきであろう。もちろん私としては投下労働価値説を真理として受け止めているので、仮に廣松氏の推理が正しいとしても、その時はマルクスを廣松主義者として批判するつもりである。

 私は既に本書において、廣松氏が投下労働価値説を批判した論点については総て反論を加えておいたし、それを繰り返す必要はここではない。また、マルクスが物神性論で展開した論理が、廣松氏流解釈のつけこむすきを与えており、その点の修正が必要であることは認めるが、マルクスの意図としては物神性論にも投下労働価値説が根拠になっている。そのことについても既に触れておいた。

 もしマルクスが投下労働価値説を脱却していたとすれぱ、マルクス自身投下労働価値説による叙述を行うことはなかった筈である。廣松氏によればそれは一つには価値の実体論的規定を形態論的規定に先行させる必要があったことに起因する。廣松氏はマルクスのベイリー批判に着目しており、諸商品の価値を諸商品に向けられた評価の相対的、名目的な量に還元するベイリーの価値ノミナリズムに対置して、諸商品の価値を当該商品を再生産するに必要な労働けとして把えるマルクスの立場を賞揚される。その際、廣松氏によれば、この再生産に必要な労働量は当該商品に投下された現在完了の労働ではなくて、近接未来的な労働である。従って廣松氏は、その意味では労働価値説を採っておられるが、決して投下労働価値説ではない。つまり、人間が特定の社会的諸関係において分業に携わる際、その生産物を価値評価して配分する基準として必要労働量が有効であり、その必要労働量を当該商品の価値量として取り扱うということになる。このような把え方に対する批判は既に行っているので再論の必要はない。

 廣松氏は必要労働量を当該商品が代表する必然性、氏流には人間たちが当該商品に必要労働量を社会関係を媒介して反映するプロセスについての科学的解明は一切捨象されている。そのために氏の論議は投下労働量に必要労働量を故意に対立させて、投下労働価値説を論難しているという印象を受けるのは私一人ではあるまい。それはさておき、必要労働として当該商品の価値量を措定するためには、当該商品が必要労働量を代表していることをひとまず前提してかからねばならないとマルクスが考えたと廣松氏は解釈されているようである。

 しかも廣松氏の解釈では、マルクスは叙述を必要労働量がいかにして諸商品に反映するのか、その仕組みを社会関係や生産過程から説き起こすことは出来ない。何故なら、そのような関係は既に商品の生産に関わる関係であり、その際、商品は前提されていろから、商品の説明が先になされていなければならないからである。ところで商品を生産過程に先立って叙述する際には、必要労働量というのは再生産過程での労働量であるので、この用語を先取り的に使用するのはできない相談である。だからマルクスは商品の価値を単に諸商品の評価の相対的な関係から把えるベイリー流の相対的価値論をしりぞけるためには、不易の実体的なものによってひとまず価値を措定しておかなければならないと考えたそうである。その為、価値は古典経済学流に商品に投下された労働量として叙述されることになったというのである。

 元々、労働は総社会的労働の一分肢でしかあり得ず、社会的に規定されたものである。ところがこのような社会的関係はひとまず捨象されている以上、この労働は具体的な個々の商品に仮りに投下されたこととされている労働でしかない。しかるに具体的な使用価値を産出する労働を価値の実体としたのでは、何故、生産物が価値規定を受け商品となるのかは導出できない。そこで「単なる生理学的な意味での労働力能の支出」として抽象的人間労働をひとまず具体的有用労働から区別する必要が生じる。

 こうして価値が商品間の関係として、更には社会関係の反映規定として成立する価値形態論に先がけて、ひとまず「単なる生理学的意味での労働力能の支出」として実体論的に措定しておき、これが価値形態論の展開をまって、「社会的実体」として再措定されることになる。だから廣松氏は「生理学的」意味での規定と「社会的実体」という意味での規定を矛盾したものとして把えようとされ、かなりの紙幅をさかれている。このことについても詳しく反論しておいた。ともかくこれによって抽象的人間労働とその凝結としての価値が社会的規定として見直され、価値実体は再生産に必要な労働量が商品に反映したものを抽象的人間労働の凝結として仮言したものであったことが了解されることになっている。

 ところでマルクスは商品の二要因や労働の二重性を説く際抽象的人問労働を「社会的実体の結晶」として把え、また単純労働に還元して、社会的平均的必要労働時間等を措定しているが、これらは既に社会関係を前提している。だからこれらは廣松氏によれば価値形態論ではじめて展開される筈の総社会的労働や社会関係を前提しており、相互前提になっているというのだ。我々にすれば商品そのものが関係規定である以上、実体的に価値を措定する場合も社会的実体として、総社会的労働を前提せざるを得ないのは当然と考える。生理学的云為は抽象的人間労働の抽象的性格の形容でしかない。このことについて廣松氏は相互前提では困まるから、相互前提になっている規定よりも
「生理学的云為」の規定を押し出しているのだとされる。そして廣松氏は価値形態論を商品所持者の交換論理として把えることによって、抽象的人間労働を、社会関係、私的分業関係から商品の価値量を措定するための機能的用語として把え返すことになる。商品所持者が商品を交換する際、同一労働量が当該商品の双方に体化されているかにみなすことによって等価値であるとみなされる関係として価値形態をとらえるのである。その際、抽象的人間労働が実際に凝結しているかどうかは既に前提ではなく、そのように仮現することが重要なのである。

 では何故マルクスは価値形態を商品所持者を捨象して商品自体の価値関係として展開したのか、私の解釈では、価値が抽象的人間労働の実体的な凝結として既に措定されている以上、価値関係は商品に凝結している抽象的人間労働の相互関係である他なく、商品所持者は首を突っこめない筈だからである。このように抽象的人間労働の凝結を前提にして価値形態論が展開されているという観点から廣松氏に対する批判を行っておいた。

 氏によれば商品所持者が価値を措定する論理としての価値形態論を反省して物神性論では積極的に労働生産物は価値を含んでおらず、従って抽象的人間労働の体化、凝結というのは仮言であったことが明確にされている。だから価値は人間労働の私的分業関係の反映であり、再生産に必要な労働量が当該商品に社会関係から被媒介的に投映したものにすぎず、労働が投下されて価値に凝結し、これを労働生産物が自己の内に含んでいて、労働生産物そのものが価値物であり、商品であるというのは物神崇拝であるということになる。もちろん商品社会ではこのような物神崇拝的倒錯視が汎通していて、あたかも労働生産物に労働が凝結し、商品として自ら価値関係を取り結び、社会関係を形成しているかに見えるが、実はこれは特定の社会における人間間の社会関係にすぎず、人間関係が物と物との関係として仮現している幻想であると、このように広松氏は理解されるわけである。

 マルクスが物神性論で強調していることは労働生産物という事物(=使用価値)ではなくそこに凝結している人間労働が価値であるということである。内的規定でないという意味も商品の内的規定でないと言うのではなくて事物(=使用価値)の内的規定でないと言うにすぎない。たしかにマルクスの物神性論だけを抽出すれば廣松氏の解釈は成り立つが、それは物神性論までの叙述と著しく矛盾する。そこで廣松氏は暫定的立言とその修正というパターンで商品論の論理展開を把え直されたのである。

 

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